親の心子知らず

2006年7月22日
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言霊は国難とこの季節ゆえ、英霊とともに現れるのであろうか。
昭和天皇の逝去される前の年に残された言葉は、福田総裁候補にも影響を与えた。
国論の二分化を恐れて立候補を辞退すると総裁選を消化試合にしてしまった。
お言葉の表面化はスワッ!、安部不利!
総裁選を注目してた国民の側からすれば、ハトが豆食っての状態。ナンナノ?
木戸日記、名随筆の入江侍従長に勝る、富田朝彦日記となろう。
その中で、合祀をした靖国の宮司・松平永芳を
「親の心子知らず」とのくだりがある。
78年7月に靖国の宮司を30年勤めた筑波藤麿宮司から交代して宮司になったばかり。
48年11月A級戦犯を合祀をした軽率さを咎められた訳だ。
父・松平慶民元宮内大臣は昭和天皇を支えた、
慶民は幕末の四賢侯・松平春嶽(慶永)の子で、松平永芳は春嶽の孫に当たる。
暴走する政治状況がナント今日と酷似してることか。
諸外国の軋轢で、国益の揺らぐ幕末。世論は割れ、騒然としていた。
徳川体制で、筆頭老中阿部正弘は、幕閣のみによる政治運営ではなく各藩藩主も幕政に参与するよう幕政の改革を求めた
福井藩14代藩主・松平慶永(春嶽)
宇和島藩8代藩主・伊達宗城
土佐藩14代藩主・山内豊信(容堂)
薩摩藩11代藩主・島津斉彬
4人の啓明家が国政の苦難に意見した。後に歴史家は四賢侯と褒め称える。
阿部もそれに応えるかたちを採ったが、安政4年(1857年)に没した。
代わって井伊直弼が大老に就くと様相が一変する。
病弱で嗣子のない13代将軍・徳川家定に代わって誰を次期将軍に擁立するかで四賢侯と井伊とで対立した。
四賢侯は水戸藩主・徳川斉昭の子、御三卿・一橋慶喜(後の15代将軍)を推挙。、
井伊は紀伊藩主・徳川慶福を推した。
結局、井伊が強権を発動し、政敵を排除(安政の大獄)。
慶福が14代将軍・徳川家茂となる。
斉彬は大獄の始まる直前、安政5年(1858年)7月に没した。
他3名は同年7月以降、隠居を命じられ更に謹慎の身となり藩邸に押し込められた。
万延元年(1860年)井伊直弼が桜田門外の変で倒れて以後、文久3年(1863年)にかけ随時、謹慎が解かれた。
自由の身となった彼らは隠居の身ながら幕政・藩政に影響を与えた。
中でも春嶽は文久2年(1862年)7月、幕府の新たな要職となった政事総裁職に就任した。
また、容堂は慶応3年(1867年)15代将軍・慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。
主張はあくまでも幕府と藩主による連合政治であり、ひいては公武合体。
明治維新以後、各人とも政府要職に就いた。
しかし倒幕を推進した志士たちを中心とする政治とは考え方が違ったため、
明治時代初頭には各人とも次第に公職を辞していった経緯はある。。
春嶽→慶民→永芳と天皇に近かったゆえの
「親の心子知らずと思っている」に繋がるわけだ。
危急存亡のときのフヤケタ総裁選。
勤皇の志士たる武士道を持ったる気骨ある政治家はいないものか。
政治=まつりごとには怨念が付きまとう。
悪しき政治風土が日本にはある。
田中角栄VS福田赳夫の怨念政治の復活を恐れたのか福田康夫。
列島は豪雨で福田康夫の憂国の流す雨か知らぬ。
田中に煮え湯を飲まされての逆転敗北
息子・康夫は戦わずして第一線を破れ去っていく。
宮崎の正月の風物詩に福田赳夫は欠かせなかった。
毎年正月ゴルフを楽しみ県民はむかいいれた。
宮崎で一年をはじめたのは初代天皇神武を生み出し、国つくりの神話の里に根ざしてたのであろうか。
戦争で散った御霊の眠る靖国に昭和天皇は、鎮魂のお参りを続けた。
永久戦犯が突如合祀され、毎年供養してきたのをやめられた。
戦争の反省からヘイワを希求される平和な昭和天皇の意向を無視されたからであろう。
暑い盛りの土用の丑(うし)の日は、久しぶりの雨模様。
初めての野球オールスター第二戦が宮崎で開催されるはずだが、どうにも無理であろう。
第一線のMVPは宮崎出身の受賞者で第二戦を期待してたのであるが如何ともしがたい。
ジャズ・インは雨でも決行のようだ。阿川泰子を聞きに行くか。

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