ナンセン
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NHK大河ドラマは功罪あっても息の長き看板番組のひとつ。
山内一豊の妻千代のこれからが妻の座の見せ所。今流に言えば上げマン。
宮崎の政治家にたとえると誰異存なく中山恭子をあげよう。
石原慎太郎都知事が拉致事件をテロだと認めているのは安倍晋三・中山恭子。谷内(やち)正太郎・斎木昭隆
北朝鮮との対話路線派は、福田康夫・田中均・川口順子と区分けした
東大→大蔵省と役人時代に女性として転勤するたびにそれぞれ「初」がついて回った出世ぶり。
内閣参与のポストで北朝鮮問題に取り組んだ。
中山参与はやや小さめの声でゆっくりと話し、その感じは、皇后・美智子と共通する品のよさ。
昭和15年に生を受けた上州の空っ風はかくもすばらしき人を宮崎に使わせ頂いた。
同じ東大→大蔵省を歩んでる中山成彬と結婚、成彬は政界に転身。
地元小林を離れ、宮崎一区から当選を続け科学技術庁として初入閣した。
県選出の国会議員の定数は衆院3、参院2で、久しく自民王国と言われてきたが、近年先輩長老議員が相次いで引退。先の郵政選挙では衆院2が造反、当選後離党。党県連会長、幹事長は役職停止中である。
党県連トップの座が近づき、合わせて県政への影響力を強めてきている
宮嵜市長はかっての民社党津村で唯一強力なライバルとなる可能性がある。
宮崎市は平成16年日経が実施した
「行政サービス度」調査(高齢者福祉、子育て環境、教育などを評点、総合)
全国第10位(第1位は武蔵野市)
、九州では第1位の評価を受けている。
また、公共事業の合併特例債も約500億円ある(国が7割負担)。
急遽、強引振りの対抗馬・佐土原町長を対立候補に立てたが市長選は負けた。
県政は、安藤忠恕宮崎県知事と二人三脚振り。
昨年9月、本県初の女性知事に起用された坂佳代子氏(61 前日本体育大教授)の実弟は中山議員の私設秘書。
恭子婦人ともども宮崎の平成の国取り物語に挑戦している。
たとえるなら国際規模で活躍してる第10代国連高等弁務官緒方貞子
初代難民高等弁務官はノルウェーのナンセン、。
東京府に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻のの長女として生まれる。
父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごす
ジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校で学び、博士号を取得。
国連公使、国連人権委員会日本政府代表、上智大学外国語学部教授を務める。
この家庭 親族が華麗なる一族。
曽祖父は元内閣総理大臣の犬養毅で、祖父は外交官で犬養内閣外相の芳沢謙吉。母・恒子は元共同通信社長の犬養康彦や評論家の犬養道子、エッセイストの安藤和津の従姉にあたる。夫・緒方四十郎は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理をつとめた緒方竹虎の三男である。緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓木戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まる。
2002年、田中真紀子外務大臣の更迭時にはその後任に推す声もあった。 皇室典範に関する有識者会議のメンバー。
略歴
1991年 : 第8代国連難民高等弁務官に就任(〜2000年)
1993年 : 金の鳩平和賞を受賞
2003年 : 文化勲章を受賞
2003年10月1日 : 国際協力機構 (JICA)理事長就任。
2004年10月1日 : 名誉都民を顕彰
[編集]
系譜
犬養毅―――操
|―――恒子
| |
芳沢謙吉 |―――――貞子
| |
中村豊一 |
|
緒方四十郎
ナンセン難民賞を、日本人オプトメトリスト(検眼士)金井昭雄氏が受賞していた。
日本人としてはじめてのことである。
宮崎県知事黒木博がマグサイサイ賞を受賞したとき、ソレな〜にとの思いをこのナンセン賞に思った。
それがすばらしきもので知らなかったせきやん顔を赤らめた。
せきやんの赤面のいたり。。
ナンセンと言うすばらしき人を知らなかったなんて
ナンセン・ス・・・(まだやってら〜オジン!)
金井氏は、20年間以上にわたり、世界で10万人以上の難民や避難民の視力検定を行い、眼鏡を提供することで、これらの人々の生活の質の向上に貢献してきた。
ナンセン難民賞委員会は、人道支援活動に対する実際の献身と、視力改善というかたちで難民の苦境の軽減に取り組んできた功績を評価し、株式会社 富士メガネ会長の金井昭雄氏を選出した。
委員会は、金井氏が「難民に対して非常な尽力」を捧げ、人道的にも金銭的にも多大かつ価値ある貢献をしたことを評価。
金井氏が会長を務める株式会社 富士メガネの本社は北海道札幌市。
ナンセン難民賞は、毎年、難民のために卓越した活動を行った個人または組織に授与されている。
「金井氏のおかげで、非常に難しい状況にある何万もの難民は、人生の新しい展望を抱くことができた。視覚という贈り物は貴重だ。視覚が回復すると、個人の人生は大きく変わる。子どもも大人も学習が可能となり、疎外された状態から立ち直ることができる」と、アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官は述べた。
金井氏は、自身も第二次世界大戦後の混乱の中、サハリンから日本に引きあげることを余儀なくされた。1983年に人道支援活動を開始し、避難途中で眼鏡を失ったり壊してしまったタイのインドシナ難民に対して、視力検定を行い、眼鏡を提供した。金井氏の支援を受けた難民の多くは、当時、米国に第三国定住するための事前教育を受けていたところで、勉強するために眼鏡を必要としていた。 金井氏は難民の視力を検査し、ここから金井氏の長期にわたる難民支援活動が始まった。
金井氏とUNHCRの協力は1984年に始まり、以後、ネパール、タイ、アゼルバイジャン、およびアルメニアにおいて、故郷を追われた人々の支援活動を24回以上にわたり続けてきた。
金井氏は、これまでに10万8200組以上の眼鏡を寄贈し、検眼機器や支援金を提供、また現地の医療関係者のトレーニング も行ってきた。 株式会社 富士メガネは、UNHCRにとって、最も長く協力関係にある法人パートナーである。
金井氏の家族や社員もまた、富士メガネの支援活動に参加しており、約70人の社員が、自らの休日をつかってキャンプに赴き、難民支援を行った。
1954年に設立されたナンセン難民賞は、名高いノルウェーの極地探検家であり初代難民高等弁務官であったフリチョフ・ナンセンにちなんで名づけられた。
ナンセン難民賞は、10月初旬にジュネーブで開催されるUNHCR執行委員会の年次会議で授与式が行われる。
ノルウェーとスイスからは10万米ドルの賞金が授与され、この賞金は受賞者が選んだ難民支援事業に使われる。
視援隊プロジェクト(Fuji Vision Aid Mission) 代表 (1983年〜)
社団法人日本眼鏡技術者協会 副会長・国際部担当部長 (1996年〜) WCO担当
WCO(ワールド・カウンスィル・オブ・オプトメトリー:世界オプトメトリー会議) 理事 (1995年〜1997年)
世界オプトメトリー財団(WOF:World Foundation of Optometry)理事(2001年〜)
APCO(アジアーパシフィック・カウンスィル・オブ・オプトメトリー:アジア太 平洋オプトメトリー会議)理事 (2003年4月)
金井昭雄氏は、1942年10月9日に樺太豊原市で生まれた。 終戦後、金井一家は引揚者として、札幌に移った。
金井氏は札幌で育ち、札幌南高等学校。
早稲田大学の商学部に入学し、同学部を1966年に卒業。
オプトメトリーを勉強するため渡米し、SCCOに入学した。
SCCO在学中にボランティア活動に参加し、アメリカンインディアン特別保留所にて視力検査や眼鏡の寄附を行った。
1972年に卒業した後、カリフォルニア・ライセンスを取得し、アルタデンタのクリニックで就職。
翌年札幌に戻り、富士メガネに入社。
これまでに、金井は活発に活躍し、国際や国内の業界機関に活躍し、様々な公演でプレゼンテーションを行ったり、記事を書いたりしてきた。
1983年に富士メガネと金井が海外支援のプロジェクトを始め、一回のみの企画がほぼ毎年に行われることになった。
現時点でタイ、ネパール、アルメニア、アゼルバイジャンの4カ国に渡って活動をしてきた。
企業の社会的責任への貢献が認められ、2004年に第1回、朝日企業市民賞の受賞者として富士メガネは選ばれていた。
ナンセン難民賞
ナンセン難民賞とは
ナンセン難民賞とは、1954年、当時の国連難民高等弁務官、ヴァン・ハーベン・グートハート博士が難民の窮状に焦点を当てるため、難民に多大な貢献をした個人または団体を称える目的で創設されたもの。
大規模な難民支援を先駆けて行なったフリチョフ・ナンセンにちなんで名づけられた。
フリチョフ・ナンセン
1861年ノルウェーに生まれたフリチョフ・ナンセンは、動物学者、北極探検家、海洋学者として名を馳せた。
第一次世界大戦後、ナンセンは国際連盟のノルウェー代表となり、26か国に存在した45万人もの戦争捕虜の帰還を任され成功をおさめた。1921年8月、国際連合の前身である国際連盟は赤十字国際委員会より、ロシア革命によって住み慣れた土地を追われた100万人以上のロシア難民への支援要請を受け、ナンセンを初代難民高等弁務官に任命した(在任1921〜30年)。
ナンセンはその後、ギリシャとトルコ間でおきた民族紛争から逃れた大勢の人々を支援した。
1922年、難民の法的保護を確立するため、「ナンセン・パスポート」と呼ばれる旅行・身分証明書が創設され、同年、ナンセンはノーベル平和賞を受賞した。
ナンセン難民賞は難民の窮状に焦点をあて、さらなる人道支援を促すことを目的としており、50年以上もの間、受賞者の難民支援活動とその功績を称えてきた。
これまでの受賞者には、エレノア・ルーズベルト(米国元大統領夫人)、国境なき医師団、オランダのジュリアナ女王、グラーサ・マシェル(モザンビーク元教育相)などがいる。昨年は、戦争とエイズで生活の基盤を失った孤児への支援で知られるNGO「ブルンジの天使」のマルガリータ・バランキッツェが受賞した。
ナンセン難民賞は、10月初旬にジュネーブで開催されるUNHCR執行委員会の年次会議で授与式が行われる。ノルウェーとスイスからは10万米ドルの賞金が授与され、この賞金は受賞者が選んだ難民支援事業につかわれる。
ナンセン難民賞受賞者について
以前「ナンセン・メダル」と呼ばれたこの賞は、1979年からメダルとともに賞金10万ドルが授与されるようになり、賞金は難民支援にあてられる。
2005年には、「ブルンジの天使」として知られるマルゲリート・バランキッツェ氏(
NGO「メゾン・シャローム」の指導者)、
2004年には人権記念センター(ロシアのNGO)、2003年にはソマリアで結核病院を運営していたイタリアのアナレナ・トネリー医師が受賞している。
毎年推薦を募り、ナンセン難民賞委員会(選考委員長は高等弁務官)が受賞者を選出する。
選考基準は、候補者が画期的なアプローチで難民保護と支援に献身的に携わり、貢献したことである。
また、自己犠牲を伴う勇敢な行為で難民支援、または難民を取り巻く状況改善に並外れた功績を残したことも選考の基準となる。
安部総理が森派離脱へ。今さら派閥もあるまいて。
機能したのは自民党内の擬似政権交代が行われた中選挙区制まで。
アメリカ、ソビエトと「歌って踊れる」首相をいただいた5年間。
「あの踊る男がウチの総理です」
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山内一豊の妻千代のこれからが妻の座の見せ所。今流に言えば上げマン。
宮崎の政治家にたとえると誰異存なく中山恭子をあげよう。
石原慎太郎都知事が拉致事件をテロだと認めているのは安倍晋三・中山恭子。谷内(やち)正太郎・斎木昭隆
北朝鮮との対話路線派は、福田康夫・田中均・川口順子と区分けした
東大→大蔵省と役人時代に女性として転勤するたびにそれぞれ「初」がついて回った出世ぶり。
内閣参与のポストで北朝鮮問題に取り組んだ。
中山参与はやや小さめの声でゆっくりと話し、その感じは、皇后・美智子と共通する品のよさ。
昭和15年に生を受けた上州の空っ風はかくもすばらしき人を宮崎に使わせ頂いた。
同じ東大→大蔵省を歩んでる中山成彬と結婚、成彬は政界に転身。
地元小林を離れ、宮崎一区から当選を続け科学技術庁として初入閣した。
県選出の国会議員の定数は衆院3、参院2で、久しく自民王国と言われてきたが、近年先輩長老議員が相次いで引退。先の郵政選挙では衆院2が造反、当選後離党。党県連会長、幹事長は役職停止中である。
党県連トップの座が近づき、合わせて県政への影響力を強めてきている
宮嵜市長はかっての民社党津村で唯一強力なライバルとなる可能性がある。
宮崎市は平成16年日経が実施した
「行政サービス度」調査(高齢者福祉、子育て環境、教育などを評点、総合)
全国第10位(第1位は武蔵野市)
、九州では第1位の評価を受けている。
また、公共事業の合併特例債も約500億円ある(国が7割負担)。
急遽、強引振りの対抗馬・佐土原町長を対立候補に立てたが市長選は負けた。
県政は、安藤忠恕宮崎県知事と二人三脚振り。
昨年9月、本県初の女性知事に起用された坂佳代子氏(61 前日本体育大教授)の実弟は中山議員の私設秘書。
恭子婦人ともども宮崎の平成の国取り物語に挑戦している。
たとえるなら国際規模で活躍してる第10代国連高等弁務官緒方貞子
初代難民高等弁務官はノルウェーのナンセン、。
東京府に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻のの長女として生まれる。
父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごす
ジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校で学び、博士号を取得。
国連公使、国連人権委員会日本政府代表、上智大学外国語学部教授を務める。
この家庭 親族が華麗なる一族。
曽祖父は元内閣総理大臣の犬養毅で、祖父は外交官で犬養内閣外相の芳沢謙吉。母・恒子は元共同通信社長の犬養康彦や評論家の犬養道子、エッセイストの安藤和津の従姉にあたる。夫・緒方四十郎は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理をつとめた緒方竹虎の三男である。緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓木戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まる。
2002年、田中真紀子外務大臣の更迭時にはその後任に推す声もあった。 皇室典範に関する有識者会議のメンバー。
略歴
1991年 : 第8代国連難民高等弁務官に就任(〜2000年)
1993年 : 金の鳩平和賞を受賞
2003年 : 文化勲章を受賞
2003年10月1日 : 国際協力機構 (JICA)理事長就任。
2004年10月1日 : 名誉都民を顕彰
[編集]
系譜
犬養毅―――操
|―――恒子
| |
芳沢謙吉 |―――――貞子
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中村豊一 |
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緒方四十郎
ナンセン難民賞を、日本人オプトメトリスト(検眼士)金井昭雄氏が受賞していた。
日本人としてはじめてのことである。
宮崎県知事黒木博がマグサイサイ賞を受賞したとき、ソレな〜にとの思いをこのナンセン賞に思った。
それがすばらしきもので知らなかったせきやん顔を赤らめた。
せきやんの赤面のいたり。。
ナンセンと言うすばらしき人を知らなかったなんて
ナンセン・ス・・・(まだやってら〜オジン!)
金井氏は、20年間以上にわたり、世界で10万人以上の難民や避難民の視力検定を行い、眼鏡を提供することで、これらの人々の生活の質の向上に貢献してきた。
ナンセン難民賞委員会は、人道支援活動に対する実際の献身と、視力改善というかたちで難民の苦境の軽減に取り組んできた功績を評価し、株式会社 富士メガネ会長の金井昭雄氏を選出した。
委員会は、金井氏が「難民に対して非常な尽力」を捧げ、人道的にも金銭的にも多大かつ価値ある貢献をしたことを評価。
金井氏が会長を務める株式会社 富士メガネの本社は北海道札幌市。
ナンセン難民賞は、毎年、難民のために卓越した活動を行った個人または組織に授与されている。
「金井氏のおかげで、非常に難しい状況にある何万もの難民は、人生の新しい展望を抱くことができた。視覚という贈り物は貴重だ。視覚が回復すると、個人の人生は大きく変わる。子どもも大人も学習が可能となり、疎外された状態から立ち直ることができる」と、アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官は述べた。
金井氏は、自身も第二次世界大戦後の混乱の中、サハリンから日本に引きあげることを余儀なくされた。1983年に人道支援活動を開始し、避難途中で眼鏡を失ったり壊してしまったタイのインドシナ難民に対して、視力検定を行い、眼鏡を提供した。金井氏の支援を受けた難民の多くは、当時、米国に第三国定住するための事前教育を受けていたところで、勉強するために眼鏡を必要としていた。 金井氏は難民の視力を検査し、ここから金井氏の長期にわたる難民支援活動が始まった。
金井氏とUNHCRの協力は1984年に始まり、以後、ネパール、タイ、アゼルバイジャン、およびアルメニアにおいて、故郷を追われた人々の支援活動を24回以上にわたり続けてきた。
金井氏は、これまでに10万8200組以上の眼鏡を寄贈し、検眼機器や支援金を提供、また現地の医療関係者のトレーニング も行ってきた。 株式会社 富士メガネは、UNHCRにとって、最も長く協力関係にある法人パートナーである。
金井氏の家族や社員もまた、富士メガネの支援活動に参加しており、約70人の社員が、自らの休日をつかってキャンプに赴き、難民支援を行った。
1954年に設立されたナンセン難民賞は、名高いノルウェーの極地探検家であり初代難民高等弁務官であったフリチョフ・ナンセンにちなんで名づけられた。
ナンセン難民賞は、10月初旬にジュネーブで開催されるUNHCR執行委員会の年次会議で授与式が行われる。
ノルウェーとスイスからは10万米ドルの賞金が授与され、この賞金は受賞者が選んだ難民支援事業に使われる。
視援隊プロジェクト(Fuji Vision Aid Mission) 代表 (1983年〜)
社団法人日本眼鏡技術者協会 副会長・国際部担当部長 (1996年〜) WCO担当
WCO(ワールド・カウンスィル・オブ・オプトメトリー:世界オプトメトリー会議) 理事 (1995年〜1997年)
世界オプトメトリー財団(WOF:World Foundation of Optometry)理事(2001年〜)
APCO(アジアーパシフィック・カウンスィル・オブ・オプトメトリー:アジア太 平洋オプトメトリー会議)理事 (2003年4月)
金井昭雄氏は、1942年10月9日に樺太豊原市で生まれた。 終戦後、金井一家は引揚者として、札幌に移った。
金井氏は札幌で育ち、札幌南高等学校。
早稲田大学の商学部に入学し、同学部を1966年に卒業。
オプトメトリーを勉強するため渡米し、SCCOに入学した。
SCCO在学中にボランティア活動に参加し、アメリカンインディアン特別保留所にて視力検査や眼鏡の寄附を行った。
1972年に卒業した後、カリフォルニア・ライセンスを取得し、アルタデンタのクリニックで就職。
翌年札幌に戻り、富士メガネに入社。
これまでに、金井は活発に活躍し、国際や国内の業界機関に活躍し、様々な公演でプレゼンテーションを行ったり、記事を書いたりしてきた。
1983年に富士メガネと金井が海外支援のプロジェクトを始め、一回のみの企画がほぼ毎年に行われることになった。
現時点でタイ、ネパール、アルメニア、アゼルバイジャンの4カ国に渡って活動をしてきた。
企業の社会的責任への貢献が認められ、2004年に第1回、朝日企業市民賞の受賞者として富士メガネは選ばれていた。
ナンセン難民賞
ナンセン難民賞とは
ナンセン難民賞とは、1954年、当時の国連難民高等弁務官、ヴァン・ハーベン・グートハート博士が難民の窮状に焦点を当てるため、難民に多大な貢献をした個人または団体を称える目的で創設されたもの。
大規模な難民支援を先駆けて行なったフリチョフ・ナンセンにちなんで名づけられた。
フリチョフ・ナンセン
1861年ノルウェーに生まれたフリチョフ・ナンセンは、動物学者、北極探検家、海洋学者として名を馳せた。
第一次世界大戦後、ナンセンは国際連盟のノルウェー代表となり、26か国に存在した45万人もの戦争捕虜の帰還を任され成功をおさめた。1921年8月、国際連合の前身である国際連盟は赤十字国際委員会より、ロシア革命によって住み慣れた土地を追われた100万人以上のロシア難民への支援要請を受け、ナンセンを初代難民高等弁務官に任命した(在任1921〜30年)。
ナンセンはその後、ギリシャとトルコ間でおきた民族紛争から逃れた大勢の人々を支援した。
1922年、難民の法的保護を確立するため、「ナンセン・パスポート」と呼ばれる旅行・身分証明書が創設され、同年、ナンセンはノーベル平和賞を受賞した。
ナンセン難民賞は難民の窮状に焦点をあて、さらなる人道支援を促すことを目的としており、50年以上もの間、受賞者の難民支援活動とその功績を称えてきた。
これまでの受賞者には、エレノア・ルーズベルト(米国元大統領夫人)、国境なき医師団、オランダのジュリアナ女王、グラーサ・マシェル(モザンビーク元教育相)などがいる。昨年は、戦争とエイズで生活の基盤を失った孤児への支援で知られるNGO「ブルンジの天使」のマルガリータ・バランキッツェが受賞した。
ナンセン難民賞は、10月初旬にジュネーブで開催されるUNHCR執行委員会の年次会議で授与式が行われる。ノルウェーとスイスからは10万米ドルの賞金が授与され、この賞金は受賞者が選んだ難民支援事業につかわれる。
ナンセン難民賞受賞者について
以前「ナンセン・メダル」と呼ばれたこの賞は、1979年からメダルとともに賞金10万ドルが授与されるようになり、賞金は難民支援にあてられる。
2005年には、「ブルンジの天使」として知られるマルゲリート・バランキッツェ氏(
NGO「メゾン・シャローム」の指導者)、
2004年には人権記念センター(ロシアのNGO)、2003年にはソマリアで結核病院を運営していたイタリアのアナレナ・トネリー医師が受賞している。
毎年推薦を募り、ナンセン難民賞委員会(選考委員長は高等弁務官)が受賞者を選出する。
選考基準は、候補者が画期的なアプローチで難民保護と支援に献身的に携わり、貢献したことである。
また、自己犠牲を伴う勇敢な行為で難民支援、または難民を取り巻く状況改善に並外れた功績を残したことも選考の基準となる。
安部総理が森派離脱へ。今さら派閥もあるまいて。
機能したのは自民党内の擬似政権交代が行われた中選挙区制まで。
アメリカ、ソビエトと「歌って踊れる」首相をいただいた5年間。
「あの踊る男がウチの総理です」
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