征露

2006年7月30日
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刀折れ矢つきようとも初志貫くべし!悲壮なる決意での太陽光発電の普及にかけている。
エネルギー問題の解決はロシアにあり。
総裁候補には何もエネルギー問題の政策がない。
悲壮なる決意は自分にかける時間を節約するしかない。
前歯を折ってから、どれほど経てることか。
これがジンジンと痛んでいる。
どこで覚えたか身についてる民間療法でアロエや正露丸で処理してきた。
赤い箱の富山の入れ薬は残念ながら所持していない。
歯痛には正露丸!。
当面の処置は終えたが、この時期、水あたりや食あたり下痢が生ずる時期でもある。
子供らを育てるときには整腸剤たる、ビオフェルミンがこれに加われば、せきやん流三種の神器
良薬口に苦しどころでないこの中の正露丸。
異臭にに加え舌を焼ききる劇薬風がいかにも身体内部での活躍を祈って丸き正露丸に祈りをこめ服用する。
パッケージが懐かしくていい。
ラッパのマークもそのまま。
・・・マテヨッ???
正露丸・征露丸??
パッケージは陸軍軍医総監松本順の軍服ではなかったのか。
あの落語好きで三代目柳家小さんをして天才の名を冠して呼んだ軍医総監松本順ではなかったのか。
追憶の朧なる記憶は学校の医務室での征露丸の思い出にまで及んでいる。
ナヌッー・・
『買ってはいけない』の本の記憶の中にも
「正露丸」があったゾ・・・。
暑くとも肝を冷やすな日本の夏。
北郷町の天文台の日本一のワイドスクリーン工事のときにお礼に頂いた木酢がある。
お風呂にホンノ数滴たらして入浴すると良いと言う入浴剤として利用している。
その効能はすごきもので閉口してる異臭でもある。
家の周りにまけば異昆虫除けにもなる。
ソレがなんとなく似てる匂いの直感であった。
調べてみると次のようなことである。
正露丸の製造
製法 ブナ、モミジ、カシ等の原木を乾留して得られる木タールを蒸留して水より重い部分を集め、分留、蒸留を何度も繰り返して、成分が一定になるまで精製を繰り返し木 クレオソート(ギリシャ語で肉の保存の意味) を抽出する。
性状は 特異な激しいにおいと味
成分 はグアヤコール・クレオソール・フェノール・O-クレゾール・P-クレゾール・4-エチルグアヤコールの6成分で75%以上、その他キシレノール等
薬理 防腐・殺菌作用、局所麻酔作用、他
適用 止瀉整腸、歯痛、他
「正露丸」という名前の薬品は、いくつかの会社で製造発売されていた。
大幸薬品・正起製薬・日本製薬などなど合計30種類ほどあった。
「正露丸」の名称の登録商標をめぐっては、裁判で争われ、最高裁判決で「正露丸」は一般普通名詞と判決が出ているそうだ。町田忍『マッカーサーと征露丸』(1997年芸文社)
大幸薬品ホームページから正露丸の歴史
1902(明治35年) 中島佐一が「忠勇征露丸」の製造販売を開始
1940(昭和15年) 初代柴田音治郎が柴田製薬所設立
1946(昭和21年) 柴田音治郎が「忠勇征露丸」の製造販売権継承
        大幸薬品株式会社設立
1948(昭和23年) 柴田卓が第二代社長に就任
1949(昭和24年) 「忠勇征露丸」を「中島正露丸」に名称変更
1954(昭和29年) 「中島正露丸」を「正露丸」に名称変更
         東南アジアへ輸出開始

中島佐一薬房で製造され現在の「大幸薬品」に引き継がれた。
おなじみのラッパのマークは「木口小平」というラッパ兵が、
「敵の銃弾を浴びつつも進軍ラッパを吹き続けた」というエピソードから取ったそうだ。
木口は日清戦争で戦死した兵士岡山県川上郡成羽町の出、記念碑は「小平園」園内に「壮烈喇叭手木口小平」としてある
ただ当初はラッパ兵は誤って白神源次郎が崇められていた
。西川宏「ラッパ手の最後」青木書店、
尋常小学校修身書
キグチコヘイハ テキノ タマニ
アタリマシタガ、 シンデモ ラッパヲ
クチカラ ハナシマセンデシタ
大幸薬品以外に、現在でも、1社だけは、日本国内で「征露丸」の名前で奈良県の日本医薬品製造株式会社が製造販売している。
ここの商標はラッパではなく、陸軍軍医総監松本順の顔なんである。
何故この人が登録商標なのか
「昔のことは分かりません。社長も知らないと言っております。」とのこと。
 台湾で販売されているものは「征」の字がないと、しっかり効き目があるようには思えないとのことで、「征露丸」で販売されているそうだ。
「正露丸」は、日露戦争開戦2年前の明治35年(1902年)に発売されてから今年で102年目
大阪市天王寺区の中島佐一が、日本薬局方クレオソートを主原料とする薬を国産化し、
「忠勇征露丸」として製造販売したのが始まり。
当時、日本の軍隊にとって、衛生状態の悪い外地において兵士の死亡原因が戦闘での戦死より病死の方が多いということは大きな問題となる。
江戸時代末期にドイツから入った木クレオソートは、胃腸病だけではなく肺炎や肺結核にも用いられ、この木クレオソートをカンゾウ末などの生薬末で練って丸薬にし、兵士が戦地に携行して服用できるようにしたのがクレオソート丸
すなわち「正露丸」。
  商品名は、日露戦争開戦前という時代背景から、ロシア(露国)を征伐することと、将兵の士気高揚の意味を併せて命名されたと言われている。。
「忠勇征露丸」の発売以後、その効き目の確かさから、日本国内において常備薬として愛用されるようになる。
。第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)に、大幸薬品の創業者である柴田音治郎が忠勇征露丸の製造販売権を継承し、「中島正露丸」として製造販売を再開。
その後、昭和29年(1954年)に「正露丸」の商標登録を行い、現在の「正露丸」という名称になった。。
これには説明がある。新聞記事からの転載である
第二次大戦後は さすがに「征露はまずい」という厚生省の指導で「正露丸」となる。
だがその「正露丸」は別の戦いに巻き込まれた。
同じ名前で製造していた複数の会社のうち最大手の大幸薬品が商標登録、名称を独占しようとし、他社との間で裁判になったのだ。
 この時には「正露丸は一般的名称」として登録を取り消された。
大幸薬品はさらにパッケージのデザインが酷似していると他社を訴える。
だが、これも先日「独占しているデザインでない」と認められなかった。
名称論争から50年という、何とも長い係争である。
 しかし裁判で名前が出るたびに、「正露丸」は家庭の常備薬としての地位を確立していったような気もする
。時として、その由来まで話題になる。
そのことで一世紀前のあの苦難に満ちた戦いを思い起こすことになれば、思わぬ「正露丸」の効用だ。
マァ〜お世話にならぬのが一番いい。
そんなこんなの日曜日の朝、逗留者の方に朝ごはんを準備していた。
ところが泣きっ面にハチ。歯痛に加え手痛。手痛い出来事。
目玉焼きゆえ蓋をかぶせ大目の油、モヤシ、しいたけベーコンを別なフライパンで仕上げ
目玉焼きの蓋を取ったときの一瞬の出来事。
割り箸ゆえか「バチッ!」この世の終わりみたいなことが起こった。、
右手の空手チョップをするところ一面のやけど。
見事なレアー風のやけどで斜め握りこぶし状に沿ってみみずばれ。
風呂のおけ4杯分実に600リットル以上の水を3時間にわたってかけどおし。
痛いというもんじゃない。
民間療法の知識では芭蕉を切断してまくことになるわけだがここにはソレはない。
再生・持続可能なる社会と唱えてる割には実践ができてない。
7人兄弟で育ったが、次兄は左足を幼き頃大やけどした
芭蕉を患部に当て処理したが大きな傷は次兄の心の痛手であったろう。
運動会の短パンツを嫌がっていた。
お風呂の我慢比べで兄に勝って高らかだった幼き頃の醜い自分を自虐的に思い出す。
よっぽど辛かったのであろう焼けどのところは赤く腫上がっていた。
弟にめけまいとの兄の男の意地を知らないでいた未熟さ。
父母や周りのおじちゃん叔母ちゃんはほとんどこの世から去り、すっかり生きる環境は変遷しているが
今だ彷徨してる青春が捨て切れてないものがここにいる。
この季節ゆえ日本人は振り返る。
他の民族にない恨みに変える怨念・怨霊のたたりを背負って生きている民族なんである。
常に祓いを念頭におき、太陽神などの自己の真実を誓える神とともに生きている。
歯の痛みの手の痛み・・・ハテナこの痛み!?
中島佐一の名から小説新潮での、山本周五郎賞の宇月原晴明の安徳天皇漂流記の発表をおもいだす。
平家一門・安徳帝も眠る下関・耳なし法一のお話である。
中島は正露丸のルーツをどこにおいたのか・のせきやんなりの架空の問いである・
幕末に生きていた、山田朝右衛門(浅右衛門:首切り朝右衛門)の一族は、「朝右衛門丸」という丸薬をつくっていた。
 この朝右衛門は、6代か8代続いた家で、据え者切りとして、首を落とした
仕事は罪人の死体で、刀の切れ味を試すこと。
、大名等から頼まれて、行っていたようだ。
 当時、人間の肝(肝臓)は、薬として珍重されていたようで、「朝右衛門丸」の原料は、人間の肝であるとされていた。
 それで、山田朝右衛門の家は、お金には不自由しなかった。。
 改良を加え人の肝ではなく、熊の肝を使っ洋になった用でもある。
 「熊の胆(くまのい)」が漢方で薬となっていった時期のことである。
人肉食の話も、江戸時代の飢饉のときに、食べるものがなくなった農民達は、死んだ人の肉も食べたことがあるよう
ひそかに読み告がれている禁断書。
ためすなら、ざくろが一番ヒトの味に似てるトカ。
山田分校当時の押川先生のうちのざくろを見て知っていた。
土葬で葬られてた時期ゆえ、山陰の墓場は火の玉が良く出ていた。
林家正蔵のローソクを灯しての落語を聴きたくなったがはるかかなたの夏の世のノスタルジー
暑くとも肝を冷やすな日本の夏。

どなた様にも
  ブログをお借りいたしまして、

暑中お見舞い申し上げます。

お体をご自愛ください

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