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異郷の地で学問を修める苦労は、本人のみが知ること。「
克己の精神でいずれ、お国の為に役立つとの志・強い意志。
本人のみの知りえる精進しかないのであろう。
敬愛するメルヘンさんのブログを拝読させていただいている。
ホーム・シックを少し感じたので恩国のことを書いてささげることにした。・・・・ガンバ!・・

ユドヨノ・・(マレーシア、じゃなくてインドネシアの大統領)と
淀殿・・・・

一期一会・・・と
市毛良枝・・・は響きが似ている。
       メルヘンさん 元気ジャ〜〜ン

夏目漱石は1900年の10月末から2年余り、英語研究のためロンドンに滞在した。
漱石の留学2年間のロンドンで下宿を5回変えたたのは有名なお話。
4番目の下宿には学部は違う理学部だが、同じ東大の教授をしていた池田菊苗と同宿になる。
ツーティング(5 Stella Road)が、住所である。
昆布の中から旨味成分のグルタミン酸ソーダを抽出する技術
「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法」の特許を取得した、池田菊苗である。
正岡子規が野球のなずけ親のように味の素は漱石となっているのはこのあたりが出辞なのか。
幼き頃の、池田菊苗の疑問が研究のきっかけ。
「何故、昆布でダシを取ると美味しくなるの?」コンブの出汁とりからであった。
このヒトと別下宿に移り住んだ5番目で鬱病になる
正確には神経衰弱。 
「近年何となく気分勝れず甚だ鬱陶敷(うっとうしく)書見も碌々出来ず心外」 
妻・鏡子宛ての手紙。
1901年7月、クラップァムコモン・ザ・チェイス八十一番地(81 The Chase)にある5番目の下宿、地下鉄クラバム・コモン駅に近いザ・チェイス八十一番地
チェルシーからテムズ川を隔ててそう遠くないところ。
3階の部屋で、帰国までの約1年4ヶ月を過ごした。
ほとんどの時間部屋に閉じこもり、読書と思索に没頭。
外出は少なくなったが、池田菊苗と、チェルシーにあるカーライル博物館を訪れた。
入館者記録にK.Natsume、K.Ikedaの署名が今も見れ、漱石の「カーライル博物館」はこのときの訪問記。
最後の下宿の建物は、美しく手入れされて、今も残っている。
小説家、夏目漱石が住んでいたことを示すブループラーク(歴史的に有名な人物がすんでいた建造物を示すもの)も取り付けられた。日本人第一号。
この家の斜め向かいの建物には、「倫敦漱石記念館」があり、水曜と週末に漱石関連の展示を見ることができる。
帰国後、小泉八雲の後任として、東大で教鞭をとるが、授業の評判が悪く、神経衰弱になる。
このころから作品を雑誌に発表。
「文学論」を完成させたのち、帝大を辞し、朝日新聞社に入社。
新聞小説を連載し好評を博す。
持病の胃潰瘍が悪化し、修善寺に療養する。しかし、大量喀血し、危篤におちいる(修善寺の大患)その後、持ち直し、「こころ」「道草」などの作品を発表するが、
大正5年(1916年) 12月、「明暗?」執筆中に胃潰瘍のため他界する。享年49歳。
ロンドン留学中に他界した、正岡子規(俳人)や寺田寅彦(物理学者)との交流も見逃せない

近代日本は明治維新から始まった。
言語、医療、街造り、法律、絵画、音楽何でも貪欲に吸収、欧州は板倉全権に追従した留守居役・西郷隆盛を除く大久保利通を始とす明治草創期の群像。欧州各国は日本の基礎を作ったすべてvの人が目を輝かしたところ。
とりわけドイツはひときわ違った。唯一親切に対応してくれたのである。
アメリカ、イギリス、フランスどこでもコケにされ唯一拾ってくれたのがドイツであった。
ドイツを下敷きにして作ったゆえ明治憲法をワイマール憲法といわれるゆえんである。
せきやんも同じ道をたどったことがある。
石の文化に圧倒された初日。
ドイツ人が人懐しく話しかけてくる。
まったく判らぬドイツ語には閉口したが安心して居れる。
乱暴なるせきやん流欧州の区分け。
人種差別の街ロンドン。
個人主義の国ゆえ、赤信号でも平気のパリ。
律儀なドイツ。
車はパリの街路には駐車中で、ヘコミ車は平気,さびてさえいる程でワックス仕上げ塗装など皆無
ドイツは実にきれいな車で整然としている。
気質があっているのであろう。
小泉のようにオペラ三昧もよし、歴史的大2次大戦終了を早めた記念碑的エルベ川エルベの青年の不戦の誓い。
ドイツ農民戦争を機軸として働く側からの新経済学の発祥の地
黎明期の経済学者はここに学んだ。
東京大学経済学部で、最初に日本経済史講座を担当した土屋喬雄
『日本経済史が未開拓の領域で、重要ゆえ、専攻しなさい』と前教授・福田徳三にすすめられ、ドイツ留学中に日本経済史のドクター論文を書いた。
ドイツへ2年間留学し、帰国後は明治維新の経済史的研究に徹底した実証主義を用いた。
福田徳三、河上肇、渋沢敬三、向坂逸郎などの影響による。
蔵書西欧経済学の翻訳書-ウェイランド、 J・S・ミル、リスト
1927(昭和2)年に第一作『封建社会崩壊過程の研究』を上梓した。この本は、加賀藩や薩摩藩の財政史料から、江戸時代は既に封建社会の末期にあったことを指摘した。
つまり、江戸時代は純粋な封建社会ではなく、近代資本主義社会の萌芽が見られることを明らかにした。
これは、後に講座派との日本資本主義論争において、労農派の論客として活躍した、彼の歴史認識を示したものである。
 この本を世に送り出してすぐにドイツへ2年間留学し、帰国後は明治維新の経済史的研究にとりかかった。
西欧経済学の翻訳書-ウェイランド、 J・S・ミル、リストなどの著作を蔵書に見れる。
その後に宇野 弘蔵(1897年11月12日 - 1977年2月22日岡山県生まれ)向坂逸郎もドイツに学んだ。
宇野は1958年東京大学を定年退官
宇野学派は、大内力の「国家独占資本主義段階論」の宇野右派、降旗節雄・鎌倉孝夫の「現代帝国主義論」の宇野左派として継承されている。
医学会もそうだ。
江戸時代は西洋医学と言えば蘭学(オランダ医学)であった。
明治になってなぜドイツ医学になったのであろうか。
東大病院の東側、池之端門の近くの高台、看護寮のある木立の中に、相良知安の顕彰碑が立っている
明治新政府の中で新しい日本はドイツ医学を手本として学ぶ必要があると周囲の抵抗に負けずに主張した人物である。
一方、西郷隆盛が支援したイギリス人医師のウィリス
フランスで医学を学んだ高松凌雲などもいた時代である。
相良知安はオランダ医学で使われていたテキストのなかにドイツ語からの翻訳が多く含まれていること
解体新書もドイツのクルムスの著書をオランダ語に訳したものであることを理解していた。
新政府の樹立に貢献した西郷隆盛の推すウィルスの英国医学を導入すべく政府は一度決めた。
相良知安は当時、最も医学の進歩しているのはドイツであることを確信しドイツ医学を選びたいと考えた。
彼の強い主張と大隈重信の支援もあり、遂に周囲が折れた。
ドイツから医学教師を招くことになった。
最初の教師が外科のミューラーと内科のホフマン
。相良知安は天保7 年佐賀藩医の相良柳庵の子

。佐賀で蘭学を学んだ後、佐倉の順天堂の佐藤尚中のもとで
外科学を学んだ。

さらに長崎に国内留学し精得館でオランダ人医師ボールドインに学んだ。その後佐賀に戻り、藩主鍋島閑叟の侍医となり、明治維新後、閑叟に随い上京した。明治2 年医学校取調所御用掛を命じられた。この地位を生かして政府に岩佐純とともにドイツ医学の採用を提言したのである。

わが国の近代医学は大きく進歩し、その影響は現在でも続いている。現在でも医学生が第2 外国語としてドイツ語を選ぶことはそのあらわれである。
日本とドイツの交流は、今から約300年前、医学者エンゲルベルト・ケンペルの長崎出島のオランダ館における1690年から

1692年までの滞在が日独交流の出発点とされ、著書である「日本誌」は、ドイツ語圏で初めて日本を紹介された権威ある見聞録として歴史的交流の第一歩を示している
。その後、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが1823年から1830年、続いて1859年から1862年に日本に滞在し、彼の「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」の著書は、現在でも再版されるほど貴重な功績といえる。
このお項は 加我君孝東大教授の研究書による。

せきやんの社会改革の運動からたずねたいドイツは、キリスト、ユダヤ、イスラムの宗教者がエルサレムに詣でるようなもので
、歴史的進歩政党の決議の場所。
1)シュトゥットゥガルト決議の都市が見てみたい。

2)第二次大戦を終えて、両軍の青年兵士が集いし
反戦の誓いの「エルベの誓い」の・・・エルベ川のほとり。どの辺りであったんであろう。

3)ドイツには東西の壁があり、東ベルリンのやっかいさで、ウェルズ・ブルクに宿を取った。
そこで、見た映画もちろん日本語版の字幕なしの映画館にいりたい。
トイレで便器が高すぎ、ションベンができない町の小高いところのお城。名前は・・ナンだったか・・

4)今では世界一の太陽光発電の普及。
太陽の光の量は日本のほうがいいのだが、なぜか日本で作り、ドツで販売してる太陽光発電。。
普及したきっかけは極めて単純。
アーヘンに行けば判ることだ。

ドイツは揺籃期の日本の母。

医学の発展には海軍医学と陸軍医学の対立があった。
海軍医学は宮崎の人・高木兼寛

明治8―13年:高木兼寛・英国セントトーマス病院医学校(ロンドン大学)留学
 明治14年:成医会講習所→慈恵会医科大学:有志共立東京病院→東京慈恵会病院

陸軍は松本順の後任の森鴎外
脚気はウィルース説の陸軍、ビタミン不足の海軍に分かれて論争

 明治15年:有志共立東京病院創立→東京医学専門学校→東京慈恵会医科大学
・高木の思想:英国医学と貧者への医学「慈恵会」を創設・皇室の寄付・会長・有栖川宮
 帝国生命(朝日生命)創設に協力 海上自衛隊衛生部長:昭和天皇の侍従医・高木顕

海軍医学と高木兼寛
 「病気を診ずに患者を診よ」(患者の視点、貧者への慈悲)
 日本最初の看護学校(東京慈恵会医科大学)の創設→「看護婦と医者とのチーム診療」
  セント・トーマス病院付属看護婦養成所(フローレンス・ナイチンゲールの創設)
 ビタミンの父(世界八大ビタミン学者・南極大陸に「高木崎」)
予防医学(公衆衛生・環境医学・食の医学)の重視

脚気の副産物:海軍カレー
 海軍5等厨夫技能基準(明治17年)カレーライス、シチュウー、ビーフステーキ

.海軍医学(イギリス)医学と日本(ドイツ)医学の抗争→海軍医学の敗北
 ・海軍(薩摩・長州):実証性・臨床医学・予防医学・環境医学
食事・種痘・ツベルクリン・レントゲンなどの導入
 ・日本(幕府→政府・陸軍):病理学・細菌学・理論重視→研究重視
(1)海軍医学事始め:戊辰戦争・イギリス人ウイリス(イギリス公使館付医官)
(2)ウイリス東京大学病院長(シーボルト・ポンペ派反発)ウイリス左遷→鹿児島
 →開成医学校教頭→西南戦争(明治10年)→ウイリス強制帰国(英国)

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コメント

メルヘン
メルヘン
2006年9月25日19:36

あわわわ、恐悦至極に存じます。
毎度勉強になります。

ドイツで生活してると、ドイツ人と日本人なんて全然似てないじゃんと思うものですが、近代日本の黎明期にはドイツから多大な影響を受けてるんですよねーそういえば。
それを考えると、ドイツという「国家」は日本という「国家」に似ていると言えるのかもしれないですね。それがどこかで「ドイツ人と日本人は似てる」になっちゃったんだと思います。

ちなみに最近のドイツの車は衝撃的にぼろっちいですよ。
窓ガラスがなくなって、ビニール袋張ってある車とかたくさん走ってます。びっくりします。

せっかくの機会なんで、日本を恋しがってないでもっとドイツを満喫しまーす!

せきやん
せきやん
2006年9月25日20:08

あの〜メチャクチャ受けてます。
東がくっついできて、厳しくなってるのはわかるとして、
ビニールは受け狙いでしょう??実に豪傑笑い。
アウトバーン走ったことあるんですけど・・・・・
あらゆる雑学的知識を吸収すべき!
泣いてるヒマないですぞ!
文庫本一つものにしたらどうでしょう・・
せきやんなんぞは、今みたいな日本の週刊誌情況でなかったゆえ、
おみやげに、先進国の写真の雑誌をもちかえったほどでした。
マネー・チェンジなしの、ユーロなんでしょうね。

yu-no
2006年9月25日20:47

登録ありがとうございます。
賛同いただけて嬉しかったです。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします^^

淵瀬春秋
淵瀬春秋
2006年9月26日9:46

ドイツはフランクフルトにトランジットで一泊したのでしたが(2000年頃)、ガラスが割れたり落書きこそなかったものの、ホームレスと思われる人が山のようにいて駅付近はかなり危険な地域でした。東西統一は旧東ドイツという市場を得る一方で山のような失業者を抱え込み経済の停滞・後退を余儀なくされた、その一断面を見せられた感じでした。仕事でブラジルに行ったとき、バンケットの席でドイツ人氏が韓国人氏に「統一はいいかも知れないが、経済的には酷くなるから覚悟した方がいい」と軽い調子で話していました。
また、ドイツというと環境先進国と捕らえられがちのようで、過去にはトンデもない環境破壊の国でもあったとドイツでのワークショップに参加しエクスカーションに出た後輩は言っていました。とある工場は廃棄した鉱滓を敷地内に山と廃棄したため、土壌はシアンの鉄錯体と思われるもののため青い結晶質になっていたとか。その反省が今のドイツなのでしょう。日本の鳥頭社会では考えられないことです。
ドイツにそこまでの思い入れはないつもりですが、修士の時にドイツで行われた一連の関係論文や、就職してからはドイツ有機農業研究所の一連の研究に多くを学びました。だからって、日本の研究がドイツの後塵を追いかけているわけではないですがね。;-)

ちなみにダブリンにあるハーンの家の隣は質のよい安宿で、ハーンの絵はがきがもらえます。

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