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大分のtamiさま
有難うございました。

パソ未熟ゆえ連絡のとり方がわかりませんので
過去のブログを再掲してお答えとさせていただきます。
隣県の方・バ・ン・ザ・イ・
追記・・・マッチさんにもご無礼したまま。連絡のとりかtがわかりません。お許しください。

相撲の滅んだ日
2004年12月16日 TrackBack
p/sのリソースのエラー表示に悩み続けていたがついに挑戦に見事成功した。
リカバリーをしたのである。実に二日もかかってるんだも〜ん
よって18日にこれを書いている。

16日はあの双葉山が逝った日である。
相撲については幼き経験での自慢話がある。

野蛮な時代である。 隣地区は石を投げたりでの喧嘩相手。
その校区の違う隣地区の村祭りで5人抜きで画板を景品にいただいた。

力道山と双葉山の死はショックであった。
特に双葉山のときは大人の年齢であったときなのでお恥ずかしい限り。

追悼双葉山として偲んでみたい。
・・ながさきけん・・ごとうしゅっしん・・佐田の〜山〜
いらい横綱がいないんだも〜ん。

律令時代の九州も大宰府の置かれた頃より福岡が常に中心であった。
地勢・地形的にも大陸との窓口でその要素があったからであろう

二度の元寇を乗り切り、秀吉の時には朝鮮半島に加藤、小西、島津と九州の大名は功を上げ覇を立てんとした。
情と義理に厚い九州人が関が原で東西に分かれる元ともなる。

日清、日露果ては満州事変から続く16年戦争次には軍略的重みは少しは遠のいた。

バブル崩壊後の経済回復となり集中的に玄関口と見直されてきてる。
ダイハツは大分・中津に本社工場のすべて移転してガソリン車からの脱却を計ろう。

このように見てくると九州北部が常に歴史の中心であった。

しかしながら大宰府庁に負けエヌ九州に威光を発揮した地方がある。宇佐市である。
宇佐市は、南部に御許山(おもとさん,馬城の峰)を中心とした緑豊かな山系が連なり、やっかんがわは言葉から先に覚えた地名で(駅館川と書くようだが)河川の中枢に位置し水源をなしている。

古代より駅館川の活動は広大な宇佐平野を形成し肥沃な大地をくれた。
九州でも有数の大穀倉地帯として、古くから稲作農業の中心をなしていた

富は奈良の大仏建立にさえさしだされ,4万を超える全国神宮の頂点に立っている宇佐神宮

、標高20〜40メートルの洪積層台地の宇佐・糸口山台地は地形が豊かで、果実や畜産、畑作なども盛ん。

 北部に周防灘をのぞむ海岸線は、東西18キロメートルにもおよび、干潮時には、3〜4キロメートルの沖合いまで干潟になる屈指の遠浅の海で、古くから沿岸漁業が盛ん 
 
豊かな自然は富をつくり、富は人を作り人材を輩出する。

大地には水無くして発展はない。。
日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水をつくったひと。

土木の近代土木の父である南 一郎平みなみ いちろべい はここ宇佐の人である。
市内金屋に生まれ、当時水の便になやまされていた駅館川東側台地に水路を引く亡き父の悲願の意志を引継ぎのちに広瀬用水を完成させた。
 
財政困難のため、島原藩に援助金を頼んだり、資金づくりのため井手切手を発行したり、工夫を重ねた
明治時代には、全国の疎水工事に力をつくし、日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水を創った人として土木事業で名をなした。
 
今も、広瀬地区には初期の水路跡が残る個所があり、当時の工事の困難さが感じ取れる。

若者は時代を作るその若者が目指すものは「アーテスト!」は常に若者の夢の一番にくる。

作曲家と新聞の漫画と先駆的働きをした二人がいる。
 
新聞4コマ漫画の最初は只野凡児の「ノンキナトウサン」であろう。
作者麻生 豊は市内下麻生で18歳まで育った。

工手学校を卒業し、大正12年東京報知新聞社に漫画記者として入社。
関東大震災後、すぐ被災者たちの心を慰め勇気づける 漫画を描くよう依頼され、「ノンキナトウサン」の連載を はじめた。、
新聞4コマ漫画の草分けとなった人。

常に時勢を見極める洞察力で、どこにでもいる庶民の代表者を書き続け、昭和の終戦後は東京銀座が復興する姿を絵巻きにして、
全22巻を書きあげている
釣を楽しんだ伊呂波川を見下ろす 高台にお墓がある。

「その質において日本人最高の作曲家は、清瀬保二(1900〜1981)であろう。」と言われる。

それにしては、滝廉太郎のように名を多くには知られてない。
清瀬の弟子であった武満徹のCDは、数多く売り出されているが、
清瀬保二のCDは、柳兼子が歌った歌曲を除くと、オーケストラ曲も室内楽曲もピアノ曲もほとんど発売されていない。

したがって、彼の曲がどのようなものなのか?は、一般には知られていないのが実情だ
 1清瀬保二は、武者小路実篤より15年下の1900年生まれだが、二十歳のときに、バイオリン一つを持って宮崎県の「新しき村」に入ろうと考えたそうだ。

「ロダンの言葉(抄)」(高村光太郎訳)で、基本方針が定まったという。
、当時の多感な青年たちと同じく、白樺派の醸し出す思想に共感していたことが分かる。

それほど宮崎児湯郡木城の「新しき村」のパッションさえ感じさせる。

、清瀬の基本は民族の持つ独自性にある。それは幼児環境にあるようだ。
彼の母はいつも就寝前に親鸞の思想を広めた蓮如の文章を読むのを日課としていて、幼い頃より保二はそれを傍で聞いていたという。

19歳の時作曲家を志して上京し、山田耕作に師事。
30歳で日本現代音楽協会の前身である、新興作曲家連盟の結成に参加した

戦後はNHKの専属ラジオ音楽を担当し、活躍。
歌曲から合唱曲・映画・劇音楽・舞踏組曲・管弦組曲など幅広い作曲活動を続け、日本の現代音楽を世界に紹介した人。

宇佐市内四日市地区に「音の調べ通り」という清瀬保二にちなんで名づけられた公園がある。

     
宇佐市のホーム。ページ「だいナミック」はどうも宮崎都城の泉ヶ丘の先生のごたる?
宮崎県と宇佐市は仲良し?

いいやぁ〜アメリカとはもっと仲良し?
市名をスペルと・・・・U・S・A・である。・・
         ・ウソ〜!・・うさです〜

九州場所は分裂場所。理事が親方で運営されており同門とかの古き因習が出た。

日本人横綱を作るや否やでもめた.ネタのできた週間ポストはさぞ大喜びであろう。

連続の優勝なしではそりやァ〜・・相撲の国際化は協会の運営が確かに難しかろう。

手刀の切り方ひとつ変えないもん!不浄なる手で賞金貰うバカどこにいる?外人のみ

島国の文化は様式美でその人の心さえわかる
横綱は全人格者のトータルの称号常に目指すものである。

頂点を極めたものに与えられるものではない。免許の挨拶の使者にに何と誓った

相撲ではなく相撲「道」なのである。
貴乃花の足元にも及ばない内面性のウスッペラな一人横綱である。

師匠の言うこときかづしてこの世界に残れる資格もない。
k−1にいずれ行くのであろう所詮稼ぎにきてるだけ。

松井、イチロの聖人君子ぶりを見習え!スポーツは文化ぞ!
宮廷行事で相撲節、神事である

古代相撲のタイマのケハヤvsノミノスクネは中学時代の40年前の記憶として
いまだ忘れエヌほど感激した。

宇佐市天津小のホーム。ページである。

「大相撲で昭和11年 1月〜昭和14年 1月までの間、一度も負けずに 69連勝した第35代横綱です。
  その双葉山が生まれ育ったのがここ天津なのです。」

双葉山は、幼少の頃に右手小指の先を失い、右目を失明し相撲は嫌いであった
余り知られていない逸話である。

親の借金払いのため々大分の先輩の小野川部屋でなく立浪部屋に入門。

以下次数制限で続き [編集する] [コメントする]

相撲の滅んだ日?
2004年12月16日 TrackBack
つづきで〜す

引退後には年寄・時津風を襲名、時津風部屋を興す。
時津風は大阪相撲の素性が悪かった小九紋竜が名乗った名

格落ちの名跡で歴代梅ヶ谷の名乗った雷(いかづち)親方をすすめられるも断った。

横綱のとき3代目梅ヶ谷を名乗らなかったのと同じでこだわりがなく淡白である。

双葉山は敗戦と引退で精神的に悩んだのか新興宗教璽宇教に入り、47年1月に検挙される。

このような事件さえ起こしてるのだが時代は慣用であった。

48年2月日本相撲協会理事。57年同理事長。相撲協会の刷新に尽力する。68年の今日死去。

「イマダ、モッケイニアラズ}
心の師・安岡正篤に送った電文の一節である。
安芸の海に負け69連勝がストップした日である。

「モッケイ」とは木鶏のことで、木彫りの鶏のように鍛え抜いた闘鶏は
、敵と出会ってもその威徳によって相手が畏縮して逃げてしまうという。

「うっちゃり双葉」は押し込まれての相撲で悪い形容詞エレベーター力士であった。

時の横綱玉錦
「あれでいい。力がついてくりゃ〜欠点が欠点でなくなる。」 

 右四つの絶対の型を持ち、右四つとなれば勝負あった。どんなときにも下半身が崩れることはなく、左上手投げの威力も抜群だった。
ビデオにも残っている。

また、双葉山と言えば、
「後の先」の立ち合い。
遅く立つと、みせて実は先にたち先手をとっている

この「後の先」は、遅れて立って下から入るなどして十分の体勢になることと理解されてるが、双葉山の目指し、完成させたものは非常に奥の深いもので余人には理解は無理とのこと。。

力士会の初代は横綱玉錦二代目は双葉山虫垂炎で急死したので引き継いだ丁度あの69連勝がスlトップする前の場所前の話である。

アメーバ赤痢にもかかっており自分を育ててくれた名横綱玉錦6連敗の後の4連勝中でもあった。

19年11月場所6日目、新鋭東富士に敗れて後継者を得たと悟り引退を決意した。

20年11月場所まで番付に名があったのは引退を引き止めたからである。
いい時代こんなもんでいいのでは。
貴乃花はかわいそう。200kを超える3人組に仁王立ち

小錦、曙、武蔵丸考えても見たまえ!農家の出での私。
小牛を市場に売るとき200K未満もいたものである。
牛より大きいんですぞ!

35連勝でスlトップの朝青龍がなにぞ!
時代、環境がいいだけじゃん!

「名随筆相撲1991年刊行」にはアララギにのった斎藤茂吉の書いた双葉山敗北記事がある。

尾崎士朗、長谷川如是閑、歌舞伎界の菊五郎も登場させ紙面のほとんどを割いた

「文芸誌ゆえなにか格好をつけたほうがいい」<笑い>と慌てて少しの歌批評を載せてるぐらいだ。

ところで、雷(いかづち)親方はだれがついでいるの?そんな大名跡を
宮崎は延岡の人、

市会議員をしておられた戸田さんのご子息。
知りません?巨人・大鵬・卵焼きの代名詞に土をつけたひとで〜す。

44年3月2日のことで社会現象にもなりました。
46連勝で大鵬に土をつけたんでは殊勲称章でも貰った?残念!
7勝8敗で負け越し
宮崎人らしい。?だってあれ足がでてたも〜ん。
勝ってないって。ゴネンネ!大鵬さん、

雷智次郎は今も立波部屋を大きく包んでいる。

双葉山は多くの後輩を育てた。
横綱鏡里、大関大内山、豊山、北葉山

いつまでも忘れ得ない名力士たちである。

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コメント

nophoto
tami
2006年10月10日0:06

ありがとうございます。
心の中まで届きました。

大相撲好きの大分の私だけの為のわざわざのアップと勝手に了解します。(笑)
私の「小さな幸せ」のアドレスはhttp://blog.goo.ne.jp/tami0816/です。
昨年の9月24日のアップをもしお時間があったら読んで笑っていただけると嬉しいです。

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