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出光美術館は東京・丸の内と相場は決まっている。
北九州市の門司にも出光美術館はある
福岡からおいでの方と仕事を進めている
門司機関区に関係しておられた方で、下関の用地部せきやんとは何かと因縁深い話である。
そういえば、134年前、新橋と横浜の間で鉄道が営業を始めた。
歩けば10時間かかる道のりを1時間足らず、
西洋の文化・文明は大変なものだ、と人々は実感した。
ノーベル文学賞トルコのオルハン・パムクの最新作『雪』の終幕は、主人公が1人汽車に乗る雪の駅。
欧州とアジア、キリスト教とイスラムが交差するイスタンブールに居て
「この街の悲哀の本質を追究するうちに、文化・文明の衝突と融合の新しい表象を発見した」
のが授賞理由、作家は鉄道を西欧の象徴と見る。
「文化・文明とは混合。別々の源から出た事物が一つになったもの」とパムク。
文明開化に始まり、新幹線網と精細なダイヤを築いた今の鉄道
、日本と西欧が混合した、パムクが言う文化・文明そのもの。
「鉄道の日」は、文化・文明の融合記念日。
江戸時代後期を代表する禅僧の、仙がい(せんがい)(「がい」は「涯」のつくりのみを書く。)多数の詩文や書画を残した
その作品を最も多く収蔵しているのがくだんの二つの出光美術館。
、ほっと心を和ませてくれる作品群。
墨絵に言葉が添えられている。「鶴ハ千年 亀ハ萬(まん)年 我れハ天年」と書かれた作品。
長寿の象徴である鶴亀と対比させ、人間は天が与えた命を全うするのが大事だと説いている。
犯罪や事故など天年と割り切れない場合もあるが、少々のことには動じない力を与えてくれる
6人の老人を描いた作品がある。
しわが寄る、くどくなる、などと老化現象を並べた古人の歌が添えられている。
しかし、どの老人の表情もにこやかで楽しそうだ。
年を重ねることは喜ばしいことだと訴えているのだという
7日は仙がいの命日。仙がいには、さじの絵を描いた「さじかげん」という作品もある。
仙がいの絵は悩み事がある人の相談相手。
武者小路実篤、谷内六郎、あいだみつおの源流をなす。
谷内六郎は週刊新潮創刊号からの表紙絵を59歳で没するまでに休むことなく描いた表紙絵は実に1335枚
北のの将軍様体制の悲惨な惨状の絵は画家ヒトラーはどう描いたろうか。
拉致で人材を補い、核兵器で食料難の国難を乗り切ろうとる体制ではとても民族自活の絵をかけず、解決の早道とは到底思えない。
封建制から文明国家に脱皮を図った世界に例を見ない稀有の平和的解決の経験を持つ国日本。
わが国の歴史から紐解いてみたい。
勤皇攘夷、倒幕の旗は幕末四賢公の一人島津斉彬の島津藩が先駆の誉れの名誉を歴史的に受けている。
先鞭をつけたのは一時代早かった行動の論理・陽明学の藤田東湖の水戸藩、
水戸勤皇天狗党など旗揚げがうまくいかず、人材を一気に失い時代を作りきれず、人材非出が枯渇した。
受け継いだ、長州が文久三年八月十八日蛤御門の変(禁門の変)で会津桑名薩摩に負け後退する。
長州藩はようへいした久留米水天宮の神職・久留米藩士・真木和泉い指揮をとらせる。。
家老・来島又兵衛、久坂玄瑞らと、真木和泉は散った。
富国強兵策の出兵に反対した慎重派桂小五郎(木戸孝充)、高杉晋作が生き残る。
中岡慎太郎は日向佐土原藩周旋方の鳥居大炊左衛門の家に潜伏した後、長州へ逃げることができた。
慶応3年11月15日近江屋で坂本龍馬ともども暗殺さる。12月9日朝廷、王政復古の大号令発令
久留米藩・真木和泉は水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響で天保学と呼ばれる学派を作る
1862年(文久2)大久保利通らと薩摩藩主島津久光を擁立し上洛さす。
寺田屋事件で幽閉され、その後は長州藩に接近
蛤御門の変で敗北し天王山で自害する、享年52。
作家・脚本家の光益公映はその子孫。
真木和泉は
楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。
毎年、楠木正成の命日には楠公祭を行ない、
その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、
靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた。
墓所は京都府大山崎町。
辞世の歌
大山の 峯の岩根に うづみけり わが年月の やまとだましひ
この真木和泉を生んだのが宮崎・佐土原藩をルーツとする。
久留米と日向2005年6月18日ブログで書いた。
佐土原藩稀代の名僧古月禅師
「東に白隠あり西に古月あり」といわれる程に、全国に広くその名が知れわたる名僧。
白隠の強靭な意志の禅に対して、古月の禅は、潔癖、端正な禅。
筆もよくした古月禅師は「月見の宴の詩」で、風雅な志も深く、禅界には稀な存在として知られた。
佐土原の佐賀利集落で生を受けた根っからの日向人。
1667年9月12日 日向国佐土原藩領内の佐賀利村の金丸氏に生まれた。
佐賀利村は、現在の宮崎県宮崎市佐土原町)の一ツ瀬川沿いの集落。にある、
瑞光院の宗密のもとで勉学を習った。
7歳のとき、松巌寺の一道の弟子となる。
1704年、藩主の命で38歳で大光寺四十二世の住持
全国を行脚し江戸での古月は佐土原藩主 島津惟久、薩摩藩主 島津宗保、長州藩主 毛利宗広、筑後久留米藩主 有馬頼童"
と親しく交誼した。
84歳の老体で筑後久留米七代藩主 有馬頼童に請われ久留米に。
福聚寺の開山に際しては古月禅師に開山を懇請し、6年の歳月をかけ福聚寺を開山した。
現在でも福聚寺の敷地が広いのは寺領250石の印証を、古月襌師に授け たことに由来する。
調べ者のときに何故と当初の疑問が解けた
佐土原藩家臣の町田家。
町田家は島津本家から出、佐土原島津の御側御用人を勤めた。
島津二代忠時の七男忠経を初代とし八代清久から直久に枝分かれし子孫の忠長が佐土原・島津の臣となった。
五代景高は嘉永2年10月3日嫡男景前の罪を被り、80石のうち30石を召し上げられるが
安政2年2月28日恩赦で召し上げられた30石を返還され用人および舎長を勤めた。
彼の経歴を見ると久留米藩、石野郡左衛門長正柔術指南の免許受けたとある。
久留米と日向・佐土原は深いつながりがある。
2005年6月18日 のブログに書いている。

日向の国と久留米は少なからずの繋がりがある。
久留米市はキリシタン大名有馬藩の国。お国替えで日向は延岡に転封される内藤家の前の有馬氏である。
専制支配体制の武家社会においてキリシタン大名は数奇な運命をたどった。
国内支配を終えた豊臣家は朝鮮支配の先鋒にはいずれもキリシタン大名をあてた事でもわかる。
国禁となった徳川時代では領地変え、あるいは取り潰しの悲哀を浴びた。
江戸中期には260の寺院があり、善導寺、千光寺などの古刹の中、慈雲山 福聚寺は円通寺(五穀神社)と共に、久留米では最も新しく建立された寺院の一つ。
近世禅林僧宝伝に名を連ねる佐土原・島津の古月禅師。の開山である。
この頃の時代背景を映像で見れる。
寅さんの山田洋次監督が構想10年。 監督生活41年目、
77作目ではじめて手がけた時代劇。  原作、藤沢周平の小説の映画化。 
時代の波を見つめ、貧しさの中で冷静に 分を貫く男のヒューマン時代劇。
 真田広之の剣・殺陣がいい。 宮沢りえの大女優ぶりが魅了した。
このたそがれ清兵衛の庄内藩での頃の時代背景がある。
学問的素養の積み上げが、封建制kら、改名の思想を醸成し得たのは、久留米藩にあった学問をする風土であろう。
日向・佐土原藩の僧・古月禅師が久留米の・福聚寺を開山し、脈々とつたわり、
真木和泉の英傑を生み、藩論が進んでいた長州を動かした。
国難救民成熟された。
県南にも名僧がいる。
僧玄昌は串間・龍源寺の名僧。
れきしの表舞台に華々しくは登場しないが、再評価を受けるに値する
島津義久、家久に使え朱子学薩南学派を島津藩に残した。
後の日本を動かす島津藩を醸成するタネを植え付けたのである。
玄昌(1553−1620)は南郷村外浦の人
15歳のときから龍源寺で修行し27歳から34歳まで京の東福寺で学び
鎌倉・建長寺での講話が人々を魅了した。
少しの睡眠をとるため途中で良とする。
武士道が支配し、自然への畏敬を持ち神仏を尊び、きわめてモラルの高い勤勉で禁欲なる民族の英傑の藩であったからである。
あらゆる物を受け入れ帰納消化できる文化技術をもった民族である。
北の核兵器にたじろぐ民族が、大国のみが持ちえる幻影に揺らいでいては英傑の僧の
「渇!カ〜〜ッ!」がはいろうや。

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コメント

nophoto
長すぎ
2006年10月17日7:12

って思います。

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