ご来場有難うございます。
ベスト・テン順位危機的状態
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一日一回ワン・クリック!。
ブログ文化はまだまだ初歩的でこれから定着していくに多くの課題がある。
しかしこれはないだろう。
米国がイラク抵抗勢力支持のサイト破壊を計画
それに、マイクロソフト社も協力とのニュースに驚愕
イラク戦争は情報戦心理戦でもある、
ネット上に溢れているイラク抵抗勢力の米軍に対する襲撃ビデオに業を煮やした米国。
これらのネット・サイトを破壊することを決めた、と27日付のイスラム・メモが特報で伝えた。
また、この計画にマイクロソフト社が協力していることが、エジプトのジャーナリストから明らかにされたニュース。
ソレはないだろうとタカをくってるが、
権力は腐敗すとの命題ゆえブッシュの狂気の沙汰は理解できる。
これには、平衡感覚は働かぬが、昨日の猫派の記述は犬派からは面白くなかろうと思慮するので記述する。
人口あたりのイヌの数は群馬が1位らしい。
人口100人あたり7・3頭が登録されてるそうだ。
三重、山梨、香川、岐阜と続く。
海のない県が上位に多く、山間部に出没するサルやクマから農作物を守るためにイヌを飼った名残ではという推論。
しかし栃木は21位、埼玉31位、奈良41位。
実態はいささか説得力に欠ける。
そこで、木に竹を接ぐ奇説として歴史的背景を探る。
「生類憐(あわれ)みの令」の徳川綱吉は将軍になる前、今の群馬県の館林城主だった。
昔からイヌをかわいがる風土があったというわけだ。
最も少ない東京は3・1頭で、次いで少ないのは大阪、山形、福井、石川だ。
都会は住環境の問題があるし人が多い。
ただ、日本海側が並ぶのは不思議だ
秋田犬や土佐犬などを擁する「ブランド県」が上位のわけでもない。
・犬・民・性・で決まり!。とは天声人語氏にして明快さ論理性に欠けてては犬派はだまっちゃいないだろう。
黙って続けてるブログのせきやんの場合はキーボドの扱いが一本指入力変換ゆえ、もどかしさが付きまとう。
音声入力とか挑戦したがどうにも技術不足。
メモを起こしながらの作業である。
カキコで勇気ずけられたり、双方向ゆえに返事がたまると困ったりで、凛としたものがない・
カウンターが増えるのに喜びを感じてるが目標にしてた若子さんのカウンターがリセットされソレさえ良くわからない。
やはり書き留める文化がまだまだ王道を歩いてることであろう。
記の歴史は、古代エジプトに始まると言われ、古代の速記はギリシャ、ローマが発祥の地と言う。。
紀元前63年11月8日、ローマの元老院でキケロの演説を速記したティロの速記が起源と伝えられる。
「いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ」(小川正廣約)
Quo usque tandem abutere,Catilina,patientia nostra ? の演説冒頭の言葉ををQPNとティロは書いた。
田舎なれども南部の国は・・・の岩手県、言葉のハンヂィーが言葉を生み出した。
宮沢賢治(明治29年8月27日〜昭和8年9月21日1896年〜1933年)は生前は無名で生涯を終えた
死後、世界的作家に何故なりえたのか。
世界で読まれることを強く夢み、推敲に推敲を重ねて原稿を書き続けていたことは知られている。
エスペラント語を意識していたフシさえ見える。
4大傑作の『注文の多い料理店』に出てくる賢治が創り出した言葉
「イーハトーヴォとは、イハテの卵?」(イハテというユートピア)はエスペラントをもじったことばである。
賢治は、なぜイ−ハト−ブということばをつくったのか。
エスペラントをキーワードに、賢治の軌跡と岩手の先人との出会いで解決できる。
日本の速記の父、田鎖綱紀。岩手の人
120年前、アメリカ人から速記を学び
福沢諭吉発行の新聞 「時事新報」に、日本語速記の 研究を呼びかける論文を発表。
その後、形となった速記法は 明治23年に始まった帝国議会で 早速採用された。
1882(明治15)年10月28日、田鎖綱紀が東京・日本橋で初の速記講習会を開催した。
それ以来10/28は速記の日
その年の9月19日に、『時事新報』紙上で発表された自ら考案した速記法で、その速さから田鎖綱紀は「電筆将軍」と呼ばれた
初期の落語速記は、言文一致運動に影響を与えた。
1890年の第1回国会から逐語発言記録が速記によって作成されているのは日本だけであろう
新聞・通信社の電話速記は一時、送稿方法の王座を占めた。
太平洋戦争後は裁判所で機械速記が実用化された。
パソコン時代に入り、様々な電子機械速記が開発され、リアルタイム字幕等が実現している。
若林かん蔵(わかばやしかんぞう) は安政 4年(1857年) 昭和13年(1938年)埼玉の人。加須市生まれ。
明治15年(1882)に上京し、速記符号の発明者田鎖綱紀が開いた第1回「日本傍聴筆記法講習会」に入会して筆記法を学ぶ。翌16年(1883)に、郵便報知新聞社の依頼で同社と自由新聞との論争を速記し、この記録が郵便報知紙上に掲載され、速記実用化の最初の速記者となる。
明治17年(1884)には、埼玉県会の要請で議事を速記
、それは地方議会議事録への最初の速記導入となる。
当時寄席随一の人気を博していた三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」を速記にとり出版し、
講談速記本流行のきっかけを作り金華園発行で現在も読める。
何日もかかって一話を終わらしてたのを一席噺にしたのが宮崎の人・二代目小さん。
侍の出ゆえ目黒のサンマや傘碁の殿様噺がいい。
金華園版を定本とした講談社版が4巻にまとめてくれている。
若林かん蔵速記の円朝人情噺本は、文壇の世界を変えた。
新しい文体を模索していた二葉亭四迷、山田美妙らに格好の見本となり、
言文一致体小説の誕生に影響を与えた。
中でも最大の功績は、明治23年(1890)に開設された帝国議会の議事録作成にあたって、速記導入を成功させた。
かん蔵は、衆議院常任速記者に採用され
、以来23年間にわたって衆議院議事録作成の重鎮として貢献。
また、速記懇話会会長、日本速記会副会頭を歴任した。
記憶に新しき仕事人速記記者を見た。
そのときから、。 だからあのときは こんなことに・・・
〜2000年衆議院本会議での チョンマゲの松浪・元衆議院議員
いつも 速記者の席は発言者の目の前で、こんなことに・・・
ヤジに激昂して発言席からコップの水をかけたら速記席に・・・
水をかけられても、 怖い人たちに囲まれても、 動じない速記者。
そのかいあって、日本は 議会が誕生したときから 議事録がそろっている 世界でも珍しい国だと言う。
裁判所にも速記者がいる。。
今は大きな裁判のときだけだが、
手元では速記文字ではなく、 「そくタイプ」と呼ばれる 特殊なパソコンのタイプライターを 使っていた。
そくタイプの練習生の説明では
「20のキーの組み合わせで、 それぞれの言葉が対応しています」
とのこと。どうりで早いわけだ。
何故詳しいかって。最高裁までいったゆえなんでも知っている。
資金を持てばブログも楽になりそうである
ご来場有難うございます。
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三重、山梨、香川、岐阜と続く。
海のない県が上位に多く、山間部に出没するサルやクマから農作物を守るためにイヌを飼った名残ではという推論。
しかし栃木は21位、埼玉31位、奈良41位。
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「生類憐(あわれ)みの令」の徳川綱吉は将軍になる前、今の群馬県の館林城主だった。
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紀元前63年11月8日、ローマの元老院でキケロの演説を速記したティロの速記が起源と伝えられる。
「いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ」(小川正廣約)
Quo usque tandem abutere,Catilina,patientia nostra ? の演説冒頭の言葉ををQPNとティロは書いた。
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宮沢賢治(明治29年8月27日〜昭和8年9月21日1896年〜1933年)は生前は無名で生涯を終えた
死後、世界的作家に何故なりえたのか。
世界で読まれることを強く夢み、推敲に推敲を重ねて原稿を書き続けていたことは知られている。
エスペラント語を意識していたフシさえ見える。
4大傑作の『注文の多い料理店』に出てくる賢治が創り出した言葉
「イーハトーヴォとは、イハテの卵?」(イハテというユートピア)はエスペラントをもじったことばである。
賢治は、なぜイ−ハト−ブということばをつくったのか。
エスペラントをキーワードに、賢治の軌跡と岩手の先人との出会いで解決できる。
日本の速記の父、田鎖綱紀。岩手の人
120年前、アメリカ人から速記を学び
福沢諭吉発行の新聞 「時事新報」に、日本語速記の 研究を呼びかける論文を発表。
その後、形となった速記法は 明治23年に始まった帝国議会で 早速採用された。
1882(明治15)年10月28日、田鎖綱紀が東京・日本橋で初の速記講習会を開催した。
それ以来10/28は速記の日
その年の9月19日に、『時事新報』紙上で発表された自ら考案した速記法で、その速さから田鎖綱紀は「電筆将軍」と呼ばれた
初期の落語速記は、言文一致運動に影響を与えた。
1890年の第1回国会から逐語発言記録が速記によって作成されているのは日本だけであろう
新聞・通信社の電話速記は一時、送稿方法の王座を占めた。
太平洋戦争後は裁判所で機械速記が実用化された。
パソコン時代に入り、様々な電子機械速記が開発され、リアルタイム字幕等が実現している。
若林かん蔵(わかばやしかんぞう) は安政 4年(1857年) 昭和13年(1938年)埼玉の人。加須市生まれ。
明治15年(1882)に上京し、速記符号の発明者田鎖綱紀が開いた第1回「日本傍聴筆記法講習会」に入会して筆記法を学ぶ。翌16年(1883)に、郵便報知新聞社の依頼で同社と自由新聞との論争を速記し、この記録が郵便報知紙上に掲載され、速記実用化の最初の速記者となる。
明治17年(1884)には、埼玉県会の要請で議事を速記
、それは地方議会議事録への最初の速記導入となる。
当時寄席随一の人気を博していた三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」を速記にとり出版し、
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何日もかかって一話を終わらしてたのを一席噺にしたのが宮崎の人・二代目小さん。
侍の出ゆえ目黒のサンマや傘碁の殿様噺がいい。
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新しい文体を模索していた二葉亭四迷、山田美妙らに格好の見本となり、
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かん蔵は、衆議院常任速記者に採用され
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〜2000年衆議院本会議での チョンマゲの松浪・元衆議院議員
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コメント
本名は永井壯吉(そうきち)号は断腸亭主人・千葉県市川市名誉市民
大正中期から死の前日まで書き継がれた日記『断腸亭日乗』は、
戦前戦後の社会世相・風俗の変遷を活写している
数奇な一生であった。
小石川区に士族 永井久一郎、つねの長男として生まれる
一高受験に失敗して一ツ橋入学したが後に除籍
落語家になり、三遊亭夢之助を名なったが父の反対で断念。
小説家広津柳浪や歌舞伎劇作者福地桜痴の門下
エミール・ゾラの影響を受けた1902年の「地獄の花」
日本公使館や横浜正金銀行に勤務し、アメリカ・フランスへ滞在
帰朝後『あめりか物語』『ふらんす物語』を発表
谷崎潤一郎らとともに耽美主義の作風で藤村らの文壇の自然主義に風穴を開ける。
ボードレールやヴェルレーヌら、近代フランスの詩人を紹介。
上田敏・森鴎外の推薦により、慶應義塾大学教授1910年〜1916年、
そこで『三田文学』を主宰
戦時中の疎開は岡山県津山で谷崎潤一郎との交友は有名なお噺。1952年文化勲章受章。
浅草に出没し、ストリップ劇場の楽屋にも出入りした。
二度の離婚の後に侘び住まいののちの孤独死は新聞に大きく報じられた。
せきやんの青春期の『四畳半襖の下張』は
「面白半分」(1972年7月号)にこの小説が掲載
猥褻裁判で編集長野坂昭如らが摘発され、1980年最高裁で有罪判決が確定する。
『濹東綺譚』江戸時代にする憧憬、男女間あるいは人間同士の機敏を描い女の切実な寂しさと、男の行きずりの恋愛による、不安定さが描き出された作品
太宰治が「女生徒」という作品の中で、主人公の女子高生と思われる女性に、「私最近『濹東綺譚』を読んでいるんだけど、この作品は、なんと言っても、ちゃんと寂しさというものが描かれていて好い」
ワグナーやベルリオーズの作品に親しみ、
昭和13年5月には浅草で自作オペラ『葛飾情話』を発表(作曲菅原明朗、ソプラノ永井智子)
クラシック音楽の日本への普及に大きな功績をあげている。
作家高見順と詩人阪本越郎も荷風のいとこ。
三島由紀夫とは父方の祖母の実家である永井家を通しての親戚
歴史がある難解書に取り組まれてますね。
せきやんが資本論に取り組んでた頃みたい。
文化が一気に花開いた大正ロマン〜昭和動乱を経ての昭和期まで
私共の年代には楽しくてたまらない頃の書物です。
日ごろのご活躍に楽しくブログ拝見させていただいてます。
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