再掲

2006年11月25日
倭は国のまほろば 
2004年11月13日 TrackBack
ど〜もこのサ〜・バ〜調子が悪い。書き終えアップ・ロードするとき消えるのである。ここんとこ二度書きが続いている。同じもの書けるはずが無い。

新社屋での家移りを想定しての祝杯をあげる。
5人からの今日の場である。誰もの顔が輝いている。

人格、人権まで否定して利益のみで恐ろしきAPA。
支払いをためては企業ではない。

利用された後の人間は要らない。
物を粗末にするが如くヒトさえも粗末にする

社員が信じられなく苦痛なる出勤で辞めていく。これがいい会社なのか。新しき国の起こりである。

倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し美し

伊吹山の神に破れた末に死に際に故郷を偲んで歌った時世としてるのは712年編纂の古事記、

720年の日本書紀ではヤマトタケルの父たる景行天皇の九州征伐中に詠んだとされている。

ヤマトの勢力が関東九州を収めていく4世紀。
卑弥呼の3世紀と雄略天皇たるワカタケルの5世紀のあいだにある世紀で中国の資料に欠ける時代で謎が多いとされる。

古事記表記は倭建命で日本書紀表記は日本武尊。なんか別人みたい。

1945年発行の1000円札を甲千円券と言う。
1945年8月17日に発行された。

実は4年前の12月26日に50万枚5億円分が日銀の倉庫に保管されていたので、できたわけである。

日銀券は31年の満州事件で13億円
日中戦争の37年に23億円
41年に59億円
軍需産業の際限ない資金需要。

軍事的英雄・武人に期待を寄せてヤマトタケルが肖像に選ばれた訳だ。

1887年には7人雄肖像が決められていた。
日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、菅原道真、坂上田村麻呂、和気清麻呂である。

どうやら戦勝の切り札として登場するはずであったとの読みが成立する。

発行翌年46年3月2日短命のうちに廃止さる
イメージ、高額すぎインフレヲ助長するからであった。

実にドラマチックな紙幣である。
まるで、ヤマト・タケルの人生そのもの。

ただし古銭市場では最高値である。美品26万円、未使用48万円。

九電工展示会。合間を見て、休日の市役所発行の書類をそれぞれ取り、
契約をする。賃料20万円。どうなるんであろう。

1890(明治二三)年10月30日、明治天皇は山県首相と芳川文相を宮中に呼んで、教育に関する勅語を下賜してその頒布を命じた。

五輪と五常を骨組みとする。教育勅語である。

五倫 儒教で、人として守るべき五つの道。
君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信をいう。

五常 儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。
仁・義・礼・智・信。

それまでの「尋常小学校」は太平洋戦争が始まる1941年度(昭和十六年)から「国民学校」と名を変えた。、

「皇国民の錬成」という目的の天皇制軍国主義の教育が徹底された。
生徒たちは〈少国民〉と呼ばれ、皇室の民としての自覚と責任をたたきこまれた。

「忠君愛国」に染まった文字通りの軍国少女で、「臣民は八紘一宇の旗の下に尽す」体質が染み付いていた

ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアン・
コウレイ・カイカ・スジン・スイニンという例の歴代天皇名を、誰もが諳んじたわけである。

とくに暗記物を不得手がる現代の若者たちの勉学には利用できるのではなかろうか。

お年寄りに聞いてみるがいい!誰でも総である。
立て板に水の暗唱がその場で証明され驚きのことであろう。

戦前の学校教育の凄さを感ずるにちがいない。

教育勅語にしても同じである。

チンオモーニ、ワガコーソコーソー、クニヲハジムルコト、コーエンニトクヲタツルコト云

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名 御璽

単純なる反動教育!だけで声えたからかに叫ぶ薄っぺらな平和主義者ではオハズカシイ。明治の時代背景を考え上での教育勅語を考えねば手の込んだ反動教育を防ぐことは出来ない。先哲は言う。

いわゆる開明思想と保守思想の混乱からくる国民道徳の退廃を、伝統保守の立ち場で収拾しようとしたものであった。

こんにちの指針なき教育の現場とはいささか異にしていよう。

この動きはすでに、沖縄の廃藩置県時の1879(明治一二)年の「教学聖旨」の発布、

天皇が公教育方針に関与し始めたとされて以来のことであるが、絶対主義者の山県内閣の成立や、地方長官会議の徳育振興の建議書などによって一層促進された。

そこで天皇の側近であった儒者元田永孚と、帝国憲法起草者の一人でもあった時の法制局長官井上毅が中心になって、成案を得た。

漢字片仮名まじりの文語体で、総字数315、玄奘漢訳般若心経の276字に近い。

内容は、国民道徳ひいては国民教育の淵源は、天皇制の建国以来の忠孝にありとし、ついで14項の徳目を羅列して之を行うことによって天皇制を扶翼(ふよく)するのが、忠良な臣民であるとする。

最後に以上に述べたことは、古今中外に通ずる真理であると結んでいる。

一方でこの国民道徳の基をなすのは、日本固有のものだとの意を含ませて「国教」とも呼んだ。

思想史上、日本の国初にそんな思想があったわけではなく、極力その表現はさけているものの、五倫五常(ごりんごじょう)の類の儒教思想をかりてきたものである。

すなわち教育勅語はその根底に於て、儒教思想によって天皇制の強化をはかったものと考えられる。

後に伊藤第二・三次内閣の時、フランスのソルボンヌ大学の卒業生で自由主義者であった西園寺公望が文相になって、

「この勅語には文明国の通議となっている自由尊重については何も語られていないから、これを改訂補足する意味で、新勅語の制定」を願い出た。

天皇の内諾をえていたが、内閣の崩壊でだめになった、との逸話が本村毅の『明治天皇』に紹介されている。

とにかく、この儒教主義の教育勅語が、これから約半世紀にわたって、日本の教育ひいては国民の道徳観の上に君臨したのである。

ちなみに文部省によって、この勅語の廃止が通達されたのは終戦の翌年1946(昭和二一)年10月、

また衆参両院で、教育勅語を含む勅語類の失効確認・排除に関する決議案が可決されたのが1948(昭和二三)年六月で、教育勅語発布以来五八年後のことであった。

爾来56年、個の国は何処に行くのか。
わたしは何処に行くのか。

日記の皆さんもおられるのでさ〜あ、やりぬかねばならぬ。
 樋口一葉、新渡戸稲造を今日まで一度も観たことも無い。
いずれ多くのご来訪をお願いするのみ。

2,14,26日と酉が3回もある、ゲンのいい月の出発。
商売繁盛ささもってこい!

時間、挨拶、綺麗にする会社の基本としたい。

社名?あれ?ド〜シヨ〜 [

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