老害と老い

2006年12月1日
「老害」などとブログ仲良しグループにもてあそばれ不愉快だが
転んでもただではおけない。
「ろう」に代わる「おい」を見い出した。
人生をほんの少し垣間見た、
老のパワーを見せ付けるものにできないものか記してみる。。
丁度いい。11月30日は「老いらく」の記念日なんだそうだ。
歌人・川田順が苦難の末寄り添うことができた鈴鹿俊子=川田俊子を慕ってのこと。
墓場に近き老いらくの恋と歌い。
その恋を清算しようと、川田が自殺をめざし世間を驚かせたのが58年前の今日。
今日の日常的に週刊誌を飾る話題の戦後の自由恋愛を象徴するスキャンダル第1号
2人が家出した11月30日にちなみ、現代ではこの日が「シルバーラブの日」、
辻井喬=堤清二の小説『虹の岬』で蘇り、映画「虹の岬」は奥村正彦が監督で映像化した。

 若き日の恋は、はにかみて
        おもて赤らめ、
 壮子時の 四十歳の恋は、世の中に
        かれこれ心配れども、
 墓場に近き老いらくの
        恋は、怖るる何ものもなし。 「恋の重荷」序

紀元2600年を挟む昭和15年頃は戦雲も深まり暗沌としてはいたろうがそれだけではなかった。
古事記、日本書紀をめぐる国作りの聖地の論争が、国文学者を中心に文化人は二分化した。
宮崎の西たる鹿児島と、宮崎の高千穂。
それぞれい国つくりのヶ所が現存する。
高天原もそうだ。そこにかかわっており、太陽光発電施設をいづれ完成させたい。
宮崎県高千穂町の高天原に歌碑がある。

はろかなる神代はここに創りぬ 高千穂村の山青くして

歌詠み人・川田順(1882〜1966)東京の人で住友の経済人
宮中顧問官で漢学者・川田剛の3男。
中学時に歌を始め佐佐木信綱に師事。
1907(明40)年東大法科を卒業し、住友総本店に入社、36(昭11)年に常務理事
住友の三代目総理事は宮崎の人・鈴木馬左也が明治37年に就任してる。
1921(大正10)年には総本店を住友合資会社にして、全事業を統括し、わが国の代表的な財閥の1つに成長させた。
採用辞令には鈴木の名があったはずで、二人の出会いは何度となくあったことだろう。

11月30日 吉井勇、谷崎潤一郎ほか友人、知己に「遺書」を送り、同時に遺稿として「弧悶録」なる心境告白記との「恋の重荷」の長詩を、東京朝日に届ける。

げに詩人は常若と  思ひあがりて、
    老が身に  恋の重荷をになひしが、
    群肝疲れ、 うつそみの
    力も尽きて、 崩折れて、
    あはれ墓場へよろよろと。 (「恋の重荷」) 

翌十二月一日、自殺を図るも未遂。これに新聞報道、燎原の火如くとなり、「老いらくの恋」は流行語になる。
ところで恋の行く末はいかに。どうした、どうした

  たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く

 自殺未遂の報から二週間、十二月十五日「朝日新聞」は報じている。
「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意、再生の大手術だつた」。
順六十七歳、俊子三十九歳。
 二十四年三月、結婚。

神奈川県小田原市国府津に住む。
二十七年、藤沢市辻堂に移る。
川田は享年84、昭和41年1月22日になくなる。。
今年の2月20日川田順の「伎芸天」逝く、川田俊子=鈴鹿俊子は96歳。

これでは味気ない。ソレまでの経過が知りたいのは世の常。
昭和 十四年、妻和子が病死。
翌年、京都北白川の養嗣子宅隣りに新築した「夕陽居」に移住、
そのときに出会いがあった。

 樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君現はれぬ

 十九年五月、順は知人宅で若く美しい人妻にであう。
元京大教授、経済学博士、中川与之助夫人俊子である。

俊子は歌を詠んでおり、まもなく順の弟子となる。
丸三年遂にである。
「昨年(二十二年)五月の某日、遂に抑制することが出来なくなつて、愛情を打ち明けると、××さん(俊子)は受入れてくれた。
「宿命」の手が表面に出て来たのである。
「主人にすみませんが、致し方ありません」と再三言つた。
私の強い愛に負けたといふ姿であつた」(「死脉」)

 こうなればいつか人の目に触れぬはずがない。

「七月三日の夜ふけ、疎水の板橋にかがみ、二人で満月を眺めてゐると、折しも外出先から帰つて来た博士に見つけられた。さすがの寛容の博士も、二人の関係を直覚して心頭に怒りの火を発したらしい。秘密は露顕した」(同)

川田順は1946年皇太子=現天皇の作歌指導をしていた。
 また、三大紙の歌壇選者を歴任している時期。
。いっぽう俊子には夫と三人の子女がいる。
苦しむ二人。

 はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく  俊子

露見以後、二人は「今後は決して逢はぬこと」(同)を博士に誓言した。
だがどうしても逢わずにいられない。
歌で激白しあい、夜を避け昼日中に逢瀬を重ねる。
ひとひらの雪、愛の流刑地の渡辺淳一張りが現実としてすすむ。

 二十三年八月、離婚成立。なおさらに罪の意識をおぼえる。

「死なむと念ひ生きむと願ふ苦しみの百日つづて夏去りにけり

「墓場に近き老いらくの恋は怖るる何もなし」

川田は67歳、まだ39の俊子にも孫がいた。

「70歳に近づいて人生の再出発をしようとは予想しなかった」

1918(大7)年刊の浪漫的な『伎芸天』に人生の予感があったか。
1922年刊の『山海経』あたりから人生味を加える。
戦時中は愛国歌人として活動
42年には歌文集『国初聖蹟歌』、歌集『鷲』で
第1回芸術院賞を受賞。
46年東宮作歌指導役となるが、49年弟子の鈴鹿俊子との恋愛事件で一切の役職を辞任、“老いらくの恋”として話題になった。
奈良・秋篠寺の人気仏「伎芸天」
会津八一、堀辰雄、瀬戸内寂聴も触れてるが川田を嚆矢とする。
境内に川田順の石碑が物語っている。

諸々の み佛の中の伎芸天 何のえにしぞ われを見たまふ

それほど魅力的な像伎芸天
鎌倉・東慶寺の「水月観音」に似た可憐さ
川田順の眠る鎌倉・東慶寺
経筒を型どった八角形の優美な墓標が、凛としてある。
二人のことは
死と愛と 川田俊子=鈴鹿俊子著に詳しい。

   ハッカーにより
     壊れたままのカウンター
      きょうは370鉄板
      うごけ!

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