オリンピックをしのぐ度肝を抜く開会式に独裁・金満国家を見る思いだ。
これまでの開会式の最大の資金が使われたらしい。
さすがに国民一人当たりのGDPが世界第一位の国だ。
カタール首都ドーハに於ける第15回アジア競技大会が12月1日から15日まで開催される。
正直、カタールの知識、地理感がないので地図を見た。
PSをネタに今後の血や肉としたくまとめてみた。
面積 11,427km2
宮崎の 総面積は7,734km2で全国14位(2%)
(秋田県よりもやや狭い面積に相当)
人口74万4千人・・・宮崎は117万人
元首 シェイク・ハマド・ビン・ハリーファ・アール・サーニ
ペルシア湾の丁度のど仏に当たるカタール半島が国土の全土。
サウジから突き出てる部分は、160km。
本来貧しき国のはずで、国内の大部分は不毛な砂漠。
標高が最も高い地点でも、海抜100メートル以下と真っ平ら。
よって年降水量は50mm前後で自然天水農業は不可能。
トコろが食料政策の充実を目指している。
灌漑などを利用した農業であり農地面積は国土の0.7%(8000ha、)に達する。
牧場は同4.5%(5万ha)である。
農業従事者の人口に占める割合は0.5%。
主要穀物では大麦(5000トン、2002年)、トウモロコシ(1000トン)を栽培する。
野菜ではトマト(1.1万トン)キャベツ(2000トン)の生産が盛ん。
畜産業では、ニワトリ(400万羽)とヒツジ(20万頭)。次いでヤギ(18万頭)、ラクダ(5万頭)など。
漁業は盛んではないが、約7000トンの水揚高。
これらは、潤沢な石油・天然ガス収入があればこそである。
国名はqatura 「噴出する」に由来する。
医療、教育が無償、社会保障制度も完備。
宗教はイスラム教公用語はアラビア語
インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者がカタール国籍を持つ総人口より多く、外国人労働者に労働力を大きく依存
。ちなみに、この外国人労働者を除いた国民一人当たりのGDPは、ルクセンブルクを越えて世界第一位なんだそうな。
、国民の半分以上がドーハに住んでいる。
イラク統治に悩むアメリアはこの国に見習うが良い。
民主主義はその国の民度に有ったものしか根付かない。
カタールはアル=サーニ家(al-Thani)による首長制の絶対君主制である
。現行憲法は2003年4月29日に承認されたもの
三権分立の立場を取り、民主主義や女性参政権の保障などをうたっている。
しかし、実際はアル=サーニ家に実権が集中している状況。
議会は45議席の諮問評議会が置かれており、閣僚への質問権や予算案承認のための投票権などを持つ
。45議席のうち30議席は直接選挙、15議席は首長による任命制。
行政権は首長および内閣が持つ。
首相職あり。司法権は上級刑事裁判所、下級刑事裁判所、民事・商事裁判所、労働裁判所、高等裁判所の5裁判所が行使する。死
刑制度が存在する。
隣国の国々に劣らぬ 歴史があったはずで、紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物が見つかっている。
ただ、この国の成り立ちからその後近代までの歴史は不明である。
現在のカタール王家アル=サーニ家(al-Thani)の
創始者サーニ・ビン・モハンマドがアル・ビーダ(al-Bida、現在のドーハ)を治めるカタールのシェイクに選ばれた。
それまでは、バーレーンのアル=カリファ家が1868年まで北カタールを治めていた。
その年カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、
オスマントルコ帝国がカタールを占領した。
第一次大戦後、オスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配のもと、アブドゥッラー・ビン・ヤシーム・アル・サーニを
シェイクとした自治権を認めた。
イギリスとカタール間の1916年の条約は、
イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、
イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。
その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容。
1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化。
1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、
カタールでの75年間の石油掘削権を承認。
1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された
第二次大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。
1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
1971年に近隣国のアラブ首長国連邦(とバーレーン)がアラブ首長連合を計画した
しかし独立国として9月3日に独立を果たし、国際連合及びアラブ連盟に加盟。
近隣国のサウジアラビアかアラブ首長国連邦の一部になることを断った。
1988年にはソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。
OPEC(石油輸出国機構)の初期からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国である。
1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場を取った。
ドーハの悲劇は、サッカー・フアンでなくとも知っている。
1993年10月28日、カタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの試合
1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の日本代表最終戦、
試合終了間際のロスタイムにイラク代表チームの同点ゴール
日本の予選敗退が決まったことを指す日本での通称である。
最初に「ドーハの悲劇」というフレーズを使ったのは夕刊フジ。
この試合の結果、韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡」
日本でも「ドーハの奇跡」や「ドーハの喜劇」とも呼ぶ
日本でのテレビ中継(地上波)はテレビ東京が行い、視聴率は日本時間では深夜帯にも関わらず、
同局史上最高の48.1% (関東地区) を記録した。実況は久保田光彦アナウンサー
。解説は前田秀樹。岡田武史がNHK BS1の解説で試合後言葉に詰まる姿が印象に残る。
その後、岡田は初出場の1998年フランスワールドカップ日本代表監督となった
なおこの国の スポーツ・サッカーのカタールリーグはオイルマネーで多くの有名選手を獲得し、話題になっている。
最近ではガブリエル・バティストゥータ、イエロ、マルシオ・エメルソン・パッソスがカタールのクラブに移籍している。
アジア大会を軽視してる日本の各級機関のコメントを聞きたいものだ。45ヶ国が39の競技を競う。
NHK杯のフギァーもいいが
どうなってんの?マスコミ?
ハッカーにより
壊れたままのカウンター
きょうは120鉄板
うごけ!
↓ ↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076
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これまでの開会式の最大の資金が使われたらしい。
さすがに国民一人当たりのGDPが世界第一位の国だ。
カタール首都ドーハに於ける第15回アジア競技大会が12月1日から15日まで開催される。
正直、カタールの知識、地理感がないので地図を見た。
PSをネタに今後の血や肉としたくまとめてみた。
面積 11,427km2
宮崎の 総面積は7,734km2で全国14位(2%)
(秋田県よりもやや狭い面積に相当)
人口74万4千人・・・宮崎は117万人
元首 シェイク・ハマド・ビン・ハリーファ・アール・サーニ
ペルシア湾の丁度のど仏に当たるカタール半島が国土の全土。
サウジから突き出てる部分は、160km。
本来貧しき国のはずで、国内の大部分は不毛な砂漠。
標高が最も高い地点でも、海抜100メートル以下と真っ平ら。
よって年降水量は50mm前後で自然天水農業は不可能。
トコろが食料政策の充実を目指している。
灌漑などを利用した農業であり農地面積は国土の0.7%(8000ha、)に達する。
牧場は同4.5%(5万ha)である。
農業従事者の人口に占める割合は0.5%。
主要穀物では大麦(5000トン、2002年)、トウモロコシ(1000トン)を栽培する。
野菜ではトマト(1.1万トン)キャベツ(2000トン)の生産が盛ん。
畜産業では、ニワトリ(400万羽)とヒツジ(20万頭)。次いでヤギ(18万頭)、ラクダ(5万頭)など。
漁業は盛んではないが、約7000トンの水揚高。
これらは、潤沢な石油・天然ガス収入があればこそである。
国名はqatura 「噴出する」に由来する。
医療、教育が無償、社会保障制度も完備。
宗教はイスラム教公用語はアラビア語
インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者がカタール国籍を持つ総人口より多く、外国人労働者に労働力を大きく依存
。ちなみに、この外国人労働者を除いた国民一人当たりのGDPは、ルクセンブルクを越えて世界第一位なんだそうな。
、国民の半分以上がドーハに住んでいる。
イラク統治に悩むアメリアはこの国に見習うが良い。
民主主義はその国の民度に有ったものしか根付かない。
カタールはアル=サーニ家(al-Thani)による首長制の絶対君主制である
。現行憲法は2003年4月29日に承認されたもの
三権分立の立場を取り、民主主義や女性参政権の保障などをうたっている。
しかし、実際はアル=サーニ家に実権が集中している状況。
議会は45議席の諮問評議会が置かれており、閣僚への質問権や予算案承認のための投票権などを持つ
。45議席のうち30議席は直接選挙、15議席は首長による任命制。
行政権は首長および内閣が持つ。
首相職あり。司法権は上級刑事裁判所、下級刑事裁判所、民事・商事裁判所、労働裁判所、高等裁判所の5裁判所が行使する。死
刑制度が存在する。
隣国の国々に劣らぬ 歴史があったはずで、紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物が見つかっている。
ただ、この国の成り立ちからその後近代までの歴史は不明である。
現在のカタール王家アル=サーニ家(al-Thani)の
創始者サーニ・ビン・モハンマドがアル・ビーダ(al-Bida、現在のドーハ)を治めるカタールのシェイクに選ばれた。
それまでは、バーレーンのアル=カリファ家が1868年まで北カタールを治めていた。
その年カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせたが、
オスマントルコ帝国がカタールを占領した。
第一次大戦後、オスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配のもと、アブドゥッラー・ビン・ヤシーム・アル・サーニを
シェイクとした自治権を認めた。
イギリスとカタール間の1916年の条約は、
イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、
イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものだった。
その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容。
1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化。
1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、
カタールでの75年間の石油掘削権を承認。
1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見された
第二次大戦のため1949年まで石油輸出は行われなかった。
1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなった。
1971年に近隣国のアラブ首長国連邦(とバーレーン)がアラブ首長連合を計画した
しかし独立国として9月3日に独立を果たし、国際連合及びアラブ連盟に加盟。
近隣国のサウジアラビアかアラブ首長国連邦の一部になることを断った。
1988年にはソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。
OPEC(石油輸出国機構)の初期からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国である。
1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場を取った。
ドーハの悲劇は、サッカー・フアンでなくとも知っている。
1993年10月28日、カタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの試合
1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の日本代表最終戦、
試合終了間際のロスタイムにイラク代表チームの同点ゴール
日本の予選敗退が決まったことを指す日本での通称である。
最初に「ドーハの悲劇」というフレーズを使ったのは夕刊フジ。
この試合の結果、韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡」
日本でも「ドーハの奇跡」や「ドーハの喜劇」とも呼ぶ
日本でのテレビ中継(地上波)はテレビ東京が行い、視聴率は日本時間では深夜帯にも関わらず、
同局史上最高の48.1% (関東地区) を記録した。実況は久保田光彦アナウンサー
。解説は前田秀樹。岡田武史がNHK BS1の解説で試合後言葉に詰まる姿が印象に残る。
その後、岡田は初出場の1998年フランスワールドカップ日本代表監督となった
なおこの国の スポーツ・サッカーのカタールリーグはオイルマネーで多くの有名選手を獲得し、話題になっている。
最近ではガブリエル・バティストゥータ、イエロ、マルシオ・エメルソン・パッソスがカタールのクラブに移籍している。
アジア大会を軽視してる日本の各級機関のコメントを聞きたいものだ。45ヶ国が39の競技を競う。
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どうなってんの?マスコミ?
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コメント
おめでとうございます。
そんなにローソク立てちやぁ消えないよ(笑い)
「セブンティーン」というノーベル賞作家の小説あったなぁ
青春真っ盛り
素晴らしき季節に乾杯!
幸多かれと祈らん!