再掲

2007年1月18日
羽田まで鉄の塊が空を飛ぶ恐怖感をようやく終え、モノレールで凄いな〜!東京だ!と感激をしながら浜松町のモノレール終点で降りたら、スケジュールに余裕があるときは日の出桟橋から隅田川を船で昇る。
ここで、しばしの疑問がいつも横たわる。この隅田川にかかる架橋の数が実にまちまちなのである。
たとえば不思議な断定調の記述がある。
・・・隅田川には 現在 25の橋が架かっているが (鉄道の橋などは除く),・・
(の・ぞ・く・?)いつタイ何橋なんですか!?
墨田区内で隅田川にかかる橋のうち、人が通行できる橋が9つ(水神大橋、白鬚橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋)、鉄道か自動車しか通行できない橋が3つ(東武伊勢崎線鉄橋、JR総武線、首都高速6・7号線)あり、合計12の橋が墨田区にある。そしてその下流に7つ(新大橋、清洲橋、隅田川大橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋)あるので合計19となる
東京ベイ・ブリッジは東京湾にかかる橋で隅田川ではない。よって最下流橋は勝鬨橋のハズである。
サイド違う資料から拾うとつぎのようになる。
新神谷橋 新田橋 豊島橋 小台橋 尾久橋 尾竹橋 千住大橋
白髭橋桜橋 言問橋 吾妻橋 駒形橋 厩橋 蔵前橋 両国橋 新大橋 清洲橋 隅田川大橋 永代橋 相生橋 佃大橋 勝鬨橋
田舎もんどこまでが墨田区かがわからない。?
江戸時代末期には 橋の数は 5つ最初に架けられたのが 千住大橋で, 家康入府後まもなく1594年(文禄3年)のこと。
それから60年余りの間, ここが隅田川の唯一の橋。
次いで 両国橋, 永代橋, 新大橋, 吾妻橋 の順で橋が架けられた。
それまでは渡し船。それぞれに記念板に書いて現地にそれぞれ書き留めてある。
たとえば、中央区築地6-20-11
 現在の月島1-4丁目は 明治25年(1892) 勝どき1-4丁目は 同27年(1894)に完成した埋立地。
 銀座・築地方面と月島との間には, 明治29年(1896)に「月島のわたし」があり、 月島側の発展に伴い, 両地の交通はこれのみではさばけない状態となる、
 「かちどきのわたし」は明治38年(1905) 1月の 旅順陥落祝捷会に際 隅田川に架けられた。
なん〜だ、日露戦争の勝利の橋で・・か・ち・ど・き・だ〜・!エィ、エイィオ〜で勝鬨橋!
ちょうちん行列で勝利に沸いた当時の江戸っ子ぶり、よくわかります。
勝鬨橋から北区まで、橋の数は31また〜〜この違う数字。!起点はあくまで勝どき橋のハズなのに。
ところで橋のことは決着がつかぬのでさておき先日書きかけていた花火のことである。
日本はお上の国、上意下達からしか始まらぬのは世の常のものらしい。
庶民の楽しみたる夏を忘れ涼をを楽しむ花火大会にしてもそのようである。
もともとは軍事用の狼煙として始まった花火は、天下泰平の世になると観賞用の大花火として生き残り、発達する。
江戸前期、隅田川に架かっていた橋は、両国・新大橋・永代のわずか三橋のみ。
文禄3年に、当時の奉行伊奈忠次によって隅田川に架けられた最初の橋は、ただ大橋とのみ呼ばれていたが、下流に両国橋や新大橋などが架けられると千住の地名を冠して千住大橋と呼ばれるようになる。
当時の橋は、橋長120m、幅員7mで当然木橋。
千住大橋を北千住方面から渡ってまっすぐ行くと、三ノ輪、入谷、上野と続く。入谷と上野の間、鶯谷辺りから道を逸れると谷中の墓地。私のおのぼりさんの定番のコース。
両国橋あたりはもともと盛り場だったので、夏ともなれば輪をかけて涼み客が集まった。
蛍狩、蓮見、虫聞きなど、自然の中に涼を求めて楽しんだ。
なかでも、江戸っ子の大のお気に入りは、隅田川のそぞろ歩き。
旧暦5月28日から8月28日までは夕涼みの期間とされ、水茶屋や飲食の物売り、見世物小屋、寄席などは夜半までの営業が許可された
京都の加茂川沿い。先斗町ですね〜。あのそぞろ歩きほど日本人の男と生まれし良さはない。
茶店で加茂川を見ながらの至福の時間。
京の夜 よくぞ男に生まれけり。である。
江戸は両国の花火大会、享保18(1733)年5月28日の川開きを嚆矢とする。
両国で盛大に打ち上げ花火が行われるようになったのは次のようなことのようである・
前年、飢饉や疫病流行による死者が出たため、8代将軍吉宗はその供養のための水神祭りを催したその際、両岸の水茶屋や船遊びの客が花火を上げさせたのが名物となった。
それからは納涼の期間中毎夜でも花火は打ち上げられるようになる。
両国橋の上流には玉屋、下流に鍵屋の花火船がそれぞれ陣取って、夜空に咲く花の華やかさを競い合った。
それを見た江戸の人々は「た〜まやぁ〜」「か〜ぎやぁ〜」と声を掛けて興じた。
天保14(1843)年4月に、両国吉川町(現中央区)の玉屋の自宅から失火し、町並みの半丁ほどを類焼させてしまう。折しも12代将軍家慶の日光社参中だったため、特に重い罪に問われ、玉屋は所払い・追放の処分を受け、廃業を余儀なくされる。「人は一代、名は末代で末永く後世に伝えられる」。、
「た〜まやぁ〜」の掛け声に消えてしまった玉屋の偉業も その名残をとどめている。
玉屋の始まりには、天才花火師「清七」という人物に始まる。
この人、元々は元祖花火製造元ともいうべき鍵屋という店のただの手代。
手代とは、丁稚、手代、番頭という出世のまだ途中の段階。
会社で言えば、まだまだ成り立ての中間管理職のような立場。
しかし当時、異例中の異例として鍵屋から独立を許され、
しかも店を創るための援助まで貰っている。
、みすみす自分の店の強烈なライバルになるであろう天才花火師を独立させ、しかも援助。
江戸時代には、現在とは違った物事の判断基準があったのかもしれない・・・。
私共は旧所属のアパの栄光を高めるためにアパデン宮崎として領袖を心に決め出発したが心根はどうしても理解してもらえないでいる。よってサンデン宮崎としての再出発を余儀なくされている。のれんわけの難しさ。
 日本の花火は、尺貫法の寸(一寸=約3.3cm基準にして、直径が3寸のものを三号玉、一尺のものを十号玉(約30cm)と呼ばれてる。主に、三号玉(9cm)、四号玉(12cm)、5号玉(15cm)、7号玉(21cm)、10号玉:1尺玉(30cm)、20号:2尺玉(60cm)、30号玉:3尺玉(60cm)が作られている。

菊 牡丹 錦菊
最も古典的な花火で割物といえばこの菊花型割物花火のこと 星が尾を引かずに、色や光の点で形を描く。。構造的には菊と変わりません。牡丹にはこうして芯が入るのが基本 金色の星を使った菊型花火です。冠(かむろ)と違って星は長く落ちません

ひまわり 土星 回転
中心部は球体ですが、花弁の部分は大きな星を使い、ひまわりのように平たくなっています 風車ふうの仕掛け花火です。風でなく、花火の噴射による推進力でクルクル回るもの

単色スターマイン 飛遊星スターマイン ナイアガラの滝
おもに一種類の色の牡丹玉が使われます 分包ものの一種で、星が不規則にかつスピーディに四方八方に飛散します ワイヤーに無数のランスという細い筒に入った花火を吊り下げたもの

打ち上げられた花火が、ちょうど最高到達点に達したときに開くのが最高とされる。
昇り途中や、下り途中で開いてしまうと球の形が崩れてしまう可能性がある。

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