梅は咲いたか桜はまだかいな
2007年2月10日東路に筆をのこして旅の空
西のみくにの 名所を見む
絵師・安藤広重の辞世の歌。
宮崎の地にも来て描いてほしかったものがある。
広重は、江戸の下級武士だったが15歳で歌川豊廣の弟子になり浮世絵に転じた
花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)豊廣の死のあと、風景画に取り組み名作を残した。
ブログから作品が読み取れる。
53次の日本橋の絵はマッチが大事な時代にその図案に描かれていたので知り尽くされている。
そのころに安藤=歌川広重が同一人物と区別ができなかったころ。
掲げるシリーズの存在さえもちろん知りえなかった
知的豊富さ老いることの楽しさのひとつである。
『六十餘州名所圖會』、 70枚揃
『甲陽猿橋』、『富士川雪景』
は見たことがない。
おそまきながら図書館で調べてみよう。
『東海道五十三次』、 錦絵 55枚 (53の宿場と江戸と京都)
『金澤の月夜』、『阿波の鳴門』、『木曾雪景』、それぞれ大錦3枚続
『金澤八景』、 8枚
『京都名所』、『浪花名所』、それぞれ 10枚揃物
『近江八景』
『江戸近郊八景』
『東都名所』
『六十餘州名所圖會』、 70枚揃
『木曾街道六十三次』、 揃物
『甲陽猿橋』、『富士川雪景』 それぞれ竪2枚継掛物仕立
『名所江戸百景』、 竪大判 118枚の揃物(後に四季の表紙1枚あり)
『絵本江戸土産』、 挿絵
これらの所蔵美術館
各所で所有しているが、光線による劣化があるため常時展示はしていない。日本国内では、国立博物館、栃木県那珂川町馬頭広重美術館、神奈川県立歴史博物館、岐阜県恵那市中山道広重美術館他、国外ではメトロポリタン美術館、ボストン美術館、ブルックリン美術館、オルセー美術館(パリ)等
昨年広重がタイムスリップした。 甲州日記写生帳のことである・
1841年甲府の商人らに招かれ江戸から旅した際、道中や滞在中の写生や日記を書き付けたもの。
八王子市の高尾山、甲府市内から見た富士山、市内の甲斐善光寺、身延町内の富士川などが太さの異なる筆、
墨で描かれている。
和紙19枚を綴じたもの、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に死去した直後の海外に流出したとされ、
1925年イギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。
2005年ロンドンのオークションでアメリカ人が落札、那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。
約80年ぶりに発見されたのである。(2006年9月5日付朝日新聞)
名所江戸百景の 亀戸梅屋舗 の梅の名作は創作上の世界と誰しも思うだろう。
自然木の樹の状態からいかに臥竜梅といえど不思議を感じる
後にゴッホが模写した事でも知られている。
天孫降臨の神話の里の宮崎はあちこちに古事記日本書紀が伝わる。
初代天皇神武が日向・美々津より東征で船出する折、新富町でお湯を使われた
よってこの地は新富町湯の宮。
後、梅一枝を刺して去られたとのいわれの梅がある。
臥竜梅で国指定の天然記念物。
座論梅と呼んでいる。
広重の名画を超えた樹風を趣っている。
数十本の梅が踊るがごとく異様なる姿で古老樹を臥し、這いまわる。
600年の推定樹齢からは訝しい神武の逸話
日向は小藩6藩で分割統治され、高鍋(秋月)と佐土原(島津)でこの地は領土境であった。
座して議論して争わずして武力によらず、領土を決めた
その由緒で座論梅と呼ぶ説もある。
ほかにも川南町の天竜梅、高岡町の月知梅と梅の名所がある。
好隣梅は宮崎市加江田休養林に隣り合う青島・木花が隣り合うもの仲良くと植樹された。
暖冬でほとんどが花をめでるには盛りを過ぎている。
テキヤ商売のお手伝いでより楽しみがふえたお花見であった。
暖冬で主催者つきの祭りを一週間早めたにもかかわらず、お花は終了している。
四季のうつろいも己もボヤボヤできえぬ状態。
ネット環境さえままならぬ。
ワン・クリック!
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http://blog.with2.net/link.php?62076
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西のみくにの 名所を見む
絵師・安藤広重の辞世の歌。
宮崎の地にも来て描いてほしかったものがある。
広重は、江戸の下級武士だったが15歳で歌川豊廣の弟子になり浮世絵に転じた
花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)豊廣の死のあと、風景画に取り組み名作を残した。
ブログから作品が読み取れる。
53次の日本橋の絵はマッチが大事な時代にその図案に描かれていたので知り尽くされている。
そのころに安藤=歌川広重が同一人物と区別ができなかったころ。
掲げるシリーズの存在さえもちろん知りえなかった
知的豊富さ老いることの楽しさのひとつである。
『六十餘州名所圖會』、 70枚揃
『甲陽猿橋』、『富士川雪景』
は見たことがない。
おそまきながら図書館で調べてみよう。
『東海道五十三次』、 錦絵 55枚 (53の宿場と江戸と京都)
『金澤の月夜』、『阿波の鳴門』、『木曾雪景』、それぞれ大錦3枚続
『金澤八景』、 8枚
『京都名所』、『浪花名所』、それぞれ 10枚揃物
『近江八景』
『江戸近郊八景』
『東都名所』
『六十餘州名所圖會』、 70枚揃
『木曾街道六十三次』、 揃物
『甲陽猿橋』、『富士川雪景』 それぞれ竪2枚継掛物仕立
『名所江戸百景』、 竪大判 118枚の揃物(後に四季の表紙1枚あり)
『絵本江戸土産』、 挿絵
これらの所蔵美術館
各所で所有しているが、光線による劣化があるため常時展示はしていない。日本国内では、国立博物館、栃木県那珂川町馬頭広重美術館、神奈川県立歴史博物館、岐阜県恵那市中山道広重美術館他、国外ではメトロポリタン美術館、ボストン美術館、ブルックリン美術館、オルセー美術館(パリ)等
昨年広重がタイムスリップした。 甲州日記写生帳のことである・
1841年甲府の商人らに招かれ江戸から旅した際、道中や滞在中の写生や日記を書き付けたもの。
八王子市の高尾山、甲府市内から見た富士山、市内の甲斐善光寺、身延町内の富士川などが太さの異なる筆、
墨で描かれている。
和紙19枚を綴じたもの、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に死去した直後の海外に流出したとされ、
1925年イギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。
2005年ロンドンのオークションでアメリカ人が落札、那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。
約80年ぶりに発見されたのである。(2006年9月5日付朝日新聞)
名所江戸百景の 亀戸梅屋舗 の梅の名作は創作上の世界と誰しも思うだろう。
自然木の樹の状態からいかに臥竜梅といえど不思議を感じる
後にゴッホが模写した事でも知られている。
天孫降臨の神話の里の宮崎はあちこちに古事記日本書紀が伝わる。
初代天皇神武が日向・美々津より東征で船出する折、新富町でお湯を使われた
よってこの地は新富町湯の宮。
後、梅一枝を刺して去られたとのいわれの梅がある。
臥竜梅で国指定の天然記念物。
座論梅と呼んでいる。
広重の名画を超えた樹風を趣っている。
数十本の梅が踊るがごとく異様なる姿で古老樹を臥し、這いまわる。
600年の推定樹齢からは訝しい神武の逸話
日向は小藩6藩で分割統治され、高鍋(秋月)と佐土原(島津)でこの地は領土境であった。
座して議論して争わずして武力によらず、領土を決めた
その由緒で座論梅と呼ぶ説もある。
ほかにも川南町の天竜梅、高岡町の月知梅と梅の名所がある。
好隣梅は宮崎市加江田休養林に隣り合う青島・木花が隣り合うもの仲良くと植樹された。
暖冬でほとんどが花をめでるには盛りを過ぎている。
テキヤ商売のお手伝いでより楽しみがふえたお花見であった。
暖冬で主催者つきの祭りを一週間早めたにもかかわらず、お花は終了している。
四季のうつろいも己もボヤボヤできえぬ状態。
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