講道館

2007年2月12日
宮崎の人・井上康生がフランス100K超級で優勝した。
雌伏4年の復活なる。おめでとう。

アテネ五輪優勝のミハイリン(ロ)と準決勝
決勝は05年2年前の嘉納杯での決勝の対戦相手で、大胸筋断裂という重傷を負わされた因縁のユーリ・ルイパク(ベラルーシ)を内また一本

これでも五輪代表はまだである。
4月全日本、9月ブラジルでの世界大会をしのいでの中国五輪が見えてくる。
日本柔道は宮崎の人の功績が支えてきた面がある。

今日の柔道の確立は講道館柔道に負う所大で柔道の歴史を開いてきた
柔術や武術をひとつの形にしたものである。
創造を絶する苦難の道があったろう。
道場は移転ばかりで艱難辛苦が見えてくる。

皇居北の丸公園
千鳥ヶ淵公園は品川弥次郎の像、田安門から桜並木が見事である。
靖国の九段南から三番町の桜と形容され紹介されてるところ。
番町は旗本三千騎の番方を集住した場所。
維新後屋敷跡は華族等が屋敷を構え住んだ

柔道の講道館は明治15年(1882)北稲荷町(東上野)永昌寺を起源とする。
学習館教授嘉納治五郎が創設した。

16年神田神保町英語学校の講堂・弘文館に移転
宮崎の人・小村寿太郎外務大臣のすすめで弘文学院は設立された。

三井総裁で三井を築き上げた高鍋町出身・鈴木馬左也が本県第一号入部員。
9月には千代田区一番町に移転。
欧州委員会の向かい側英国大使館の間。、ローマ法王庁大使館の斜め前
17年には田村(大坪)克和が本県正式第一号講堂館員。
21年宮崎の人・財部彪(後の海軍大将になる)が入部、前年の広瀬武雄と築地の兵学校に学ぶがその閉鎖・江ノ島移転に伴う講道館江ノ島分場を設立。

22年文京区本郷真砂町の陸軍省の建物に移転。
24年明け渡し
上二番町麹町分場
8月嘉納治五郎結婚
妻須磨子は成医=聖路加病院創立者の宮崎の人・高木覚兼婦人・富のすすめ
嘉納の姉と懇意。
24年宮崎の人・磯貝一十段入館
26年文京区小石川下富坂町
33年文京区後楽園
昭和9年永岡秀一と皇太子誕生奉祝武道大会
大日本武道史
特選大書に値する名勝負
昭和9年財部理事
時間がない
西都の土地家屋確認。

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