三権の長
2007年2月14日民主国家の権力構造に三権が言われる。
国会、内閣、裁判所のそれぞれの長のことである。
この三つの長を勤めた人はいない。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年3月10日)は大阪府門真市の人
三権の長のうち、二つに名を刻んだ戦後唯一の大政治家。
憲法第9条のある意味の生みの親。
妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女
加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)
岩崎久弥(弥太郎長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる。
外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中儀一と対立。
終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任。
1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。
外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初
。以降、若槻礼次郎内閣(1次・2次)、浜口内閣と4回外相を歴任。
対米英協調と民族運動が高揚する中国において、あくまで利権の回復のみを求める内政不干渉方針で対応する。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
しかし、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは軟弱外交と非難された。
その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。
幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
親英米派としての独自のパイプで活躍、戦後憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たした
幣原”という語彙は、欧米人にとっては発音しづらいものであったらしい
、或る日、幣原は外国人記者から次の様な質問をされた。
記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』
で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
外交官出身なために英語に詳しく、旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。
周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。
『外交五十年』中公文庫
『幣原喜重郎―外交五十年 人間の記録 (64)』日本図書センター
大阪城周辺を歩いて気づいた「舎密局(せいみきょく)跡地」の碑
1869(明治2)年、オランダ人化学者がここに、最先端の理化学を学ぶ学校を開いた。
舎密局はその後、校名を何度か変え「第3高等中学校」となり、国内最高レベルの学問の場を誇った。
同校は1889(明治22)年、京都に移転。
大阪人は商売熱心なあまり教育への関心が今ひとつだったのが、京都移転の背景といわれている。
旧制三高、京都帝国大学(現京都大)へと発展を遂げた。
移転時の在校生に、幣原喜重郎がいた。
A・ビアスの「悪魔の辞典」
〈外交〉の項を引くと、
〈祖国のために偽りを言う愛国的な技術〉
〈愛国者〉とは
〈部分の利害のほうが全体のそれよりも大事だと考えているらしい人〉とあった
北京・釣魚台、北朝鮮の核問題をめぐる6か国協議で共同文書が採択された
北が行うことで明示されたのは
寧辺の核施設の活動停止・封印だけ。
これで重油5万トン相当のエネルギーを支援、第2段階で95万トンの追加を用意する
が、北の朝鮮中央通信は第1段階の核施設の「臨時中止」で100万トン分のエネルギー支援が得られると報じた。
すべての核施設を「無能力化」した第2段階での95万トン追加とは早くも食い違っている
核廃棄への道筋が見えて来ない。
拉致問題なんぞは飛んでいっている。
阿部内閣の不支持が増える要因が見えてくる。
短命内閣のようである
検察庁の調べさえ迫っている。
ワン・クリック!
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国会、内閣、裁判所のそれぞれの長のことである。
この三つの長を勤めた人はいない。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年3月10日)は大阪府門真市の人
三権の長のうち、二つに名を刻んだ戦後唯一の大政治家。
憲法第9条のある意味の生みの親。
妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女
加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)
岩崎久弥(弥太郎長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる。
外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中儀一と対立。
終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任。
1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。
外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初
。以降、若槻礼次郎内閣(1次・2次)、浜口内閣と4回外相を歴任。
対米英協調と民族運動が高揚する中国において、あくまで利権の回復のみを求める内政不干渉方針で対応する。
彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
しかし、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは軟弱外交と非難された。
その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。
幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
親英米派としての独自のパイプで活躍、戦後憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たした
幣原”という語彙は、欧米人にとっては発音しづらいものであったらしい
、或る日、幣原は外国人記者から次の様な質問をされた。
記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』
で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
外交官出身なために英語に詳しく、旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。
周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。
『外交五十年』中公文庫
『幣原喜重郎―外交五十年 人間の記録 (64)』日本図書センター
大阪城周辺を歩いて気づいた「舎密局(せいみきょく)跡地」の碑
1869(明治2)年、オランダ人化学者がここに、最先端の理化学を学ぶ学校を開いた。
舎密局はその後、校名を何度か変え「第3高等中学校」となり、国内最高レベルの学問の場を誇った。
同校は1889(明治22)年、京都に移転。
大阪人は商売熱心なあまり教育への関心が今ひとつだったのが、京都移転の背景といわれている。
旧制三高、京都帝国大学(現京都大)へと発展を遂げた。
移転時の在校生に、幣原喜重郎がいた。
A・ビアスの「悪魔の辞典」
〈外交〉の項を引くと、
〈祖国のために偽りを言う愛国的な技術〉
〈愛国者〉とは
〈部分の利害のほうが全体のそれよりも大事だと考えているらしい人〉とあった
北京・釣魚台、北朝鮮の核問題をめぐる6か国協議で共同文書が採択された
北が行うことで明示されたのは
寧辺の核施設の活動停止・封印だけ。
これで重油5万トン相当のエネルギーを支援、第2段階で95万トンの追加を用意する
が、北の朝鮮中央通信は第1段階の核施設の「臨時中止」で100万トン分のエネルギー支援が得られると報じた。
すべての核施設を「無能力化」した第2段階での95万トン追加とは早くも食い違っている
核廃棄への道筋が見えて来ない。
拉致問題なんぞは飛んでいっている。
阿部内閣の不支持が増える要因が見えてくる。
短命内閣のようである
検察庁の調べさえ迫っている。
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