元をただせば
2007年5月8日毎日丁寧に新聞に目を通す人で、加藤周一の名を記憶にないものはなかろう。
その筆に生きる人が驚きである67歳にして書き下ろし
「日本文化における時間と空間」岩波書店を出した。
成蹊大学で講義したメモを基本枠にほとんど新しい原稿として書いた。
「もう少し早くできるはずだったが、3年前に作った憲法9条の会などで全国を駆け回り遅れた。とりあえずの区切り。」
皮肉なもので安倍総理が講義を受けたやも知れないものが本となり
その著書が憲法改正にひた走る安倍のために出版が遅れたようだ。
今=ここ
が日本文化を貫く基調である。
いまは歴史的時間軸の全体から見れば部分。
全世界から見ればここは部分。
部分へのこだわりが今=ここを生んだ
未来でなく今にこだわる。
明日は明日の風が吹く、
空間的には、かなたでなくここ
共同体で言えば外よりうちである
世界的な秩序や外部の論理など全体を見渡すことや、普遍的思想を生み出すのが苦手で、外交交渉は上手くない。
ベネジェクト女史の菊と刀と違う切れ味で実に言いえて妙。
曽祖父岸信介のDNAがなせる技か、安倍信三には何かその亡霊が乗り移ってるものを感ずる。
政治は国家100年の大計を見据えた将来を提示しなければならない。
目指す国家のアイデンティ−はパッションとなり指導力は支持率にもつながろう。
世田谷の成城は高級住宅地としてつとに有名。
学園建設資金捻出のため開発分譲された。
建設着工は、そのまんま旋風の観光ツア−で全国稀れなる宮崎県庁が1933年(昭和8年)に建設された同じ年である。、
小原国芳が小田原急行建設予定地
明治18年築地文武講習館
翌年成城学校に改称
陸軍士官学校幼年学校の予備教育に当たる。
明治24年新宿区原町に移転。
明治38年連合艦隊最後の指令長官小澤治三郎入学
大正5年1916年沢柳政太郎好調に就任小学校新設。
大正6年私立成城中学校と改称。
7年生高等学校開設準備。
大正14年現在地に移転して中学校は高等学校に組込まれた。
昭和2年成城学園は新宿から分離独立。
総和4年小原は玉川学園創設。両学校の経営に当たる。
学園の献金勧誘や会計問題を理由に実業家的手腕に批判が生じ小原排斥運動が起きる。
昭和8年3月21日
小原は玉川学園理事長に元京大教授で先輩になる小原の恩師三澤糾(ただす)を校長に推薦、会計も分離した。
三澤は
宮崎県高鍋高校、旧宮崎中学(大宮高校)東大哲学科
米国留学で自由主義を身に着けた明るく開放的で革新的な人。
大正14ねん台北高等学校校長でも自由闊達理性的秩序の学校運営
監督官庁と摩擦が生じて更迭されていた。
公認の校長下村湖人が三澤と比較され生徒の反感を三澤を惜しむ同盟休校事件が起きている。
がばいの佐賀の人映画にもなった路傍の石を書いたあの下村湖人である。
成城学園では二派に分かれた。
小原擁護派は北原白秋、三澤派には柳田国男
学園側の自主休校に小原派は自主授業で対抗。
昭和8年6月11日小原は復職せず、三澤は辞任する
悲劇のひと三澤糾は3ヶ月で辞任。
宮崎人の政治的立ち振る舞いが出来ないところがここでも披瀝されている。
ロンドン軍縮の宮崎都城の人・陸軍大臣財部彪、宮崎日南の人・ポ−ツマスでの日露講和の小村寿太郎。
いずれも国民から不評を買い第一線から退き隠遁の生活。
昭和15年三澤はハルピン学園の校長になる。
あちこちに三澤の功績が残る。
大阪府立高津高等学校初代三澤糾校長の提唱された「自由と創造」、
和歌山県立向陽一貫校、の前身、海草中学校三澤糾初代校長の身体鍛錬を教育の根本に据えた「質実剛健」の校風が色濃く残っている
・・・
ここまで書いてて、成城と成蹊の混同に気づきだした。
安倍は成蹊ジャン!
なら二階堂進、三木総理の出た南カルファルニア大から安倍信三に行き着けばよかった。
ただ、安倍は卒業していない。英語科に席は確認できるが卒業してないジャン!
宮崎の人・佐藤由似(23都内教諭)、佐藤由奈(20成蹊2年)姉妹は第1回マスタ−ズ・ピアノ優勝者
成蹊の佐藤由奈は学内でも唯一芸代と見まごうほどに名をとどろかせている。第29回ピティナ・ピアノコンペティションでも活躍してる
三澤糾の人格形成はいかようになされたかは
新世紀を出版してでクリスチャンから社会主義運動に転じた石川三四郎の青空文庫で読める。
やはり武士道にあった。
葉隠は佐賀の人・山本常朝の作
なにも武士道とは死ぬことを見つけたりではない。
愛国心だって最初に使われたのは日本書紀。
安倍の言うすべての薄っぺらな思想政策は
今=ここから始めて
武士道に行き着くプロセスを希望したい。
むやみやたらな好戦論はフランスサルコジに任せとけばいい。
耐えるだけ耐え、相撲のぶちかましの恐ろしさすばらしさを解からせてやりたい。ただ、礼に始まり礼に終わる相撲道で7年かかろう。
ドイツ・フランスどこもここも指導者は力のグロ−バリズムのアメリカよりが誕生している。
だからこそ憲法9条は輝くのだが。
放り投げるまでに、休んで今を考えたらどうだろうか。
成蹊学派として。安倍信三学士・・・
基督教の影響
「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」
ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。
「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」
マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。
「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」
これに應じてわたしはまた語を續けた。
わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章
を寄せました。しかし、
ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてであり
ました。
海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。
この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。
小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。
わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。
わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。
それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生か
ら授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました
。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而
も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。
内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。
せめて二十歳前に
、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。
このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』
その筆に生きる人が驚きである67歳にして書き下ろし
「日本文化における時間と空間」岩波書店を出した。
成蹊大学で講義したメモを基本枠にほとんど新しい原稿として書いた。
「もう少し早くできるはずだったが、3年前に作った憲法9条の会などで全国を駆け回り遅れた。とりあえずの区切り。」
皮肉なもので安倍総理が講義を受けたやも知れないものが本となり
その著書が憲法改正にひた走る安倍のために出版が遅れたようだ。
今=ここ
が日本文化を貫く基調である。
いまは歴史的時間軸の全体から見れば部分。
全世界から見ればここは部分。
部分へのこだわりが今=ここを生んだ
未来でなく今にこだわる。
明日は明日の風が吹く、
空間的には、かなたでなくここ
共同体で言えば外よりうちである
世界的な秩序や外部の論理など全体を見渡すことや、普遍的思想を生み出すのが苦手で、外交交渉は上手くない。
ベネジェクト女史の菊と刀と違う切れ味で実に言いえて妙。
曽祖父岸信介のDNAがなせる技か、安倍信三には何かその亡霊が乗り移ってるものを感ずる。
政治は国家100年の大計を見据えた将来を提示しなければならない。
目指す国家のアイデンティ−はパッションとなり指導力は支持率にもつながろう。
世田谷の成城は高級住宅地としてつとに有名。
学園建設資金捻出のため開発分譲された。
建設着工は、そのまんま旋風の観光ツア−で全国稀れなる宮崎県庁が1933年(昭和8年)に建設された同じ年である。、
小原国芳が小田原急行建設予定地
明治18年築地文武講習館
翌年成城学校に改称
陸軍士官学校幼年学校の予備教育に当たる。
明治24年新宿区原町に移転。
明治38年連合艦隊最後の指令長官小澤治三郎入学
大正5年1916年沢柳政太郎好調に就任小学校新設。
大正6年私立成城中学校と改称。
7年生高等学校開設準備。
大正14年現在地に移転して中学校は高等学校に組込まれた。
昭和2年成城学園は新宿から分離独立。
総和4年小原は玉川学園創設。両学校の経営に当たる。
学園の献金勧誘や会計問題を理由に実業家的手腕に批判が生じ小原排斥運動が起きる。
昭和8年3月21日
小原は玉川学園理事長に元京大教授で先輩になる小原の恩師三澤糾(ただす)を校長に推薦、会計も分離した。
三澤は
宮崎県高鍋高校、旧宮崎中学(大宮高校)東大哲学科
米国留学で自由主義を身に着けた明るく開放的で革新的な人。
大正14ねん台北高等学校校長でも自由闊達理性的秩序の学校運営
監督官庁と摩擦が生じて更迭されていた。
公認の校長下村湖人が三澤と比較され生徒の反感を三澤を惜しむ同盟休校事件が起きている。
がばいの佐賀の人映画にもなった路傍の石を書いたあの下村湖人である。
成城学園では二派に分かれた。
小原擁護派は北原白秋、三澤派には柳田国男
学園側の自主休校に小原派は自主授業で対抗。
昭和8年6月11日小原は復職せず、三澤は辞任する
悲劇のひと三澤糾は3ヶ月で辞任。
宮崎人の政治的立ち振る舞いが出来ないところがここでも披瀝されている。
ロンドン軍縮の宮崎都城の人・陸軍大臣財部彪、宮崎日南の人・ポ−ツマスでの日露講和の小村寿太郎。
いずれも国民から不評を買い第一線から退き隠遁の生活。
昭和15年三澤はハルピン学園の校長になる。
あちこちに三澤の功績が残る。
大阪府立高津高等学校初代三澤糾校長の提唱された「自由と創造」、
和歌山県立向陽一貫校、の前身、海草中学校三澤糾初代校長の身体鍛錬を教育の根本に据えた「質実剛健」の校風が色濃く残っている
・・・
ここまで書いてて、成城と成蹊の混同に気づきだした。
安倍は成蹊ジャン!
なら二階堂進、三木総理の出た南カルファルニア大から安倍信三に行き着けばよかった。
ただ、安倍は卒業していない。英語科に席は確認できるが卒業してないジャン!
宮崎の人・佐藤由似(23都内教諭)、佐藤由奈(20成蹊2年)姉妹は第1回マスタ−ズ・ピアノ優勝者
成蹊の佐藤由奈は学内でも唯一芸代と見まごうほどに名をとどろかせている。第29回ピティナ・ピアノコンペティションでも活躍してる
三澤糾の人格形成はいかようになされたかは
新世紀を出版してでクリスチャンから社会主義運動に転じた石川三四郎の青空文庫で読める。
やはり武士道にあった。
葉隠は佐賀の人・山本常朝の作
なにも武士道とは死ぬことを見つけたりではない。
愛国心だって最初に使われたのは日本書紀。
安倍の言うすべての薄っぺらな思想政策は
今=ここから始めて
武士道に行き着くプロセスを希望したい。
むやみやたらな好戦論はフランスサルコジに任せとけばいい。
耐えるだけ耐え、相撲のぶちかましの恐ろしさすばらしさを解からせてやりたい。ただ、礼に始まり礼に終わる相撲道で7年かかろう。
ドイツ・フランスどこもここも指導者は力のグロ−バリズムのアメリカよりが誕生している。
だからこそ憲法9条は輝くのだが。
放り投げるまでに、休んで今を考えたらどうだろうか。
成蹊学派として。安倍信三学士・・・
基督教の影響
「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」
ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。
「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」
マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。
「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」
これに應じてわたしはまた語を續けた。
わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章
を寄せました。しかし、
ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてであり
ました。
海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。
この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。
小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。
わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。
わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。
それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生か
ら授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました
。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而
も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。
内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。
せめて二十歳前に
、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。
このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』
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