鎮魂5・11
2007年5月11日付属小、西池小、区域内で子ども会ソフトボ−ル監督として17年続けて指導した。
ここでベスト3の順位を取れば中央地区大会に参加できる。
小戸小、宮崎小、潮見小併せて中央地区子ども会。
ただ、その時は気づかなかったが、少子化と危険競技にソフトボ−ルが指定され
環境はどんどん悪化していった時期である。
大塚区域では盛んであったが、単位子ども会でチ−ムを編成するのも酷になり町内ごとに組み替えてチ-ムをつくった。
夏休みが大会なので暑い盛り。
練習は実に困難を極めた。
グラウンド確保に塾通いとの連立。
朝起きない子は迎えにまわる。
六年生は少年期一年生はまだ幼児。
これを一つにしてチ-ムプレイをさせるのだから想像を絶することが生じる。
練習日は土日と一日おき。
それが大会が近づいてくると毎日。土日なんぞ朝昼晩とやる。
仕事との板ばさみ。
その小学校内には供養碑はなかった。
断じて否である
グラウンドは感謝の場
始まりと終わりは整備してから、ピョコンと可愛いお辞儀をみんながした。
供養塔があれば絶対手を合わせてたハズだ、
先生に案内していただきお話を聞いた。やはりそうであった。
付属小に移転して2年目であった。
ただ、付属のグランドの隣の道にあったという。
まったく知らなかった。地域の父兄も含め。
付属と通常校と同じ地域に小学生が二種類存在してるわけだ、
「お宅のお子様は付属ですか、西池ですか?」
すました会話にどことなく感じるおかしなもの。
教育の難しさを感じたものであった。
ただ、チ−ムでは一丸。辛いものがあった。
今日5/11の地元紙宮日「くろしお」
シュルシュルと空気を裂く金属音。
引率の先生の「伏せなさい」の声。それしか記憶にない。
ガラスの破片などで血だらけになりながら、どうやって家にたどり着いたかも。
しかし、鮮明に覚えていることが2つある。
転げ落ちた道路脇の溝からはい出したとき、10メートルほど先を集団下校していた妹の姿が消えていた。
そして生まれて間もない弟を抱いて家の玄関で出迎えた母の口から出た妹を気遣う一言。
「てるちゃんはどうしたね」。
神奈川県茅ケ崎市の徳丸昭弘さん(72)は、62年前の悪夢の一瞬をずっと胸に焼き付けて生きてきた。
あの日―1945(昭和20)年5月11日。
宮崎市中津瀬町で集団下校していた小学生を米軍機の直撃弾が襲い、幼い命が散った。
宮崎男子師範付属国民学校(現宮大付属小)の12人。
その中に徳丸さんの二つ違いの妹・瑛子(てるこ)さんがいた。
遺体は見つからず、戻ってきたのは片方の靴とランドセルの一部だけ。
徳丸さんは成人して宮崎を離れたが、あの日の光景を忘れることはできなかった。
今年もまた、太平洋戦争が残した悲しみの日が巡ってきた。
それを前に今月7日、宮大付属小の「いとし子の供養碑」前で「5・11」を伝え、語り継ぐ集いが開かれた。
徳丸さんも帰省、妹、一緒に亡くなった子どもたちに花を手向けた。
そして胸の痛みを絞り出すように、あの日のことを児童たちに語って聞かせた。
「あんな悲惨なことが二度とあってはならない。命の重みをかみしめて生きてほしい」。
62年の時空を超え、きょうは平和の大切さを心に刻む日でもある。
山下陽君のお母さん山下久子さんの尽力を付属小が受け入れたものだろう。
7歳から13歳の12名は爆風とともに微塵もなくまさに
消えたことであろう。
経験があるからだ。
友人黒田は失恋の痛みでダイナマイトを体にくくり自裁した
お通夜でお棺をのぞくも何もない。
「黒田ヤンは・・・」
奇声を発するバカなせきやんの声に一同いっせいに悲しみの涙声が起きる。
「バカッ!せきやん・・・」
爆死はなんいも残らない。
先生に導かれ、校門入って左すぐソバお花がいっぱいだ。
あらたに設けられた石盤の12名のナを一人一人読んだ。
右から男の子6名
8番目に徳丸瑛さん8歳・・碑には子の字はがなかった。
もうたまらない。
泣いた。涙が止まらなかった。
案内の先生も涙ぐんでおられる。もらい泣き。
17年間このあたりの子はみんなせきやんの子であった。
永久に安らぐよう供養塔に誓います
平和の道しるべ
平和への道
いとし子への道
ちっちゃいチッチャイ碑が
世界に向けて叫んでいる。
「痛い!」
「この轟音!なんの音だ?」
一瞬12名がふっ飛んで消えた。
国内焦土作戦は
男の子6名女の子仲良し6名を消した。12名である。
鬼畜米英!バカッたれ!
国内無差別計画は司令官はカーチス・E・ルメイの作戦。
「高いところから爆弾を落とすのではなくて、1500メートルの高度で焼夷弾を落として、全部焼き払う」
時を経て、1964年暮に日本にやって来た。
日本政府が招待し、彼に勲章をあげるため。
それも勲一等旭日大綬章である。
日本の航空自衛隊の創設に功績があったというのがその理由、
ただ、こんなことがあっていいのか。
ルメイ自身がいう。
「もし戦争に負けていたら私は戦犯になっただろう。幸いにして、我々は戦争に勝った。だから、戦犯にならなかった」
その仲介をした当時の防衛庁長官が純一郎の父、小泉純也
アメリカヘの小泉純一郎の弱さというのは父親譲りのものであ
る。
授与させた総理は安倍の大叔父佐藤栄作。岸の弟である。
憲法改正に執念を持つ長州のDNA。
1965年2月、アメリカ空軍が当時の北ベトナムを爆撃
結果はアメリカがベトナムに敗北する。
今日のイラクの泥沼が酷似。
果たしてベトナムでの時の司令官は
・ま・た・も・や・カーチス・E・ルメイ。
その後のキュ−バ攻撃案。
鬼畜ルメイ!
バカにつける薬はない。
偏狭なる愛国主義者のせきやん??
何とでも言え!
非戦闘要員ではないのは明らかのいたいけなる12名
12名の付属小のせきやんの子供を返せ!ルメイ!
ここでベスト3の順位を取れば中央地区大会に参加できる。
小戸小、宮崎小、潮見小併せて中央地区子ども会。
ただ、その時は気づかなかったが、少子化と危険競技にソフトボ−ルが指定され
環境はどんどん悪化していった時期である。
大塚区域では盛んであったが、単位子ども会でチ−ムを編成するのも酷になり町内ごとに組み替えてチ-ムをつくった。
夏休みが大会なので暑い盛り。
練習は実に困難を極めた。
グラウンド確保に塾通いとの連立。
朝起きない子は迎えにまわる。
六年生は少年期一年生はまだ幼児。
これを一つにしてチ-ムプレイをさせるのだから想像を絶することが生じる。
練習日は土日と一日おき。
それが大会が近づいてくると毎日。土日なんぞ朝昼晩とやる。
仕事との板ばさみ。
その小学校内には供養碑はなかった。
断じて否である
グラウンドは感謝の場
始まりと終わりは整備してから、ピョコンと可愛いお辞儀をみんながした。
供養塔があれば絶対手を合わせてたハズだ、
先生に案内していただきお話を聞いた。やはりそうであった。
付属小に移転して2年目であった。
ただ、付属のグランドの隣の道にあったという。
まったく知らなかった。地域の父兄も含め。
付属と通常校と同じ地域に小学生が二種類存在してるわけだ、
「お宅のお子様は付属ですか、西池ですか?」
すました会話にどことなく感じるおかしなもの。
教育の難しさを感じたものであった。
ただ、チ−ムでは一丸。辛いものがあった。
今日5/11の地元紙宮日「くろしお」
シュルシュルと空気を裂く金属音。
引率の先生の「伏せなさい」の声。それしか記憶にない。
ガラスの破片などで血だらけになりながら、どうやって家にたどり着いたかも。
しかし、鮮明に覚えていることが2つある。
転げ落ちた道路脇の溝からはい出したとき、10メートルほど先を集団下校していた妹の姿が消えていた。
そして生まれて間もない弟を抱いて家の玄関で出迎えた母の口から出た妹を気遣う一言。
「てるちゃんはどうしたね」。
神奈川県茅ケ崎市の徳丸昭弘さん(72)は、62年前の悪夢の一瞬をずっと胸に焼き付けて生きてきた。
あの日―1945(昭和20)年5月11日。
宮崎市中津瀬町で集団下校していた小学生を米軍機の直撃弾が襲い、幼い命が散った。
宮崎男子師範付属国民学校(現宮大付属小)の12人。
その中に徳丸さんの二つ違いの妹・瑛子(てるこ)さんがいた。
遺体は見つからず、戻ってきたのは片方の靴とランドセルの一部だけ。
徳丸さんは成人して宮崎を離れたが、あの日の光景を忘れることはできなかった。
今年もまた、太平洋戦争が残した悲しみの日が巡ってきた。
それを前に今月7日、宮大付属小の「いとし子の供養碑」前で「5・11」を伝え、語り継ぐ集いが開かれた。
徳丸さんも帰省、妹、一緒に亡くなった子どもたちに花を手向けた。
そして胸の痛みを絞り出すように、あの日のことを児童たちに語って聞かせた。
「あんな悲惨なことが二度とあってはならない。命の重みをかみしめて生きてほしい」。
62年の時空を超え、きょうは平和の大切さを心に刻む日でもある。
山下陽君のお母さん山下久子さんの尽力を付属小が受け入れたものだろう。
7歳から13歳の12名は爆風とともに微塵もなくまさに
消えたことであろう。
経験があるからだ。
友人黒田は失恋の痛みでダイナマイトを体にくくり自裁した
お通夜でお棺をのぞくも何もない。
「黒田ヤンは・・・」
奇声を発するバカなせきやんの声に一同いっせいに悲しみの涙声が起きる。
「バカッ!せきやん・・・」
爆死はなんいも残らない。
先生に導かれ、校門入って左すぐソバお花がいっぱいだ。
あらたに設けられた石盤の12名のナを一人一人読んだ。
右から男の子6名
8番目に徳丸瑛さん8歳・・碑には子の字はがなかった。
もうたまらない。
泣いた。涙が止まらなかった。
案内の先生も涙ぐんでおられる。もらい泣き。
17年間このあたりの子はみんなせきやんの子であった。
永久に安らぐよう供養塔に誓います
平和の道しるべ
平和への道
いとし子への道
ちっちゃいチッチャイ碑が
世界に向けて叫んでいる。
「痛い!」
「この轟音!なんの音だ?」
一瞬12名がふっ飛んで消えた。
国内焦土作戦は
男の子6名女の子仲良し6名を消した。12名である。
鬼畜米英!バカッたれ!
国内無差別計画は司令官はカーチス・E・ルメイの作戦。
「高いところから爆弾を落とすのではなくて、1500メートルの高度で焼夷弾を落として、全部焼き払う」
時を経て、1964年暮に日本にやって来た。
日本政府が招待し、彼に勲章をあげるため。
それも勲一等旭日大綬章である。
日本の航空自衛隊の創設に功績があったというのがその理由、
ただ、こんなことがあっていいのか。
ルメイ自身がいう。
「もし戦争に負けていたら私は戦犯になっただろう。幸いにして、我々は戦争に勝った。だから、戦犯にならなかった」
その仲介をした当時の防衛庁長官が純一郎の父、小泉純也
アメリカヘの小泉純一郎の弱さというのは父親譲りのものであ
る。
授与させた総理は安倍の大叔父佐藤栄作。岸の弟である。
憲法改正に執念を持つ長州のDNA。
1965年2月、アメリカ空軍が当時の北ベトナムを爆撃
結果はアメリカがベトナムに敗北する。
今日のイラクの泥沼が酷似。
果たしてベトナムでの時の司令官は
・ま・た・も・や・カーチス・E・ルメイ。
その後のキュ−バ攻撃案。
鬼畜ルメイ!
バカにつける薬はない。
偏狭なる愛国主義者のせきやん??
何とでも言え!
非戦闘要員ではないのは明らかのいたいけなる12名
12名の付属小のせきやんの子供を返せ!ルメイ!
コメント