西南戦争

2007年6月3日
宮崎の後進性に県民性が上げられるがそうではない。
他県にない苦難が痛手となりそれが後塵を拝してる状況にあるのが正確なる状況である。

ただ、神の国は時としてチャンスを与えてくれる。
これまでを一挙に晩回せんと不思議なる人材をトップに据えた

いままでのトップリーダー選びにない
「あぁ〜よかった応援候補が当選!、後はたんじょくわ〜」

ここんとこがそのまんま知事は違うのである。
「みつめ注目しておかないと選んだ責任がアッド〜、」
「怖いもん見たさ。」
「みてて楽しい元気が出る」

中央政界さえ戦々恐々、選挙のあり方、候補者選びに一石を投じた。
当選後も地元と上京のスケジュールの一挙手一投足は古参政治家ほど対応ができない。
宮崎を全国に一目おかせたそのまんま知事の力は尋常ではない。

「お笑い芸人」「知事になりたい」
立身伝の戦略が見事に優柔不断の県民性を突き動かしている。
さらに、悪しき慣習の宮崎の政治体制を変えようとしている。

てぐすね引いて待ってて県議会のつわものどもも手出しができない。
庶民的知事の就任決意インタビュー。
「裏金はありませんか」
がまさに出発点であった。

県北今山大師祭り、パレードデビューとなり大フィーバー、
一目見ようと甲子園優勝並みの人手の人気。
県庁は全国に向けた観光地。
問題となった知事公舎公開も大混乱の人が押し寄せた。
新聞にはや伝説的に取り上げられている。

この県は歴史的に大同団結で県民が雄たけびを上げたことがない。
小藩乱立で封建時代も維持された。

チャンスはあった。
幕末、明治を作り上げた薩摩に九州諸藩は流れとして藩論を統一し、行動をともにした。

ところが宮崎延岡は内藤が治めている治世で譜代の殿様。
あの井伊直弼の異母弟・内藤政挙は幕府側についた。
九州で唯一といっていい外様大名でない気負い。
が時代に大きく乗り遅れ日向を一つにまとめる事ができなかった。

明治4年7月14日廃藩置県が発令される。3府302県
11月14日に大淀川を境に美々津と大隈も入れた都城県に分けられた。
3府42県明治6年の改革に1月15日合併、
明治9年8月21日3府35県で二つになってしまい、
明治16年5月9日の合併まで待たねばならなかった。

地図を広げてみれば県境が不明なとかある。
ソ連邦から分離したバルト三国やウクライナ地方見たいに境界が解からない。
九州で言うならガバイのばあちゃんの県の佐賀。
北陸の富山県。
それもそのはず、この佐賀富山宮崎の三県は明治16年5月9日に再配置された県である。

この間大和民族は血の政争を繰り返した天皇家以外は稲作の生活慣習から融和な民族で国内二分の争いはない。
ただ唯一の国内戦は西南戦争。
その激戦地は熊本城を巡る熊本藩内その戦の天下分け目を極めた。

本当の意味での西南戦争は敗北していく過程にある。
せきやんの井沢元彦風、極め付き暴論!
5月30日の西郷隆盛の日向入りから、延岡のたった一度の西郷隆盛が指揮を執った闘い。8月19日までを言う。
それが西南戦争の全てであった。

日向では西郷札なる中央政府外のお金が出回った。
その戦場は宮崎県を縦走する形で繰り広がれた。
戦場ほど悲惨なる物はない。

多くの人材ほんの少しあった資本も消滅した。
資本力のなさは経済発展の目さえ摘み全国に遅れをとった。
世界遺産に見立てた工業遺産を鹿児島や福岡にあれど宮崎にはない。

千田貞曉は薩摩の人。広島県では神社や銅像もある県民の英雄。
時代を先取りした広島港は日露戦や大本営広島帝国議会広島さえ実現させたほど。
千田廟公園の石碑「宇品新開地紀念碑」は「正三位勲一等男爵千田貞曉題」とある。

広島と同じく宮崎の県令も勤めている。
「人々元気を振起し産業を励み国家富強の根帯えお培養」

米54,1パーセント
チャ6,4
椎茸4,9
その他34,6

将来性あるものとして、養蚕製糸、製茶、製糖、の三つを推奨した。
日清戦争以降、育成国台湾に製糖が移り、甘藷栽培製糖は衰退した。

明治44年第13代有吉忠一知事が赴任宮崎中興の祖といわれた。
全国的経済レベルにないので積極的な事業展開を迫るる事を目指した。
県営鉄道の開設。油津細島港の改修。開田事業。二原小林、高木原都城、薩摩原国富
神話のふるさと西都原の発掘

宮崎県嘉績(カセキ)誌を編集
事業で入用の資金の債権はまもなく第一次世界大戦が始まり好況を向かえ返済され飛躍した。
この項途中である。

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