西南戦争の霊の行方
2007年6月4日兄弟にして力をあわせライバルにもなりお家の繁栄に尽くすのは日向の地の神々・海幸山幸と古代より語りつくされている。
兄弟が相反する場合も多く見られる。
西南戦争でも西郷隆盛の弟従道は官軍にのこり可愛岳で傷ついた隆盛の息子の命を助けた。
平家あらずんば人にあらずと権勢ををほしいままにした平家も
源頼朝義経兄弟の奮闘振りにその栄華も潰えた。
曽我兄弟はその鎌倉幕府の高官・工藤祐経(すけつね)を討つ話で、高田馬場、赤穂浪士とともに日本三大仇討ち話。、
講談浪曲の話芸の好評の演題の出し物。
お家繁栄は時代が下れば国家に置き換えられる。
日露戦争を勝利させた陸海のトップ松山の人・秋山 好古・真之兄弟は落とせない。
秋山好古は世界最強のコサック騎兵と戦い勝利。
秋山真之は日本海海戦では遠来の世界最強のバルチック艦隊を撃破した。
「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ
、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」
真之の名文は正岡子規と東京・神田に下宿した仲で言い尽くせてるのではなかろうか。
男の本懐、義侠心は次のエピソードで十分であろう。
孫文に日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日
に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される(後任は鈴木貫太郎)。
松山の記念館にたつ真之を詠んだ歌
?梅が香や おまえへとあしの 子規真之(しきしんし)?・・・酒井 黙禅・・
酒井 黙禅-(もくぜん−1883〜1972年)は、福岡県柳川の人、
松山赤十字病院長を勤め、俳句は子規の門下、俳誌「柿」を創刊した。
「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみを込めて表現したもの
明治大正昭和の言論界のトップは熊本の人徳富蘇峰・蘆花兄弟がいる。
「将来の日本」が好評で上京して国民の友を発刊、国民新聞を出す。
大正12年の大震災以降は経営から身を引き言論人に徹する。
兄弟は日向の内藤治世城下町・延岡を数次訪れてる。
宮崎は詩界の芥川賞たるH賞を杉谷、本多と連続年輩出した稀有の県。
詩人は多くいる。金丸桝一は賞には一歩届かなかったが地元紙の詩の選者を務めた。
せきやん史観では渡辺修三の先駆があったればこそと思っている。
徳富兄弟が逗留した延岡の渡辺家は詩人・渡辺修三の実家であった。
蘆花が延岡に来たときは修三5歳で村の入り口まで迎えに出向いている。
蘆花の兄と離れたる後の処女作「灰儘」は西南戦争の延岡の可愛岳の場面から始まる。
ストーリーはこうである。
西郷軍に従軍した3人兄弟の末っ子が隊列からはずれ生き延びた。
戦後家に帰ると待ってた言葉は兄と親からの「死んでくれ」
「可愛ヶ岳で死ぬのだった!」
男は腹を切る。これでお家安泰と思いきや日夜息子の影にさいまれていた母が火を出し名家は灰儘に帰す
圧倒的な火事の描写は旧制度の火葬。
そういえば延岡の連続火災犯人捕まってないナ。
ブログに書いてマッチポンプの芸能人の卵もいたのでクワバラクワバラ。
古い家族制度を否定、兄をも否定し国民新聞を辞した
祓い霊からの国民の宗教感までは発展させなかった。
兄弟ではないが、日向を通して師弟となる。柳田折口である。
柳田國男は新たなるジャンルたる民俗学を打ち立てた。
そのきっかけは3度にわたる日向訪問からである。
椎葉村の狩猟生活、焼畑農耕に驚き「後狩詞記」(ノチノカリキコトバノキ)をあらわす。
その後遠野物語を書くことになる。
信仰生活の歴史、昔話、口承、独創性と新発見をする。
日本には神社仏閣がなぜにこうも存在するのか。
国の成り立ちからして死者にたいする畏れ霊魂を沈めることカラではないかとこの国を見た。
神官の出の折口信夫がそのごの研究を引き継いだ。
大正6年31さい日向入り土俗と伝記に書いた。
「古代研究」もなしている。
釈超空・・超は左はしんにゅう変換できません・
でうたを良くした。
多くの歌が残っている、
児湯の山 棚田の奥に妹と夫と 飯はむ家を 我は見にけり
日ののちを いきれ残れり 茶臼原の 夏のうぐいすは 草ごもり鳴く
私がこの地を通ったのは武者小路実篤が新しき村を発起して日向の奥に引っ込んだ時分である・・
うたの解説は続く。
日輪神社は
惨殺された太子一族の怨霊を鎮めるためと梅原猛
聖徳太子の見直し
「悪行の聖者」篠崎紘一・著、新人物往来社刊
仇討ち殺人者としての592年馬子・崇峻天皇を殺し推古天皇を樹立
31代 : 用明天皇は崇峻が毒殺
蘇我馬子と意見対立して殺されてしまう。
33代:推古天皇を樹立。
うしろめたさ、悩み苦悩が付きまとう。
仏はすべての罪から救ってくれる。
仏教の擁護派になる。斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、
593(推古元)年 厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)四天王寺を造る
人々の上に立ち国を治めるものが守るべき道を言葉でなくはっきりしめした法を作り上げる。
それなしには民のための政治は行えぬ。
神仏への約束を守ったわけである
古代人は純粋な精神的な生き方。失いつつある現代人。
宮崎公立大が地方独立行政法人法に基づき法人化して2カ月
今日の地元紙
大阪の人・永松敦教授の専門は民俗学
イノシシの肉を神に献上する場面が神楽である事で椎葉に来たが衝撃であった。
狩猟と芸能のつながりを調べてみると新鮮で興奮の連続。
椎葉に内地留学、福岡博物館を経て椎葉村民俗芸能博物館設立にかかわり、副館長。
そこから人材が育ったのを見極め公立大に転進。
民俗学研究で地域に恩返し。48歳である。
子供の頃から神社仏閣をみて回り、仏教に興味を持った。
仏教を研究するうちに殺生とはなにか、から狩猟文化になった。
日向とのつながりになったわけである。
廃仏棄釈の日向を研究していだきたいもの。
霊魂が浮かばれてない中世の霊が埋もれたままだからである。
とりわけ西南戦争の霊を鎮める神社はない。
流れ星にさえ西郷星となずけられロシアの皇太子殺傷に一役かってしまうさまだ。
広島に祭られてる日向の県令を勤めた方もそうだ。
これでは日向の前途は開かれない。
供養の行事が必要である。
県内から多くの人材を失った西南の役。
日向の先人の霊を奉ったものの破壊を尽くした明治の愚策・廃仏棄釈をみなおし復活をなさなければならない。
二つの畏れ霊の祟りを祓わなくして日向の将来はない。
このクニの人々はそうやって生きてきた。
それがこのクニの宗教でもあり、このクニのモラルだ。
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兄弟が相反する場合も多く見られる。
西南戦争でも西郷隆盛の弟従道は官軍にのこり可愛岳で傷ついた隆盛の息子の命を助けた。
平家あらずんば人にあらずと権勢ををほしいままにした平家も
源頼朝義経兄弟の奮闘振りにその栄華も潰えた。
曽我兄弟はその鎌倉幕府の高官・工藤祐経(すけつね)を討つ話で、高田馬場、赤穂浪士とともに日本三大仇討ち話。、
講談浪曲の話芸の好評の演題の出し物。
お家繁栄は時代が下れば国家に置き換えられる。
日露戦争を勝利させた陸海のトップ松山の人・秋山 好古・真之兄弟は落とせない。
秋山好古は世界最強のコサック騎兵と戦い勝利。
秋山真之は日本海海戦では遠来の世界最強のバルチック艦隊を撃破した。
「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ
、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」
真之の名文は正岡子規と東京・神田に下宿した仲で言い尽くせてるのではなかろうか。
男の本懐、義侠心は次のエピソードで十分であろう。
孫文に日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日
に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される(後任は鈴木貫太郎)。
松山の記念館にたつ真之を詠んだ歌
?梅が香や おまえへとあしの 子規真之(しきしんし)?・・・酒井 黙禅・・
酒井 黙禅-(もくぜん−1883〜1972年)は、福岡県柳川の人、
松山赤十字病院長を勤め、俳句は子規の門下、俳誌「柿」を創刊した。
「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみを込めて表現したもの
明治大正昭和の言論界のトップは熊本の人徳富蘇峰・蘆花兄弟がいる。
「将来の日本」が好評で上京して国民の友を発刊、国民新聞を出す。
大正12年の大震災以降は経営から身を引き言論人に徹する。
兄弟は日向の内藤治世城下町・延岡を数次訪れてる。
宮崎は詩界の芥川賞たるH賞を杉谷、本多と連続年輩出した稀有の県。
詩人は多くいる。金丸桝一は賞には一歩届かなかったが地元紙の詩の選者を務めた。
せきやん史観では渡辺修三の先駆があったればこそと思っている。
徳富兄弟が逗留した延岡の渡辺家は詩人・渡辺修三の実家であった。
蘆花が延岡に来たときは修三5歳で村の入り口まで迎えに出向いている。
蘆花の兄と離れたる後の処女作「灰儘」は西南戦争の延岡の可愛岳の場面から始まる。
ストーリーはこうである。
西郷軍に従軍した3人兄弟の末っ子が隊列からはずれ生き延びた。
戦後家に帰ると待ってた言葉は兄と親からの「死んでくれ」
「可愛ヶ岳で死ぬのだった!」
男は腹を切る。これでお家安泰と思いきや日夜息子の影にさいまれていた母が火を出し名家は灰儘に帰す
圧倒的な火事の描写は旧制度の火葬。
そういえば延岡の連続火災犯人捕まってないナ。
ブログに書いてマッチポンプの芸能人の卵もいたのでクワバラクワバラ。
古い家族制度を否定、兄をも否定し国民新聞を辞した
祓い霊からの国民の宗教感までは発展させなかった。
兄弟ではないが、日向を通して師弟となる。柳田折口である。
柳田國男は新たなるジャンルたる民俗学を打ち立てた。
そのきっかけは3度にわたる日向訪問からである。
椎葉村の狩猟生活、焼畑農耕に驚き「後狩詞記」(ノチノカリキコトバノキ)をあらわす。
その後遠野物語を書くことになる。
信仰生活の歴史、昔話、口承、独創性と新発見をする。
日本には神社仏閣がなぜにこうも存在するのか。
国の成り立ちからして死者にたいする畏れ霊魂を沈めることカラではないかとこの国を見た。
神官の出の折口信夫がそのごの研究を引き継いだ。
大正6年31さい日向入り土俗と伝記に書いた。
「古代研究」もなしている。
釈超空・・超は左はしんにゅう変換できません・
でうたを良くした。
多くの歌が残っている、
児湯の山 棚田の奥に妹と夫と 飯はむ家を 我は見にけり
日ののちを いきれ残れり 茶臼原の 夏のうぐいすは 草ごもり鳴く
私がこの地を通ったのは武者小路実篤が新しき村を発起して日向の奥に引っ込んだ時分である・・
うたの解説は続く。
日輪神社は
惨殺された太子一族の怨霊を鎮めるためと梅原猛
聖徳太子の見直し
「悪行の聖者」篠崎紘一・著、新人物往来社刊
仇討ち殺人者としての592年馬子・崇峻天皇を殺し推古天皇を樹立
31代 : 用明天皇は崇峻が毒殺
蘇我馬子と意見対立して殺されてしまう。
33代:推古天皇を樹立。
うしろめたさ、悩み苦悩が付きまとう。
仏はすべての罪から救ってくれる。
仏教の擁護派になる。斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、
593(推古元)年 厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)四天王寺を造る
人々の上に立ち国を治めるものが守るべき道を言葉でなくはっきりしめした法を作り上げる。
それなしには民のための政治は行えぬ。
神仏への約束を守ったわけである
古代人は純粋な精神的な生き方。失いつつある現代人。
宮崎公立大が地方独立行政法人法に基づき法人化して2カ月
今日の地元紙
大阪の人・永松敦教授の専門は民俗学
イノシシの肉を神に献上する場面が神楽である事で椎葉に来たが衝撃であった。
狩猟と芸能のつながりを調べてみると新鮮で興奮の連続。
椎葉に内地留学、福岡博物館を経て椎葉村民俗芸能博物館設立にかかわり、副館長。
そこから人材が育ったのを見極め公立大に転進。
民俗学研究で地域に恩返し。48歳である。
子供の頃から神社仏閣をみて回り、仏教に興味を持った。
仏教を研究するうちに殺生とはなにか、から狩猟文化になった。
日向とのつながりになったわけである。
廃仏棄釈の日向を研究していだきたいもの。
霊魂が浮かばれてない中世の霊が埋もれたままだからである。
とりわけ西南戦争の霊を鎮める神社はない。
流れ星にさえ西郷星となずけられロシアの皇太子殺傷に一役かってしまうさまだ。
広島に祭られてる日向の県令を勤めた方もそうだ。
これでは日向の前途は開かれない。
供養の行事が必要である。
県内から多くの人材を失った西南の役。
日向の先人の霊を奉ったものの破壊を尽くした明治の愚策・廃仏棄釈をみなおし復活をなさなければならない。
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