宗教

2007年6月23日
文明の衝突、部族民族の対立、エネルギーがキーワードになりつつある世界の情勢。
ザビエルがキリスト教布教と共に鉄砲を伝え、日本の戦国時代という時代背景とも相俟って社会は劇変した如き状況である。

日本に於いてのキリスト教との出会い、あるいは日本におけるキリストの三大出来事をあげつらうに躊躇のないこと。

他の非キリスト国家の国がそうであった如く聖地バチカンの初訪問者であろう。1585年3月 のことである。
それも最高の栄誉たる帝王の間での 教皇グレゴリウス13世に謁見。
偶然にも亡くなられ新法王シクストゥス5世の戴冠式の就任さえ立ち会う偶然。

それらの成果を含んだ1582年天正訪欧少年使節をあげるのに異論はなかろう。

正使を務めた伊東マンショは日向・西都市・都於郡(トノコオリ)出身であるが、名前、生い立ち等の原資料は日本にはほぼ現存していない。
何故か。

島津軍に本城・都於郡城が征服され炎上、その後一国一城で廃城。
さらに明治期の廃仏毀釈で関連寺院さえ国家のやむ得ぬ政策が重なったためである。

また、キリスタン弾圧が吹き荒れ、長崎にあったマンショの墓さえも海に投げ込まれたからである。
江戸幕府はキリスタンの墓まで暴き遺骨さえ認めなかった。

都於郡落城とともに日向山脈を北に超え、親戚筋になる大分の大友宗麟をたより落ち延びた。

大友宗麟は伊東の仇討を兼ね島津征伐に日向に向かうが島津に大敗。その大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり
これまでの大分でのぞんざいの扱いもあったようで、親子は別々に住まわせられ、宮廷三位の地位にあった気位の義祐は長男・祐兵、孫祐勝とともにそこを去り、伊予に渡って河野氏を頼った。

祐兵が秀吉の家臣の一人として扶持を得て、義祐も秀吉への謁見をすすめられた。
このときが世渡り下手の日向人気質を表している。
「流浪の身たりとも、藤原三位入道が何ぞ羽柴氏に追従せむ」と答え、頑なに謁見を固辞。
その後は各地を流浪し1585年行き倒れ同然の状態で地元民に発見されたという。狐狸庵先生の覇王の小説の筋立て。享年75。

マンショは義祐の妻の妹の「町の上」の子。現地に残る。
伊東祐兵の子たる伊東家・祐勝とは扱いがまた違う。
お家の後継ぎの資格があるやなしやは天と地の差。

イズズス会ヴァリニャーノが大分で治療などの医療施設さえ施す。そこでマンショにも出会う。

伊東マンショはと縁あって長崎のセミナリヨに第一期で入学できる。伊東家直子・祐勝は安土のセミナリヨ。
よって、ここでもまた正規なる資料はないと偶然が続くからである。

本来大友宗麟のローマ行きの予定には祐勝が組み込まれていた。
ところが出港地が長崎で2ヶ月後という慌ただしさに、長崎にいた伊東マンショが選ばれたというわけである。

一行の中でも最年少のマンショが責任者になったのは
大友宗麟が有馬晴信、大友純忠より、格式も力も上位だった故、その名代たる正使になったわけである。

史家はたいしたもので伊東の領国内にある、木脇の御堂での天井画を見つけた。父親が子供らの成長を祈願した落書である。

「虎千代」これが唯一の国内に残る伊東マンショの名である。
マンショは洗礼名。
伊東マンショには数奇の運命で元服式がないので幼名しか名がないのである。
これが唯一伊東マンショの記録である。
ポルトガルやローマなどの訪問国にしか記録はない。
実在を疑う不埒な説もあったほどだ。
肖像画が先日発見される。」
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/news/itoh_syouzouga.html

特別なる能力があったわけでもない。真面目が取り柄の日向人気質そのもの。語学力も帰国後のナガサキの成績記録では弟の方が優秀で他の生徒にも劣っているローマ本国報告の記録がある。

8年5ヶ月を経て日本に帰った。時の交通事情からそうなった。
時代は秀吉の専横の時勢。バテレン追放の令さえ出ている。

ザビエル没後の知恵と巡視という地位のあるイエズス会ヴァルニヤーノの気転で訪問団の形をとり入国がかなう。
聚楽第での謁見ができたの出る。

異国の楽器が奏でる演奏を何度も催促したという秀吉。
権力者に特有のカンがめぐる。
持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
異文化の数〃に触れた秀吉は貿易での利益を目指し楯に利用としたのか。
執拗に臣下になるよう伊東家のお国を日向に再興してやるとの誘い水さえ出すがローマ法王との布教の約束を盾に応じないマンショ。

歴史にもしは許されないが、この秀吉の命に従えば日本は大きく変わっていたことであろう。

時は移ろい家康の時代はキリシタンの弾圧はさらに熾烈を極め、張り付け火あぶり以上の世界一の極刑、地上吊りも行われた。

訪欧使節の足跡を追い、松田毅一その先駆を果たされた故岡本良知の諸著作のページをめくるごと学問研究の素晴らしさに脱帽してしまう。

「転び」宗教を捨てることを言う。
宗教を捨てるそこにある 
「生きよ」

宗教を捨てる人々が重くのしかかる。
かって自分が布教して信者になったものを逆に取締り、裁く立場になる。
管区長の立場にもありながら肉体的限度の迫害に耐えられず、棄教した司祭。
身に染みる環境から裏切りに生き残り半生を生きたことの人々を知ったことは大きかった、

一身の立身出世を出身地域、親戚、家族からも受けての期待を担わされた羨望で見られていた部分もあろう。
よってそのわかれ道の選択は苦渋の決断であったろう。

あのザビエルでさえ、アジアでの布教実績は残してないではないか。マカオにもゴアにも日本にもそれほどの実績は感じなくきわめて文学的問題哲学的問題のみを残した。
宗教論より文学論の領域なんであろう。

太平洋戦争前に共産党委員長鍋山貞親の獄中転向声明の影響力みたいなものであった。
「生きよ」
遠藤周作の「沈黙」を読み返さねばならぬ。

桑田とイチロの対決はうならせる。4球で三振もちょうどいい。
あすのウオッカの宝塚での走りも64年ぶりの前回みたいになるか。

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