五日市憲法

2007年9月2日
長岡藩の漏れ追記。
1941年12月8日ラジオが堰を切ったようガーガーとなった。

「臨時ニュースヲ申シアゲマス。臨時ニュースヲ申シアゲマス。」
「帝国陸空海軍ハ 本日未明 米英軍ト戦争状態ニ入レリ」

真珠湾攻撃の奇襲作戦である。

連合艦隊司令長官の山本五十六(1884〜1943年)は新潟長岡の人。
その真珠湾攻撃を指揮した。

1945年8月に長岡市が米軍の空襲を受け、市街地の大半を焼失、市民約1470人が死亡した。
地元では「山本五十六の出身地だから狙われた」との見方もある。
山本はもともと日米開戦に強硬に反対。情勢下、バンやむなきの海戦であった。

「リ・ーメンバー・パール・ハーバー」は
9・11テロ以前の米国民の一番知ってる言葉の一つ。

恨み忘れマジか、今でも真珠湾では沈んだ空母の燃料がポツリポツリと浮いてくるらしい。
67年前のことの生き証人。

その恩讐をようやく乗り越えつつある動き。
祖霊は鎮魂したのか。祈りは通じたのか。

真珠湾のある米ハワイ州の州都ホノルル市と新潟県長岡市が相互に訪問団を派遣して交流する。
訪問団は来年8月をめどに、まず長岡市側から派遣。
平和をテーマにしたシンポジウム開催や長岡名物の花火大会の現地再現などが検討されている。

「戦争が国と国の理解不足から起きる悲劇であることを、長岡市民はよく知っている。
  歴史的事実の理解を深め、日米友好につなげたい」と森民夫市長。

ニックキ昨日の敵は今日の友である。
万事こうありたいものだ。

どこかの国の総理に聞かせたい。
わざわざ過去を掘り起こして友好の妨げにしてる時代遅れ。
空気がKY読めない。

経済を軍事傾斜にする政治ゆえ意図的にやってるのであろう。
こんなトップを辞めさせることが出来ない不幸なる国。

なお最後の連合艦隊司令長官は宮崎・高鍋の人・小沢治三郎。
生きて償いも軍人の道である。お詫びの行脚の敗戦後の日々。
小沢町長の叔父。先月小沢治三郎旧邸が修復復元され一般公開された。詳しくは高鍋町・小沢弁当店へ。

仙台藩と多摩
 宮城県栗原市は2005年に10町村の合併で誕生人口約8万。
9月1日に、地元方言で書かれた市民憲章を制定。日本初のこと。

これなんだろうな。芥川直木賞受賞者を多く輩出する土壌は。 

言葉を通じて地域の伝統文化に触れ、一体感を持ってもらうのが狙いで、
東北に生きる人々の姿を67字で簡潔に力強く表現。

ブログから再掲。
佐藤勇市長は「地方分権の時代に、東北からのメッセージとして発信したい」と話している。
起草したのは、地元出身の詩人や市教育委員ら5人でつくる市の制定委員会。
「斬新で長く記憶に残る憲章」を目指し地元の方言を取り入れた。 

  【栗原市民憲章】

 眼(まなぐ) 光を見つめ

 足 大地を踏んまえ

 手 明日(あした)をぎっちり押さえ

 腹ん中 熱(あ)っつぐ熱っつぐ

 額(ひて)こびに広がる宇宙

 天駈(あまか)ける駒にまたがり

 われらいま風を切って走る

ウ〜ン言葉に味がある。まさに言霊。
ただ、なんかそれだけでない。
このわき起こる血潮はなんだ。
ウウウッ!祖霊!なんかある。迫力が違う。
日本国を心配し霊がうやうやしている。怖〜〜い。
 
 栗原市は、友好姉妹都市として2月10日、東京都あきる野市と盟約を締結している。
今後の交流はもちろんのこと災害発生時に両市がお互いに助け合う「災害時相互応援協定」も取り交わされた。

あきる野市は、東京都心から、約50キロメートル西に離れたところ。
平成7年9月に、「秋川市」と「五日市町」が合併して誕生した。

東に福生市、羽村市、西は檜原村、奥多摩町、南は八王子市、北は日の出町、青梅市に隣接している。
古くから、この地域は秋留郷と呼ばれてた。

旧五日市町にある古い神社も阿伎留神社、、阿伎留病院や秋留台地と呼ぶなど、昔から親しまれてきた
多摩川を境に東の平野の「武蔵野」に対し、西の平野を「あきる野」とした。

なぜ仙台と江戸、繋ぐ糸があったのか。

仙台藩士・千葉卓三郎の存在である。
この人は日向伊東藩の儒学者安井息軒の門人である。

安倍政権が平和憲法を否定し新憲法を目指してるが時代逆行をやっている。。
・・・・・千葉卓三郎の爪の垢でも煎じて飲んだがいい。・・・・

千葉卓三郎は130年ほど前1881年「204カ条の五日市憲法草案」を深沢権八らと起草した。
 現在の日本国憲法の源流となっている「主権在民」という考え方は、国内はもとより国際的にも高い評価を得
た。
人権意識の成熟度において、既存する民間憲法中屈指のものだ。
現日本国憲法・基本的人権の尊重を重視し、国民の権利保障に重点をおいたものとなっている。

昭和43年五日市深沢家 旧宅の土蔵を調査してた色川大吉東京経済大学教授らにより発見。
民衆憲法として当時反響を呼び起こした。高校生時の記憶がある。。

発見者らによって「五日市憲法草案」と名付けられた。
 全文 五日市憲法204か条。=大日本帝国憲法76条=、日本国憲法103条

経緯
明治13年11月10日第二回国会期成同盟大会が東京において開かれ、その際、憲法起草が議され、
翌年(明治14年)10月に予定された第三回大会に、各自草案を持ち寄ることが決議された。
これを額面通り に受け取ったのが、五日市の民権家たち、中でも千葉卓三郎であったかと思われる。
五日市憲法草案の下敷きとされた櫻鳴社の草案は土屋勘兵衛が13年12月13日手に入れている。

条文

その45「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス 可シ。」
    自由権の規定であり、現行憲法と同じ視点に立っている。


48「凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ、同一ノ保護ヲ受ク可シ、 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ。」
  平等権の規定、その後発生した華族制度 を見抜いた警世の条文である。

76「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授は自由ナルモノトス、然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄 タル者ノ免ル可ラサル
  責任トス。」
  教育権と義務教育が規定されている。国家による教育内容の画一 統制は明らかに否定され、
  教育権の所在は教授者と親権者にあることが示されている。

77「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県の自治ハ各地ノ風俗習例ニ 因ルモノナルカ故ニ必ラス之
  ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス。」
  地方自治の条文である。中央集権に懸命であった明治政府にはまったく考えられない条文である。
  地方の 自治は国会の権限をも凌駕するというもの。アメリカの州と連邦政府との関係に近い。
86「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス。」
  国会の天皇に対する優越を明確にした条文である。
  五日市憲法は体裁上は君主主権を認めながら運用面で君権と民権と競合した場合、民権にくみする憲法。
194「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ。」
  国事犯、政治犯を死刑にしないという権力批判者に対する精一杯の保護規定を設けた。
  しかし、国帝の権利については明治憲法よりも強い側面もあり、また、50名の元老院 (第二院)は勅撰議院で終身官
  であるという問題点もあった。
政府は明治14年10月、自ら進んで10年後の国会開設を約して、自由民権運動の気勢をそらした。
同年10月に予定されていた第三回の国会期成同盟大会はこのため混乱し、自由党結成大会に切り替わり、
のせっかく用意した憲法草案の審議は全くなされずにしまった。民間の憲法草案は他に40数種発見されて いる
が、この五日市憲法草案のようにどういうグループが、どういう内容の検討会を開き、どういう本を 参考文献と
して読んで、誰が起草したか、その起草者を誰が助けたかなどということは、わかっていない。
1882(明治15)年、卓三郎は結核にかかり、翌1883(明治16)年11月13日、31歳の若さで亡くなる。


千葉卓三郎は、幕末1852(嘉永5)年志波姫地区内の白幡村で生まれた。
父の宅之丞は、仙台藩の下級武士で、卓三郎が誕生する直前に亡くなり、母親とも幼くして生き別れ。
12歳のときに仙台藩校の養賢堂で蘭学を学んだ後、17歳で農兵隊の一員として戊辰戦争に参戦。
白河口の抗戦で敗れ、「賊軍」の汚名を受け武力の時代が終わったと悟る。
1875年頃、五日市観能学校に助教員として勤める。深沢権八らと交流する。
1882(明治15)年、卓三郎は結核にかかり、翌1883(明治16)年11月13日、31歳の若さで亡くなった。

明治1年(1868)戊辰戦争に参戦(敗戦)。
明治1−2年石川桜所に医学、鍋島一郎に皇学を学ぶ。
明治2−4年桜井恭伯に浄土真宗を学ぶ。
明治4−8年魯人ニコライにギリシャ正教を学ぶ。この間上京。
明治8−9年安井息軒の門に入る(儒学)。
明治9−10年仏人ウィグローにカソリックを学ぶ。
明治10年(1877)福田理軒に洋算を学ぶ。
明治10ー12年米人マグレーにプロテスタントを学ぶ。この頃、秋川谷各地(大久野、草花、 川口)で教職に従事。
明治12ー13年12月より4月まで東京麹町にて商業に従事。
明治13年(1880)4月下旬五日市に下宿。五日市勧能学校に勤め始める。
同じ頃五日市学芸講談会結成。 11月第二回国会期成同盟大会(私擬憲法草案作成決議)。
12月土屋勘兵衛、櫻鳴社憲法草案入手。
明治14年(1881)1−6月?五日市憲法草案起草。6月五日市を去り、 奈良橋村に住む。10月国会開設の詔勅。
勧能学校にもどる。
明治15年(1882)結核進行。療養始める。8月深沢権八ら自由党に入党。
明治16年(1883)11月12日本郷竜岡病院にて死去。31歳。
五日市町の勧能小学校訓導となり、たまたま遭遇した全国的な自由民権 運動の波の中で、
五日市の学習結社、五日市学芸講談会の有志らと共同し、私擬憲法草案を作成した。

明治22年伊藤博文作るところの明治欽定憲法が 発布され、翌23年国会が開設された。
また同年教育勅語も発布された。

太平洋戦争後同じ作業をした。

その62年後安倍政権の登場で教育基本法は改正された。
憲法改正の投票法案も成立。
平和憲法は風前の灯。

安倍信三が千葉卓三郎を知るはずが無い。

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