月のもとの民族

2007年9月6日
日中の暑さは33度と相変わらずだが、夕方7時には日が落ち、月の出番が早くなっている。
日本は本来、太陰暦の月遅れが気候にも生活挨拶にもあっている。

稲作でも散々だった早期米に比べ素晴らしき天候の連続ゆえ普通作は品質もよく豊作のことだろう。

9号台風はこちらを向いてないので普通米の都城地方はそのまんま効果であろうか。
少々のガンで不安であろうが心配なく、勢いが陰るはずが無い。
台風さえ吹き飛ばしている。。

月周回衛星「かぐや」セレーネが9月13日種子島からH2Aで打ち上げられる。
15種の観測機器搭載は米国のアポロ計画以来の大規模な月探査である。

我ら世代以前はあのうさぎがモチをついていた月であったはずなのに1969年7月。
アポロ11号は月に降り立った。かぐやは周回で月を探る。

宇宙にポッカリ浮いてる不思議なる地球の写真は送ってくれることであろう。
何度観ても得もいえぬ感覚に陥る暗黒の宇宙に存在する地球。
魔法の望遠鏡でさえこの光景はどうにもならない。

望遠鏡の身近かさはクレーターなる言葉を共通語にした。
我らの・・ウサギが餅やかぐや姫の里・・世代はドキドキしたもの。

望遠鏡は1608年オランダのハン・リバーシェイ(1570〜1619)が最初に作ったとされる
ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)はすぐに改良型を作り観測できるようにし、多くの発見があり、ガリレオ衛星と呼ばれている。

ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人
物とされている。
ただ、キリスト教権力文化が化学推進の力を押しとどめ、世を騒然とさせる異端者で裁判で処刑。
ズ〜ット謹慎させられた。
歴史は変わらずアジアの軍政に泣くスーチー女史軟禁みたいである。

望遠鏡が日本に伝わったのは「近世日本天文学史」渡辺敏夫著によると5年後の慶長18年(1613年)
鎖国中?なのに・・5年後??「解せぬ!」

天正訪欧少年使節が訪れるころ、(またまたきました。いつもこれから始まります。)
スペインは1580年ポルトガるを併合。
「太陽の沈まぬ国」とその栄華は称えられた。

ところが1588年、アルマダ海戦で敗北、凋落しはじめイギリス、オランダに地位を奪われる。
英国はバイクンギの国なのかフランシス・ドレークイを抜擢。
その率いるイギリス海軍に大敗したわけである。

そのときの貨物輸送船・船長トーマス・アダヌス。
帰国後ロンドンの船会社に勤め、34歳になり、弟トナスと大航海に出ることにした。
インドネシアを経て胡椒香辛料を持ち帰る商船である。
もちろん略奪の金貨を狙ってるため商船には大砲も積んだ

5隻の大軍団。1598・6・27ロッテルダム出航。
航海不能でガボン国アノボンで母国に戻る。

ホープ号・リーフデ号二隻のみマゼラン海峡を越える
この頃の航海は難航109名が36名しか生存していなかった。
1599年11月マゼラン海峡を越える。

マゼランの航海記録を筆記したアントニオ・ピガフェッタは記した。
「この先あえて同じような航海をしようとするものが出てくるとはわたしにはとうていおもえない」
ホープ号は太平洋で沈没。

リーフデ号の乗組員も壊血症、食料不足で衰弱。
1600年豊後佐志布、臼杵沖に漂流のようにリーフデ号姿をあらわす。
乗組員は24人で、1年8ヶ月の航海でアダムス等7人のみ自分で歩けた。

大阪の秀頼に伝えられ、実権のあった家康(1843〜1916)が江戸に招く。
イエズス会からの処刑要求を避けるねらいもあったのか。

ヤン・ヨーステン(1556〜1623)から
江戸幕府は数学、航海術、造船を学んだ。洋艦を作らせた。

東京駅を皇居を拝する丸の内口は千代田区で禁煙罰金。
反対側の八重洲口は中央区ゆえ禁煙罰金は無い。

この八重洲口の名の由来である。
ヤン・ヨーステン=耶揚子に由来しているのである。
(ほんとなんか・・ウソくせ〜〜。)

旗本に取り立てられアダムス三浦按針
その町名は1932年まで残っていた「按針町」
今の日本橋室町l丁目・日本橋本町一丁目である。

姓名の由来は磁石の針の行方を考える水先案内人
相模の国に領地を貰った。逸見町東逸見町の三浦半島である。

ジェームス一世(1566〜1625)はイギリスの東インド会社使節団を派遣した。
ジョン・サリス(1580〜1640)グローブ号平戸につく。松浦鎮信応対する。
アダムス三浦按針には13年ぶりの同国人とあえる。
記録はいろいろ確認できる。
サリス航海記(1613)
[一外交官の見た明治維新]アーネストサトー

渡航の目的献上物は近藤重蔵の著作「外藩通書」等にある。
「イギリスの莱泊は1600年慶長5年に始まりその使節を遣し
 書を奉じ物を献せしは同18年にアリ。」

異国日記・・曹洞宗の禅僧金地院崇伝の書いた日記
「インカラデラ国王の使者駿府城にてお礼申し上げる。」
駿府記・・林羅山
「伊毛連須殿中献ずるに猩猩の皮10間(18メートル)
 長さ一間ほどの6里(23,6k)先が見える遠目鏡即ちこれなり」

いずれにせよ英国との交流の始まりは三浦按針の力による。
ジェームス一世の親書は金地院崇伝(スウデン)(1569〜1633)が
和漢混合文にしてそれを、家康が読んだと推測される。
献上品は記録では全部で14品。

村上堅固訳「セリース日本渡航記」では
「prosopectiue glass cast in situer giite」
   「銀台鍍金の筒入望遠鏡」と和訳した。

 山口幸充は(日向の国の神道家・国学者)井本進
嘉良喜随筆(カラキ)を著す。
(日本随筆大成集成)21巻1吉川弘文館1994年覚書巻一前半

  「家康公駿河に御座のとき南蛮より火を見る眼鏡と月を見る眼鏡を上る、日を見れば火災の如く
      眼鏡に写り熱し、又月を見れば大波涛、眼鏡の先に内あらわれて冷気身に侵むと也。」

月の表面のクレータの凸凹が波涛のように見えたはありそう。
火災の如くはあったのか。
家康が感想を話したんでしょうか。
日本人で公式に月のクレータを見た人は徳川家康ということになる。

ただ、この望遠鏡どこに行ったか解かっていない。
あればガリレオ時代の望遠鏡の発見!貴重なもの。

似たものは見れる。
一間ほどあり、国立化学博物館に岩橋善部衛兵(1766〜1811)が寄贈したもの。
ソックリさんだがサリスがもたらしたものではない。
長さ190センチ外径8センチこのくらいであったんだろう。。

コウナリャァ〜下衆は聞きたがるの・・いくらしたの?
「値段・・・6リアル・・デス」
この通貨単位のリアルはイラン中近東で今でもある

1リアルは1/4ドルゆえ1,5ドル。
250年間で25倍。
ドルの歴史400年前の1,5ドルは現在の40倍。=600ドル7万5千円。
献上品総額は349,5リアルriais=3万5000ドル日本円で400万円。

イギリス国王からして妥当
換算もそんなもの見当はずれではない。

5両が62,5リアル望遠鏡は6リアルは0,5両。
江戸初期一両は10万円、5万円。5万から10万の間。
記述は水谷仁パリ大学ニートンの編集長。
サリス航海記1613一外交官の見た明治維新アーネストサトーなどから計算。

サリスは家康より親書を貰い、平戸に商館を設立。
1613年12月5日平戸を出て帰国プリムス港に無事ついた。ただ、二度と来日しなかった。

三浦ジュリアン1620年5月16日平戸に没した。
ヤンヨーステンは1623年パタピアから日本に帰る途中座礁溺死。
英国人、オランダ人ともに故国の土は踏めなかった。

英国商館は1623年採算がとれず、寧10年続いたが閉鎖
唯一オランダ館が残る。

アダムス三浦按針は1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、
お雪(マリア)と結婚。息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

(ほんとなんか・・ウソくせ〜〜。)の証拠。
八重洲大通り300メートルで京橋と日本橋を結ぶ中央と降り交差点東京駅川の中央分離帯にある。
ヤンヨーステンとリーフデ号の記念碑、就航380年日蘭記念に1989年に建設された

中央通りを北東。橋を渡りすぐ右に曲がる
日本橋宝町一丁目10の通り
30メートルでビルトとルの間に三浦案人屋敷跡の石碑がある。

昭和の初め按人町
横須賀市西洋式帆船を建造した伊東市
京浜急行按人駅塚は墓、塚山公園にある。

百数十億光年が見えるハップル望遠鏡。
600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡である。

長さ13.1メートル、重さ11トンの筒型で、内側に反射望遠鏡を収めている。
主鏡の直径2.4メートルのいわば宇宙の天文台である。

大気や天候による影響を受けないため、地上からでは困難な高い精度での天体観測が可能。
20万光年マゼラン星雲、分子雲ヘリウムと塵をくっつく状態さえ見える。
星の誕生、死滅が観測できる時代なのである。

名称は、宇宙の膨張を発見した天文学者エドウィン・ハッブルに因んで命名された。
1990年4月24日:スペースシャトル ディスカバリー号によって打ち上げられる。

月の探索はその後400Kgもの月の石が72年の17号までに持ち帰られた。
ニュートン編集長水谷仁パリ大学教授も調査に加わった。。
太陽系が誕生した40億年前より旧いものもあった。

月を調べれば月や地球が誕生した頃のことがわかるそうである。
ただ、裏側の標本が少ないので確定できてない。

月は低温でなく高温のマグマに覆われていた。
月には磁場の無いはずなのに岩石に磁場の痕跡があった。

月誕生には4つの説がある。

別々に誕生した跡地球が月を捕らえた補足説。
地球の周りで独立して誕生した双子集積説
月が津旧から飛び出した分裂説
火星サイズの天体が地球に衝突飛び散った物質が元で出来た巨大衝突説
巨大衝突説が主流。
いずれ月周回衛星「かぐや」セレーネが月の裏の土も収集解析し解明してくれよう。

ガリレオガリレイ。の観測結果は、1610年3月に、『星界の報告』として論文発表された
木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点の証拠から
、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが主にこれら3点

このほかにも、月の表面に凹凸があることも発見した。
月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えではこれも説明がつかないものであった
また、天の川が無数の恒星の集合であることも発見した。

1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。
最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、
ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。
ガリレオの死去から実に350年後のことである。

2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマト大司教
、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。

めいげつをとってくれとはわがこかな

「あれはダメですよ。よ〜くみてごらん。
、うさぎさんが杵もって餅ちつてるでしょう」

むかしはなにかあるともちついて祝った。
長男が一歩歩いたとき西都の実家でつきたての餅の上を歩かした。
ワイワイ賑やかに一族郎党祝ってくれた。
アームストロング船長の一歩より身近にうれしかった。

家に帰り
「秀が歩いた餅、汚いね」と冗談をいい餅を食べた。
お隣近所におすそ分け。

月日は百代のか客にして行きかう人も旅人なり。
月日は早く、きおくは昨日の如く鮮明である。

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