文化の秋
2007年10月10日東京・北の丸公園の国立公文書館で、所蔵の漢籍を集めて特別展が開催されている。
前漢の史書「漢書」や戦国時代の思想書「韓非子」の版本などとともに、「陶淵明集」8巻も展示されている
嘉靖(かせい)元年(1522年)の跋文=あとがき=があり、当時の版本であるらしい。
「歳月 人を待たず」「人生は実に難(かた)し」といった詩句を思い起こしつつ、
田園の詩人をしのぶのも時節柄よろかろう
「草枕」のなかで夏目漱石は陶淵明の詩文の一節を引き、「利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と書いている。
一巻と一顆で過ごす秋の夜半もいい。
三好達治に四行詩がある
「燈下」。
/書は一巻 淵明集
/果は一顆(か) 百目柿
/宿舎の夜半(よわ)の静物を
/馬追ひのきてめぐるかな
場所はおそらく田舎のどこの家にもあった縁側。
畳の部屋から外は障子で隔てられその外にくの字に曲がる板縁があった。
クーラー無しで生活ができたのはこの家のつくりがあったからでもある。
サッシで区切られて虫の声さえ聞こえぬ自然との断絶の状態は少なくともなかった。
その住環境の変化はあれども晴天の日々のなか、
ひと雨ごとに秋が深まり、灯の色が目にしみる季節になった。
縁側はなし、スイッチョと鳴く虫も上の階には来てくれず
淵明集も書店でそうは目にしない。
詩人の夜半をまねるにも骨の折れるご時世で牛ある。
東晋の漢詩人、陶淵明は41歳で官職を辞し、帰郷して晴耕雨読の日々を送った。
「盛年 重ねて来たらず」(元気ざかりの若い時は二度と来ない)とうたった人である。
来し方をふと顧みることの多い秋の燈下に似合いの一巻だろう。
森鴎外の短編「安井夫人」幕末の昌平坂学問所・塾頭日向の人。安井息軒のご夫人のお話
森鴎外にしても大儒学者日向の人・安井息軒はうっちゃっておくことはできず妻を取り上げたわけである。
その安井息軒の高弟の平部喬南は為政者としては飫肥藩の家老。
師弟相そろい陶淵明に触れてるのも似たような人生を歩んだからであろう。
新政府は修史と並んで地誌編集の事業を興した。
王政復古の証である。
そもそも地誌編集は古来中国において修史とともに帝王の事業であった。
古代国家が国史編集にあわせ風土記を撰進したごとくである。
列強と対峙しながら歴史的地理的自覚を強調する必要があった。
よって各県役所の仕事の一部で編まれた。
宮崎県では当代随一の学者平部喬南が仕事に当たったが人選された中では全国一の人物。。
明治7年着工され明治18年刊行。中央に収められた。
明治20年事業は帝大に移管された。
千五百余部の全国から寄せられたものは大部分は関東大震災で鳥有に帰した。
ところが神の国日向地誌である。
日向地誌56部は神業の如く偶然にも史料編纂掛に貸し出されており唯一火災から免れえた。
平部喬南、齢60から70歳の頃にリュマチの持病をもろともせず全県下山野をくまなく踏破した。
実測正確なる統計推敲を重ねたゆえに地誌を比類なきものにした。
身を賭して1700ページの大著となった。
わが都於郡の山田を見ると驚くべき記述であった。
山田地域は6っの寺社が記載してあり、それは宿泊できる宿坊であったことを平部喬南は記している。
そこには古くから伝わる温泉が現在も山田温泉としてあり喬南の記述と合致する。
いまは山全体が大きく掘削され無残な惨状を喫している。どこに行ったのか。
旧道の根土或いは土葉で使用されたのであろう。
伊東氏の日向下向の最初の宿泊所がこれである。
もっともせきやん史観ゆえ誰も取り上げないであろうが喬南の日向地誌の記述からではことは大変なことになる。
発掘もしないで文化財保護法違反の状態ではないか。
施工したのは東国原知事の進める行政機構の廃止案で地元が騒いでいる宮崎県の土木事務所である。
かすかに残ってる神社仏閣の山田神社は学校となり、また、他の寺はたとえば馬頭観音墓地となり、
その戦闘馬、農耕馬の墓所には幼少時に馬、子牛を埋めにいったのを覚えてるのにその馬頭観音墓地でさえ
ナント誘致企業の工場となっている。
大丈夫なんであろうか。山田地域のこの文化財の破壊状態。
寺社は祇園と幾つしか残ってない。
何も明治政府の悪行たる文化財破壊の廃仏毀釈が吹き荒れての責任に帰したくもない。
手がけてる書き物の始まりはこの書からの啓発がきっかけである。
伊東家日向下向の始まりをここから書き出したせきやん。
・・・
日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いたが
家督をめぐっての争いは家臣団をも巻き込んで壮絶な歴史を残している。
日向西都・都於郡での伊東家には地付きの四天王・山田、荒武、津留、大脇がいた。
稲津、落合、湯地、川崎は従って下ってきた四天王。
初めての顔合わせのとき、
下向の衆として客間、
居付の衆として主座に着した地付き四天王。
これは先例となりこのことが家臣団にはいろいろと困難が生じ、お家の一大事になった。
「鎌倉殿に置かれましては執着至極。」
「まったく面目ぼくござラン。今しばらくお時間をいただきたい。」
「なんの。不首尾は当方でござる。
よしなに取り扱いをお願いいたす。」
建武2年1335年12月足利尊氏、京に上る
伊東祐持の軍、三条河原で戦功ありて、都於郡300町を賜る
日向の形成不穏に小山田を先発せしめ下向
向ノ城にいる。
山田の宿坊でのこの会談が日向の今日を指し示している。
秀吉の国割で日向は5藩で運営され、家康の時代もそれは変わることはなかった。
廃藩置県の明治の御一新で旧藩主のお城の後が県庁になった。
宮崎と札幌のみがお城の後に県庁が配置されなかった唯一の県である。
明治6年から明治16年まで今の形の宮崎県は存在せず鹿児島の一部であった。
さらに宮崎県内は戦乱の明治10年の西南戦争である。
平部喬南の息子俊介も西郷軍に従軍しての参加に心を痛め、その戦死にいたっては惨儀の涙を禁じえない。
陸の孤島との形容詞はいまだ消しえず生活インフラの整備は全国一進みが悪い。
宮崎県新誌は佐伯英雄の著作として昭和26年に刊行された。
そこで「宮崎は陸の孤島」と書かれた。
この場合の根底にあるのは現在の環境を前提にした話で陸運が基準である。
ズーッと以前の海運中心の生活のその地域の歴史は踏まえてはいない。
縄文海進の命名者は考古学に造詣が深い江坂輝弥。
6000年前は現在よりも海抜で1.5Mも違っていたと科学的データーを示す。
首都・東京は現在地より50km奥地まで海水に覆われていたことになる。
その頃の日本列島を見渡してみると当時の生活の基本であった海運の良港が少なくなる
日向灘は単純な海岸線であるが
海抜1,5Mでの日向の単純な海岸線は海没し、複雑なる屈曲のある多くの船舶停泊の港湾
があったことが見えてくる。
西都原古墳群がある大地から中心部を見ると御船通りの船着場の云われも理解できる。
縄文海進の基地は集荷場として中心地をなし、海没する現在の街並みを大きく変えることになる。
古事記日本書紀の記紀の話が伝わる神話の国はこのことが大事である。
生目、西都、新田原、高鍋持田とまとまった古墳がある地域の海抜は同じ高さになる。
入り江のある海岸線がくっきりと現れてくる。
日向の地から神々が生活を始めるには運搬に有利な良港がありお話が合ってくるのだ。
悠久の太古の大河の雄大なる流れ海水が引いていき豊穣なる土地が誕生する。
地図にある緑の部分の肥えた平野部分の誕生である。
後には稲作がもたらされ、日本人類の祖は定着していく。
逆に日向の海岸線は単調で良港はなくなっていく。
その後の安定期が続き治水で日向太郎の大淀川が改修される。
宮崎市内の伝統校大宮高校の学園祭の弦月祭の名に名残を残す大きな池はあざ図にはある。
明治期には大きな池があったのである。
西南戦争当時の現在の県庁周辺や中心地の山形屋デパート近辺は市内は大淀川の湿地帯の面を残していた。
昭和7年建設の県庁の基礎には湿地であったゆえ多くの松ノ木が杭打ちされ現在の建物が建っている。
10月8日の毎日新聞の人欄に、にっこりの写真が出た。
山本麻由は東京の人
イグ・ノーベル賞化学賞をこの4日に受賞した。
牛糞からバニラ香を抽出したのである。
くさくて重いので処理をとの悩みを解消するのが取り組みのきっかけ。
水を加え熱する
温度が高すぎると焦げ付き温度が低いと消えない
試行錯誤2年を経てバニリンの抽出に成功
お茶を炒ったような香ばしい香りと
研究成果は人を笑わせそして考えさせる
裏ノーベル賞といわれるイグ・ノーベル賞化学賞を受賞した。
実はこの人・宮崎大学を卒業しておられる25歳。
国立国際医療研究所勤務の頃の成果であるとの正直なる戸惑い。
不要をを役に立たせる
ハバード大学一級の研究が外資系医療機器会社勤務。
今年のノーベル化学賞はフランス、ドイツのアルベールフエル、デームグレインベルクの二人が受賞すると10月9日
発表された。ラジオからゆえスペルに自信がない。
二人の研究の微磁力のことは今日の生活になくては成らないものとなってる。
ハードデスク、ナノテクの研究はパソコン携帯電話と実用化に大きな貢献をしている。
2000年白川さんが二人目のノーベル科学賞を受賞したのは10月10日であった。
昭和52年新宿の歌声喫茶「ともしび」が閉店した非も今日である。
今では移転再開してにぎわっているらしい。
沖縄空爆そして東京オリンピックの日。
制度変更についていけない脳状態には休日の体育の日。
夏目漱石「草枕」のなかで云う陶淵明の詩文の一節をよんでの
「利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」とはこの二つのニュースのことにドン・ピシャッ!
前漢の史書「漢書」や戦国時代の思想書「韓非子」の版本などとともに、「陶淵明集」8巻も展示されている
嘉靖(かせい)元年(1522年)の跋文=あとがき=があり、当時の版本であるらしい。
「歳月 人を待たず」「人生は実に難(かた)し」といった詩句を思い起こしつつ、
田園の詩人をしのぶのも時節柄よろかろう
「草枕」のなかで夏目漱石は陶淵明の詩文の一節を引き、「利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と書いている。
一巻と一顆で過ごす秋の夜半もいい。
三好達治に四行詩がある
「燈下」。
/書は一巻 淵明集
/果は一顆(か) 百目柿
/宿舎の夜半(よわ)の静物を
/馬追ひのきてめぐるかな
場所はおそらく田舎のどこの家にもあった縁側。
畳の部屋から外は障子で隔てられその外にくの字に曲がる板縁があった。
クーラー無しで生活ができたのはこの家のつくりがあったからでもある。
サッシで区切られて虫の声さえ聞こえぬ自然との断絶の状態は少なくともなかった。
その住環境の変化はあれども晴天の日々のなか、
ひと雨ごとに秋が深まり、灯の色が目にしみる季節になった。
縁側はなし、スイッチョと鳴く虫も上の階には来てくれず
淵明集も書店でそうは目にしない。
詩人の夜半をまねるにも骨の折れるご時世で牛ある。
東晋の漢詩人、陶淵明は41歳で官職を辞し、帰郷して晴耕雨読の日々を送った。
「盛年 重ねて来たらず」(元気ざかりの若い時は二度と来ない)とうたった人である。
来し方をふと顧みることの多い秋の燈下に似合いの一巻だろう。
森鴎外の短編「安井夫人」幕末の昌平坂学問所・塾頭日向の人。安井息軒のご夫人のお話
森鴎外にしても大儒学者日向の人・安井息軒はうっちゃっておくことはできず妻を取り上げたわけである。
その安井息軒の高弟の平部喬南は為政者としては飫肥藩の家老。
師弟相そろい陶淵明に触れてるのも似たような人生を歩んだからであろう。
新政府は修史と並んで地誌編集の事業を興した。
王政復古の証である。
そもそも地誌編集は古来中国において修史とともに帝王の事業であった。
古代国家が国史編集にあわせ風土記を撰進したごとくである。
列強と対峙しながら歴史的地理的自覚を強調する必要があった。
よって各県役所の仕事の一部で編まれた。
宮崎県では当代随一の学者平部喬南が仕事に当たったが人選された中では全国一の人物。。
明治7年着工され明治18年刊行。中央に収められた。
明治20年事業は帝大に移管された。
千五百余部の全国から寄せられたものは大部分は関東大震災で鳥有に帰した。
ところが神の国日向地誌である。
日向地誌56部は神業の如く偶然にも史料編纂掛に貸し出されており唯一火災から免れえた。
平部喬南、齢60から70歳の頃にリュマチの持病をもろともせず全県下山野をくまなく踏破した。
実測正確なる統計推敲を重ねたゆえに地誌を比類なきものにした。
身を賭して1700ページの大著となった。
わが都於郡の山田を見ると驚くべき記述であった。
山田地域は6っの寺社が記載してあり、それは宿泊できる宿坊であったことを平部喬南は記している。
そこには古くから伝わる温泉が現在も山田温泉としてあり喬南の記述と合致する。
いまは山全体が大きく掘削され無残な惨状を喫している。どこに行ったのか。
旧道の根土或いは土葉で使用されたのであろう。
伊東氏の日向下向の最初の宿泊所がこれである。
もっともせきやん史観ゆえ誰も取り上げないであろうが喬南の日向地誌の記述からではことは大変なことになる。
発掘もしないで文化財保護法違反の状態ではないか。
施工したのは東国原知事の進める行政機構の廃止案で地元が騒いでいる宮崎県の土木事務所である。
かすかに残ってる神社仏閣の山田神社は学校となり、また、他の寺はたとえば馬頭観音墓地となり、
その戦闘馬、農耕馬の墓所には幼少時に馬、子牛を埋めにいったのを覚えてるのにその馬頭観音墓地でさえ
ナント誘致企業の工場となっている。
大丈夫なんであろうか。山田地域のこの文化財の破壊状態。
寺社は祇園と幾つしか残ってない。
何も明治政府の悪行たる文化財破壊の廃仏毀釈が吹き荒れての責任に帰したくもない。
手がけてる書き物の始まりはこの書からの啓発がきっかけである。
伊東家日向下向の始まりをここから書き出したせきやん。
・・・
日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いたが
家督をめぐっての争いは家臣団をも巻き込んで壮絶な歴史を残している。
日向西都・都於郡での伊東家には地付きの四天王・山田、荒武、津留、大脇がいた。
稲津、落合、湯地、川崎は従って下ってきた四天王。
初めての顔合わせのとき、
下向の衆として客間、
居付の衆として主座に着した地付き四天王。
これは先例となりこのことが家臣団にはいろいろと困難が生じ、お家の一大事になった。
「鎌倉殿に置かれましては執着至極。」
「まったく面目ぼくござラン。今しばらくお時間をいただきたい。」
「なんの。不首尾は当方でござる。
よしなに取り扱いをお願いいたす。」
建武2年1335年12月足利尊氏、京に上る
伊東祐持の軍、三条河原で戦功ありて、都於郡300町を賜る
日向の形成不穏に小山田を先発せしめ下向
向ノ城にいる。
山田の宿坊でのこの会談が日向の今日を指し示している。
秀吉の国割で日向は5藩で運営され、家康の時代もそれは変わることはなかった。
廃藩置県の明治の御一新で旧藩主のお城の後が県庁になった。
宮崎と札幌のみがお城の後に県庁が配置されなかった唯一の県である。
明治6年から明治16年まで今の形の宮崎県は存在せず鹿児島の一部であった。
さらに宮崎県内は戦乱の明治10年の西南戦争である。
平部喬南の息子俊介も西郷軍に従軍しての参加に心を痛め、その戦死にいたっては惨儀の涙を禁じえない。
陸の孤島との形容詞はいまだ消しえず生活インフラの整備は全国一進みが悪い。
宮崎県新誌は佐伯英雄の著作として昭和26年に刊行された。
そこで「宮崎は陸の孤島」と書かれた。
この場合の根底にあるのは現在の環境を前提にした話で陸運が基準である。
ズーッと以前の海運中心の生活のその地域の歴史は踏まえてはいない。
縄文海進の命名者は考古学に造詣が深い江坂輝弥。
6000年前は現在よりも海抜で1.5Mも違っていたと科学的データーを示す。
首都・東京は現在地より50km奥地まで海水に覆われていたことになる。
その頃の日本列島を見渡してみると当時の生活の基本であった海運の良港が少なくなる
日向灘は単純な海岸線であるが
海抜1,5Mでの日向の単純な海岸線は海没し、複雑なる屈曲のある多くの船舶停泊の港湾
があったことが見えてくる。
西都原古墳群がある大地から中心部を見ると御船通りの船着場の云われも理解できる。
縄文海進の基地は集荷場として中心地をなし、海没する現在の街並みを大きく変えることになる。
古事記日本書紀の記紀の話が伝わる神話の国はこのことが大事である。
生目、西都、新田原、高鍋持田とまとまった古墳がある地域の海抜は同じ高さになる。
入り江のある海岸線がくっきりと現れてくる。
日向の地から神々が生活を始めるには運搬に有利な良港がありお話が合ってくるのだ。
悠久の太古の大河の雄大なる流れ海水が引いていき豊穣なる土地が誕生する。
地図にある緑の部分の肥えた平野部分の誕生である。
後には稲作がもたらされ、日本人類の祖は定着していく。
逆に日向の海岸線は単調で良港はなくなっていく。
その後の安定期が続き治水で日向太郎の大淀川が改修される。
宮崎市内の伝統校大宮高校の学園祭の弦月祭の名に名残を残す大きな池はあざ図にはある。
明治期には大きな池があったのである。
西南戦争当時の現在の県庁周辺や中心地の山形屋デパート近辺は市内は大淀川の湿地帯の面を残していた。
昭和7年建設の県庁の基礎には湿地であったゆえ多くの松ノ木が杭打ちされ現在の建物が建っている。
10月8日の毎日新聞の人欄に、にっこりの写真が出た。
山本麻由は東京の人
イグ・ノーベル賞化学賞をこの4日に受賞した。
牛糞からバニラ香を抽出したのである。
くさくて重いので処理をとの悩みを解消するのが取り組みのきっかけ。
水を加え熱する
温度が高すぎると焦げ付き温度が低いと消えない
試行錯誤2年を経てバニリンの抽出に成功
お茶を炒ったような香ばしい香りと
研究成果は人を笑わせそして考えさせる
裏ノーベル賞といわれるイグ・ノーベル賞化学賞を受賞した。
実はこの人・宮崎大学を卒業しておられる25歳。
国立国際医療研究所勤務の頃の成果であるとの正直なる戸惑い。
不要をを役に立たせる
ハバード大学一級の研究が外資系医療機器会社勤務。
今年のノーベル化学賞はフランス、ドイツのアルベールフエル、デームグレインベルクの二人が受賞すると10月9日
発表された。ラジオからゆえスペルに自信がない。
二人の研究の微磁力のことは今日の生活になくては成らないものとなってる。
ハードデスク、ナノテクの研究はパソコン携帯電話と実用化に大きな貢献をしている。
2000年白川さんが二人目のノーベル科学賞を受賞したのは10月10日であった。
昭和52年新宿の歌声喫茶「ともしび」が閉店した非も今日である。
今では移転再開してにぎわっているらしい。
沖縄空爆そして東京オリンピックの日。
制度変更についていけない脳状態には休日の体育の日。
夏目漱石「草枕」のなかで云う陶淵明の詩文の一節をよんでの
「利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」とはこの二つのニュースのことにドン・ピシャッ!
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