歴史の教訓

2008年3月4日
勧善懲悪の単純ストーリーに喝采を寄せていた団塊の世代の娯楽性の読み物、映画。
洋画より邦画の方に絶賛を寄せた理由はそこにある。
チャンバラ映画は実に善悪がハッキリしてて爽快スッキリしたものだった。

悪役スターなるものがスクリーンに裏主役と嫁してポスターの出演者の最後を彩った。
山形勲月形竜之介進藤栄太郎黒川弥太郎・・いくら斬られても大親分ゆえ簡単に崩れ倒れない。
やっとやっつけた。
スクリーンに向かい拍手が沸く。
学校教育の一環で校長以下みんなで映画館行ったものだ。
実に牧歌的国家教育風景。
このことが思考生き様に影響しないはずが無い単純明快なる純朴なる団塊世代。

横山光輝の描くマンガ「鉄人28号」で巨大ロボット鉄人を操る操縦機は正義の少年正太郎君が持ってるもの
が当たり前。
ある日コペルニクス的大転換の思考の試練を迫られる我が常識に衝撃が走った。
あらんことか、まさかまっさか悪人がその操縦器を盗み操ることとなった。
鉄人が悪事を働き始めたではないか。
この世代は唖然として信じがたく迎え入れることは出来ないほどであった幼児時代。

大都会には人騙しが横行、憧れの裏返しに暗い暴力の蔓延る組織の人々が
人攫いの住む怖いところでもあった。
田舎の議員さん助役さんがその程度。
だぁれも用の無い東京ナンゾには行ったことが無い。

それでも村ごとにラジオ店パチンコ店自転車店豆腐店お店が共存し総ての人々が食えていた。
それらを支える商品経済が成立していた。
気のきいたところには置屋芸子等大人の遊び場があった。

資本の蓄積構造の商品経済社会は牧歌的の流通で早くなくユックリ時は流れていた。
賞味期限なんぞ自分の持つ匂い味覚記憶で見抜き思わず「ペッ!」と吐き出した。
生活の隅々まで国家に委ねる現代社会は窮屈でたまらない。

仕来たりを守れば村社会は実に全体的アットホーム。
生活の角ズミまでの助け合い機構のミニ国家。
他人の家のコメビツもみえる共同体。

覆い隠されてきた食の危機は中国ギョウザ事件で露呈してしまった。
石化資源の高騰から代変え資源にもなる穀物類が高騰して拍車をかけている。

国の舵取りの困難性は政治の与野党の議席の緊迫化も相俟って多難である。
国家指導者や各種指導者に過去の経験が大いに役立とう。

民主主義なる架空の無責任社会はバーチャルの社会が牛耳るIT業界の世界支配もあり
より擬似生活洋式化が深まり没個性化の引きこもり現象の中での自己主張となっている。
野性味溢れ生きた汗を流す生活の復権が食問題の職種の復権にも繋がろう。

農家の嫁が全く無き風潮の状況ではその職種に受け継ぎは無く再生産がありえない。
65歳以上が70パーセント近くの就労人口構成の異常さがそれを証明している。
国産品愛用は食からが現代をとくキーワードともなっている。

そこには農作業の特殊性からの共同体機構があった。
神が鎮座し収穫前後に人々は祈りを捧げ、また余暇を楽しんだ。
日本の文化の原点である。
この国は一世代前までは稲穂の国であった。

今求められてる社会の改革の基本は
国家の近代性の起源に立ち返っての再出発である。

国内の日本海軍の規律の弛緩はアジアでの衝突事件と全般的な問題として現れている。
禁止の飲酒などが表面化。
3月自販機限定禁止に発展した禁煙の厳しき動きとの関係が一方的である事が取り沙汰ざれ得ぬものか。

海難事故でいうなら国家的英雄の先見性に教えられる。
日本での蒸気船同士の衝突は一介の浪人坂本竜馬と徳川御三家紀州家との自己を初めとする。

広島県福山市鞆 の浦。
尾道に隣接したこの場所は、古く室町時代から栄えた港町。
江戸時代の港湾施設の形を完全にとどめる我が国に唯一残った現役の港湾。
ここで作られる保命酒という甘い酒はペリー来航時に接待用に振舞われた。
これによって財を成した太田家住宅を始めその町並みは江戸の町並みを残し、多くの重要文化財がある。。
アニメ映像作家宮崎駿監督お気に入りの地。
日本最初の海難事故と言われている「いろは丸事件」の舞台
坂本竜馬ゆかりの地として訪れる人も多い。
ブログから記録を再現させてもらうとこうである。

慶応三年(一八六七)四月、亀山社中が海援隊となって最初に使用した船いろは丸。
この船は薩摩藩五代才助の周旋によって、日数十五日一航海五百両を支払うということで、
大州藩より借りたもの。

この年の四月十九日、いろは丸は鉄砲、弾薬、その他の荷物を満載し、長崎港を出帆した
乗組員は「今日をはじめと乗り出す船は、稽古はじめのいろは丸」と声高らかに歌いながら、張り切って精出していた
二十三日午後十一時頃、いろは丸が讃岐箱の崎の沖にさしかかった時、
折からの濃霧の中から紀州藩の明光丸が現われる。
いろは丸は舵を左に切って衝突を避けようとしたが、明光丸は舵を右に切ってそのまま進んだため、いろは丸の右船腹
に衝突。このためにいろは丸は沈没。
これが日本海難史上初めての、蒸気船同士による衝突事件。

この事件に対して竜馬と土佐藩家老象二郎は徳川御三家の威光をかさにきた紀州藩に対して
、毅然たる態度で理論と巧みな弁舌で臨み、さらに竜馬は世論操作をして、長崎市民の同情を海援隊側に導き、紀州を屈服させ、
調停へと持ち込んだ。
この事故の賠償金は七万両。
このことがあとあとまで残ってしまった。

坂本竜馬、中岡慎太郎両名の暗殺は、海援隊、陸援隊両方と、新撰組の対立を深めた。
他にも、大政奉還を為した坂本竜馬は薩摩、長州、そして会津及び新撰組ら全てから
狙われており、暗殺犯が誰なのか諸説が入り混じる。、

海援隊の陸奥陽之助(宗光)は紀州藩と
新撰組の仕業と考えていた。

坂本と紀州藩は、海難事故による損害賠償で揉めていたからである。
現在では坂本竜馬の暗殺犯は、明治以降発見された資料や、証言により見回り組今井(会津藩配下)の仕業とほぼ断定されている。

さて、紀州藩士三浦休太郎は身の危険を感じて会津藩に身辺警護を要請していた。
京における会津藩の役割を考えれば当然であるが、会津藩はそれを新撰組に命じた。
新撰組からは、斎藤、大石他 計10名が派遣されていた。

慶応3年12月7日、陸奥は海援隊士16名をもって三浦の宿泊する天満屋を急襲。
三浦他、紀州藩士3名、新撰組10名と大乱戦になる。
乱戦の最中、機転を利かせた新撰組隊士の誰かが『三浦討ち取ったり』と叫んだ。
それを聞き、襲撃隊は引き上げた。

叫んだのは原田左ノ助されがこのとき天満屋にいた事実は無い。
この結果の被害は、海援隊隊士中井が斎藤一に斬られたのを始め、重傷3名。
新撰組が死者1名、重症 後死亡1名。
痛み分けであろうが、
海援隊側は当初の目的を達成していない事を考えれば政治的には新撰組の勝利。

政治的味方とはそのようなもの。
二代目大臣の辞任で日本海軍の一連の事故の幕ヒキ。
教訓は生かされるのか。
国家の危機は続く。

処方箋は無いのか混迷の時代。
明治期の英傑、団塊の世代の私心無き国家を思う熱き政治的行動の原点が見直されるべきである。

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