日向の歴史

2008年4月14日
もの言えば・・唇さむし・・言論風圧の状況は映画靖国の上映中止だけでなく
ブログの世界にさえチェックでの恐怖として自由闊達なる表現を奪っている。
世相万事が之で歴史の隠喩で表現せざる得ない状況。
実に疲れる=憑かれる時代である。

 天皇家のことがマスコミに漏れ伝わる。
触れてない日常の天皇の朝の行事に神事がある。

国家国民の安寧を祈念して「ハレ」の状態の維持である。
ご自身のご病気の身体をお気づきのようで、DNAの受け継ぎを意識されてるようだ。
日常の伝えねばならぬ事の焦りからの参内を増やすようにとの天皇の親心が伝わらないようだ。

田舎では早朝敷地内の10ヶ所を超える神々に一番先に捧げた。
ご飯を小さき器に盛り、お茶共々あげ、祈った。
家族はその仕来たりが済まぬと朝食にありつけなかった。
庶民でさえその暮らしの仕来たりぶり。
天皇家はひたすら民のカマドの煙を心配されるのが日常の要諦。

 祓詞は奏上することによりおのずと
 罪穢れを祓い清める畏き詞として
 現在も日本全国の神社において
 必ず奏上されている

大淀川の最下流は、古くから「小戸の渡」と呼ばれ、この地を訪れた三位入道・伊東義祐が神話の世界に思いをはせて詠んだといわれる歌碑が市役所の東玄関近くに立っている。

「神代より その名はいまも 橘や 小戸のわたりの 舟の行く末」

 小戸神社駐車場の隅ににある句碑。
 「前の世じゃ 志こたま貯めた 男なり」

 こんな捨て台詞を辞世の句にしたのは、
日向狂歌の生みの親、
目野丁勘切(めのちょかんきり)こと、
 目野清吉。
 (ちょかんきりとは『蜥蜴/とかげ』のこと。

為政者は目に見えぬ心労を背負っての日々を過ごしている面がある。

元亀二年大隈肝付、球磨の相良義陽(ヨシアキ)が島津討伐に動いた。
飯野襲撃である。
ところが間に合わず伊東軍が日向支配地を追われる結果となった。
   ・・・・
敵をあなどり軍法みだりにありしかば、おのおのせん議して供えを堅うして引き取り給えと制しけれど
過半若き大将にて下知調わず、薩州の士卒如何ばかりのことをか、してかすべし。
竹竿一本にては打ち破らんものをと声々によばとて・・日向記は記す。
そのころの心教に通うじたもの。

飫肥の経略の、のちの満足ソ手入る心境
入道権威重く、して、三州の大守とおぼしめしいりたるもことわりなり・・・日向記

伊東軍は列伍を乱して休憩した。
甲冑を脱いで急速水浴。

吉松からの援軍と加久藤を去った。
夫人広瀬と兵300を飯野に残し加賀源四郎、新次郎又次郎弟伊東右衛門
間に合わなかった相良軍。
関が原の家康軍本隊秀忠見たいなもの。

島津との決戦、
真幸口を平げんと元亀3年5月の初め、大軍を催し、まず三ッ山(小林)に軍勢をそろえ
加久藤城を打ち破るべし。と5月3日夜半加久藤城に押し寄せた。

伊東新次郎、伊東修理亮祐青、伊東又次郎若手の大将総軍を引率し民家に火を放ち城に押し寄せた。
城の搦め手、鎌掛口は樺山浄慶と言う山伏父子三人が細道の瀬戸合を防戦。
城中よりも馳せ続いて戦う内、白々と空け始めた
新次郎は叔父相模の守祐梁のこで22歳又次郎25歳

伊東勢はまず飯野川に退いた。
「薩摩の分際何程のことがある。」
「竹竿一本にて打ち払うべし。」
隊伍乱れて整わず、かくては危うしと老巧の武士は制したが命令行われず、薩摩軍を侮っている。
頃は5月の頃なれば暑さはあつし
、衆皆物の具脱いで飯野川で水泳ぎをした。
総大将伊東加賀守祐安は黙っていて笑っていた。咎めなかったのだ。

重い鎧いは焼け顔は真っ赤で汗が滴り落ち、のどはからからに渇いていた。
目の前の清流を見たとき先発隊はとっさに発しリ出した。
何事かと三千の軍勢は色めき立ったが、目の前の一筋の清流に歓声が沸いた。
「水」「水」
争って川に向け走り、思うままに水を飲んだ。
霧島山系寄り染入り湧き出してるゆえに冷たく甘い。
太陽に参ってる木や草を尻目に、山野を走り抜け川に飛び込む。

頭を水に突っ込んで冷やしたり川の中に全身を浸た少しでも体を水にぬらそうとの本能である。
なるほどとまねをするものがでてくる。
これから加久藤城を取り囲む途中の出来事だ。
今に思えば油断である。
具足を脱ぎ水遊びをしながらも遠くに10~20の騎馬がみゆるが、遠見のものの伝令ぐらいであろうと
楽しみを続けていた。

ところがその騎馬隊の後にも数十騎見えている。
先頭の騎馬がそのまま裸同然で水遊びに夢中の中に斬り込んできた。

「島津軍だ!」
怒声が叫ばれるときには、鮮血がすでに飯野川を染め始めている。
逃げまどう伊東軍と戦闘状態の島津軍とでは見ただけで区別がつく様をなしている。

慌てて脱ぎ捨てた刀や槍を探そうにも騎馬隊のあとに将兵が斬り込んできている。
獰猛果敢に戦いあうのでなく、また戦列優位な凄惨なる戦さでなく
武器を持ってるものと、裸同然の素手で逃げ惑う修羅の景色をなしている。
かろうじて岸に上がったものの劣勢は如何ともしがたい。
三千のを誇った伊東勢も不覚ともなんとも形容のしようもなく潰滅した。
総大将の加賀の守は敵陣に馬を走らせ突入した。

時代は幾星霜変わろうと繰り返される変わらぬ状況。
日向人の悲劇の業の原点である。

伊東家は一時滅び、朝鮮出兵で功をなし、子息が日南でお家再興を果たしはしたが、勝手の力強さは畏縮してしまっていた。

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