今日の誕生日の花は・・キンギョソウ
花言葉は・・・・・・・清純な心

千年のときを経て平成の世に降り立った「源氏物語」全54帖
光源氏とその十数人の愛人との物語。

源氏が書かれてから丁度、1000年の根拠に
1008年(寛弘511月1日)紫式部日記にある中宮彰子50日祝いに
このお話が出てくることを根拠とする。

それがあるからではなかろうがこの歴史長き国には
1945年の戦争敗北で国土が焦土と化したにもかかわらず
いろいろと歴史的なものが出てくる。
やはり神の国なんであろうか。

去年今年 貫く棒の 如きもの

虚子もうまくいったものである。
よって心洗われての毎日が新年の如き新鮮さである。

ニュヨーク・クリスティーズには運慶作大日如来像が日本人が出品して
海外流出が心配されたが三越が14億円で落札。依頼者は真如苑。

奈良円成寺の一体のみが国宝でいずれ同じ事になるほどのものらしい。
宗教学者島田裕巳の論から書き興してるがいずれアップロードしよう。

東大寺正倉院は不思議なる時空をこえたる歴史のポケット。
かっての寺院の領地の絵図も18枚保管されてるようだ。
実は江戸期までは19枚あったらしい。
東大寺荘園絵図は江戸期に流失。
それが発見されたと25日朝日紙が教える。

越中国射水郡鳴戸村墾田図で
今の富山県高岡市。
サッカーに熱中されるパワー溢れる生き方のお方のお国のこと。
役所の図画書類にしては随分と大きなものだ。
  77×141
条理と区画ごと開発状況がわかる。
東大寺の所有地は670haで朱色で囲まれている。
759年(天平宝字3年)に書かれたもの。18点は奈良中期
ネタから作品短編が書けそう。

千葉県佐倉の国立民族博物館の保管する
「額甲寺伽藍並条理図」と同じ頃の製作品で19枚の中では一番古キモノ。

古代の中心であった同じ近畿でも、滋賀県南部と京都、奈良との府県境辺りが
知ってる限りの事で歴史の表舞台には登場してない歴史の履修不足。
この地は都があったんである。

奈良の昔に紫香楽宮(しがらきのみや)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡から、
万葉歌の木簡が初めて見つかった
8世紀中ごろのものという木簡には、古今集仮名序で安積山の歌と共に
「歌の父母」とされた・・難波津(なにわづ)に・・もあった。

「安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」
「難波津(なにわづ)に咲くや木(こ)の花冬こもり 今は春べと咲くや木の花」

表の最初のほうは
葛城王(かづらきのおおきみ)が陸奥に遣わされた時、国司にないがしろにされた王が怒り、接待の宴がしらけた。
その時ある采女が山の井の水を手に、
王の膝(ひざ)をたたきながらこの歌を詠んで機嫌をとりもったという

古今集仮名序が、安積山の歌は采女の戯れから詠まれたというのもこの話を受けてのことだ。
歌にまつわる物語や伝承は「歌語り」というが、長く歌い継がれるうちにこの歌はさまざまに語り継がれ、「歌語りの王座を占めた」(伊藤博著「萬葉集釋注」集英社文庫)

二つの歌の組み合わせは古今集の150年前にさかのぼるらし
木簡の歌が万葉仮名で書かれていたことも、従来の有力説より古くから歌に万葉仮名が使われていた証拠になるという。
万葉集の成立事情にも新たな光があてられよう。

ブログから・・
紫香楽宮
740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂町付近)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。
これが紫香楽宮である。

山に囲まれたのどかな里、信楽。はるか昔、ここに日本の首都があった。
翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願。

これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。

聖武天皇の天平14年(742年)、国家安寧を願って大仏建立を行うため、
紫香楽宮(しがらきのみや)の造営が始められた。

発掘調査により宮町地区に紫香楽の内裏があり、黄瀬・牧地域に広がる各遺跡に役所や寺院、居住ゾーンが分布していた
市街地の規模は、平城京のほぼ半分くらい。

宮町遺跡から出てくる遺跡はヒノキの建築素材、美しい器など、他の遺跡とは比べものにならない。
今日まで紫香楽宮とされてきた史跡は、甲賀寺では、と推測されている。

奈良から1日という距離、穀倉地帯が広がる近江の国の豊かさが首都移転の決め手?。
また、大津から草津にかけての瀬田丘陵では大仏建立には欠かせない製鉄が盛ん。
しかし、山火事や地震のため思うように造営が進まず、結局4年余りで平城宮へと、再び遷都。
大仏は奈良で完成させられ、紫香楽宮は幻の都となった。

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コメント

うどん
うどん
2008年5月26日23:25

越中国射水郡までは知っていましたが、鳴戸村は初耳。
墾田図、77×141というと畳1帖に近い大きさですね。
書いてあること、なーんにも知りませんです、はい。

脳みそがサッカーボールみたいにつるつるになってるかもと心配になります。でも、土曜日、憲法ミュージカルというので、フィリピンの慰安婦の女性を描いたものを見に行き、涙が止まりませんでした。まだ感性は残っているようです。

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