100年

2008年6月18日
今日の誕生日の花は・・オオマツヨイクサ
  花言葉は・・・・・ほのかな恋

菊地寛は文芸春秋社を興し、食えない文士の生活と創作の物心両面から支えた。
とくに芥川賞と直木賞を創設して世間を文学に向けさせ知的向上を図った。
今日の文壇の隆盛、作家の名声を社会に位置付けたた功績は大きい。

第1回芥川賞は1935年に石川 達三(1905年7月2日 - 1985年1月31日)が受賞。
受賞作品の「蒼氓そうぼう」は自ら1930年にブラジルに渡り、数ヶ月後に帰国。
ブラジルの農場での体験のそのことを元に文学に昇華させた。
ほかにも 吉村昭は、1994年『白い航跡』上、下講談社文庫、で作品にしている。

洞爺湖サミットを7月7日に控え蔵相、環境、科学省、外相とお膳だての会議がつづいている。
米国のサブプライム問題に端を発する経済混乱問題は世界を襲い
記録的な原油の値上がり、食糧問題まで波及してG8のワクでは解決つかない状況になっている。

BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)と呼ばれる躍進する新興国が影響力を増している。
ロンドン・オリンピック後の大会候補地は4ヶ国に絞られその中に名を連ねる。

米国・・・シカゴ
ブラジル・リオデじヤネィーロ
スペイン・マドリード
日本・・・東京

アメリカ経済の収奪体制の元にブラジルはかつて高インフレで苦しんだ
アメリカ経済圏から離脱して南米経済圏を自立させそれを乗り越えてきた。
サトウキビを原料にしたバイオエタノールをガソリンの代替燃料として普及させ、
その輸出量は世界一を誇る。

大豆など食料農産物の輸出も増えている。
レアメタルなどの資源を持ち、食料輸出国のブラジルと、資源が乏しく食糧輸入国の日本。
この2つの国をつなぐ架け橋が日系移民の人たち。

日本国家の暴走の戦争で捕虜収容所に隔離され断絶されたが努力で修復
「日本人は勤勉で約束を守る」
その積み上げがブラジル現地の人の信頼を得る。

サンパウロ州だけで日系人市長が27人(2007年9月時点)
密林の過酷な環境にも負けず、夢を失わず、したたかに生き抜いてきたブラジルの日系人

神戸港を出港した初のブラジル移民船「笠戸丸」が
サントス港に着いたのは、

1908(明治41)年6月18日
   それから100年後の今日は
 2008(平成20)年6月18日

コーヒー園で働くために781人の移民が乗っていた。
歓喜の思いで上陸したものの、環境の劣悪さと重労働に
こんなざれ歌もはやった。

「地球の裏側来てみれば 聞いて極楽見て地獄」
時期もわるかった。コーヒーの暴落が吹き荒れてた。

初代公使珍田捨身、二代目大越1899年(明治32)
そして三代目公使が移民を大きく成功裏に導いた。

杉村濬(ふかし)は1905年38年赴任
大統領に面会して移民受け入れを要請しブラジルのあちこち巡って
ブラジル全体の雰囲気をいい方向にさせ移民の了解を取り付けた。

杉村の向かうブラジル国内はどの会場も歓迎ムードで沸いた。
丁度、大国・露国の世界一のバルチック艦隊を日本海で完璧なまでに撃沈させ壊滅させた。
史実でいう日露戦争の小が大に勝つ大勝利である。

終結の話し合いは米国・ポーツマスで全権は宮崎の人小村寿太郎が当たった。
戦争賠償金と樺太の半分の割除で脱亜入欧の工業化近代化の資本として日本の礎になった。

日本にはイギリス、アメリカ
ロシアにはフランス、ドイツ

察するところ民族的優位性が言われてた白人と有色人種の戦いの面が
歴史の流れからあった面も否めない。

トルコインド中国ベトナムイラン世界の有色人種の国は狂喜乱舞
当然有色人種の国・ブラジルにも届いていたろう。。
見た目も体力的に貧弱モンで内気のしゃべりベタだが
、「勤勉で責任を果たす。」
大国ロシアをやっつけた弱小のハズの有色人種。・・・

キリスト文化教養の国は
「少年ダビデが巨漢ゴリアテをやっつけたことを想定した。」ハズ。
目の前にいる三代目公司の杉村濬(ふかし)そのもの。

宣伝戦にも笠戸丸は役に立ったことであろう。
略奪した戦利品の大国ロシアの船たる笠戸丸ゆえだ
その船で移民はやってきたのである。
ブラジルの行く先々で歓迎された。
移民がうまくいった一つにこのことを挙げてもいい?

ところがこの杉村濬(ふかし)は韓国公司山口萩の人・三浦梧楼のもと、
臨時代理公使として岡本柳ノ助等とともに中枢として
韓国王宮その制度を破壊した閔妃暗殺事件に中心事物として参画。

乙未事変(いつびじへん)とは朝鮮国王王妃明成皇后であった閔妃が
1895年10月8日に暗殺された事件。
韓国語ではウルミ、俗に「明成皇后 弑害事件」とも呼ばれる。

世界の非難を浴び、日本に逃げ帰った

「謀殺及兇徒聚衆」の罪名で広島監獄に収監さる。
明治29年(1896)1月広島地裁予審で免訴。
この時代はのんきなものだ。
明治32年(1899)6月には外務省通商局長、
明治38年(1905)ブラジルに駐箚、移民事業に尽力する。
明治39年5月21日任地で病死、59歳。
お国は・・どこ・・の・・人・・?
、岩手県盛岡市生まれ。
  ・・・あっ!そう・・・
  ・・・100年目・・・
神の国・・・お祓いでハレにせねば。・・・

国史大辞典 吉川弘文館、昭和62年刊行 杉村濬(ふかし)

明治7年(1874)台湾出兵に参加。
帰国後は朝鮮問題に関心を抱き明治11年(1878)横浜毎日新聞社に勤務。
11〜12年頃、自らの朝鮮論を新聞紙上に登載する。
神奈川県令野村靖の紹介で日向の伊東藩の同じ先祖に当たる岡山備中岡田藩主
伊東氏 の臣・花房義質駐韓公使に面会し、明治13年(1880)4月に初め
て渡韓をはたす。
外務省御用掛、副領事、二等書記官、領事、一等書記官を歴任し
釜山、仁川、ソウルと朝鮮勤務に就く。

長男は、外交官で、新渡戸稲造の後任として1927年国際連盟事務局次長に就任し、
後に駐仏大使等も勤めた杉村陽太郎(1884−1939)。
昭和6年(1931)12月、父・濬(ふかし)の「苦心録」を、
韓国併合史研究資料39巻として龍渓書舎2003年6月に出版。

 それから100年の歳月が流れた。

皇太子はこれらを知ってかしらずか一人日本国を代表してお祝いに駆けつけている。
北京オリンピックには先のトップの来日での招待依頼に返事もしないのにこうである。
それほど深い両国の関係である。

第1回移住者が笠戸丸でサントス港に入った今日18日を中心に
ブラジル各地で記念式典が開かれる。

持ち歌の演歌に「石狩挽歌」がある。
なかにし礼作詞・浜圭介作曲。1975年の作品。
北原ミレイが唄い演歌ゆえ程度のヒットがある。、

海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
わたしゃ夜通し 飯(めし)を炊(た)く
あれからニシンは
どこへ行ったやら
破れた網は 問い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠戸丸(かさどまる)
わたしゃ涙で
にしん曇りの 空を見る

かつて関西空港に乗り入れていたブラジル航空は
MD-11機にこの笠戸丸の名前をもつ。 

第二次世界大戦では敵国同士になり、国交を断絶。
苦難を乗り越え、日系の子孫はそのDNAを六世にまで世代を広げ、約150万人まで膨らんだ。
当時、移住したのは158家族781人(その他自由渡航者10人)。

 「宮崎県南米移住史」によると、
本県出身者のブラジル移住第1号は、川南町出身の甲斐長蔵。
1914(大正三)年4月にサントスに上陸した。
笠戸丸から6年後のことだ。

宮崎県からは戦前・戦後を通じて
石井十次の茶臼原農場学校の出身者など10家族60人がブラジルに移住したのは
1926(15)年5月。

1949(昭和24)年9月10日、ブラジル宮崎県人会が発足した。
「宮崎弁でしゃべれる場所を」
県人会は来年、発足60周年を迎える。

「さるきすぎで〜ひんだれた」と
さすがに「よだき〜 のさん、たまろろか 」は禁句だろうか。
「どんげかせんといかん」だけがひびいているんであろうか。

宮崎ブラジル親善協会は18日から24日まで展示会を開く。、
ブラジル日本移民百周年記念写真展「新世界に渡った日本人」
宮崎市の壽屋跡・ビル=カリーノ宮崎8階で開催する。

宮崎農業青年がブラジルで研修する制度も今年で26年目
同期生もかって参加している。

サントスはいまや知らない人はいない。
わからぬ人は愛読してるブログのうどんさんに教えてもらうがいい。
ファンには聖地の一つなんであろう。

サントスはポルトガルの植民地時代から港湾都市として栄え
、サンパウロ市から南方60キロの位置にあり
、2本の高速道路の他、幹線道路や鉄道で結ばれている。
事実上内陸都市であるサンパウロの外港として機能している他、市街地には工業地帯がある。

市内は石畳の古い町並みとコーヒー取引市場が有名。
郊外にあるグアルジャはビーチリゾートとして人気が高い
サントス市との姉妹都市は
 下関市
  長崎市
サンパウロ州との姉妹県は
 富山県
 三重県

奇数なる船の一生がある。笠戸丸のことだ。
ブログから
1900年(明治33年) イギリスの造船会社(Wigham Richardson & Co.,Newcastle,England )で建造、
          竣工され、ロシアの船会社(Russian Volunteer Fleet Association)で貨客船Kazan号として使用される。
1905年(明治38年) - 日露戦争中、旅順港内で被弾し沈座していたのを日本海軍が浮揚し捕獲。
           日本海軍に移籍し「笠戸丸」と改名。
1906年(明治39年) - 海軍省より東洋汽船が運航委託を受け、ハワイへ移民646名を運ぶ。
1908年(明治41年) - 皇国殖民会社(社長:水野龍)の依頼によりブラジルへ第一回移民781名を運ぶため
          、サントス港に向け神戸港を出航。
1910年(明治43年) - 大阪商船が内台航路(神戸−門司−基隆)に使用するため傭船。
1912年(明治45年) - 海軍省から大阪商船に払い下げ。同社の南米航路に使用される。
1930年(昭和5年) - 大阪商船から個人に売却され、いわし工船に改造。
1931年(昭和6年) - 東洋工業に売却される。
1932年(昭和7年) - フィッシュ・ミール工船に改造。
1934年(昭和9年) - 新興水産に売却され、後に太平洋漁業に移籍する。
1939年(昭和14年) - 日本水産に移籍、後に日本海洋漁業の所有となる。
1945年(昭和20年) - カムチャッカ半島西岸ウトカで操業中ソ連機の空爆により沈没(一説には、
          ソ連軍により捕獲、乗組員を下船させた後爆破)。

今もなお鬼哭(きこく)の声が耳につき わが巡礼の旅は終わらじ。

アマゾンの読経を新聞がおしえる。
 
長年、海外移住者の援護活動をしていた
日本海外移住家族会連合会の初代事務局長、藤川真弘(本名辰雄)の歌。

ブラジルの密林で無縁仏になった移民の存在を知り、
その鬼哭啾々(しゅうしゅう)の声に突き動かされ、57歳にして仏門へ。

移民が夢に見たであろう富士山を望める伊豆大島に観音像を建てた。
「海外開拓移住者菩提(ぼだい)・富士見観音堂」。30年前のことだ

自給自足の堂守となったが、8年後、読経巡礼先のアマゾンの川岸で自ら消息を絶った。享年70。

その生涯は18年後、在ブラジルの映像作家、岡村淳がドキュメンタリー映画「アマゾンの読経」として記録、
苦難の移民史に刻まれている

新聞は伝える。
藤川死後、荒れ放題になった観音堂。
それを知った日本ブラジル交流協会の研修生OBが時折、「お掃除合宿」に訪れている。
「国による棄民」を嘆いた藤川坊師日本ブラジル交流100年の新時代をどう指し示そうや。
  梅雨のせいか、いとおしくも悲し・・ブラジル百年

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