今日の誕生日の花・・ハイビッカス
花言葉は・・常に新しい美

洞爺湖サミットの舞台裏が聞こえずらく緘口令が厳しいのが予測される。
沖縄サミットから今回のサミットの舞台裏を想定するしかネタが出てこない。

もてなしは外交そのもの。扱い方一つで格がわかる。
会場やスタッフで全てが透けて見える
ウェーターの衣装一つそうである。

スタッフの衣装はコシノジュンコが総担当。
まず靴からなじませた。

飲み物は泡盛。
ソムリエ田崎真也が創意を凝らした。
食事全般に物語性をもたせ語り草になるほど評判をとった。
たとえば飲み物の泡盛は
サミット参加者の全員の平均年齢にあわせて
  「56,6年」=56,6度に統一した。

う〜〜ん、さすがにニックキ・江戸の粋!

聞こえてこない洞爺湖。
豪華な施設は豪華な景色。
長崎よりの女性支配人。ハレ穢れの国で儀礼はすんでたのであろうか。

だって誰しも気づかねば可笑しい。
なんぼ室内であろうとハレの天候なしにこの景観は無いではないか。

アメだったであろうが。・・・雨アメあめ・・・
神に祈る形式でもいいから儀式はあったの?
まったく週刊誌などでも公表されて無い奇怪さ。
そりゃぁ〜たたるわ〜。

昼間、借間探しの流れからあの八紘一宇の八紘台の近くにお住まいの方を
炎天下訪ねた。高台ゆえ上り坂道。
7〜9の宮崎は人の住める所ではない。

冷風があったので何とか生きてついたがアポなしなので居るはずが無い。
実にバカげた・・・仕事の出来ない奴とのコンビほど辛いものは無い。

私は大家さんもすべて事前に電話してJリースなる保証会社を通さぬ
不動産会社を見つけお話をした。

ただ住むのは借家を探してる人。
出っ張るのは最終本人である。

夕方スーパー銭湯に二人で行く。お代金450円なり。
「かなわん!自分で出せ!」
  おい!おい!
「銭湯行こう」と誘っておいて・・それはなかろう・・

毎晩深夜2時、3時に誰々ちゃん詣での酒癖は直ってない。
一店舗チャージ料金だけデェ2000円使ってるのにそれは無かろう。

何千万もの大金を奉げ尽くした面々方でさえ誰一人と
誰々ちゃんの中で保証人には成ってくれないのに、いまだに之である。

何度いってもダメ。
高校当時の友人に頼むも電話。
「家借りるのに保証・・・」
誰がなるかい!。
実印と印鑑証明をいただかねば成らぬのに電話一本は無かろう。
「あの・・相談があるので時間とってくれませんか。」

「アポを取るだけが電話!。」
「用件は会ってからの事!。」

この基本的なことを何度言っても
わからぬ。

一度だけいわれて・・自宅に行っても玄関口の立ち話。
保証人依頼とは
身の一部である実印を貰いに行ってるのである。
誰がOKをだすはずが無い。

もてなしは外交そのもの
扱い方一つで格がわかる。

「ブログ病・・」。
罵詈雑言の限りを尽くしてブログを読んだこと無いくせに揶揄する。

気長くまるで腫れ物を触るように気長く付き合っている。
パソコンの動かし方一つ知らずブログさえ読めない人を
ご丁寧にせきやんを読むように誘導さす。

「焼酒=ショウチュウばっかしでなく
  一日をノートに書き自分を見つめんといかん!」

私みたいに我流でパソコンを動かしてるのでなく、この人!
職業安定所事業の税金での1〜2週間もパソコンの講習に行ってるのである。

それでのみ代は夜の蝶にばら撒くくせに、暑いさなか保証人宅まで行った挙句の
「汗流しに行こう!」
と誘っといて
千円札を持ち二人分準備しといて
入館手前までは確かにそうだったのに

いざ帳場で・・
「かなわん!自分で出せ!」
それをいっちゅあぁ〜お仕舞いよ!

私以外にまだ誰一人保証人一人いないのに・・
なんだ!・・・
何度となくあちこちの誰々ちゃんに御電話なさってるム配慮、能天気。

もてなしは外交そのもの。
扱い方一つで格がわかる。

災いを転じて・・
八紘台の正面口に自転車ゆえ日陰よけ緑陰に行った。

誰だ!銅像がある。
相川勝六ではないか。
  「アイカワカツロク・・え〜県議ねぇ〜」
  呟きが聞こえる。
常識ないやつめ!やっちゃおれない。

戦前の官選知事の頃の
昭和13年ごろ紀元2600年の昭和15年に向け国難の太平洋戦争を前に
一大イベントをぶち上げた指導者。
何度か宮崎の偉人で取り上げている御仁。。

奇怪なる石の塔はGHQの破壊対象の苦難を乗り越えいまも
戦争の爪あとを忘れさす存在として残っている。
見る人により感慨の差の感動がこれほどあるものは国内に無い。

大分の日奈久設計の秩父宮の書いた書の八紘一宇。
丁度ゆれてる皇室。後継ぎ論。

南北朝さえ感じさせ皇后雅子で大丈夫かの神徒の日本のシンボル皇室の国難。

天皇交替の秩父宮待望論を想起させての感慨。

昭和35年の日本復興の世界アピール
東京オリンピック国内聖火の出発地点として全国に大きくPRしたもんだ。
八紘台を平和台に名を変えてのテレビメデアを巻きこんだるものであった。

新婚旅行客の宮崎ブ−ムが沸き起こったときのコースにもちゃっかり組み込まれた
戦前派には涙してしか語れぬ世界征服の八紘一宇の思想の原典である。
イスラムキリストの聖地エルサレムの「嘆きの壁」見たい成るもの。

歴史に「もし」は無いが侵略戦争を上手くおわらしとれば
途中の三国干渉で一歩引き朝鮮統治を緩やかにした如く
立ち振る舞っとけばこの地は聖地であったろう。

戦後は川野芳満ホーマン共々衆議院議員の宮崎選挙区代表みたいに
佐賀のこの人を担ぎ上げたものだ。
芸大菊池教授の作の銅像。

大陸浪人GHQ特務機関闇の総理大臣・・・児玉誉志夫の
右腕の西山光喜のお家ちかきゆえ「ハハァ〜〜ン」と私。

つれの東京で大学生活をなさった方。・・
「児玉誉志夫?」・・「西山光喜・・宮崎の人・・??」

人は歴史の上に成り立ってるハズ。
学問とはなんぞや。
福沢諭吉のお輿たるところこの人出てるのウソだろ?ウン!

常識ジャン!「児玉誉志夫」
米国溌賄賂ピーナツとかのとき自宅にセスナ機が飛び込んだニュースがあったジャン!

居たたまれなくなり一人になる。
階段を右に何かがひきつける。
丁度磁力で砂鉄が模様を書くが如くひきつけられるが如く何かの霊である。

すがすがしい左土手の石垣、樹木に只ならぬものを感ず。
どうにも大きなお家である。住宅の普通ではあるがなんか・・

スルト・・どうだ!
でた!・・・
(オバケですか・・・)

うらわかき美人!「
う〜〜ん・・由紀さおり風のツンとしたうりざね顔型の美形。

「あの〜スミマセン近くまできたら相川勝六センセの銅像みたもんですから・・」
それ・・不法侵入の説明になってないジャン!

お出かけ中、前なのに時間を割いていただき・・不信を当然抱かれながらも
丁寧にお教えいただいた。
「世界救世「主」教の布教所です。」

ひとくだりこの地域の歴史性を喋りして、よくわからぬながら
明日のブログに書いてあるでしょう
なんら説明になってない。

「何してらっしゃる方・・」
和服なら藤村志保ジャン!
なんとか辞去した。お粗末の次第。

ニュヨークのオークションでの国宝級の運慶作のことを取得した真如苑にふれた。
そのとき「お光さま」手がざし系統の宗教として
世界救世主、 教派神道教団、教祖=岡田茂吉
戦前大弾圧を受けた大本からの分かれと書いた記憶があり
そのままそうしてた。神がかりなんだろう。

詳しく触れるにちょうどの機会。
また、ありがたきブログである。

 岡田茂吉は,1882年(明治15),東京の浅草に生まれ。
高小で東京の京橋で卸問屋を始めたが妻を失い破産。
大本教に入信、別院長にまでなる。

「夜昼転換」の宗教体験をもとに,
1935年(昭和10),東京で
大日本観音会を設立する。

岡田式神霊指圧療法という信仰療法をもって独自の宗教活動に入った。
とりわけ,第二次世界大戦中には,
「光明」
と書いた弾丸よけ・空襲よけのお守りで評判をとった。
この時のことの写真を何かの本で見た記憶のことがある。
戦後は,1947年,熱海を本拠として日本観音教団を組織,

手のひらをかざして病気を治す
「御浄霊」によって「お光さまブーム」を巻きおこした。

1950年,名称を世界救世教に改めた。
教団本部は静岡県熱海市桃山町26−1で,教典は『改訂版天国の礎』
(教祖の教えを収録)・『祈りの栞』(教祖の歌)・『天津祝詞』など,

教会・布教所563,教師4,447人,
信者82万1,202人(『宗教年鑑』昭和57年版
大宅壮一『新興宗教』1950,ジープ社

日本の仏教宗派は「十三宗五十六派」
さらに流派が百六十程度に増えている。

 十三宗それぞれに流派があり、さらに細かく分流している。
   ○ 奈良時代:法相宗・華厳宗・律集
   ○ 平安時代:天台宗・真言宗
   ○ 鎌倉時代:浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・融通念仏宗
   ○ 江戸時代:黄檗宗

 日本各地の仏教霊場
   ○ 東北地方
     恐山霊場=日本三大霊場(比叡山・高野山)。下北半島にあり盲目の口寄せ巫女=イタコで有名。
     出羽三山=羽黒山・月山と湯殿山(即身仏として生きながら土中に入定しミイラとなる)を合せて三山。
     立石寺=山形市の俗称山寺で芭蕉の句「岩にしみ入る蝉の声」が有名、死者の霊が帰る山として信仰
   
   ○ 関東地方:妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25(観世音菩薩が三十三通りに姿を変て衆生済度を説く
     秩父霊場=(33+1)札所巡りの道程は四萬部寺に始まり34番札所水潜寺で終了する100km。
     坂東霊場=(33カ所)札所巡りの道程は鎌倉の杉本寺に始まり1都6県にまたがって1300kmに及ぶ。
   
   ○ 関西地方
     西国霊場=近畿地方(京都を中心に1府6県にまたがる)観音霊場33ヵ所巡りで道程1000kmを越える。
     四国霊場=四国霊場八十八ヶ所は全国的に有名。霊山寺に始まり四国全県にまたがり巡礼する
            「遍路」は白衣・金剛杖・菅笠(迷故三界城/悟故十方空/本来無東西/何処有南北/同行
            二人:大師と同道と書いた笠)・納経札入「南無大師遍照金剛」を唱えで巡礼します。
            

新宗教とは幕末以降に成立した宗派の事で「教派神道十三派」。
大きく分類すると「仏教系・神道系・キリスト教系」に分類できる。

(1)日蓮宗 : 教祖=日蓮

(2)天理教 : 教祖=中山みき

(3)霊友会 : 在家仏教教団、創始者=久保角太郎

(4)立正佼成会 : 在家仏教教団、開祖=庭野日敬(霊友会から分離独立)

(5)創価学会 : 在家仏教教団、初代会長=牧口恒三郎

(6)黒住教 : 教派神道系、教祖=黒住宗忠

(7)大本 : 教派神道系、開祖=出口なお・出口王仁三郎

(8)金光教 : 教派神道系、教祖=金光大神

(9)円応教 : 在家教団、教祖=深田千代子

(10)生長の家 : 諸教系、総裁=谷口雅春

(11)世界救世主 : 教派神道教団、教祖=岡田茂吉

(12)真如苑 : 真言宗系、開祖=伊藤真乗・友司

(13)阿含宗 :

(14)PL教団 :

 世界救世主教教祖=岡田茂吉の唱え足ること
「古神道とエコロジー」 菅田正昭 著がある。

イヅノメの特徴と伊豆能賣神社

イヅノメ神は、『古事記』の「身禊」の段にに出てくる。すなわち、イザナギが黄泉国から帰ってきて、
その穢れた身体を
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓されたとき、汚垢の禍を直そうとして出現している。
ここで、その前後の箇所を正確に引用すると−−

「ここに詔りたまわく、『上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し』と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕り潜きて、滌ぎたまふ時に
、成りませる神の名は、八十禍津日の神、次に大禍津日の神。
この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成ませる神なり。
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直?の神。次に大直?の神。
次に伊都能売。
次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神。次に底筒の男の命。
中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。・・・・」

ふつう、この箇所は、福岡県志賀島の志賀海神社の祭神であるアヅミ(安曇)系統の底・中・上のワタツミ三神と
、大阪の住吉大社の祭神である津守=スミヨシ系の底・中・上のツツノヲ三神という、
海神六神の出生譚として知られている。

だが、ここでは、イヅノメの特徴を見ておくために、
このとき一緒に出現された十一柱の神々の関係について整理をしておこう。
すなわち、「上流は瀬が速い下流のほうは瀬が弱い」と仰せになって
、真ん中の瀬に降りて水中で身体を洗ったとき出現された神々について、である。

?八十禍津日神・大禍津日神・・・・・あのきたない国へ行った時の汚垢によって出現された神
?神直毘神・大直毘神・・・・・?の禍を直そうとして出現された神
?底津綿津見神・底筒之男命・・・・・水底で洗ったときに出現された神
?中津綿津見神・中筒之男命・・・・・水の中で洗ったときに出現された神
?上津綿津見神・上筒之男命・・・・・水の上で洗ったときに出現された神

まず、ここで注目しなければならないのは、イヅノメを除くと、十神はいずれも神名に共通する部分をもち
<対>の関係で出現してくることである。
ところがイヅノメだけはいちおう第二グループに入っているものの、
他の十神とは共通する部分がないのである。
しかも、イヅノメだけには「神」も「命」もついていないのである。
すなわち、どうみても、イヅノメだけが仲間外れみたいになっているのである。

『古事記』の研究をライフワークとした国学者の本居宣長は『古事記伝』の中で

「伊豆能賣ノ神。今ノ本は何れにも神ノ字無し。こは延佳が補ヒたるぞよき。凡て此ノ前にも後にも、
生ませる神てふ神に、神といはぬ例なければなり。〔弥都波能賣なども、書記には神とまなけれど、此記には神とあり。〕」
と延べている。

イヅノメに「神」の字がないのはたんなる偶然か、それとも意図的なものかどうかについては、
ほんとうのところはわからないけれど、しかし、このことによって、おそらくイヅノメは『日本書紀』
の編集者から忘れられてしまったのである。イザナギの<身禊>の故事を祝詞化した、いわゆる禊祓詞はこれからの十神を
「祓戸大神」と総称しているが、イヅノメはここからも疎外されている。

だが、それゆえにイヅノメは、これらの十神と、そのあと
イザナギが左目を洗ったときに生まれた天照大神、さらに右目を洗ったときに生まれた月読命、
そして鼻を洗ったときに生まれた建速須佐之男命の、いわゆる<三貴子>を加えた神々の、すべての神格を統合した存在であった
、という推測も成立するのである。

ちなみに伯家流の禊祓詞は、祓戸の十神の一つひとつの神名を唱える形になっているが、この禊祓詞を使っている
神道系の霊能者たちの中には、秘伝・奥伝として、この「イヅノメノカミ」の言霊を加えて唱えたりしているのである。
すなわち、この七音から成る言霊は、大祓詞の、埋没してしまった秘詞である
「天津祝詞太祝詞」のような扱いをうけているのである。

このイヅノメを祀っていたと思われる神社が『延喜式』神名帳に載っている。すなわち、出雲国「出雲郡五十八座」
の中の一社である「同社神魂伊豆乃賣神社」である。

そして、このイヅノメ神社が埋没してしまったのである。
ところで、この「神魂」の訓みだが、大倉精神文化研究所刊行『神典』所収の『延喜式』は「かむたま」、本居宣長は
「かみむすび」と訓ませているが、ぼくは「かみのみたま」のほうが良いと思う。
また、ここに出てくる「同社」だが
、このイヅノメ神社の前に記載されている式内社「伊努神社」と<同じ社>の義だと考えられる。すなわち、
<伊努(郷)に坐す神の社の神のみたまを祀ったイヅノメの神の社>の義である。

なお、出雲国出雲郡の伊努神社も事実上は埋没しており、現在は島根県簸川郡大社町遙堪に鎮座する同じく
式内の阿須伎神社に合祀されているので、イヅノメ神社もそこに含まれていると考えられることもできる。
しかし、厳密に言えば、伊豆能賣神を祀った神社はどこにもないのである。

ちなみに、『延喜式』の出雲国出雲郡の五十八座の式内官社のうち、「同社<何々>神社」の表記があるのが二十六座もある。
また、『出雲国風土記』の「出雲郡」には、式内社と同じ「神祇官にあり」の神社が五十八所記載されているが、
そのうち「同じ社」が十六所、「同じ<何々>の社」が一カ所ある。さらに「神祇官にあらず」の古代の民社六十四所のうち、
「同じ社」三十九所、「同じ<何々>の社」が六所を数えている。これらの「同じ社」がどういう状態を意味しているのか
、紙面の都合でここでは述べることはできないが、筆者は一つの確たる説を持っている。

岡田茂吉の伊都能売=観世音菩薩説

埋没した神とか、隠れてしまった神には魅力がある。神名も判らないカミの場合だと手懸かりがないが、イヅノメのように
「神」も「命」も付いていない神の場合、限りなく想像のロマンが湧いてくる。しかも、日本人には「判官贔屓」
の国民性がある。古史古伝系の伊豆能賣天皇の「伝統」とも相まって、イヅノメ神は埋没神であるがゆえに
甦ってくる可能性があったのである。

そうした中で、昭和6年6月15日、観音の啓示をうけて以来、救世のための独自の神霊治療を始め、
昭和22年、静岡県熱海市で日本観音教団を開教した岡田茂吉のイヅノメ神観は、日本の神の本地がインドの仏であったという
、従来の本地垂迹説を真っ逆さまに引っ繰り返した神観を提示する画期的なものだった。
すなわち、岡田茂吉はここで、観世音菩薩はもとは伊都能賣神であった、ということを霊示によって明らかにするのである。

彼によれば、昭和6年、霊界が夜昼転換の、すなわち物主から霊主の「仏滅」の時代へ入った。
それにともない、夜の月光の働きをしていた観世音菩薩の働きも変わり、従来の化身仏から御本体の伊都能売神の御働きとしての
救世主のそれとなった。

ちなみに「観世音菩薩=光明如来=、メシア、弥勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊」である。
そして、岡田茂吉は伊都能売神の来歴を、つぎのように語るのである。

「初め素戔鳴尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲であった。ところが当時日本の統治権を握っていたのが
伊都能売神皇で、この神皇は余程古代からの日本の真の主権者であったらしい」

このスサノヲはとても好戦的で、平和主義者のイヅノメ神皇はひそかに某国へ亡命したという。
そのあとを継承された天照天皇とその皇后が国を統治したが、間もなくして天皇が崩御された。
するとスサノヲはますます好戦的となり、
やむなく天照皇后は近江の琵琶湖を境に、西をスサノヲに与え、東を皇后が領有することになったという。

「日本古来の神々はインドへ渡航し、化身仏となられたのである。その化身仏の総領が伊都能売神であって
、当時日本における最高の地位であられたのである。ところがその頃素戔鳴尊を中心とする挑戦の神々が渡来され、
伊都能売神の地位を狙って要望したが、容易に応諸されない為、威圧や迫害から進んで遂に生命にまで及んできたので
、急遽御位を棄てられ、変身によって眼を外らし、密かに日本を脱出し、支那を通って印度に落ち延び給うたのである。
そうして観自在菩薩の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀落迦という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく
新たな清き館を建てられたのである」

この観音の説教を弟子の一人として聴聞したのが当時、善財童子と喚ばれていた悉達太子、すなわち若き日の釈尊であった。
だから「実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである」

なお、岡田茂吉は昭和10年の『観音講座』の中では、伊都能売大神様は金龍となられて、近江の琵琶湖に
お潜みになられた、とも述べている。

<イヅ>の地名に興ったイヅノメ系教団

ところで、本居宣長は『古事記伝』の中で、イヅノメの「伊豆」とは、「明く清まりたる意にて
、明津の約りたる言なり。〔阿伎は伊と約る〕」と指摘し、速秋津日子日女の二柱はこの神である、と書いている。
さらに、大祓詞の瀬織津比?は禍津日に、気吹戸主は直毘の神に、伊都能売神は速開都?に該当すると述べている。
そして「厳」という感じの付く語を並べながら、「斎清浄つる意」を「伊豆」というと結論している。

しかし、「伊豆」の語源が「斎く」だとすると「厳」よりも「付く・憑く」のほうに語感が移ってしまうように、
ぼくには思えるのだ。そこで、ここでは「出づ」、すなわち神が「出現」する義と考えたほうが良いのではないかと思う。
それというのも、出雲国出雲郡に鎮座していたイヅノメ神社が埋没してしまったように、さらに出雲国の
最高神であった国つ神の大国主神が幽冥界を司る神であるように、出雲地方というのは、どちらかというと
<死>を暗示するイメージ強いからである。超古代には神々が出現した<イヅ>の地であったにもかかわらず
<国譲り>を契機として、その後は<喪>に服してしまった状態になっていたのである。

これに対して、<伊豆>国のほうは、岡田茂吉が指摘する伊都能売神と事蹟がとてもよく似ている
、出雲国の事代主神が三嶋大明神として再臨した地方である。

その事代主神の本源の地である伊豆諸島の三宅島には「伊豆」という小さな地名があるが、そこは、
古代の火口で、文字どおり火が吹き出した所、その意味では、イヅノメの鎮まり坐す場所としては、
同じ<イヅ>の言霊をもった<出雲>のイヅ<喪>より、もう一つのイヅである<伊豆>のほうがふさわしいようにみえる。

実際、岡田茂吉の世界救世教の本部は、伊豆国である静岡県熱海市にある。また、「天の下造らしし
伊都能売大国魂大国主之大神に畏み畏みも白さく」と祈言で唱えている岡田光玉ゆかりの崇教真光の
「陽霊元み魂座」は同じく熱海市に、また同じ真光のもう一つの教団である世界真光文明教団の本部とス座は中伊豆町にある。
そしてさらに、伊豆という地名とは直接関係ないようにみえる三重県津市の救世神教も、伊勢国の津にあるという点では、
まさにイヅの地にあるのである。いうなれば、イヅノメが仕組んだ経綸の霊的磁場に引かれるようにして、
これらのイヅノメ系教団は存在しているわけである。

岡田茂吉に発した世界救世教、その分派教団である世界明主教・救世主教・救世真教・救世神教・神慈秀明会
・救いの光・五六七大栄会・・・・さらに世界真光文明教団や崇教真光などの真光系教団は、
なんらかのかたちで伊都能売神を祭っている。その所属教会、道場、布教所・・・等々を含めると、
かなりの箇所になるはずだ。同じく埋没神の菊理媛を祀った白山神社の二千七百以上という数字には及ばないかもしれないが
、信者の家に祀られたものまで含めると、その数は菊理媛をかるく凌駕しているかもしれないのだ。

岡田茂吉によれば、伊都能売神の神格は?中庸?である。その『古事記』の伊豆能賣からも引き出せるが、
現代という時代は、まさに、その精神が求められている時代である。

 
 お願いいたします    
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