大分県
2008年7月17日豊三は豊蔵が正しい。
お詫びと訂正をかね
再度阿万豊蔵をご教示いただいた図書館の方に
過去のブログを再掲して奉げる
今日の花言葉は・・・ハマユウ
花言葉は・・どこか遠くへ・けがれない
彼岸花科。白き花を次々と咲かハマユウは
純粋無垢、県民のこころざし、宮崎の県の花でもある。
県花・・ハマユウ
県鳥コシジロヤマドリ
おおあめの あとはまゆうに つぎのはな
新聞に教えていただいた。
庶民は的確に世を射抜く知恵を持つ。
戦時中の戯れ歌。
世のなかは 星に錨に闇に顔
ばか者のみが 行列に立つ
これには時代背景もあり、少し解説が入るようである。
星は陸軍、錨は海軍、闇は闇 取引の闇、顔は「顔が利くの顔である。
体制翼賛政治の国家では優秀な男子たるもの多くが軍人を目指し競った。
、陸軍幼年学校、予科連、時代背景から将来を保障された出世コース。
いつの世も変わらぬ、いい高校からいい大学へのコースである。
その後の進む道の陸軍中野学校なる有能なるスパイ養成を市川雷蔵が演じ
戦時の謎の実態が映画になり息を潜めて必死に大人の世界を思い描いた。
円月殺法の剣を置き換えての役者の偏見自在にも驚きニヒルな市川雷にあこがれたものだ。
さらに読み下し文的に続けると
軍部の威光には縁がなく、闇で買う金もなく、頼るコネもない。
ごらん、ないない尽くしのばか者どもが配給の行列に並んでいるよ、と。
ばか者とは、「正直者」のこと
、事の大小は別にしても闇と顔は思い当たることもあろう、
戦後も生きながらえて、ふとした拍子に社会に醜い姿をさらけ出す。
「いい点を取れば受かると思っているの? ばかだねえ」。
金にもコネにも頼らず、情熱ひとつを胸に教員採用の門を叩(たた)いた若者たちを、
彼らはひそかに嗤(わら)っていたのかも知れない
校長や教頭が賄賂を使って自分の子供たちを合格させるのみか
、政治家の口利きに応じる議員枠まであった。
大分県の教員採用をめぐる事件は日を追うごとに深部まで迫り、とどまるところを知らない
闇のなかで商品券、札束を数えたのが誰々で、顔の力で採点を操作したのが誰々か、構図はほとんど明らかになった。頂点の政治構図は別として。
全国に号令を発した町村官房長官の指揮次第では全国津々浦々の燎原の火の如き暗雲を感じる。
島国の処世術は右ならへの国であるハズだからだ。。
わが二人の子らは教育学部を巣立ち10数年を経ている。
山口の教壇に立つ血気はやる未熟児男子をまず思い出し
心配する普通なるモノでおもわず苦笑する。
大分では40人が不正に教壇にたっており、採用を取り消し、
合格していたであろうとおぼしきものにはチャンスの連絡をするという
受かるところを落とされ、行列のばか者扱いされたままでは泣くに泣けない
よくぞ!の英断である。
なぜに出来えたのか。
蓄えられてきた人材育成の教育の財産の大事さの歴史的蓄積があったからである。
全国超トップの長きにわたる教育塾を全国に開放してきた実績からである。
悪しき慣習は私塾から延々と培われてきた教育風土の矮小化した負の財産が
時代的に劣化、制度疲労してたとの仏教的方策に救いを求めるしかない。
教育県は長野を筆頭に常に先頭を目指し競う。
ただ、歴史的には全国一はまず大分県である。
わが国は私塾の教育で始まる教育人材育成であるが
それで、これまでを見ると
幕末大阪の緒方洪庵の滴塾が筆頭であろう。
それ以前の歴史順位を顧みず塾生総数、輩出した歴史的人材、全国の規模から
鳥瞰図てきに俯瞰すると
大分県の広瀬淡窓の主唱した咸宜園(かんぎえん)がズバヌ抜けて超一級である。
大分県日田豆田には九州の天領地を支配する代官所があった。
徳川幕府の九州の拠点である。
又ここには全国一の規模の塾があった。
咸宜園は1897年(明治30年)まで存続した。
延べ4000人を超える入門者があり江戸時代の中でも日本最大級の私塾。
出身者には、開明行動の人、高野長英や大村益次郎・・、の名もある。
広瀬淡窓(1782〜1856)が塾を主唱。
淡窓の後、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨などが塾主を務めた
いまの広瀬大分県知事は淡窓のDNAを引き継ぐ末裔。
ところで日向人の入門者は1811年からで、1885年(明治18年)
までに62名。
延岡19、幕府領23、高鍋5名、佐土原5名、飫肥5名、外4、
幕府領23名のうち本庄16名は実に多い。
その一人高妻五雲は六日町医者・秀庸ノ子。
秀庸は幕府役人あの大塩平八郎とも親交があった。
高妻は本庄の筆塚に祭られている。
和泉屋・日高圃友(1745〜1811)長男習之(1778〜1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。
短歌界の芥川直木賞にあたる超空賞の伊藤一彦の先駆を為す。
16名の入門者に水筑周一の名がある。
出自は秋月藩で事情で国富本庄に住んだ。
別の名を秋月橘門(1809〜1880)といった。
咸宜園の塾頭をつとめ、佐伯藩藩校・四教堂の先生となる。
明治期に新政府に指名されたのか、名前が出てくる。
下総国内の旧幕府領を管理するために下総知県事を
設けた(知県事熊本藩士・佐々布直武→12月17日以後佐伯藩士水築之龍)。
とある。
明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。
知事は設置されずに初代の権知事には水築之龍が任命され、
県庁は東京に近い江戸川河畔の葛飾郡加村に設置され
、県名もその郡名に基づいて定められた。
千葉県初代知事は柴原和:1873年6月15日-1880年3月8日(権令→県令)と成っていようが
歴史の間違い。その前の混沌としてた頃の千葉の歴史が欠落している。千葉の人調べてください!
千葉県初代知事は宮崎国富の人・ 水筑周一である。
白状するとジャーナリスト矢野龍溪(旧佐伯藩士であった父の矢野光儀)と間違い昨夜苦労した。
明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。
東京女子高等師範(現御茶ノ水)校長
貴族議員を務めた。
佐伯市養賢寺に眠る。
日本に飛翔した宮崎人が国富町本庄から出たのはなぜか。
ひとえに大分県の広瀬淡窓の主唱した咸宜園での鍛錬が人を作った。
いまの宮崎市街地は形成されてなく中心地は国富町本庄といっても過言ではない。
歴史を紐解くと理解が出来よう。
豊臣秀吉の全国統一は小田原・北条早雲を倒し、九州のみが残った。
岡山の出の早雲のことはこのブログで先月触れた。
「上下万民に対して一言半句にても虚言を申すべからず」
小田原評定と揶揄される早雲の書が残り伝えている。
天正15年1587年2月豊臣秀吉は軍を動かした。
総大将は弟の羽柴秀長。
ここは大友宗麟と戦い九州制覇の端緒となった偶然にも全く同じところでの戦い。
歴史の不可思議さを感じさせる。
島津にしてみれば全国制覇をかけた戦いである。
小丸川=高城川支流切原川に
豊臣20万VS島津2万
が対峙。
圧倒的軍事力の差でさしもの島津軍・島津3兄弟は敗北。
秀吉は福岡熊本、出水を経て和睦後に2万の軍勢で鹿児島で島津の和睦を受け入れた。
島津は高岡善哉坊を和睦の使者にし羽柴秀長の本陣に使わせた。。
国富町八代深年村寺善哉坊の僧。
羽柴秀長は都於郡から国富町本庄、野尻を経て
福岡で秀吉と合流して新しき九州の領主を決めた。
日本の歴史で浅学非才の知識で言うならおそらく初めてのことが生じた。
没落した伊東家の復活である。
このときの本陣が国富町・義門寺
寺には羽柴秀長の義門寺 門に張り出した、
・・・・放火立ち木伐採の禁止・・・
など「禁制」が今に残る。
義門寺には石塔群が残っている。
義門寺の西にある墓地に残ってた。、
宝筐印塔一基、板碑二基、五輪塔一基(「應永」「明阿」 の銘あり)、笠塔婆一基が町の文化財
宝筐印塔は、県内でも珍しい花崗
岩の美しい石塔、南北朝時代の初め項(14世紀中頃)に作られたらしい。
その隣に二基並んだ大きな五輪塔(未指定)は、・伝・曽我兄弟の供養塔・・
(またもや!)携帯の時代は24時間寝ることさえ出来ないのか。
宮崎市内から隣接する国富町には30分ともかからない。
「国富まで付き合わん!」
「いくとこね〜し」
精進料理食べさせ、「万福寺」ぐらいか。
抹茶を出してくれ、枯山水の庭を眺める。
「まんぷきじ・・お寺?・・枯山水・・はぁ〜・・}
これでは町から若人は逃げる。
足を伸ばせば草スキーの法華岳。
中央女流文人和泉式部も荘園主であった
ご主人の領地でもあり訪ねている国冨の庄。
天正遣欧使節正使・伊東マンショの祈願の天井書きもある
和泉式部がご主人の領地でもあり訪ねている国冨の庄。
今の国冨本庄町のメイン道路の本道より50Mぐらい南に並行して走ってるところ。
「この旧道がいいの!」
「ここがホント!ここがいいのです。」
なにが?・・野暮!
旦那衆ががイイッ!つッたらきまってろ!
言わせるのか!この・・
「・・・・ゥン・・?!」
「・・リトル吉原!。」
あのニックキ(笑)赤線禁止の法案を出した参議院緑風会・市川房江議員の昭和32年に法案が出なければ残ってたはずの遊郭跡が・・
「ええっ1あるの?」
「ナイデ・・アリンス」
「あれ?急に・・花魁言葉に・・」
高校生の頃にきたときは昭和40年代でしたので社会から赤線はもちろんなし!
名誉のために言っときますが、わたし行ってません!あがってません!
正確には行ってみたが・・・「なくなってた!」
あれば下を見下ろす二階の手すり。・・・の家屋・・
新国劇舞台長谷川伸原作「一本刀土俵入り・・・・」
駒形茂兵衛が二階の女郎お蔦からお金を貰う時のあのシーン。
かすかに残ってマス。
茂兵衛が母親の墓の前で横綱の土俵入りを見せたいと言う。
お蔦は手持ちの金をすべて茂兵衛に与え、櫛・簪(かんざし)までも与える。
「きっと立派な横綱になっておくれ、」
越中富山「おわら節」をくちずさむ。
二階の木の手すりなんかを見て「あ〜〜は〜ん〜」
あなた!何でその情熱勉強に向けなかったの。
諸県地方は幕領たる天領の地の期間が長く続いた。
天領は他の藩より領民も気位が高い。日常生活も趣が違ってた。
国富高岡町には文化が花開き相撲も盛んであった。
国富町本庄・義門寺には大関竹縄大八郎の碑がある。
竹縄大八郎は阿波の国源氏山の弟子となり大関に出世した。
国富町本庄にも巡業にきた。
竹縄大八郎の供養相撲である。碑は義門寺門前に建立されている。
高岡町には相撲興行の取締役の免許を持ってる人がいた。
笹島宇兵衛である。
史跡顕彰会でどうしても何者かわからず探し回った碑の人である。
「笹島宇兵衛」は何代か前の先祖と名乗り出た。
加藤一男の先祖であった。甘ヶ城歴史館に残る資料では明治34年取締役のときは72歳
ピッタリと一致した。
何よりもの証拠は何枚かの力士の化粧回しの刺繍飾りが保存されていた。
見事な刺繍で織り上げられている。
龍福寺公園に記念碑がある
また54名の相撲取りの四股名が読み取れ、隆盛を極めていたことがわかる。
力士の記念碑もある。
中央地区・乱髪喜蔵碑
雲の井権九郎碑
久津良川周蔵碑
乱髪喜蔵碑に寄せる笹島宇兵衛の寄付金
柚木崎地区
二本松助五郎碑に笹島宇兵衛久津良川周蔵の寄付
ムカサ地区鬼神嶽休太
なんかムチャクチャみたいな四股名もあるが、鬼神嶽って強そ〜
鶴ヶ峰の子三兄弟の逆鉾の四股名もここから出ている
偏狭の地日向も上方の文化が大淀川右岸城ヶ崎 に花開き今も文人墓地が残る。
京都・五升庵蝶夢(1722〜1795)は芭蕉翁を全国区にした。
芭蕉堂の修復、芭蕉碑建立、作品集を刊行した
日向文化人もその指導を受け影響を残した。
よって県内にその芭蕉句碑をあちこちに確認できる。
国富町義門寺 を含め8ヶ所、九州管内でも多い。
芭蕉翁記念句碑
(をり〓〓に伊吹を見ては冬籠り)
文化年間=文化十四年(一八一七)
東諸県郡国富町本庄 義門寺
句は風化が甚だしく判読できず
麥の穗や涙に染て鳴雲雀
芭 蕉 庵 桃 居 士
左 當山澤似庵山天林寺淨現水上野町連中敬
安永九庚子載初秋中旬
右 加州散人仁田脇林耕松白蘭二誌之
安永九年(一七八〇)七月
現水建立
宮崎市吉村町浮ノ城 正光寺
此 あ た り 眼 に 見 ゆ る も の 皆 凉 し はせを
陰 明治二年己巳盛夏吉辰
台石 發起々庵魚竹菊池蘭雪
明治二年(一八六九)夏
徳々庵魚竹 菊池蘭雪建立
宮崎市生目亀井山 生目神社
西 行 の 菴 も あ ら む 花 の 庭 はせを
陰 文化十二年乙亥十月十二日
文化十二年(一八一五)十月十二日
内藤露沾の子孫内藤政脩建立
延岡市天神小路二五五‐一 内藤記念館静思庵
古池やかわつとひこむ水の音
芭 蕉 翁
右 寛政七乙卯天
左 葉月十二日立之
寛政七年(一七九五)八月十二日
西都市都於郡町 大安寺池の端弁財天社
元祿七甲戌十月十二日佐土原城下連中
芭 蕉 翁
旅に病んて夢は枯野をかけ巡り
文政年間=文政十二年(一八二九)
佐土原城下連中建立
宮崎郡佐土原町広瀬 久峰観音
う た か ふ な 潮 の 花 も 浦 の 春
小村西卜建立
児湯郡高鍋町蛟口 鵜戸神社
F 45009
梅 か 香 に の つ と 日 の 出 る 山 路 哉 はせを
陰 安政二乙卯歳八月建立發起得々庵魚竹
安政二年(一八五五)八月
得々庵魚竹建立
西臼杵郡高千穂町岩戸 天岩戸神社
国富町本庄・和泉屋・日高圃友(1745〜1811)長男習之(1778〜1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。
白鷺も首のす雁の別れかな
城跡の哀れに広し冬の朝
我が物とすれば少なし虫の声
初時雨油売り一人走りけり
昨日の争闘が食欲まで及ぼし酷い状態である。
この6年放りっ放しの歯であるがポロポロ櫛の歯が抜けるが如くであった。
お互い抜けあい上下の噛み合せがなってない。
意地でも治療しない。
老けの実情を味わっている頑固者。
あのぶん殴る瞬間、無理強いに力を入れたので下のその歯がぐら付き
親知らずの抜歯後に奥から順になくなっているが、最後の要歯がいよいよやられた。
相撲取りは奥歯がほとんどやられると岩下会長から伺った。
モナコパチンコグループの成功者。出は八代で自宅は一の鳥居の西。全国愛欄界会長。
佐渡ヶ部屋・琴桜は鳥取の生んだ32歳の遅咲き横綱。
夫人は女優岩下志麻似でより美人の岩下家長女。日向の人。
小品盆栽で出入りしたもんである。合掌。
食事ができない。
パンはおろか豆腐一丁でさえうまくいかないから夏場も絡み体力がおぼつかない。
歯根とはよくいたもので根っこのみ糸でと止めたるが如くで口内をフラフラものが絡まってる状態。。
舌で転がして遊んでるのが歯でおかしなものだ。痛みを楽しんでいる不謹慎もの。
抗生物質のオレンジ色一服欲しいが手元になし。黴菌で抜歯は怖くてたまらぬ。
抜歯でなく抜糸が正確な状態。何十年も連れ添った人とのつらいわかれ。
歯が横向いてて、歯と歯で横になった歯を噛んでる状態。
よくわかんない。?デショウネ。本人自体がそうですもの。ビデオで見てみたい。
頭の中心は後遺症でヅッキ〜ン、ズッキ〜ンと後頭部を包丁かなんかで切り取って捨てたいほど。
ボヤ〜〜ッとしている。微熱が気にかかる。
昨夜電話「どんげな〜」思い切りきった。
今朝になり又電話をよこした。
「微熱ぐらいならいいわ〜〜警察にいきない、それから病院にいきない。ほんならな〜〜」。
反省の弁は全く無いようだが、まぁ〜心配はしてるようだ。
いきなり後ろから後頭部をボガッ!
ヘルメットを常備被ってるわけでなし。
後ろに目があるわけでなし。
知ってるが故に、警察沙汰は可哀想である。
それも見越しての、暴力専門の方でさえしない異常行動をしたんであろう。
こんな異常者、精神科に入院させないと社会の平安無事はありえない。
病気持ちは強制隔離。季節の変更は困ったもんだ。
「楢山節考」の役の時、前歯を抜歯して山に捨てられる老婆を演じた役者魂からすれば
なんてぇことはない。
映画監督・進藤兼人を一躍世界の舞台に押し上げた名優音羽信子。実の夫婦でもあった。
持つべきものはよき妻。夫婦付随
お盆に中世伊東氏の霊が抜けないでいる。
日本の不幸のひとつに南北朝時代がある。
伊東家でも先に日向に下向していた国富八代・伊東祐広
三大敵討ち曽我兄弟に討たれる工藤祐経の孫になる。
建武2年(1335年)熊本・菊池武敏と気脈を通じ宮方・南朝方についた。
本家・都於郡・伊東祐持は北朝・武家方・足利尊氏方ゆえ戦場で合いまみえた。
忠臣・伊東祐広は仲間を集める戦略を用いた。
祐貞、祐勝、西都穂北平島資成を味方につけた。
さらに宮崎城・図師隋円、慈円
跡江・瓜生野八郎左衛門
高城・肝月兼重
立てこもったムカサ城は建武三年(延元元年)に落城。八代城に逃げる。
さらに猪野見城、土持宣栄にせめられ落城落命。
八代城址にはこのブログを呼んでいただいてる方と何年か前行った。
八代中、郵便局がこの地域の中心だが
それより東に下ったところ八代川上原の東端にある。
伊東祐広功公誠忠碑 430文字近い碑文・約3M 建立昭和10年4月
建立者が書いてないがこの時期の八代村長は杉尾明村長
佐土原の杉尾明??を知ってたが聞くの忘れてた。
今日は祖霊と英霊の魂・終戦の日。
犠牲者310万の霊がウジャウジャいる。
死霊を追悼し安寧を祈りたい。
御魂、御霊よ安らかに。
八代はその後幕府領天領の地国富町に吸収国富が中心部となる。
その本庄小の前の六日町の「義門寺」
伊東祐国の一族細川小四郎義門が改築したもの
ここがあの太平洋戦争を本土玉砕から救い、玉音放送敗戦に導いた人が眠る。
にほんを一億層玉砕から救った人だ。
田舎には貴人は珍しく東大教授平泉澄が墓碑銘を揮毫した。
近藤伝八大佐の墓である。
終戦秘話に
「宮城事件」が歴史に刻まれている。
玉音放送の盤の争奪戦。
敗戦宣言か戦争の継続化であった。
近藤伝八は国富の雑貨商に生まれた。
旧制宮中大宮高から熊本陸軍幼年学校・陸軍士官学校41期性
1938年首席で卒業。
首席のみに与えられる軍事講義の御前講義の名誉を得た。
恩賜の軍刀を賜っている。
阿南惟幾(これちか)は終戦を進めるにあたって困難の時局を抑えきれる唯一の人物。
45年1月ベトナム・サイゴン(ホーチミン)にいた。
近藤伝八大佐は大本営参謀本部にいたが、本土に呼びもどすため飛び立った。
娘婿市村真一京大教授
「阿南大将を陸軍大臣にするため国内に呼び戻すという軍の密名を帯びていた。」
この頃の無線は解読傍受されている。
「大将は輸送機に乗っている。」
自分の乗ってきた機に阿南大将をのせ、自分は輸送機に乗りおとり作戦。
輸送機は爆撃で墜落して阿南は帰国できた。
降伏反対を乗り切り玉音放送の8・15を迎えた。
終戦に向けて命をささげた終戦の影の功労者
証言してる人は日向の出の津田安敬
宮城事件の時は埼玉陸士も生徒であった。
そのエピソードを語る。
上原重太郎大尉(24)
「近衛師団長森師団長はボウ大尉に殺害された。
帝都に行って報道機関などを制圧するから武装せよ」」
手持ちの軍刀の刃こぼれ、血で汚れていた。
ボウ大尉といいながら実は自分で殺していた。」
森赳師団長が皇居を守ると玉音版奪取に同意しなかったからである。
戦争継続で玉音放送盤を奪おうとしていた。
見つけきれず失敗。
戦争継続の玉音放送の中止か敗戦かこの時点で決まった。」
8・15陸士学校。
徳川好敏校長
「陛下の言葉に従うよう」訓示
次の瞬間壇上に上がり
「徹底抗戦!」
「武器庫銃弾武装」
車は学校側からパンクさせられ出動できなかった。
陸軍士官学校近辺にある雄叫神社で割腹。
「19日軍刀の束を地面において刀を上に向け其の植えに覆うようにかぶさって腹を切った苦悶の表情は見えませんでした
」介錯され首の皮がつながってる遺体」霊安室で見た。
横穴の防空壕をスコップで一生懸命一緒に彫った。ほかの隊長は指導監督するだけだった。
包容力がある人だった。
きょう正午重大な発表がある。
医学生山田風太郎に講義中にまわされたメモ。
「休戦?降伏?宣戦布告?」
迷わず、宣戦布告に丸をつけた。
「帝国臣民にして先陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたるもの、
およびその遺族に想いをいたせば五内ために裂く・・」
僕は全身の毛穴がそそり立った。負けぬとの教育だったから当然であろう。
「自分は生まれてからこれほど血と涙に咽ぶような声音というものを聞いたことはない。」
戦中派日記・講談社文庫
安倍総理はこあたり見習うべきである徹底抗戦!いさぎよさ。もののふ。美しい国。
では大和魂・神風の国。戦を長引かせておればいつかは勝っていたのであろうか。
「一億総特攻の本土決戦」
これ以上の必死さは無いほどのスローガンまさに笑止。(なんだと貴様非国民!)
惟は古来より伝わる、日本人の魂、捨て身必殺の剣法からあみだしたるもの。
極意は「相打ち」である。(勝ってないジャン!)
戦闘主力。
大本営陸軍部
航空戦力一万機
練習機を改修シタモノ75パーセント
海上特攻3300隻
駆逐艦19隻
潜水艦38隻
陸海空動員兵力240万人
国民義勇戦闘隊2800万人
構成
15才〜65の男
17才〜45の女
戦術
苛烈な体当たりに反復。
劣勢は切り込みと対戦車肉薄攻撃
苛烈は黄色い火薬10kgを梱包し信管をつけ背負い
戦車のキャタビラの間に身を投ぅじる。
自爆する。・・・・これ・・・一死必砕の戦法
取り扱い極秘。
敵スパイに知れぬよう極秘行動で訓練する。
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今日の花言葉は・・・ハマユウ
花言葉は・・どこか遠くへ・けがれない
彼岸花科。白き花を次々と咲かハマユウは
純粋無垢、県民のこころざし、宮崎の県の花でもある。
県花・・ハマユウ
県鳥コシジロヤマドリ
おおあめの あとはまゆうに つぎのはな
新聞に教えていただいた。
庶民は的確に世を射抜く知恵を持つ。
戦時中の戯れ歌。
世のなかは 星に錨に闇に顔
ばか者のみが 行列に立つ
これには時代背景もあり、少し解説が入るようである。
星は陸軍、錨は海軍、闇は闇 取引の闇、顔は「顔が利くの顔である。
体制翼賛政治の国家では優秀な男子たるもの多くが軍人を目指し競った。
、陸軍幼年学校、予科連、時代背景から将来を保障された出世コース。
いつの世も変わらぬ、いい高校からいい大学へのコースである。
その後の進む道の陸軍中野学校なる有能なるスパイ養成を市川雷蔵が演じ
戦時の謎の実態が映画になり息を潜めて必死に大人の世界を思い描いた。
円月殺法の剣を置き換えての役者の偏見自在にも驚きニヒルな市川雷にあこがれたものだ。
さらに読み下し文的に続けると
軍部の威光には縁がなく、闇で買う金もなく、頼るコネもない。
ごらん、ないない尽くしのばか者どもが配給の行列に並んでいるよ、と。
ばか者とは、「正直者」のこと
、事の大小は別にしても闇と顔は思い当たることもあろう、
戦後も生きながらえて、ふとした拍子に社会に醜い姿をさらけ出す。
「いい点を取れば受かると思っているの? ばかだねえ」。
金にもコネにも頼らず、情熱ひとつを胸に教員採用の門を叩(たた)いた若者たちを、
彼らはひそかに嗤(わら)っていたのかも知れない
校長や教頭が賄賂を使って自分の子供たちを合格させるのみか
、政治家の口利きに応じる議員枠まであった。
大分県の教員採用をめぐる事件は日を追うごとに深部まで迫り、とどまるところを知らない
闇のなかで商品券、札束を数えたのが誰々で、顔の力で採点を操作したのが誰々か、構図はほとんど明らかになった。頂点の政治構図は別として。
全国に号令を発した町村官房長官の指揮次第では全国津々浦々の燎原の火の如き暗雲を感じる。
島国の処世術は右ならへの国であるハズだからだ。。
わが二人の子らは教育学部を巣立ち10数年を経ている。
山口の教壇に立つ血気はやる未熟児男子をまず思い出し
心配する普通なるモノでおもわず苦笑する。
大分では40人が不正に教壇にたっており、採用を取り消し、
合格していたであろうとおぼしきものにはチャンスの連絡をするという
受かるところを落とされ、行列のばか者扱いされたままでは泣くに泣けない
よくぞ!の英断である。
なぜに出来えたのか。
蓄えられてきた人材育成の教育の財産の大事さの歴史的蓄積があったからである。
全国超トップの長きにわたる教育塾を全国に開放してきた実績からである。
悪しき慣習は私塾から延々と培われてきた教育風土の矮小化した負の財産が
時代的に劣化、制度疲労してたとの仏教的方策に救いを求めるしかない。
教育県は長野を筆頭に常に先頭を目指し競う。
ただ、歴史的には全国一はまず大分県である。
わが国は私塾の教育で始まる教育人材育成であるが
それで、これまでを見ると
幕末大阪の緒方洪庵の滴塾が筆頭であろう。
それ以前の歴史順位を顧みず塾生総数、輩出した歴史的人材、全国の規模から
鳥瞰図てきに俯瞰すると
大分県の広瀬淡窓の主唱した咸宜園(かんぎえん)がズバヌ抜けて超一級である。
大分県日田豆田には九州の天領地を支配する代官所があった。
徳川幕府の九州の拠点である。
又ここには全国一の規模の塾があった。
咸宜園は1897年(明治30年)まで存続した。
延べ4000人を超える入門者があり江戸時代の中でも日本最大級の私塾。
出身者には、開明行動の人、高野長英や大村益次郎・・、の名もある。
広瀬淡窓(1782〜1856)が塾を主唱。
淡窓の後、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨などが塾主を務めた
いまの広瀬大分県知事は淡窓のDNAを引き継ぐ末裔。
ところで日向人の入門者は1811年からで、1885年(明治18年)
までに62名。
延岡19、幕府領23、高鍋5名、佐土原5名、飫肥5名、外4、
幕府領23名のうち本庄16名は実に多い。
その一人高妻五雲は六日町医者・秀庸ノ子。
秀庸は幕府役人あの大塩平八郎とも親交があった。
高妻は本庄の筆塚に祭られている。
和泉屋・日高圃友(1745〜1811)長男習之(1778〜1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。
短歌界の芥川直木賞にあたる超空賞の伊藤一彦の先駆を為す。
16名の入門者に水筑周一の名がある。
出自は秋月藩で事情で国富本庄に住んだ。
別の名を秋月橘門(1809〜1880)といった。
咸宜園の塾頭をつとめ、佐伯藩藩校・四教堂の先生となる。
明治期に新政府に指名されたのか、名前が出てくる。
下総国内の旧幕府領を管理するために下総知県事を
設けた(知県事熊本藩士・佐々布直武→12月17日以後佐伯藩士水築之龍)。
とある。
明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。
知事は設置されずに初代の権知事には水築之龍が任命され、
県庁は東京に近い江戸川河畔の葛飾郡加村に設置され
、県名もその郡名に基づいて定められた。
千葉県初代知事は柴原和:1873年6月15日-1880年3月8日(権令→県令)と成っていようが
歴史の間違い。その前の混沌としてた頃の千葉の歴史が欠落している。千葉の人調べてください!
千葉県初代知事は宮崎国富の人・ 水筑周一である。
白状するとジャーナリスト矢野龍溪(旧佐伯藩士であった父の矢野光儀)と間違い昨夜苦労した。
明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。
東京女子高等師範(現御茶ノ水)校長
貴族議員を務めた。
佐伯市養賢寺に眠る。
日本に飛翔した宮崎人が国富町本庄から出たのはなぜか。
ひとえに大分県の広瀬淡窓の主唱した咸宜園での鍛錬が人を作った。
いまの宮崎市街地は形成されてなく中心地は国富町本庄といっても過言ではない。
歴史を紐解くと理解が出来よう。
豊臣秀吉の全国統一は小田原・北条早雲を倒し、九州のみが残った。
岡山の出の早雲のことはこのブログで先月触れた。
「上下万民に対して一言半句にても虚言を申すべからず」
小田原評定と揶揄される早雲の書が残り伝えている。
天正15年1587年2月豊臣秀吉は軍を動かした。
総大将は弟の羽柴秀長。
ここは大友宗麟と戦い九州制覇の端緒となった偶然にも全く同じところでの戦い。
歴史の不可思議さを感じさせる。
島津にしてみれば全国制覇をかけた戦いである。
小丸川=高城川支流切原川に
豊臣20万VS島津2万
が対峙。
圧倒的軍事力の差でさしもの島津軍・島津3兄弟は敗北。
秀吉は福岡熊本、出水を経て和睦後に2万の軍勢で鹿児島で島津の和睦を受け入れた。
島津は高岡善哉坊を和睦の使者にし羽柴秀長の本陣に使わせた。。
国富町八代深年村寺善哉坊の僧。
羽柴秀長は都於郡から国富町本庄、野尻を経て
福岡で秀吉と合流して新しき九州の領主を決めた。
日本の歴史で浅学非才の知識で言うならおそらく初めてのことが生じた。
没落した伊東家の復活である。
このときの本陣が国富町・義門寺
寺には羽柴秀長の義門寺 門に張り出した、
・・・・放火立ち木伐採の禁止・・・
など「禁制」が今に残る。
義門寺には石塔群が残っている。
義門寺の西にある墓地に残ってた。、
宝筐印塔一基、板碑二基、五輪塔一基(「應永」「明阿」 の銘あり)、笠塔婆一基が町の文化財
宝筐印塔は、県内でも珍しい花崗
岩の美しい石塔、南北朝時代の初め項(14世紀中頃)に作られたらしい。
その隣に二基並んだ大きな五輪塔(未指定)は、・伝・曽我兄弟の供養塔・・
(またもや!)携帯の時代は24時間寝ることさえ出来ないのか。
宮崎市内から隣接する国富町には30分ともかからない。
「国富まで付き合わん!」
「いくとこね〜し」
精進料理食べさせ、「万福寺」ぐらいか。
抹茶を出してくれ、枯山水の庭を眺める。
「まんぷきじ・・お寺?・・枯山水・・はぁ〜・・}
これでは町から若人は逃げる。
足を伸ばせば草スキーの法華岳。
中央女流文人和泉式部も荘園主であった
ご主人の領地でもあり訪ねている国冨の庄。
天正遣欧使節正使・伊東マンショの祈願の天井書きもある
和泉式部がご主人の領地でもあり訪ねている国冨の庄。
今の国冨本庄町のメイン道路の本道より50Mぐらい南に並行して走ってるところ。
「この旧道がいいの!」
「ここがホント!ここがいいのです。」
なにが?・・野暮!
旦那衆ががイイッ!つッたらきまってろ!
言わせるのか!この・・
「・・・・ゥン・・?!」
「・・リトル吉原!。」
あのニックキ(笑)赤線禁止の法案を出した参議院緑風会・市川房江議員の昭和32年に法案が出なければ残ってたはずの遊郭跡が・・
「ええっ1あるの?」
「ナイデ・・アリンス」
「あれ?急に・・花魁言葉に・・」
高校生の頃にきたときは昭和40年代でしたので社会から赤線はもちろんなし!
名誉のために言っときますが、わたし行ってません!あがってません!
正確には行ってみたが・・・「なくなってた!」
あれば下を見下ろす二階の手すり。・・・の家屋・・
新国劇舞台長谷川伸原作「一本刀土俵入り・・・・」
駒形茂兵衛が二階の女郎お蔦からお金を貰う時のあのシーン。
かすかに残ってマス。
茂兵衛が母親の墓の前で横綱の土俵入りを見せたいと言う。
お蔦は手持ちの金をすべて茂兵衛に与え、櫛・簪(かんざし)までも与える。
「きっと立派な横綱になっておくれ、」
越中富山「おわら節」をくちずさむ。
二階の木の手すりなんかを見て「あ〜〜は〜ん〜」
あなた!何でその情熱勉強に向けなかったの。
諸県地方は幕領たる天領の地の期間が長く続いた。
天領は他の藩より領民も気位が高い。日常生活も趣が違ってた。
国富高岡町には文化が花開き相撲も盛んであった。
国富町本庄・義門寺には大関竹縄大八郎の碑がある。
竹縄大八郎は阿波の国源氏山の弟子となり大関に出世した。
国富町本庄にも巡業にきた。
竹縄大八郎の供養相撲である。碑は義門寺門前に建立されている。
高岡町には相撲興行の取締役の免許を持ってる人がいた。
笹島宇兵衛である。
史跡顕彰会でどうしても何者かわからず探し回った碑の人である。
「笹島宇兵衛」は何代か前の先祖と名乗り出た。
加藤一男の先祖であった。甘ヶ城歴史館に残る資料では明治34年取締役のときは72歳
ピッタリと一致した。
何よりもの証拠は何枚かの力士の化粧回しの刺繍飾りが保存されていた。
見事な刺繍で織り上げられている。
龍福寺公園に記念碑がある
また54名の相撲取りの四股名が読み取れ、隆盛を極めていたことがわかる。
力士の記念碑もある。
中央地区・乱髪喜蔵碑
雲の井権九郎碑
久津良川周蔵碑
乱髪喜蔵碑に寄せる笹島宇兵衛の寄付金
柚木崎地区
二本松助五郎碑に笹島宇兵衛久津良川周蔵の寄付
ムカサ地区鬼神嶽休太
なんかムチャクチャみたいな四股名もあるが、鬼神嶽って強そ〜
鶴ヶ峰の子三兄弟の逆鉾の四股名もここから出ている
偏狭の地日向も上方の文化が大淀川右岸城ヶ崎 に花開き今も文人墓地が残る。
京都・五升庵蝶夢(1722〜1795)は芭蕉翁を全国区にした。
芭蕉堂の修復、芭蕉碑建立、作品集を刊行した
日向文化人もその指導を受け影響を残した。
よって県内にその芭蕉句碑をあちこちに確認できる。
国富町義門寺 を含め8ヶ所、九州管内でも多い。
芭蕉翁記念句碑
(をり〓〓に伊吹を見ては冬籠り)
文化年間=文化十四年(一八一七)
東諸県郡国富町本庄 義門寺
句は風化が甚だしく判読できず
麥の穗や涙に染て鳴雲雀
芭 蕉 庵 桃 居 士
左 當山澤似庵山天林寺淨現水上野町連中敬
安永九庚子載初秋中旬
右 加州散人仁田脇林耕松白蘭二誌之
安永九年(一七八〇)七月
現水建立
宮崎市吉村町浮ノ城 正光寺
此 あ た り 眼 に 見 ゆ る も の 皆 凉 し はせを
陰 明治二年己巳盛夏吉辰
台石 發起々庵魚竹菊池蘭雪
明治二年(一八六九)夏
徳々庵魚竹 菊池蘭雪建立
宮崎市生目亀井山 生目神社
西 行 の 菴 も あ ら む 花 の 庭 はせを
陰 文化十二年乙亥十月十二日
文化十二年(一八一五)十月十二日
内藤露沾の子孫内藤政脩建立
延岡市天神小路二五五‐一 内藤記念館静思庵
古池やかわつとひこむ水の音
芭 蕉 翁
右 寛政七乙卯天
左 葉月十二日立之
寛政七年(一七九五)八月十二日
西都市都於郡町 大安寺池の端弁財天社
元祿七甲戌十月十二日佐土原城下連中
芭 蕉 翁
旅に病んて夢は枯野をかけ巡り
文政年間=文政十二年(一八二九)
佐土原城下連中建立
宮崎郡佐土原町広瀬 久峰観音
う た か ふ な 潮 の 花 も 浦 の 春
小村西卜建立
児湯郡高鍋町蛟口 鵜戸神社
F 45009
梅 か 香 に の つ と 日 の 出 る 山 路 哉 はせを
陰 安政二乙卯歳八月建立發起得々庵魚竹
安政二年(一八五五)八月
得々庵魚竹建立
西臼杵郡高千穂町岩戸 天岩戸神社
国富町本庄・和泉屋・日高圃友(1745〜1811)長男習之(1778〜1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。
白鷺も首のす雁の別れかな
城跡の哀れに広し冬の朝
我が物とすれば少なし虫の声
初時雨油売り一人走りけり
昨日の争闘が食欲まで及ぼし酷い状態である。
この6年放りっ放しの歯であるがポロポロ櫛の歯が抜けるが如くであった。
お互い抜けあい上下の噛み合せがなってない。
意地でも治療しない。
老けの実情を味わっている頑固者。
あのぶん殴る瞬間、無理強いに力を入れたので下のその歯がぐら付き
親知らずの抜歯後に奥から順になくなっているが、最後の要歯がいよいよやられた。
相撲取りは奥歯がほとんどやられると岩下会長から伺った。
モナコパチンコグループの成功者。出は八代で自宅は一の鳥居の西。全国愛欄界会長。
佐渡ヶ部屋・琴桜は鳥取の生んだ32歳の遅咲き横綱。
夫人は女優岩下志麻似でより美人の岩下家長女。日向の人。
小品盆栽で出入りしたもんである。合掌。
食事ができない。
パンはおろか豆腐一丁でさえうまくいかないから夏場も絡み体力がおぼつかない。
歯根とはよくいたもので根っこのみ糸でと止めたるが如くで口内をフラフラものが絡まってる状態。。
舌で転がして遊んでるのが歯でおかしなものだ。痛みを楽しんでいる不謹慎もの。
抗生物質のオレンジ色一服欲しいが手元になし。黴菌で抜歯は怖くてたまらぬ。
抜歯でなく抜糸が正確な状態。何十年も連れ添った人とのつらいわかれ。
歯が横向いてて、歯と歯で横になった歯を噛んでる状態。
よくわかんない。?デショウネ。本人自体がそうですもの。ビデオで見てみたい。
頭の中心は後遺症でヅッキ〜ン、ズッキ〜ンと後頭部を包丁かなんかで切り取って捨てたいほど。
ボヤ〜〜ッとしている。微熱が気にかかる。
昨夜電話「どんげな〜」思い切りきった。
今朝になり又電話をよこした。
「微熱ぐらいならいいわ〜〜警察にいきない、それから病院にいきない。ほんならな〜〜」。
反省の弁は全く無いようだが、まぁ〜心配はしてるようだ。
いきなり後ろから後頭部をボガッ!
ヘルメットを常備被ってるわけでなし。
後ろに目があるわけでなし。
知ってるが故に、警察沙汰は可哀想である。
それも見越しての、暴力専門の方でさえしない異常行動をしたんであろう。
こんな異常者、精神科に入院させないと社会の平安無事はありえない。
病気持ちは強制隔離。季節の変更は困ったもんだ。
「楢山節考」の役の時、前歯を抜歯して山に捨てられる老婆を演じた役者魂からすれば
なんてぇことはない。
映画監督・進藤兼人を一躍世界の舞台に押し上げた名優音羽信子。実の夫婦でもあった。
持つべきものはよき妻。夫婦付随
お盆に中世伊東氏の霊が抜けないでいる。
日本の不幸のひとつに南北朝時代がある。
伊東家でも先に日向に下向していた国富八代・伊東祐広
三大敵討ち曽我兄弟に討たれる工藤祐経の孫になる。
建武2年(1335年)熊本・菊池武敏と気脈を通じ宮方・南朝方についた。
本家・都於郡・伊東祐持は北朝・武家方・足利尊氏方ゆえ戦場で合いまみえた。
忠臣・伊東祐広は仲間を集める戦略を用いた。
祐貞、祐勝、西都穂北平島資成を味方につけた。
さらに宮崎城・図師隋円、慈円
跡江・瓜生野八郎左衛門
高城・肝月兼重
立てこもったムカサ城は建武三年(延元元年)に落城。八代城に逃げる。
さらに猪野見城、土持宣栄にせめられ落城落命。
八代城址にはこのブログを呼んでいただいてる方と何年か前行った。
八代中、郵便局がこの地域の中心だが
それより東に下ったところ八代川上原の東端にある。
伊東祐広功公誠忠碑 430文字近い碑文・約3M 建立昭和10年4月
建立者が書いてないがこの時期の八代村長は杉尾明村長
佐土原の杉尾明??を知ってたが聞くの忘れてた。
今日は祖霊と英霊の魂・終戦の日。
犠牲者310万の霊がウジャウジャいる。
死霊を追悼し安寧を祈りたい。
御魂、御霊よ安らかに。
八代はその後幕府領天領の地国富町に吸収国富が中心部となる。
その本庄小の前の六日町の「義門寺」
伊東祐国の一族細川小四郎義門が改築したもの
ここがあの太平洋戦争を本土玉砕から救い、玉音放送敗戦に導いた人が眠る。
にほんを一億層玉砕から救った人だ。
田舎には貴人は珍しく東大教授平泉澄が墓碑銘を揮毫した。
近藤伝八大佐の墓である。
終戦秘話に
「宮城事件」が歴史に刻まれている。
玉音放送の盤の争奪戦。
敗戦宣言か戦争の継続化であった。
近藤伝八は国富の雑貨商に生まれた。
旧制宮中大宮高から熊本陸軍幼年学校・陸軍士官学校41期性
1938年首席で卒業。
首席のみに与えられる軍事講義の御前講義の名誉を得た。
恩賜の軍刀を賜っている。
阿南惟幾(これちか)は終戦を進めるにあたって困難の時局を抑えきれる唯一の人物。
45年1月ベトナム・サイゴン(ホーチミン)にいた。
近藤伝八大佐は大本営参謀本部にいたが、本土に呼びもどすため飛び立った。
娘婿市村真一京大教授
「阿南大将を陸軍大臣にするため国内に呼び戻すという軍の密名を帯びていた。」
この頃の無線は解読傍受されている。
「大将は輸送機に乗っている。」
自分の乗ってきた機に阿南大将をのせ、自分は輸送機に乗りおとり作戦。
輸送機は爆撃で墜落して阿南は帰国できた。
降伏反対を乗り切り玉音放送の8・15を迎えた。
終戦に向けて命をささげた終戦の影の功労者
証言してる人は日向の出の津田安敬
宮城事件の時は埼玉陸士も生徒であった。
そのエピソードを語る。
上原重太郎大尉(24)
「近衛師団長森師団長はボウ大尉に殺害された。
帝都に行って報道機関などを制圧するから武装せよ」」
手持ちの軍刀の刃こぼれ、血で汚れていた。
ボウ大尉といいながら実は自分で殺していた。」
森赳師団長が皇居を守ると玉音版奪取に同意しなかったからである。
戦争継続で玉音放送盤を奪おうとしていた。
見つけきれず失敗。
戦争継続の玉音放送の中止か敗戦かこの時点で決まった。」
8・15陸士学校。
徳川好敏校長
「陛下の言葉に従うよう」訓示
次の瞬間壇上に上がり
「徹底抗戦!」
「武器庫銃弾武装」
車は学校側からパンクさせられ出動できなかった。
陸軍士官学校近辺にある雄叫神社で割腹。
「19日軍刀の束を地面において刀を上に向け其の植えに覆うようにかぶさって腹を切った苦悶の表情は見えませんでした
」介錯され首の皮がつながってる遺体」霊安室で見た。
横穴の防空壕をスコップで一生懸命一緒に彫った。ほかの隊長は指導監督するだけだった。
包容力がある人だった。
きょう正午重大な発表がある。
医学生山田風太郎に講義中にまわされたメモ。
「休戦?降伏?宣戦布告?」
迷わず、宣戦布告に丸をつけた。
「帝国臣民にして先陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたるもの、
およびその遺族に想いをいたせば五内ために裂く・・」
僕は全身の毛穴がそそり立った。負けぬとの教育だったから当然であろう。
「自分は生まれてからこれほど血と涙に咽ぶような声音というものを聞いたことはない。」
戦中派日記・講談社文庫
安倍総理はこあたり見習うべきである徹底抗戦!いさぎよさ。もののふ。美しい国。
では大和魂・神風の国。戦を長引かせておればいつかは勝っていたのであろうか。
「一億総特攻の本土決戦」
これ以上の必死さは無いほどのスローガンまさに笑止。(なんだと貴様非国民!)
惟は古来より伝わる、日本人の魂、捨て身必殺の剣法からあみだしたるもの。
極意は「相打ち」である。(勝ってないジャン!)
戦闘主力。
大本営陸軍部
航空戦力一万機
練習機を改修シタモノ75パーセント
海上特攻3300隻
駆逐艦19隻
潜水艦38隻
陸海空動員兵力240万人
国民義勇戦闘隊2800万人
構成
15才〜65の男
17才〜45の女
戦術
苛烈な体当たりに反復。
劣勢は切り込みと対戦車肉薄攻撃
苛烈は黄色い火薬10kgを梱包し信管をつけ背負い
戦車のキャタビラの間に身を投ぅじる。
自爆する。・・・・これ・・・一死必砕の戦法
取り扱い極秘。
敵スパイに知れぬよう極秘行動で訓練する。
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