今日の誕生日の花は・・スカシユリ
花言葉は・・・・・注目を浴びる
六枚の花びらには隙間があるのでそれが名の由来
本州北部に観られるとあるが霧島連山にはいま白き夏ツバキが見らられる如くで
スカシユリの園芸種として改善され宮崎の園芸店、球根でとれる。
60センチぐらいの高さにしてはオレンジピンクシロの色の花が大きい。
暑き日を 海に入れたり 大淀川
ユリひらく 米良の山々 目をさます
初めてのことである。
芥川賞に異文化言語圏で、日本語に触れたのが微か21年前の人が受賞した。
五輪効果のリップサービスなのかまだ一行も読んでないのでナントもいえない。
これまでは異言語文化圏の入賞は
リード英雄「千々にくだけて」の大仏次郎賞、
アーサー・ビナードの「釣り上げては」の中原中也賞以来のもの。
県文学作品参加にたじろいでいるのがお恥ずかしい。
マッカサーサーの連合軍の占領政策は太平洋戦争前に書き上げられ
占領政策に生かされたA・ベネジェクト著の「菊と刀」によるところが大きい。
日本に一度も来てないのに観てきたごとくの日本人研究の書。
今読んでみるがいい。
日本民族の生活スタイル思考形態を読み解いた
その的確さに思わず苦笑してしまう自分を見出そう。。
イザベラ・バードは維新初期或いは前後
日本を踏査して著作を残した。
キヌカワ、会津田島、阿賀野川を下り、新潟にでた。
米沢山形秋田と、駆けぬけアイヌを知る。
東洋文庫に日本奥地紀行を残し、平凡社ライブラリーでみれる。
関西も踏破、同士や新島襄の言う。
子供じみたくだらない迷信がはびこっている
日本紀行は講談社にある。
宗教の情熱的衰え
雅洛 金谷家日光ホテルにわたしともども共感をよせる
西洋に桂離宮をみて日本建築の美を紹介したブルーノ・タクトばりである。
里の棚田に感嘆し、、山村の貧困悲惨な生活をも炙り出したが、
小泉竹中の田舎切りすて5年後の惨状を見ればナント書いたことだろう。
橋本大也(37)データーセクション代表
ブロガー、転じて事業化する凄さに脱帽!
高校中退は、大検があるのを計算の上。
ただし早稲田は居心地よく8年もいる。
年間200冊を読みこなし読後感をデーター化。
日記手記私記多いブログの中著書をタイトル通り考える。
直木賞は井上光晴の娘さんらしい。
それって芥川賞で両者いれかわるべきじゃぁないかと
触れる前からコリャァ〜楽しみだ。
ブラジルと宮崎でネタを探すといろいろとある。
敬老会長さんの宮崎出身分がどこか飛んでってしまった。のが残念。
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ブラジル龍馬会できたぜよ
南米にも龍馬の志伝えよう――。高知県人移住百周年を迎えたブラジルで「ブラジル龍馬会」が発足した。
龍馬会を束ねる全国龍馬社中の橋本邦健会長=高知市=の呼び掛けで現地の龍馬ファンらが旗揚げし、
今後の活動へ夢を広げている。
同社中によると、通算百二十七番目、
海外で七番目の龍馬会で、南米では初めて。
五月からブラジル日系人有志で準備を進め、現地邦字紙「ニッケイ新聞」の高木ラウル社長や
自営業者ら約三十人が会員として集まった。
サンパウロ市のホテルで十四日開かれた発足式には、高知県ブラジル訪問団に同行している橋本会長らを含め約四十人が参加。
会員それぞれに龍馬への思いを語り、「龍馬に関する本のポルトガル語版を出したい」
「桜を植樹して『龍馬の森』を作ろう」などと早速、今後の活動のアイデアを出し合った。
初代会長に就任したアラゴアス州マセイオ市のホテル経営者、谷広海(68)は自身は宮崎市生まれで、
両親が室戸市出身。
「一九六四(昭和三十九)年に移住する時に持ってきた『竜馬がゆく』を読んで勇気づけられ、今も大事にしている。
高知には愛着があり、この話が来た時、これも何かの縁と思いお受けした」と話した。
橋本会長は「龍馬が世界の海援隊をつくっていたらサントス港に来ていただろう。
日本人移民百年の年に発足できたことは感無量。次の二百年に向けて頑張ってほしい」とエールを送っていた。
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連載企画「移民百年二つの祖国に生きる」=第2回 「勝ち組」と「負け組」=テロ続発、日系史の暗部』
いすに座った日本陸軍の元大佐と、直立不動の日本人の若者四人が向かい合う。
一九四六年六月二日夕、ブラジルのサンパウロ。
若者の一人が短刀と「自決勧告書」を差し出した。
元大佐は「そんな気力はないよ」とぽつり。
「では、御免」。
三発の銃声が響き、黒いシャツ姿の元大佐の体が崩れ落ちた。
戦後、日系移民同士が衝突した「勝ち組」と「負け組」の抗争。
百以上に及んだ一連のテロは今も日系社会のタブーだ。
「自分の信念でやった」。
現在はサンパウロ州マリリアで自転車販売店を経営する日高徳一(ひだか・とくいち)(82)=宮崎県出身=は、
終戦から約十カ月後、親友ら三人とともに、陸軍元大佐で戦前の日系社会の大物だった
脇山甚作(わきやま・じんさく)を射殺した。
日本の敗戦を認めなかった「勝ち組」の日高らにとって、現実を受け入れるよう日系移民を説得していた
「負け組」の脇山は、許し難い存在だったためだ。
この事件を含め、四六―四七年に「勝ち組」と「負け組」の衝突が続発、
死者二十三人、負傷者は八十六人に上った。
日米関係が悪化した三〇年代、親米のブラジルは移民の同化政策を強め、日本語学校は閉鎖、邦字紙も発禁に。
開戦後の四二年にはブラジルは日本と断交した。
日系移民は情報から隔絶され、極端な孤立感に包まれる。
「当時の移民はほとんどが出稼ぎ目的。敗戦は帰る場所を失うことを意味し、現実は受け入れがたかった」。
日系移民史に詳しい上智大の三田千代子(みた・ちよこ)教授が「勝ち組」の心情を分析する。
終戦後の四五年十月、日系社会の動揺を静めようと、日本から昭和天皇の詔勅が届けられ、脇山氏らはこれをブラジル各地の日系人に配布。「勝ち組」の怒りを買った。
日高らは事件後に自首し、それぞれ禁固約三十年の判決を受けた。
日本はその後、日高らが激しく敵視した米国と安全保障条約を結び、「日米同盟」は日本外交の柱の一つになった。
「恨みはなかった。(脇山氏に)すまないという気持ちでいっぱいだ」
。日高は毎年六月二日、自宅で手作りの仏壇に線香を供え、手を合わせる。
一方で、こう打ち明けた。
「日本は米国に負けていない、と思って(負け組との抗争に)自分の青春をかけた。なのに、今の日本と米国の距離の近さ。割り切れん」(マリリア共同=名波正晴)
ブラジル日本人移民百年/<二つの祖国に生きる>
『ニッケイ新聞ーWEBより転載<移民百年ー二つの祖国に生きる』
ニッケイ新聞 2008年5月27日付け
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連載企画「移民百年二つの祖国に生きる」=第1回 初の移民船の子孫、6世に=ブラジルに根を張る日系人
移住家族 第425号 (2005年8月)
目次
1面 県との連携、新しいモデルに…
山口県技術研修員来日特別オリエンテーション事業
現行法ではもう限界
外国人労働者問題協議会
日伯21世紀協議会初会合は中止に
2面 ブラジルに移住した父の足跡を求めて・・・
宮崎県在住の宮木真理さん
3面 重み増す「候補者・フジモリ」
ブラジル県人会へ贈った記念時計が空港税関でストップ
」
第2回研修会が無事終了!
ブラジルを翔けたSAMURAI YS-11を保存せよ!
ブラジルに移住した父の足跡を求めて… 宮崎県在住の宮木真理さん
日南市出身 コチア青年移住の海老原茂範さん
「せめて遺骨だけでも故郷へ・・・」
海老原さん一家の近所(グアス?)に住み最後まで親交のあった西さん一家。左端がサナエさん。
昨年の12月、編集部に読者から一通の手紙が届いた。「10月25日号の移住家族の記事の中に“コチア青年”の文字を見つけ、今は亡き父の事を思い出さずにはいられなくなりました」
手紙の主は「コチア青年連絡協議会高橋一水会長来訪」の記事を見た宮崎県在住の宮木真理さん。
真理さんの父、海老原茂範さんもまた、コチア青年の1人として夢と希望を抱きブラジルに渡った。やがて彼の地で家庭を築き真理さんを筆頭に5人の子をもうけたが、33年前自ら死を選んだのだった。
残された真理さんら家族は日本へ帰国する道を選ぶよりなく、母親の故郷である延岡市に移り住むことになった。
ブラジル生まれの姉弟にとってははじめての日本。「きっと父や母がブラジルに渡ったときも同じような心境だったに違いありません」。
「いつしか父が亡くなった時の年を上回り、子供たちの親になった」今、真理さんは、父、繁範さんのことを考えることが多くなったという。
帰国の際には、父親の遺骨を日本へ持ち帰ることが出来ず、真理さんの母は、茂範さんが眠る墓地のわずかばかりの赤土を、遺骨の代わりに持ち帰り、茂範さんの郷里の墓地に埋葬した。
真理さんは「母親が元気なうちに父の遺骨が手元に戻れば」と思い、ブラジル在住の祖父母の連絡先を探し、手紙を出したこともあったが、墓地周辺の様子も様変わりし、遺骨の行方もわからなくなったとの返事であったという。そして、その祖父母も他界してしまい、探すすべを失ってしまった。
本紙では、前述のコチア青年連絡協議会高橋一水会長に協力を依頼した結果、この6月に、茂範さんが埋葬されているのはサンパウロの中心から40キロ?のエンブ・グアスという墓地であることが分かった。しかし無縁墓地化しており、遺骨の行方はさらに調査中である。
野菜を栽培していたグアスの森昭雄さんの農場が受け入れ先であったことも分かったが、森さん夫妻も既に他界していた。森さんは、生前は高知県人会の役員もしていたという。
真理さんは「母にとっては忘れてしまいたい過去なのかもしれませんが、娘の私としては当時の事実を知りたい」と、自身のルーツであるブラジルでの一家の生活と、少しでもかかわりがあった人や茂範さんと交流があった人、知っている人たちと連絡を取りたいと考えている。
「父が亡くなる直前まで一家6人で過ごした家の近所に、西さんという一家が住んでいました。当時10歳だった私より上のお兄さんやお姉さんたちがいたことを思い出します」「お兄さんの名前がパウロさん。その上のお姉さんがサナエさん」。
真理さんは幼いころの記憶を必死にたどる。そして「できれば父に生まれ故郷でゆっくりと眠って欲しい」と願っている。
コチア青年移住が始まって今年で50周年。9月18日には、サンパウロで記念式典が開催されることになっている。
なお、読者からの情報により、海老原さんは、コチア青年第1次11回、57(昭和32)年10月11日サントス着のぶらじる丸で渡航されていたことが分かりました。
本紙では、引き続き海老原さんに関する情報を求めています。同船の方などの情報をお待ちしております。
【コチア青年】
ブラジル政府移民局との間で結ばれた協定のもとに、1955年から67年までの12年間にわたって行われた日本国籍を有する独身男性の移民施策。日系人による農業協同組合「コチア産業組合」が受け入れ先。日本側では全国農協中央会が送り出し機関となって、各県・市町村の農協で移住希望者の募集・選考を行った。この制度で、合計2508名の若者が移住している。
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ブラジルを翔けたSAMURAI YS-11を保存せよ!
ヒコーキ野郎たちのもう1つのプロジェクトX
尾翼にSAMURAIの文字が書かれたVASP航空時代のYS-11
YS-11。戦後、わが国初の旅客機として国家プロジェクトにより誕生し、182機が製造された中型プロペラ機である。そのうちブラジルに渡った1機が日本に里帰りし、現在、運輸省航空局の飛行検査機として余生を送っているが、2006年いっぱいで退役が決まっている。日本人移住100周年にあたる2008年の日伯交流年に向け、両国でこの機体の保存の声が上がっている。
戦後45年から52年までGHQにより航空機の生産から研究、実験にいたるまですべての開発を禁止されていた日本で、国産旅客機の開発が構想されたのは56年。翌57年に正式にYS-11の開発がスタートした。その開発にかけた男たちのドラマはNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でも放映され大きな反響を呼んだが、短い滑走路で離着陸が可能な60人の定員を持つ中型旅客機というコンセプトは、世界中で需要を生み70数機が海外に販売された。
ブラジルには約20機が渡ったと見られるが、不死鳥のごとくよみがえった日本の航空技術とチャレンジ・スピリットに敬意を表し、VASP航空に籍をおいた当該機の垂直尾翼には、SAMURAIの愛称が躍っていた。
同機は77年に東亜国内航空(現日本航空システム)が買い戻し「よろん」号として運行。85年より現在の運輸省航空局に移籍している。ブラジルで活躍した機体で現存するのは同機だけであるという。
昨年8月バリグ・ブラジル航空の機長であるアルバーロ・ネット氏から、国土交通省航空機安全課に機の現状について問い合わせがあり、10月には、現在構想中である「AEROMUSEU(航空博物館。同氏は館長)」にSAMURAI時代の塗装に戻して地上展示をしたい旨の書簡が届いた。
これに呼応したのが、大槻統さんら羽田航空宇宙科学館推進会(HASM)のメンバーたち。元機長や元航空機関士、熱烈な航空ファンなどいずれ劣らぬヒコーキ野郎たちの集まりである。
大槻さんらは、航空局に出向きブラジル側と日本との橋渡しとなることを表明し協力を要請。ブラジル側には100周年の公式行事となるように公的機関への働きかけを依頼する書簡を送った。
HASMは99年、国内において、YS-11の量産1号機の保存運動にも参加し、国立科学博物館の所有として羽田空港内での動態保存を勝ち取った経緯がある。
果たしてブラジルでも保存の道が開けるか。「フェリーフライト(自力飛行での輸送)は、移住船のコースを辿ろう」など夢が広がる。
保存にかけるヒコーキ野郎たちのもうひとつの「プロジェクトX」は始まったばかりだ。
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?旅券関連年表年月日旅券年表宮崎県国際政策課の沿革等
昭和22.5.3総務部外務課を設置する
26.11.28旅券法制定(26.12.1 法施行)緊急発給以外の申請受理、交付業務が
都道府県に委任される(総務部外務課で担当)
27.8.1総務部外務課を廃止し、総務部総務課に外事係を設置
28.11.15宮崎県海外協会発足
38.4.1業務渡航の自由化
39.4.1観光渡航の自由化
41.1渡航回数の制限の撤廃
43.4.1総務課移住外事係に名称変更(農政企画課移住係を廃止)
45.9.28旅券事務委任に関する政令制定
12.1旅券法改正法施行(数次旅券5 年間有効の発給開始)
旅券事務委任に関する政令施行
47.5.15沖縄返還
9.29中国と国交回復
48.5.15東ドイツと国交回復
9.21北ベトナムと国交回復
50.3.1身元確認の強化(規則改正)
4.1代理申請取扱の厳格化及び旅券面への保
護シート糊付(旅券変造防止対策)
10.1宮崎県海外協会へ旅券業務委託
11.1端末機が設置され、県において旅券作成
51.4.1総務課外務係となる
52.11.25旅券法一部改正(発給制限事由の範囲を
改正)
53.5.1旅券手数料の改定
一回旅券3,000 円→ 4,000 円数次旅券6,000 円→ 8,000 円8.10旅券冊子の様式改 正
(表紙紺色→赤色・36 頁→ 40 頁)
55.2.1一般旅券発給申請書様式改正
57.4.1渡航費用証明の一元化(規則改正)7.23代理申請の範囲の拡大(法改正)
身元確認書類の拡大及び申請書等の様式
改正(規則改正
)58.5.1国家公務員の「渡航承認書」提出の廃止
旅券冊子の頁数削減(40 頁→ 24 頁)
59.4.27新規発給、再発給、渡航先追加、申請書
様式改正
59.12.26旅券法施行規則の一部改正(旅券氏名欄
の非ヘボン式記載の特例改正)
国籍法、戸籍法の改正(60.1.1 法施行)
60.4.1総務課国際交流主幹の職制を新設
県北出張窓口開設(毎月第2、4 水曜日)60.6渡航費用の支払い能力を立証する書類の12.17簡素化及び旅券関係申請書の改正
(61.1.1 施行)
61.4.16旅券冊子署名欄の変更(61.6.1 施行)62.4.1一般旅行業者及び一般旅行業 代理店業者
による旅券の代理申請実施
63.4.1外務係を国際交流係に名称変更
5.1国際交流主幹を廃止し、国際交流対策監の職を設置
昼休み窓口開始
平成元.4.18旅券法改正
6.1旅券手数料納入方法の変更(分納化)
一回旅券・・・印紙3,200 円 証紙 800 円数次旅券・・・印紙6,500 円 証紙 1,500 円
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「勝ち組」と「負け組」に面白いものを見つけた。
世界の裏街道を行く大宅荘一
南北アメリカ編
50年代移民
アマゾン移民
明治アメリカ・ハワイ
大正ブラジル
移民地帯の特徴は旧タイプの日本人
一切合財のこっている
博覧会を身にきた。
61年3月号日本
「宮崎高千穂に来てみて大和狩猟民族を見出した柳田邦男がみたいなものだった」んであろう
恐ろしき幻の資料がある。
梶山利之が収集した。65年
「勝ち組」には敗戦で無価値になった旧紙幣
それを売る陰謀があッたという。
買い占めたため神田古本屋からブラジル関連の書物はなくなったとの逸話
襲った黒い魔手
ルポ戦後縦断、残念にも梶山利之45歳没
広島朝鮮のルイケイ、母ハワイ2世執念の真相は明らかに去れてない。
年2冊10年積乱雲
98年
移民ハワイと南米の二つ
藤崎康夫
熊本19年引き上げ閉鎖性
外から日本人
内鮮結婚政策の著。戦跡帰国なし夜間
在韓妻。
73年ニッポンマル
泉精一
満州アジア移民
タブー
高木俊郎
狂信70年
日本人のあり方を深く考えることができる。
サントス第14埠頭
陛下は生きておられた28年勝利引き上げた勝ち組み
手塚治虫の死を前にした急激なる変化の謎。
ブラジルを描き出す未刊。
87年グリンコ
商社マン・リド共和国
バブルのとき移民
戦前の日本村に迷い込む。
89年死亡
ハルとナツ3ねんまえ放送ブラジル80周年
70年太地の子、75菜の花の神、橋しだすが子
パラレウルワールド
深沢正行・・・群馬大泉
在日ブラジル人コミュニテイの日々
よさばかりがウソ
異文化少子化
教育現場から5段階評価が消えて久しい.
学年クラス順位さえないらしき通知表.。
運動会でさえ順位がつかないらしいんで
この程度のしりきれトンボ・ブログも許されたし.
九州地区ブログランキング参加!
・・・元気ください・・・
お願いいたします
プチッ!
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http://blog.with2.net/link.php?62076
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花言葉は・・・・・注目を浴びる
六枚の花びらには隙間があるのでそれが名の由来
本州北部に観られるとあるが霧島連山にはいま白き夏ツバキが見らられる如くで
スカシユリの園芸種として改善され宮崎の園芸店、球根でとれる。
60センチぐらいの高さにしてはオレンジピンクシロの色の花が大きい。
暑き日を 海に入れたり 大淀川
ユリひらく 米良の山々 目をさます
初めてのことである。
芥川賞に異文化言語圏で、日本語に触れたのが微か21年前の人が受賞した。
五輪効果のリップサービスなのかまだ一行も読んでないのでナントもいえない。
これまでは異言語文化圏の入賞は
リード英雄「千々にくだけて」の大仏次郎賞、
アーサー・ビナードの「釣り上げては」の中原中也賞以来のもの。
県文学作品参加にたじろいでいるのがお恥ずかしい。
マッカサーサーの連合軍の占領政策は太平洋戦争前に書き上げられ
占領政策に生かされたA・ベネジェクト著の「菊と刀」によるところが大きい。
日本に一度も来てないのに観てきたごとくの日本人研究の書。
今読んでみるがいい。
日本民族の生活スタイル思考形態を読み解いた
その的確さに思わず苦笑してしまう自分を見出そう。。
イザベラ・バードは維新初期或いは前後
日本を踏査して著作を残した。
キヌカワ、会津田島、阿賀野川を下り、新潟にでた。
米沢山形秋田と、駆けぬけアイヌを知る。
東洋文庫に日本奥地紀行を残し、平凡社ライブラリーでみれる。
関西も踏破、同士や新島襄の言う。
子供じみたくだらない迷信がはびこっている
日本紀行は講談社にある。
宗教の情熱的衰え
雅洛 金谷家日光ホテルにわたしともども共感をよせる
西洋に桂離宮をみて日本建築の美を紹介したブルーノ・タクトばりである。
里の棚田に感嘆し、、山村の貧困悲惨な生活をも炙り出したが、
小泉竹中の田舎切りすて5年後の惨状を見ればナント書いたことだろう。
橋本大也(37)データーセクション代表
ブロガー、転じて事業化する凄さに脱帽!
高校中退は、大検があるのを計算の上。
ただし早稲田は居心地よく8年もいる。
年間200冊を読みこなし読後感をデーター化。
日記手記私記多いブログの中著書をタイトル通り考える。
直木賞は井上光晴の娘さんらしい。
それって芥川賞で両者いれかわるべきじゃぁないかと
触れる前からコリャァ〜楽しみだ。
ブラジルと宮崎でネタを探すといろいろとある。
敬老会長さんの宮崎出身分がどこか飛んでってしまった。のが残念。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ブラジル龍馬会できたぜよ
南米にも龍馬の志伝えよう――。高知県人移住百周年を迎えたブラジルで「ブラジル龍馬会」が発足した。
龍馬会を束ねる全国龍馬社中の橋本邦健会長=高知市=の呼び掛けで現地の龍馬ファンらが旗揚げし、
今後の活動へ夢を広げている。
同社中によると、通算百二十七番目、
海外で七番目の龍馬会で、南米では初めて。
五月からブラジル日系人有志で準備を進め、現地邦字紙「ニッケイ新聞」の高木ラウル社長や
自営業者ら約三十人が会員として集まった。
サンパウロ市のホテルで十四日開かれた発足式には、高知県ブラジル訪問団に同行している橋本会長らを含め約四十人が参加。
会員それぞれに龍馬への思いを語り、「龍馬に関する本のポルトガル語版を出したい」
「桜を植樹して『龍馬の森』を作ろう」などと早速、今後の活動のアイデアを出し合った。
初代会長に就任したアラゴアス州マセイオ市のホテル経営者、谷広海(68)は自身は宮崎市生まれで、
両親が室戸市出身。
「一九六四(昭和三十九)年に移住する時に持ってきた『竜馬がゆく』を読んで勇気づけられ、今も大事にしている。
高知には愛着があり、この話が来た時、これも何かの縁と思いお受けした」と話した。
橋本会長は「龍馬が世界の海援隊をつくっていたらサントス港に来ていただろう。
日本人移民百年の年に発足できたことは感無量。次の二百年に向けて頑張ってほしい」とエールを送っていた。
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連載企画「移民百年二つの祖国に生きる」=第2回 「勝ち組」と「負け組」=テロ続発、日系史の暗部』
いすに座った日本陸軍の元大佐と、直立不動の日本人の若者四人が向かい合う。
一九四六年六月二日夕、ブラジルのサンパウロ。
若者の一人が短刀と「自決勧告書」を差し出した。
元大佐は「そんな気力はないよ」とぽつり。
「では、御免」。
三発の銃声が響き、黒いシャツ姿の元大佐の体が崩れ落ちた。
戦後、日系移民同士が衝突した「勝ち組」と「負け組」の抗争。
百以上に及んだ一連のテロは今も日系社会のタブーだ。
「自分の信念でやった」。
現在はサンパウロ州マリリアで自転車販売店を経営する日高徳一(ひだか・とくいち)(82)=宮崎県出身=は、
終戦から約十カ月後、親友ら三人とともに、陸軍元大佐で戦前の日系社会の大物だった
脇山甚作(わきやま・じんさく)を射殺した。
日本の敗戦を認めなかった「勝ち組」の日高らにとって、現実を受け入れるよう日系移民を説得していた
「負け組」の脇山は、許し難い存在だったためだ。
この事件を含め、四六―四七年に「勝ち組」と「負け組」の衝突が続発、
死者二十三人、負傷者は八十六人に上った。
日米関係が悪化した三〇年代、親米のブラジルは移民の同化政策を強め、日本語学校は閉鎖、邦字紙も発禁に。
開戦後の四二年にはブラジルは日本と断交した。
日系移民は情報から隔絶され、極端な孤立感に包まれる。
「当時の移民はほとんどが出稼ぎ目的。敗戦は帰る場所を失うことを意味し、現実は受け入れがたかった」。
日系移民史に詳しい上智大の三田千代子(みた・ちよこ)教授が「勝ち組」の心情を分析する。
終戦後の四五年十月、日系社会の動揺を静めようと、日本から昭和天皇の詔勅が届けられ、脇山氏らはこれをブラジル各地の日系人に配布。「勝ち組」の怒りを買った。
日高らは事件後に自首し、それぞれ禁固約三十年の判決を受けた。
日本はその後、日高らが激しく敵視した米国と安全保障条約を結び、「日米同盟」は日本外交の柱の一つになった。
「恨みはなかった。(脇山氏に)すまないという気持ちでいっぱいだ」
。日高は毎年六月二日、自宅で手作りの仏壇に線香を供え、手を合わせる。
一方で、こう打ち明けた。
「日本は米国に負けていない、と思って(負け組との抗争に)自分の青春をかけた。なのに、今の日本と米国の距離の近さ。割り切れん」(マリリア共同=名波正晴)
ブラジル日本人移民百年/<二つの祖国に生きる>
『ニッケイ新聞ーWEBより転載<移民百年ー二つの祖国に生きる』
ニッケイ新聞 2008年5月27日付け
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連載企画「移民百年二つの祖国に生きる」=第1回 初の移民船の子孫、6世に=ブラジルに根を張る日系人
移住家族 第425号 (2005年8月)
目次
1面 県との連携、新しいモデルに…
山口県技術研修員来日特別オリエンテーション事業
現行法ではもう限界
外国人労働者問題協議会
日伯21世紀協議会初会合は中止に
2面 ブラジルに移住した父の足跡を求めて・・・
宮崎県在住の宮木真理さん
3面 重み増す「候補者・フジモリ」
ブラジル県人会へ贈った記念時計が空港税関でストップ
」
第2回研修会が無事終了!
ブラジルを翔けたSAMURAI YS-11を保存せよ!
ブラジルに移住した父の足跡を求めて… 宮崎県在住の宮木真理さん
日南市出身 コチア青年移住の海老原茂範さん
「せめて遺骨だけでも故郷へ・・・」
海老原さん一家の近所(グアス?)に住み最後まで親交のあった西さん一家。左端がサナエさん。
昨年の12月、編集部に読者から一通の手紙が届いた。「10月25日号の移住家族の記事の中に“コチア青年”の文字を見つけ、今は亡き父の事を思い出さずにはいられなくなりました」
手紙の主は「コチア青年連絡協議会高橋一水会長来訪」の記事を見た宮崎県在住の宮木真理さん。
真理さんの父、海老原茂範さんもまた、コチア青年の1人として夢と希望を抱きブラジルに渡った。やがて彼の地で家庭を築き真理さんを筆頭に5人の子をもうけたが、33年前自ら死を選んだのだった。
残された真理さんら家族は日本へ帰国する道を選ぶよりなく、母親の故郷である延岡市に移り住むことになった。
ブラジル生まれの姉弟にとってははじめての日本。「きっと父や母がブラジルに渡ったときも同じような心境だったに違いありません」。
「いつしか父が亡くなった時の年を上回り、子供たちの親になった」今、真理さんは、父、繁範さんのことを考えることが多くなったという。
帰国の際には、父親の遺骨を日本へ持ち帰ることが出来ず、真理さんの母は、茂範さんが眠る墓地のわずかばかりの赤土を、遺骨の代わりに持ち帰り、茂範さんの郷里の墓地に埋葬した。
真理さんは「母親が元気なうちに父の遺骨が手元に戻れば」と思い、ブラジル在住の祖父母の連絡先を探し、手紙を出したこともあったが、墓地周辺の様子も様変わりし、遺骨の行方もわからなくなったとの返事であったという。そして、その祖父母も他界してしまい、探すすべを失ってしまった。
本紙では、前述のコチア青年連絡協議会高橋一水会長に協力を依頼した結果、この6月に、茂範さんが埋葬されているのはサンパウロの中心から40キロ?のエンブ・グアスという墓地であることが分かった。しかし無縁墓地化しており、遺骨の行方はさらに調査中である。
野菜を栽培していたグアスの森昭雄さんの農場が受け入れ先であったことも分かったが、森さん夫妻も既に他界していた。森さんは、生前は高知県人会の役員もしていたという。
真理さんは「母にとっては忘れてしまいたい過去なのかもしれませんが、娘の私としては当時の事実を知りたい」と、自身のルーツであるブラジルでの一家の生活と、少しでもかかわりがあった人や茂範さんと交流があった人、知っている人たちと連絡を取りたいと考えている。
「父が亡くなる直前まで一家6人で過ごした家の近所に、西さんという一家が住んでいました。当時10歳だった私より上のお兄さんやお姉さんたちがいたことを思い出します」「お兄さんの名前がパウロさん。その上のお姉さんがサナエさん」。
真理さんは幼いころの記憶を必死にたどる。そして「できれば父に生まれ故郷でゆっくりと眠って欲しい」と願っている。
コチア青年移住が始まって今年で50周年。9月18日には、サンパウロで記念式典が開催されることになっている。
なお、読者からの情報により、海老原さんは、コチア青年第1次11回、57(昭和32)年10月11日サントス着のぶらじる丸で渡航されていたことが分かりました。
本紙では、引き続き海老原さんに関する情報を求めています。同船の方などの情報をお待ちしております。
【コチア青年】
ブラジル政府移民局との間で結ばれた協定のもとに、1955年から67年までの12年間にわたって行われた日本国籍を有する独身男性の移民施策。日系人による農業協同組合「コチア産業組合」が受け入れ先。日本側では全国農協中央会が送り出し機関となって、各県・市町村の農協で移住希望者の募集・選考を行った。この制度で、合計2508名の若者が移住している。
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ブラジルを翔けたSAMURAI YS-11を保存せよ!
ヒコーキ野郎たちのもう1つのプロジェクトX
尾翼にSAMURAIの文字が書かれたVASP航空時代のYS-11
YS-11。戦後、わが国初の旅客機として国家プロジェクトにより誕生し、182機が製造された中型プロペラ機である。そのうちブラジルに渡った1機が日本に里帰りし、現在、運輸省航空局の飛行検査機として余生を送っているが、2006年いっぱいで退役が決まっている。日本人移住100周年にあたる2008年の日伯交流年に向け、両国でこの機体の保存の声が上がっている。
戦後45年から52年までGHQにより航空機の生産から研究、実験にいたるまですべての開発を禁止されていた日本で、国産旅客機の開発が構想されたのは56年。翌57年に正式にYS-11の開発がスタートした。その開発にかけた男たちのドラマはNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でも放映され大きな反響を呼んだが、短い滑走路で離着陸が可能な60人の定員を持つ中型旅客機というコンセプトは、世界中で需要を生み70数機が海外に販売された。
ブラジルには約20機が渡ったと見られるが、不死鳥のごとくよみがえった日本の航空技術とチャレンジ・スピリットに敬意を表し、VASP航空に籍をおいた当該機の垂直尾翼には、SAMURAIの愛称が躍っていた。
同機は77年に東亜国内航空(現日本航空システム)が買い戻し「よろん」号として運行。85年より現在の運輸省航空局に移籍している。ブラジルで活躍した機体で現存するのは同機だけであるという。
昨年8月バリグ・ブラジル航空の機長であるアルバーロ・ネット氏から、国土交通省航空機安全課に機の現状について問い合わせがあり、10月には、現在構想中である「AEROMUSEU(航空博物館。同氏は館長)」にSAMURAI時代の塗装に戻して地上展示をしたい旨の書簡が届いた。
これに呼応したのが、大槻統さんら羽田航空宇宙科学館推進会(HASM)のメンバーたち。元機長や元航空機関士、熱烈な航空ファンなどいずれ劣らぬヒコーキ野郎たちの集まりである。
大槻さんらは、航空局に出向きブラジル側と日本との橋渡しとなることを表明し協力を要請。ブラジル側には100周年の公式行事となるように公的機関への働きかけを依頼する書簡を送った。
HASMは99年、国内において、YS-11の量産1号機の保存運動にも参加し、国立科学博物館の所有として羽田空港内での動態保存を勝ち取った経緯がある。
果たしてブラジルでも保存の道が開けるか。「フェリーフライト(自力飛行での輸送)は、移住船のコースを辿ろう」など夢が広がる。
保存にかけるヒコーキ野郎たちのもうひとつの「プロジェクトX」は始まったばかりだ。
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?旅券関連年表年月日旅券年表宮崎県国際政策課の沿革等
昭和22.5.3総務部外務課を設置する
26.11.28旅券法制定(26.12.1 法施行)緊急発給以外の申請受理、交付業務が
都道府県に委任される(総務部外務課で担当)
27.8.1総務部外務課を廃止し、総務部総務課に外事係を設置
28.11.15宮崎県海外協会発足
38.4.1業務渡航の自由化
39.4.1観光渡航の自由化
41.1渡航回数の制限の撤廃
43.4.1総務課移住外事係に名称変更(農政企画課移住係を廃止)
45.9.28旅券事務委任に関する政令制定
12.1旅券法改正法施行(数次旅券5 年間有効の発給開始)
旅券事務委任に関する政令施行
47.5.15沖縄返還
9.29中国と国交回復
48.5.15東ドイツと国交回復
9.21北ベトナムと国交回復
50.3.1身元確認の強化(規則改正)
4.1代理申請取扱の厳格化及び旅券面への保
護シート糊付(旅券変造防止対策)
10.1宮崎県海外協会へ旅券業務委託
11.1端末機が設置され、県において旅券作成
51.4.1総務課外務係となる
52.11.25旅券法一部改正(発給制限事由の範囲を
改正)
53.5.1旅券手数料の改定
一回旅券3,000 円→ 4,000 円数次旅券6,000 円→ 8,000 円8.10旅券冊子の様式改 正
(表紙紺色→赤色・36 頁→ 40 頁)
55.2.1一般旅券発給申請書様式改正
57.4.1渡航費用証明の一元化(規則改正)7.23代理申請の範囲の拡大(法改正)
身元確認書類の拡大及び申請書等の様式
改正(規則改正
)58.5.1国家公務員の「渡航承認書」提出の廃止
旅券冊子の頁数削減(40 頁→ 24 頁)
59.4.27新規発給、再発給、渡航先追加、申請書
様式改正
59.12.26旅券法施行規則の一部改正(旅券氏名欄
の非ヘボン式記載の特例改正)
国籍法、戸籍法の改正(60.1.1 法施行)
60.4.1総務課国際交流主幹の職制を新設
県北出張窓口開設(毎月第2、4 水曜日)60.6渡航費用の支払い能力を立証する書類の12.17簡素化及び旅券関係申請書の改正
(61.1.1 施行)
61.4.16旅券冊子署名欄の変更(61.6.1 施行)62.4.1一般旅行業者及び一般旅行業 代理店業者
による旅券の代理申請実施
63.4.1外務係を国際交流係に名称変更
5.1国際交流主幹を廃止し、国際交流対策監の職を設置
昼休み窓口開始
平成元.4.18旅券法改正
6.1旅券手数料納入方法の変更(分納化)
一回旅券・・・印紙3,200 円 証紙 800 円数次旅券・・・印紙6,500 円 証紙 1,500 円
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「勝ち組」と「負け組」に面白いものを見つけた。
世界の裏街道を行く大宅荘一
南北アメリカ編
50年代移民
アマゾン移民
明治アメリカ・ハワイ
大正ブラジル
移民地帯の特徴は旧タイプの日本人
一切合財のこっている
博覧会を身にきた。
61年3月号日本
「宮崎高千穂に来てみて大和狩猟民族を見出した柳田邦男がみたいなものだった」んであろう
恐ろしき幻の資料がある。
梶山利之が収集した。65年
「勝ち組」には敗戦で無価値になった旧紙幣
それを売る陰謀があッたという。
買い占めたため神田古本屋からブラジル関連の書物はなくなったとの逸話
襲った黒い魔手
ルポ戦後縦断、残念にも梶山利之45歳没
広島朝鮮のルイケイ、母ハワイ2世執念の真相は明らかに去れてない。
年2冊10年積乱雲
98年
移民ハワイと南米の二つ
藤崎康夫
熊本19年引き上げ閉鎖性
外から日本人
内鮮結婚政策の著。戦跡帰国なし夜間
在韓妻。
73年ニッポンマル
泉精一
満州アジア移民
タブー
高木俊郎
狂信70年
日本人のあり方を深く考えることができる。
サントス第14埠頭
陛下は生きておられた28年勝利引き上げた勝ち組み
手塚治虫の死を前にした急激なる変化の謎。
ブラジルを描き出す未刊。
87年グリンコ
商社マン・リド共和国
バブルのとき移民
戦前の日本村に迷い込む。
89年死亡
ハルとナツ3ねんまえ放送ブラジル80周年
70年太地の子、75菜の花の神、橋しだすが子
パラレウルワールド
深沢正行・・・群馬大泉
在日ブラジル人コミュニテイの日々
よさばかりがウソ
異文化少子化
教育現場から5段階評価が消えて久しい.
学年クラス順位さえないらしき通知表.。
運動会でさえ順位がつかないらしいんで
この程度のしりきれトンボ・ブログも許されたし.
九州地区ブログランキング参加!
・・・元気ください・・・
お願いいたします
プチッ!
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http://blog.with2.net/link.php?62076
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コメント
日本語には便利でまとめられる言葉があることを、言われて改めて気づきました。英語にも韓国語にもそのような言葉や言い回しはないようです。
「よろしくと言っていました」は、*** say Hallow to you. ですむんですが・・・日韓くらいかも知れません。