緑陰3
2008年7月22日今日の誕生日の花は・・・ペチュニア
花言葉は・・ あんたとならこころが和らぐ.
書きたいことと時間の関係でパンクのノイローゼ状態.
朝鮮とブラジル政策を推し進めた人物に
同じ人がかかわってる発見があり楽しき連続.
歴史とはすべてが解きあわされているものではな
く多くは名を残さず、当然の如く埋もれていき、
そこに焦点を当てて読み解くのがまた面白い。
特に戦国時代は勝者の歴史が書かれており敗者の歴史は
ほとんど名を残さず或いは矮小化されて残るのみを知っておくべきである..
近世の出来事たるブラジル移民の100年の歴史にさえそれは顕著に表れている.
上塚周平は移民の開祖・水野龍の創った皇国植民者、竹村殖民商館の代理人で力を発揮した.
移民の父と称えられる.
平野運平は32才で自裁に近い形で逝った故、悲劇の主人公。
この3人は叙勲の栄誉を与えられている.
それに到るには現地や他人の推薦があればこそで、念密な叙勲までの作られた人脈があるはずだ.
不思議はそこにある.
ナント成れば、この三人を評価する移民の現地人はほとんどいないからである.
「詐欺師」「ペテン野郎」「水野にだまされた」。と同世代人のほとんどの悪口を後世の人が誰が知ろう.、
いずれにしろ、当事者は故人になり4世の時代がきている.
よって歴史は止まったままでないゆえ記録に残るものでしか語れられない.
それに比してj叙勲を辞退した人にこそ移民一世は賛辞を寄せる.
鈴木貞次郎=南樹は山形のひと。
3人より早く1878にはブラジルにいた自力移民.
水野の皇国植民社の通訳で働いてたがその欺まん性を見抜き
辞めた過去を持つ.
「ふと君を 恋そめしより40年 わが胸にのみ 包む悲しさ」
50歳過ぎにこの純なる思いを読めてるのに人柄を感じる
事業はすべからrく官と民。
水野龍は三代目公司三浦梧楼のとりなしで
1907年、サンパウロ州政府と日本帝国移民会社との間に協定が交わされた
、笠戸丸移民はコーヒー農園で5年間就労する義務。
渡航運賃の半額はブラジル政府が負担、
雇用する農場主が立替えた
残り半分を移民がのちに返済するという条件。
移民は、ブラジルでお金を儲けて日本へ帰るという夢がある。
水野龍宣伝文句を掲げて大々的なキャンペーンを展開した。
「ブラジルで働いて金持ちになれ。ブラジルにはコーヒーという金の成る木がある。それを手でもぐだけだ」
しかし、移民は日本で聞いていた宣伝とはまったく違う現実に出くわした。
言葉、生活習慣などのカルチャーショック、
雇用側の虐待、劣悪な労働条件、安い賃金。厳しい監督の下に重労働は終日続いた。
トイレもない粗末な住宅、ベッドは枯れ木を集めて間にあわせるといった状態。
さらに食料品は、市場より高い値段で売っている耕地内の売店で買わされた。
農夫として働くのが嫌になって耕地から逃げ出し、工員か港湾労働者になった者も多かった。
笠戸丸移民が到着して1年後、コーヒー園に残ったのはわずか191人だった。
第1回移民は100年記念と騒いでるが失敗であった.
三代目公司三浦梧楼が朝鮮公司として李王朝閔妃を暗殺したのを免罪され
今の要職あるのと同じである.
堀口九萬一 くまいち 1865─1945 は閔妃を暗殺で公司三浦梧楼とともの行動した.
ブラジルでも公司三浦の右腕として移民報告が移民導入の基礎をつくる
フランス文学者堀口大学の父
三浦荒次郎は通訳でブラジル公司館にいる。
孫文のシナ革命にかかわった過去は三浦、堀口と同じである、
1895年(明治28年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺=乙未事変という。
朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を抱いたゆえだ。
当時、朝鮮王朝は笞刑(朝鮮笞刑令)、拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり、
邦人保護の観点から治外法権となっていたので堀口九萬一 を支持してた与謝野鉄幹も同じ行動をしていながら
日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれたのとは異にした。
。
当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦に出かけていて事件の起きた京城(現・ソウル特別市)にはいなかったことにより不起訴となった。
椎葉民謡の「ひえつき節」は日本全国で愛唱されている。
その詩を手掛けた補作者の酒井繁一はブラジルに渡り、短歌界の第一人者として活躍。
第一回コロニア文学賞を受賞するなどの功績を残して1984年に聖州スザノで没した
、没後二十五年ならびに日伯交流100年、
これらを記念して作詞家のもず唱平が『ノスタルジア椎葉』を発表した。
同作品は故・酒井繁一がブラジルで生活をしていた頃の望郷の想いを歌ったもの。
歌手の成世昌平によるCDは今年11月7日に日本クラウンから全国発売される予定。
ー「ノスタルジア椎葉」作詞 没後25周年で唄を成世昌平氏、日本クラウンから発売 ー
『月の出遅い 蛍の晩に 似ている夜空 十字星 この地はブラジル サンパウロ 恋しや夏の あぁ椎葉』
ノスタルジア椎葉は演歌ながらサンバで使われるアゴゴなどの楽器が加えられ、
日伯を融合する優美なメロディーが心地よい。
ブラジルへ移民した酒井繁一の心情を通じて見事に日本の原風景が表現されている。
作詞者のもず唱平はこれまでに「花街の母」、「おんなの絵本」、「はぐれコキリコ」など数々のヒット曲を手掛けてきた。
昨年はサンパウロ市で開かれた第二回世界アマチュア歌謡祭の審査員として出席。
ノスタルジア椎葉を作詞した経緯はこうだ、
宮崎県在住の原田解の著作『ひえつき節の二十世紀』を友人のもず唱平に贈った。
もず唱平は本の中で、国民から親しまれている「ひえつき節」の補作者がブラジルに移民していた事実を知り、酒井氏が歩んだ生涯に感銘を受けた。
「著作権は原作者が亡くなっても五十年間は有効。しかし、酒井さんはひえつき節の著作権を得なかった。歌は皆を喜ばせるものとの信念を貫き、印税収入を蹴り、自身は作詞家で身を立てなかった。素晴らしい人格者だったと思う」
もず唱平は同じ歌作りとしての先輩である酒井に尊敬の念を抱いた。
そこで〇八年が酒井氏没後二十五年ならびに日伯交流年であることを知ると
「酒井繁一に捧げる歌」を作詞する決意をした。
今年五月の連休にはもず、成世の二人で酒井の故郷・宮崎県を訪ね、原田案内のもとひえつき節の発祥地である椎葉村などを歩いて回った。こうしてノスタルジア椎葉を完成させた。
なお、この歌が作られる橋渡し的役目をした
原田とは「ひえつき節」の幻の補作者がブラジル移民の酒井繁一だったことをつきとめた張本人である。
生前の彼との交流が深く、その後は酒井の墓参りで一度、宮崎県芸能使節団団長として
四度の訪伯をするなど日伯の交流活動に尽力している。
原田はノスタルジア椎葉が発表されたことに対して「誰よりも宮崎県人会の方々やコロニアの皆さんに聞かせてあげたい歌です」と思いをこめていた。 吉永拓哉福岡支局長の筆には熱意がこもる.
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花言葉は・・ あんたとならこころが和らぐ.
書きたいことと時間の関係でパンクのノイローゼ状態.
朝鮮とブラジル政策を推し進めた人物に
同じ人がかかわってる発見があり楽しき連続.
歴史とはすべてが解きあわされているものではな
く多くは名を残さず、当然の如く埋もれていき、
そこに焦点を当てて読み解くのがまた面白い。
特に戦国時代は勝者の歴史が書かれており敗者の歴史は
ほとんど名を残さず或いは矮小化されて残るのみを知っておくべきである..
近世の出来事たるブラジル移民の100年の歴史にさえそれは顕著に表れている.
上塚周平は移民の開祖・水野龍の創った皇国植民者、竹村殖民商館の代理人で力を発揮した.
移民の父と称えられる.
平野運平は32才で自裁に近い形で逝った故、悲劇の主人公。
この3人は叙勲の栄誉を与えられている.
それに到るには現地や他人の推薦があればこそで、念密な叙勲までの作られた人脈があるはずだ.
不思議はそこにある.
ナント成れば、この三人を評価する移民の現地人はほとんどいないからである.
「詐欺師」「ペテン野郎」「水野にだまされた」。と同世代人のほとんどの悪口を後世の人が誰が知ろう.、
いずれにしろ、当事者は故人になり4世の時代がきている.
よって歴史は止まったままでないゆえ記録に残るものでしか語れられない.
それに比してj叙勲を辞退した人にこそ移民一世は賛辞を寄せる.
鈴木貞次郎=南樹は山形のひと。
3人より早く1878にはブラジルにいた自力移民.
水野の皇国植民社の通訳で働いてたがその欺まん性を見抜き
辞めた過去を持つ.
「ふと君を 恋そめしより40年 わが胸にのみ 包む悲しさ」
50歳過ぎにこの純なる思いを読めてるのに人柄を感じる
事業はすべからrく官と民。
水野龍は三代目公司三浦梧楼のとりなしで
1907年、サンパウロ州政府と日本帝国移民会社との間に協定が交わされた
、笠戸丸移民はコーヒー農園で5年間就労する義務。
渡航運賃の半額はブラジル政府が負担、
雇用する農場主が立替えた
残り半分を移民がのちに返済するという条件。
移民は、ブラジルでお金を儲けて日本へ帰るという夢がある。
水野龍宣伝文句を掲げて大々的なキャンペーンを展開した。
「ブラジルで働いて金持ちになれ。ブラジルにはコーヒーという金の成る木がある。それを手でもぐだけだ」
しかし、移民は日本で聞いていた宣伝とはまったく違う現実に出くわした。
言葉、生活習慣などのカルチャーショック、
雇用側の虐待、劣悪な労働条件、安い賃金。厳しい監督の下に重労働は終日続いた。
トイレもない粗末な住宅、ベッドは枯れ木を集めて間にあわせるといった状態。
さらに食料品は、市場より高い値段で売っている耕地内の売店で買わされた。
農夫として働くのが嫌になって耕地から逃げ出し、工員か港湾労働者になった者も多かった。
笠戸丸移民が到着して1年後、コーヒー園に残ったのはわずか191人だった。
第1回移民は100年記念と騒いでるが失敗であった.
三代目公司三浦梧楼が朝鮮公司として李王朝閔妃を暗殺したのを免罪され
今の要職あるのと同じである.
堀口九萬一 くまいち 1865─1945 は閔妃を暗殺で公司三浦梧楼とともの行動した.
ブラジルでも公司三浦の右腕として移民報告が移民導入の基礎をつくる
フランス文学者堀口大学の父
三浦荒次郎は通訳でブラジル公司館にいる。
孫文のシナ革命にかかわった過去は三浦、堀口と同じである、
1895年(明治28年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺=乙未事変という。
朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を抱いたゆえだ。
当時、朝鮮王朝は笞刑(朝鮮笞刑令)、拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり、
邦人保護の観点から治外法権となっていたので堀口九萬一 を支持してた与謝野鉄幹も同じ行動をしていながら
日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれたのとは異にした。
。
当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦に出かけていて事件の起きた京城(現・ソウル特別市)にはいなかったことにより不起訴となった。
椎葉民謡の「ひえつき節」は日本全国で愛唱されている。
その詩を手掛けた補作者の酒井繁一はブラジルに渡り、短歌界の第一人者として活躍。
第一回コロニア文学賞を受賞するなどの功績を残して1984年に聖州スザノで没した
、没後二十五年ならびに日伯交流100年、
これらを記念して作詞家のもず唱平が『ノスタルジア椎葉』を発表した。
同作品は故・酒井繁一がブラジルで生活をしていた頃の望郷の想いを歌ったもの。
歌手の成世昌平によるCDは今年11月7日に日本クラウンから全国発売される予定。
ー「ノスタルジア椎葉」作詞 没後25周年で唄を成世昌平氏、日本クラウンから発売 ー
『月の出遅い 蛍の晩に 似ている夜空 十字星 この地はブラジル サンパウロ 恋しや夏の あぁ椎葉』
ノスタルジア椎葉は演歌ながらサンバで使われるアゴゴなどの楽器が加えられ、
日伯を融合する優美なメロディーが心地よい。
ブラジルへ移民した酒井繁一の心情を通じて見事に日本の原風景が表現されている。
作詞者のもず唱平はこれまでに「花街の母」、「おんなの絵本」、「はぐれコキリコ」など数々のヒット曲を手掛けてきた。
昨年はサンパウロ市で開かれた第二回世界アマチュア歌謡祭の審査員として出席。
ノスタルジア椎葉を作詞した経緯はこうだ、
宮崎県在住の原田解の著作『ひえつき節の二十世紀』を友人のもず唱平に贈った。
もず唱平は本の中で、国民から親しまれている「ひえつき節」の補作者がブラジルに移民していた事実を知り、酒井氏が歩んだ生涯に感銘を受けた。
「著作権は原作者が亡くなっても五十年間は有効。しかし、酒井さんはひえつき節の著作権を得なかった。歌は皆を喜ばせるものとの信念を貫き、印税収入を蹴り、自身は作詞家で身を立てなかった。素晴らしい人格者だったと思う」
もず唱平は同じ歌作りとしての先輩である酒井に尊敬の念を抱いた。
そこで〇八年が酒井氏没後二十五年ならびに日伯交流年であることを知ると
「酒井繁一に捧げる歌」を作詞する決意をした。
今年五月の連休にはもず、成世の二人で酒井の故郷・宮崎県を訪ね、原田案内のもとひえつき節の発祥地である椎葉村などを歩いて回った。こうしてノスタルジア椎葉を完成させた。
なお、この歌が作られる橋渡し的役目をした
原田とは「ひえつき節」の幻の補作者がブラジル移民の酒井繁一だったことをつきとめた張本人である。
生前の彼との交流が深く、その後は酒井の墓参りで一度、宮崎県芸能使節団団長として
四度の訪伯をするなど日伯の交流活動に尽力している。
原田はノスタルジア椎葉が発表されたことに対して「誰よりも宮崎県人会の方々やコロニアの皆さんに聞かせてあげたい歌です」と思いをこめていた。 吉永拓哉福岡支局長の筆には熱意がこもる.
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