昨年のことでもう記憶が薄い。
確かNHK放映08年4月28日だったと思うが東京・国立博物館での展示会移動のため国宝の菩薩の背中が初めて観れることになった。
どうしても実物が見たく上野の小山に行き、前からでなくおかしな話で背中に手を合わせた。
天平時代に制作されて初めて背中全景をみせたことで希なことどこではない。
丁度お花が満開ゆえこの時期のみ建物の裏の庭での観覧花会で普段立ち入り禁止区域が開かれた。
おのぼりさんと好奇心で惜しい時間ゆえ昼間用を済ませ再度、夜花観賞まで時間をのぼした。
国立科学博物館の常設展示松方コレクションをおさめる西洋美術館の敷地の裏になる。
これが大変な歴史性を見逃してきたこと気づきその無知ぶりを恥いている。
内緒のおのぼりさんゆえ秘密裏に書いたブログが懐かしい。
http://36488.diarynote.jp/200804052246070000/
http://36488.diarynote.jp/200804052322390000/
http://36488.diarynote.jp/200804090205580000/
アップが遅れ出来なかったのはそれを含め一度に気になることが一変に生じてるからだ。
昨日の件で精神的に滅入っている。
事業をまさに始めんとの人が役人思考を離れきれず事業家への態度を改善しない。
恥ずかしきかな銀行機関の社会的意味合いを知らない。
名刺一枚持たない。
そいで銀行で借金はなし。
薄っぺらに書いた大きさも小さきメモ紙の独自サイズの手作り名刺。
喫茶店を借りて話してる二人で唯一注文なしで一銭も払おうともしなく過ごすなど
総てが特異なる社会人マナー「0」で生きるてる人に時間を割き総ての力をなくす。
社会機構総てを嘗めていて事業が立ち上がるはずがない。
この手の人材が国内企業のトップにあるんであろう。
これでは会社の発展も国家の富も増えるはずがない。
W-G-W2・・・p1・・・W2-G2ーw3・・・p2の経済構造の基礎が理解できてない。
資本主義的生産機構の拡大再生産の無限性の誤謬での新自由主義の破綻さえ解ろうとさえしないのは当たり前。
会社とは同じ目標に人が集まり素直に学びあい努力しあうもの。
誠心誠意お客さんにマナーを持って尽くす。
日本的経営に従ってである。
それがなければ事業は上手くいかない。
国富は労働現場で生じるモノ。
始まりのスタートラインそこにさえ立ちいかない愚かなる時間の消費。
この人との数年間一歩も進まず、強靭なる精神の持ち主の爺も滅入った。

加えてブログの備忘録で記録せねば成らぬ事が山積みした。
第一に
野党第一党民主の予算議案の審議協力で11年連続年度内予算が成立してる事実。
数えると年度内予算成立がしてないのは自民党が野党であったときで
「審議しない!民主・・」「国会引き延ばしの民主・・」の自民党の攻撃はデマゴギーであることが明らかであること。
そのマスコミ対策をまったくしない政権を目指す民主党の甘さ権力を知らぬ可笑しさ。
第二に
アメリカを表現する企業がそこいらの国家の年間予算を超える3兆円モノ赤字。
加えて巨大銀行シティーが30数パーセントの株を政府に決議権を含め預託した。
新自由主義経済のハズの国が社会主義的経済になっている。
また日本の四大証券を形成してた旧日興證券は米国資本下にあるが
AIG破綻でその旧日興證券がかなりの高値で邦人下に帰属すること。
日本企業が奪われるときは利息三文で長銀やシーガイヤなどを奪ったハゲタカ・リップウッド投資資本とはまるで譲渡条件が違うこ

との疑問。
日本企業を穫られるときも取り返すときもアメリカは損をしないシステムは一体何だろう。
見返りが政治家に渡っているのではないのか。
第四に
まいにち新事実が出てくる小泉竹中売国政治の露見。
とにかく一日にだけでも消化できないアップし無ければならぬ備忘録がパンクしているので戸惑っているからだ。
さらにここんとこ悩ましてるトンデモ話をアップしていいかである。
今ひとつはクリックが進まず爺の願いもなかなかご理解が頂けない部分もある。
毎日200ぐらいのご来訪者は有り難い。
ただ最後にお願いしてるクリックが全くないゆえの個人的悩みも重なる。
36計逃げるに・・・が爺の人生観のトラブル解消法。

他にもいつもアップを見逃している株価だが7568円で終えたが途中最低を記録した。
特にSFCG倒産後のオリックスをはじめとする独立系金融機関の株価は異状下落。
オリックスは株価を占う指標たる転換社債CBを見ると株価が10分の一になった様どころでもない。
それらをそれぞれ詳細に書きたいが一夜ゆえ時間に限りがある。

ところでいつもトンデモ話の例え位の意識でブログをご愛読させていただいてきた。
つまり
天皇家に連なる東宮家実家の小和田恒国際裁判所トップにまつわる小泉純一郎前総理との
共謀しての世界レベルで伝わってきた天皇家埋蔵金略奪計画のお話である。
それは女系天皇論議で政治日程に成ったこともある信憑性に裏打ちもされてもいる。
まるっきりのトンデモ話でもないんである。
神道に馴染まぬゆえのご病気での謎解きの雅子様についてはチラリこのブログで取り上げた。
国家の未来を憂えてである。
先程の起業家を目指す人は天皇家讃辞と爺のことを言うがそうではない。
短絡的レッテル張りには呆れるばかりだ。
国体が小泉竹中の政治で崩壊しつつある状況下での進んでるサヨクと極ウヨは国を憂う立場でのみ一致してる
政治現象の憂国の士、故に過ぎない。
軍事優先一番の右翼思想の権力指向者小沢一郎をこの国のトップに推しいただかなければならぬのと同じである。
国難の事態ゆえのトップとしての小沢一郎にすぎない。
このじきゆえ挙国一致でこの指止まれで立ち向かわなければならない。
国家土台を食い荒らす職能別に張りめぐらされた全体主義国家を目指す
公明党組織の政治と宗教組織の国家制度との絡みを明らかにしなければ諸外国の陥ったように日本初めての症状が防ぐようがない。
小沢一族もどうにも鶴のマークが支配しつつあるので反面教師、逆に期待したい。

ここでは狭義に絞りさらにこの国に時を於いて惹起するM資金みたいなお話に限定してのことだ。
ところがいま手元に昨年末出版された高橋五郎著「天皇の金塊」395ページを一夜で流し読んで奇妙なる
知的興奮でないファ~とした精神不安定にある。
とんでもないモノを見たと成長過程の少年期から大人への不安定なる精神状態にある。
似たるものを図書館でもみている。
突拍子でもないことをアップするといつもご訪問頂いてる方から軽蔑される怖さもある。
よって黙していた次第。
このトンデモ話は爺の好奇心興味のアンテナを高く掲げなかったゆえの情報収集不足であったのやも知れない。
もう少ししてからにしよう。

もうひとつは『蟻の街の奇蹟』の著書である。
松居桃樓の著書は,蟻の街のマリアこと北原怜子(さとこ)の話などでも一時期有名になった本である(1953年1月20日,国土社発行)。

ブロガーの方によると『少年少女・世界のノンフィクション 9 世界を驚かした10の努力』という本でアリのまちのマリア北原さ

んやゼノさんのことを読み,よく憶えている話の一つであった。との記述がある。
ほかにもこの本の続編的なものとして,アリの町のマリア 北原怜子の本がある。

雫石とみ賞なる文学賞が19回も行われてきたのを知らなかったお恥ずかしさの告白でもある。
ただ自己弁護ではないが実は全くでは正確でない。チラッ!とはあった。
何故なら宮崎県民文学賞とかを鳥瞰的に俯瞰してみてたらからだ。
近頃の芥川賞の・・なんとかのピアスなぞの頃から訳のわからぬゆえ気持ち悪くなり
途中でほうり投げる質の内容の一定層のみの芥川賞に失望してからでももあった。
文藝春秋3月号に掲載されたポトスライムの船はまだナントカ読めた。
爺の世代にしても文学作品を鑑賞する側に耐え得る代物が最低限であった。
選定委員にまず石原慎太朗の評から作品の概欄をつかむ。
そこに昨年手を合わせた仏の背中の縁である。

『蟻の街の奇蹟』では上野公園内葵町=葵会の連帯の話が出てくる。
葵町というのは,上野公園の国立科学博物館の隣,寛永寺凌雲院墓地に住んでいた集団のことである。
凌雲院は,今の,国立西洋美術館から東部公園緑地事務所,東京文化会館までかかるぐらいの広さだった。
なお,凌雲院の建物の一部は我孫子市龍泉寺に移されている。
http://www.city.abiko.chiba.jp/data/information/news/shyoukou/sanpogaido/kousu5.htm

お上りさんで普段立ち入りが出来ないその地近辺の観覧花会の会場、先程拝観してた観音様の正面からでなく背中に手を合わせた意

味がようやく理解できた次第である。
2009年は丁度戦後の興隆期そのもののようである。
ただ日雇いは登録が生業で今みたいに国家が非正規だの派遣だのを国家が認めてない労働現場が品格のある頃。
貧乏なる頃のほうが労働現場に品格があるのもおかしな話だ。
鶯谷のお団子を食べ悦に入るのも楽しみの一つ。
或いは持ち出して正岡子規の名つけたる坊ちゃん球場で子らを身ながら昔を偲ぶ。

著書、ブログから
昭和25年の春頃は,大きな五輪の塔のかげに,こわれたビール箱や蜜柑箱の板切れを壁にして,
焼けトタンの屋根を葺いた一坪か二坪の小屋が,チラリホラリとある程度だったが,
9月頃には,人口70名となり,26年の1月には200名以上になった。

蟻の街とは正反対の性格の部落でパンパンとそのヒモ(情夫),バイニン(ヤミの仲介業者),ヤミの寿司売り,日雇人夫(ただし未登録

者),バタヤ,それに浮浪の孤児の群が,自由勝手に住みついていて,ほとんど全部がヒロポン患者というすごいところだ。
『眠り屋』に『天国屋』という,コモ一枚貸して一泊30円の旅館が2軒,山盛りの銀めし30円,おかず10円,汁5円の食堂が2軒,タバコ1本1円,木炭一山10円,砂糖1サジ5円だのと希望次第でどんなにでも切り売りをしてくれる雑貨店と,駄菓子屋が各1軒ずつあって,一応『町』のタイプをなしているが,強い者勝ちで不法占拠をやった,アメリカ西部の新開地みたいなところだから暴力にものをいわせるボスはいるが,民主的な町会をつくりたくとも,町会費の出してがないからどうにもならない。

ゼノさんも,この町が出来た頃から材木を贈るなど支援をし,また蟻の街からもバタ車,便所用の木材などが贈られている。1951年1

月27日には葵会の発会式が行われた
。この葵は,凌雲寺墓地が徳川家のものであることから,徳川家の紋の葵にちなんだとともに,語幹が「蟻の街」のアリに似ている

ことからだという。また。1951年8月10日現在の,東京都民政局の仮小屋生活者実態調査では114世帯,346人となっているが,おそら

く夜間人口は700から800人,通学適齢児童が100人は突破していただろうという。凌雲院跡地にはそのころ,
科学博物館も関心を持っていた
現公園事務所となっている一角のみは,平成のはじめごろまで,飯屋や長屋が残っていた。
これが葵会の流れを引くものなんだろうか。

さて,うってかわって,東京都行政による「浮浪者対策」問題。

1952年1月29日に,蟻の会,葵会,厚生会,明和会,お茶の水の5つの「谷間」の代表と畑市次郎東京都民生局長の会見が,上野公園

の花山亭で行われた。
懇談の跡,葵町を見学。
畑市次郎は物わかりがよさそうに生活問題について話していたとのこと。 
ところが畑は,その翌日には都庁内の記者クラブに「仮小屋取り払いの問題は,彼らに関係なく予定通り断行する」と発言。
3月3日には,隅田公園のバタヤ部落,新生会が畑の号令のもと,焼き討ちされた。
具体的には畑自ら陣頭にたち,公園かと民生局の役人が小屋からひとを呼び出し,トラックへ追い上げるとともに,小屋に火を放つ

。まだ荷物もとり出さぬうちから。別府的が浜の焼き討ちやしかりと。さらに畑は,8月には山下橋,新幸橋の国鉄ガード下バタヤ部

落を一掃。
 松居は続けて書く。

「ユダヤ人たちは,キリストを磔にしたが,聖書を焼き払うことは出来なかった。蟻の会は,現代人に“幸いなるかな貧しき人々”

と教える。この蟻の会を焼き払おうとしている畑民生局長は現代のピラトである。
畑ら民生局,刑務所,警察は国民失業強制所である。
バタヤがせっかく自らの力で天国を築きかけると,民生局がそれを焼き払い強制的に失業させる。
そうすると飯が食えないからつい掻っ払いをする。
警察が待ってましたと捕まえ,刑務所に送る。
一年後にはその人間は“完全失業”をして社会に送り出される。
バタヤ部落を犯罪の温床と言うが,本当の犯罪の温床は刑務所と警察と民生局なんだ。
蟻の街は焼かれても,蟻の街があったという事実だけはできるだけ多くの人の心の中にとどめておいてもらいたい」と。

「蟻の会」について少しだけ
蟻の町の場所は,もともと東京都が恩賜財団同胞援護会に依頼して,住宅を建てるための基盤整備を行おうとしたところだった
。同胞援護会は「司法保護団体」新日本学院に下請けをさせ,言問橋と山谷堀間の公園敷地(旧高射砲陣地)に大製材工場と付属する

数棟の建物を新築したが,新日本学院はそのまま資金が枯渇してしまい,同胞援護会が建物を差し押さえ,顧問弁護士の藤田元治氏に管理を一任していた。

とはいえ,残土の間,夏草に埋もれた数万坪の管理は困難で,実際多くの浮浪者が利用する状態となる。
藤田氏は葛西の漁師水門屋に管理を依頼。
水門屋は知り合いの釣師小関氏を藤田氏に推薦。
小関氏は近くに住んでいた小沢氏も巻き込み,小沢氏がバタヤを,さらには自主管理の仕切場を始めた。
この仕切場を慕って,バタヤが集まってきた。
小沢求氏は1950年1月,同胞援護会顧問弁護士の藤田元治氏のところを訪ねる。
要件は二つ,一つはキティ台風で半壊した建物をバタヤで自主管理経営したいと,もう一つは団体の趣意書を作り,名付け親になってほしいということだったという。
この藤田氏のところに書生としていた松居氏が,氏の著書「蟻の町の奇蹟」によると,会の実際の名付け親であり,趣意書を書いたとのこと。以下松居桃樓氏による趣意書。1950年のことです。

「蟻の会」設立について

 蟻の会とは,「人間の屑」とさげすまれている浮浪者同志で,お互いに励ましあいつつ,自力で更生してゆこうとする会です。
 蟻はあんなに小さなくせに,働きもので,ねばり強く,しかも夏の間にしっかり蓄えておいて,冬になるとあたたかい巣のなかにこもってらくらくと暮らします。それにくらべると,一日雨が降ってもすぐ飢えなければならないルンペンの生活は,蟻以下ではありませんか。
 昔,二宮尊徳は,大洪水で田畠も家財もことごとく流されたときに,
「天地開闢のころ,なんの経験も道具もなしで,はじめて畑をつくった祖先のことを思えば,再起するのはなんでもない」といいました。
 われわれも裸一貫のルンペンになりさがったとはいうものの,蟻の生活のことを思えば,自分たち自身の更生どころか,祖国日本の更生だってできないはずはないと信じます。われわれは蟻のように働き,蟻のように蓄えて,一日も早く協同の楽しい「蟻の家」をもてるようになろうと誓いあいました。
 「蟻の家」は廃品の集荷所と倉庫を中心に,お互いの宿泊所や食堂をつくり,衛生設備を完備し,いろいろの娯楽機関を設け,そのうえ,職業斡旋を行ったり,身の上相談にも応じたいと思っています。
 現在,東京都には,いわゆるバタヤ(屑拾い)が十五万人いるそうです。そして,この人々の群り集まるところは,常に犯罪の巣であり,悪疫の温床として嫌われ怖れられていますが,われわれはみずから模範となって,この「蟻の運動」を正しく繰りひろげながら,必ず近き将来に東京中のバタヤを蟻の会の会員として,十五万のルンペンがことごとく,楽しい「蟻の家」に住めるようにせずにはおかぬと,心に誓いあっております。
 こういう考え方は,あまり気狂いじみた夢だとお思いになる方もあるでしょう。
 しかし,もし五百万の東京都民全体が,一日に古新聞一枚ずつ,この「蟻の運動」に提供してくださるだけでも,一年で何億という金額になるのです。ですから,皆さんが,ご不用になった紙屑,ぼろ屑,空罐,空びん,ガラス屑,金物屑,古雑誌,古新聞,板屑,古下駄,残飯の類を,この「蟻の運動」を助けるために,学校や職場でまとめてくださるだけでも,東京都下十五万の浮浪者は必ず更生できるのです。
 そして,東京都はまたたく間に,犯罪のない,悪疫の心配のない,美しい町になります。
 繰り返して申しますが,われわれはこの運動の名によって一銭の寄附たりともおねだりする気持ちはありません。ただ皆さんが廃品としてお捨てになった品を,拾わせていただき,それを整理し更生することによって,廃品の更生だけでなく,社会から見捨てられた人材を更生し,世界の劣等国に転落した祖国を更生したいのです。
 この運動は,皆さんが,もてあましておいでになる街の塵芥を清掃するとともに,犯罪の巣や悪疫の温床をも清掃する運動であります。
 どうか,われわれがいやしい浮浪者なるがゆえに,貧しい屑拾いなるがゆえにさげすまれることなく,われわれの夢が一日も早く実現されるよう,ご賛同ご協力くださることを切にお願い申し上げる次第です。

現在から見ると,不満な言い回しはたくさんあるけれど。。。
ちなみに組織としての財務状況を見ると,1950年1月21日から51年1月31日までの約1年間の損益計算書では,利益の部が417万2116円20銭。損失の部が337万5242円10銭。1月31日現在の貸借対照表も記載されるなど,意外と(というと失礼だが)しっかりとした経営を行っている。そのころ,暴力団等が仕切るボッタクリの仕切場も多かったようであるから,自主管理の蟻の会に集結したいというバタヤも多かったんだろうと思う。

蟻の町のその後については,上に掲げた「アリの町のマリア」に詳しい。http://www.tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/shiomi.htm

(カトリック東京大司教区のページ),http://www016.upp.so-net.ne.jp/koiwa-iwao/shiomi/shiomi.html(カトリック潮見教会)

http://www.catholic-ichikawa.com/contents3.html(カトリック市川教会)にも情報があります。

元々の蟻の町の場所からの撤去を都から求められ,新たに潮見の地を購入(都からの払い下げ)して,移転。
そして,その後,「繁華街から遠く廃品回収には難しかったことや1960年代以降の高度経済成長の結果、蟻の会の人々は少しずつこの地を離れていきました。今残るのは教会の南側にある「蟻の会事務所」の建物だけです。東京教区はかつての蟻の会の方々の理解を得て、ここを「難民のための一時宿泊所」として活用しようとしています。」(潮見教会ページより)
先進的,実践的な社会運動の一例である。
参考文献等 http://www.kingendai.com/toshiroudou1-c.htm

派遣村が2009年になって社会的に生み出されたがこの国はこの社会は何をしてきているんであろうか。
http://www.j-cast.com/2009/02/26036697.html
963人の応募の宇宙飛行士。
全日空の大西卓哉(33)=東京都生まれ=と、
防衛省航空幕僚監部の油井亀美也(39)=長野県生まれ=の2人を選抜したと発表した。

新しい日本人宇宙飛行士候補が選ばれるのは1999年の3人以来、10年ぶり。宇宙機構からこれで10人。

宇宙飛行士が二人誕生しつつあるが
月に人が行く時代にコレではかなわない。

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コメント

せきやん
2009年2月28日17:56

1998年 夏号 NO.09【こころの時代】
書かなければ生きられなかった雫石とみ
アンカー山根基世アナは1948年山口県生まれ。
この人を語るときは言葉の達人がひと味違う霊魂を込める。

雫石とみさんは明治44年宮城県の貧しい農家に生まれました。
20歳のときに上京し、日雇いの労働で生計を立てます。
その後結婚され、お二人の子どもさんをもうけられましたが、戦争ですべてを失い天涯孤独の身となりました。
戦争直後の混乱期を雫石さんは上野の山で屑拾いをしながら生きのびました。
しかし左目を傷め、その治療のために婦人保護施設に収容されました。
婦人保護施設は女性の浮浪者のための福祉施設で、当時、全国各地に作られました。
しかし救いを求めて入った施設で雫石さんは人間性を否定され、虫けら同然のあつかいを受けたのです。
この体験が雫石さんの生き方を根底から変えることになりました。
このころから文筆活動を始め、やがて雫石さんは日雇い労働でこつこつ貯めた2800万円を文芸賞の基金として提供し、「銀の雫文芸賞」を創設したのです。
なぜ文学のために財産をなげうったのでしょうか。
その決断をさせた人生はどんなものだったのでしょうか。
雫石とみさんを著作とインタビューで紹介いたします。

「銀の雫文芸賞」は、1987年に作家の故・雫石とみさんから「天涯孤独の身であり、必要のないお金がある。自分のような文筆活動を志す人々の励ましに役立ててほしい」という申し出があったことから始まります。
雫石とみさんは、明治44年生まれ、極貧の暮らしの中で書くことだけを支えに戦後を生き抜いてこられた作家です。
NHK厚生文化事業団はこの思いに共鳴し、公益信託「雫石とみ文芸賞基金」を設立、
「高齢者の」を意味する「シルバー(銀)」と雫石さんの苗字から「雫」を引用して、「銀の雫文芸賞」と名づけました。
1988年の第1回から20年の間に寄せられた作品の数は9570編、入選作品は60編に上ります。
優秀作品は、NHKでドラマとして放送され、大きな反響を呼んできました。
しかし2007年には、「雫石とみ文芸賞基金」の終了という段階を迎えました。
検討の結果、NHK厚生文化事業団は、雫石さんの遺志を今後も継承したいとの思いから、2008年、NHKとともに、新たに「NHK銀の雫文芸賞」を設けることとしました。
審査員
北原 亞以子(作家)
出久根 達郎(作家)
竹山 洋(脚本家)
NHKドラマ番組部長
NHK文化・福祉番組部長

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