「チェンジ!」
オバマの発した言葉は甲子園にさえ届いている。
ここにも異変が起きている。
Best4に北陸勢の二校岩手、新潟が名乗りを上げた。
それぞれに対決するのは22日決まる。
花巻東(岩手)と都城商(宮崎)-中京大中京(愛知)の勝者が顔を合わせ。
日本文理(新潟)と、帝京(東東京)-県岐阜商(岐阜)の勝者がたたかう。
あれ?唯一の残った・・九州代表じゃぁ~~ん!
それも関ヶ原西軍唯一の生き残りそのもの。
これってぇのも関ヶ原歴史そのもの。
宮崎佐土原は島津支藩で関ヶ原のたたかいの現地総大将。
爺の甲子園球児応援選別はどうにも極端でお恥ずかしい。
まず私立校は全国で選手募集するのでフェアーの趣旨に反しているのでチャンネルは消す。
それに輪をかけての宗教高校は絶対受け付けない。
布教の場ではないぞ!
PL選手が胸元をつかむ宗教儀式はチャンネルが消える。
確かにPLや智弁和歌山のスタンドいっぱいの人文字は風物詩で花を添えてるが
「北」の国家挙げてのモノに比してはイマイチ「北」如きの負けるモノぞ!
ただし正直シャッポを脱ぐがあの美しき人文字文化の校風は凄いものだ。
わが都城商(宮崎)は公立高校である。
埼玉三重和歌山のそれぞれの私立野球専門セミプロ集団を破ってきた。
伊勢神宮を追い払い、高野山真言宗新宗教辯天宗を蹴散らした。
何せ初代天皇神武を生み送り出した国作りの国である。
古事記日本書紀ファンなら知る人ぞ知る太陽神・天照アマテラスの国でもある。
正真正銘の国教のクニである。
創価如き新興宗教ナゾ入り込む余裕はない八百万の神の住むところ。
仏敵を追い払わん!ただし天罰としてショッチュウ
命が奪われてる創価がごとはしはしない。
六本木でも芸能事務所・創価・森愚息がらみの<殺人事件>。
宗教組織が支配する日本国政治の立ち向かう如く
甲子園に勝ち残るのである。
薩摩の国は大雑把=ボッケモン!集団である。
緻密な甲子園競技はベスト8がギリギリのところ。
次なる相手はまたもや野球のクニ愛知なのである。
それも同じ学園の梅村学園・三重高校の敵討ちで望んでこよう
野球はデーター・・・・これ・・ナンナンダ!
愛知県大会データーが恐ろしい。
コールド勝ちの連続である。
あの球界の宝ハマの左腕の工藤の母校愛工大名電でさえ餌食のコールド
決勝なぞシャットアウト
こんナノ高校球児のチームではない!
プロの横浜かロッテとかとたたかえばいい!
恐ろしさのため県大会を掲示しておこう
3回戦(7/21:瑞穂球場)
愛知×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛知 0 0 1 0 0 1
中京大中京 3 2 0 5 1x 11
4回戦(7/23:熱田球場)
昭和×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
昭和 0 0 0 0 0 0 0
中京大中京 3 0 2 4 0 1x 10
準々決勝(7/28:瑞穂球場)
愛工大名電×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛工大名電 0 0 0 0 0 0
中京大中京 5 1 4 5 x 15
準決勝(7/29:岡崎市民球場)
愛知啓成×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛知啓成 0 0 0 1 0 1 0 2
中京大中京 0 1 2 0 7 0 x 10
決勝(7/30:岡崎市民球場)
刈谷×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
刈谷 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
中京大中京 2 0 0 1 0 0 1 1 x 5
野球という闘いはピッチャーのでき次第。
1 堂林 翔太 3 投 右 右 181cm77kg 右右 MAX137キロ スライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カット・・・ウウ~~ン
しなやかな腕の振りで制球力抜群。
打っては柔らかく力強い打撃が魅力の中距離ヒッター。
コレを打ち下してもこの控え陣!
10 山田 貴大 3 控(投) 右 右
11 宗雲 克政 2 控(投) 右 右
12 久保田 剛史 3 控(投) 左 左
チーム分析にもこうある。
愛知県豊田市出身のエース1 堂林 翔太投手は 3 年生 右 右 181cm77kg 右右
MAX137キロスライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カットと球種も多彩。
経歴にこんな奴都城には一人もいません
小学2年から豊田リトルで野球を始め中学時代は豊田シニアに所属、投手兼遊撃手。
愛工大名電では1年夏予選5回戦津島北戦で公式戦初先発、7回5安打無失点。
2年春には選抜に出場したが登板は無し。
2年春の東海大会、1回戦県岐阜商戦ではじめての
5番に座ると2打席連続本塁打5打点の活躍。
秋県大会は故障で初戦のみの登板となったが東海大会では全4試合完投、35回を投げ6失点
の安定した投球で中京大中京7年ぶり9回目の優勝に貢献。
3年春選抜には4番エースとして出場。打撃では打率.584、4打点をマーク。
倉敷工戦で4安打、報徳学園戦でも3安打の固め打ち。無安打に終わった神村学園戦では
2四球を選び出塁率.643。
投手としては神村学園戦で9回5安打1失点完投勝利など安定感ある投球を披露した。
投打にセンスが光りかつ遠投100m、50m6秒2の身体能力の持ち主で監督が入学直後からプロ入りを念頭に置く程の逸材
投手としては最速137㌔、しなやかな腕の振りから常時130㌔前後の直球と縦横2種類の
スライダー、シュート、チェンジアップ、カット、カーブ、
多彩な変化球を低めに集め打たせて取る投球に持ち味。
高校入学後右肩痛、背筋痛と度重なる故障を受けてコントロールを生命線とする投球スタイルに転換。
打者としては懐が深くバットコントロールの良い柔らかい打撃が魅力の中距離ヒッター。
本塁打は通算9本と少ないが選抜ではセンターへもう少しで本塁打の当たりを見せるなど力強さも兼ね備える。
現在プロからは主に外野手として評価されている。ドラフト上位候補。
完投能力のある投手陣。どこからでもチャンスをつくれる打線は、破壊力も持ち合わせている。センターラインの守りは堅く、外野手も俊足強肩がそろい守備範囲が広い。総合的には打撃型チームであるが、守備力も安定している。それぞれの選手が課題を持ち、努力をしてきた成果を今大会でも発揮したい。
打率4割超と投打での活躍は大したものですね。
今夏の中京大中京は1番山中.529、3番河合.650と好調、チーム打率.474の強打線。
都城果たして勝てる秘策はあるのか。
なにも書いてないジャァン・・・
秘密漏らしたらたたかいにならんでしょうヨ。
「チェスト!」
頑張りますって!堂林 翔太打ち下し・・
スライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カット・・・
ウウ~~ン
どれに絞ろう・・・
兎に角・・・3人ともグラウンドに引きずり出そう。
10 山田 貴大 3 控(投) 右 右
11 宗雲 克政 2 控(投) 右 右
12 久保田 剛史 3 控(投) 左 左
準備しときたまえ!
駅は二つあり、中心が西都城。
西都の出自の爺はどうしても読めない。
西都城の読みは目に入ってきた順で・・・さいとのしろ
それが縁だったのか・・・・
河野監督は西都の人・・やってくれるでしょう。
ぼっけもん!
南のクニの宮崎・都城はあの島津家の発祥の地
遠く明治期の薩摩気質はそんなモン
ちなみに都城の読みは・・みやこのじょう
地元人は・・・・・・・・ミヤコンジョ。
微妙なるイントネ・・
しゃべりでよそモンかどうかが解る。
外様の悲哀で独特の言葉を交しあい他国人との違いを計った。
明治維新は簡単になしえたモノでなく280年の準備期間があったわけである。宮崎は小藩五藩統治。
薩摩藩の影響下にあった。
秀吉の頃佐土原城は大阪城意外に唯一天守閣があった城。
近年の発掘調査で金箔つきの天守閣瓦が出土している。
佐土原藩藩祖・島津以久(もちひさ) は島津貴久の弟である島津忠将=すなわち島津四兄弟の従兄弟、の子である、形としては関ヶ原で奮戦死した島津四兄弟末弟の島津豊久の垂水所領を受け継いだが、家康の命で日向佐土原に3万石を特別に賜る。
関ヶ原西軍時にも本藩同様安堵され、六代惟久が家督にあたって義兄である先代久寿に3千石を分与したので、2万7千石となる。関ヶ原で家康の命をモウ一歩であったのにコレである。
島津久寿は幼少の島津惟久の後見(番代)として、15年に渡って藩政を見、参勤その他も藩主同様に勤めた。藩主としてカウントするかは出所資料によって異なる。
歴代藩主藩主 官位・通称 出自(実父・嫡出関係)
初代
島津以久(もちひさ)
従五位下 右馬頭 島津忠将の子
二代
島津忠興(ただおき)
従五位下 右馬頭 島津以久の三男
三代
島津久雄(ひさたか)
従五位下 右馬頭 島津忠興の長男
四代
島津忠高(ただたか)
従五位下 飛騨守 島津久雄の長男
(五代)
(島津久寿(ひさとし))
従五位下 式部少輔 島津忠高の叔父島津久富の長男
六代
島津惟久(これひさ)
従五位下 淡路守 島津忠高の長男
七代
島津忠雅(ただまさ)
従五位下 加賀守 島津惟久の三男
八代
島津久柄(ひさもと)
従五位下 淡路守 島津忠雅の三男
九代
島津忠持(ただもち)
従五位下 淡路守 島津久柄の三男
十代
島津忠徹(ただゆき)
従五位下 筑後守 島津忠持の長男
十一代
島津忠寛(ただひろ)
従五位下 淡路守 島津忠徹の二男
徳川幕府の意向を向こう回し経済力をつけて幕末を迎えた。。
関ヶ原ではそのまま退却せず家康本陣をを破り、葵の紋に一敗地をつけ退き家康を奮いあがらせた。
セミプロチーム中京大中京相手に不足なし
「ドヤスドゥ~!」は漫才のいくよ・くるよ
示現流は幕末京の町に轟いたモノである。
「チェストッ~!」
政治も政権交代と言う幕末のあの頃と同じ状況ジャン!
ちなみに示現流の名づけ親は宮崎の人・南浦文之
南浦文之(なんぽぶんし)=南浦玄昌は僧であり薩摩藩の学問の師
文之和尚は弘治元年(1555年)日向国飫肥南郷の外浦(とのうら-現宮崎県南郷町西武キャンプ地大リーガー松坂)
もここで調整する。)に生まれ、十三歳のとき串間の竜源寺に入り、一翁より禅(臨済宗)と儒学を学び、
明(中国)の黄友賢(こうゆうけん-江夏友賢、こうかゆうけん)に五経周易の宋学を
学んだ。のち、第十六代太守島津義久、第十七代義弘、第十八代家久の三代につかえ、
文教の振興に尽くす一方、藩の政策、外交に重要な役割を果した。その間、
加治木の安国寺(あんこくじ)国分の正興寺(しょうこうじ)の住職となり、
さらに鹿児島城下、もと内城の地に家久が大竜寺を建てたとき
(慶長十六年-1611年)当時の開山和尚となった。
文之和尚は、朱子学にも秀で、桂庵禅師らの四書倭点(和訓)を改良した
「文之点(ぶんしてん)」を創始し、
「南浦文集」「四書集註」「周易談義」など漢籍に訓点を施し、日本儒学の
発展に貢献した。
著書には、天文十二年(1543年)の種子島への鉄砲伝来の様子を一部に
記している「南浦文集」「日州平治記」などがある。
元和六年(1620年)九月三十日、六十六歳で加治木の安国寺でなくなった。
南浦文之(なんぽぶんし)の墓は昭和十一年(1936年)九月三日国指定の記念物(史跡)として指定された。
歴史作家大御所海音寺潮五郎、小泉純一郎の父純也の鮫島家は現・南さつま市旧川辺郡東加世田村
純一郎の祖父入れ墨幹事長又次郎の長女・芳江を妻として入り婿
長男 純一郎(政治家)
次男 正也
長女 道子(会社員・竹本公輔に嫁する[6])
次女 隆子(官僚・豊島格に嫁する)
三女 信子
http://36488.diarynote.jp/?page=10
南浦文之はポルトガル人の伝えた鉄砲伝来ことなどについて書いた「鉄砲記」を解説した。
宮崎図書館「新薩藩叢書(四)」(書庫2197/29-4)にある。
「鉄砲記」を館内の蔵書検索で調べるがヒットなし。総合目録で調べると鹿児島県立図書館の禁帯出資料のみ。全集や叢書にないかNDLOPACに内容細目で調べるがヒットなし。
次に南浦文之の関連資料にヒントがないかと南浦文之を日本大百科全書(小学館)の索引でみると鉄砲記についての項があり、「鉄砲記」は「南浦文集」巻之上に所蔵とあった。
NDLOPACで「南浦文集」を調べると館に所蔵している「新薩藩叢書(四)」に所収されている。館の「新薩藩叢書(四)」(書庫/2197/29-4)で鉄砲記のあることを確認。
「鉄砲記」は種子島に来航したポルトガル人により火縄銃が紹介され、島主・種子島時堯(ときたか)がそれを日本に普及させた経緯を顕彰するため種子島久時が文之に移植し書いた鉄砲伝来についての史料。「日本大百科全書」にある
南浦文之については「宮崎大百科事典」に紹介あり。日向国飫肥南郷の外之浦に生まれる。後、鹿児島瑞雲山大竜寺の開山となる。
『三国名勝図絵』の巻5の大竜寺には、文之についての記述がある。
また文之の史料については『日向文献史料』(若山甲蔵/著 臨川書店 昭和50年)(郷土資料2100/513)に、「南浦文集」「襟帯集」「日州平治記」について解説がある
監督河野は西都の出自
伊東家は西都この地都於郡(とのこおりに居城を構え島津と覇を競った
都城の北えびのの木崎原古戦場は「島津、伊東の関ヶ原合戦」の地。
NHK大河ドラマ天地人第一回~第三回頃放映の天下の覇を競った上杉謙信VS織田信長の頃の九州に於ける覇権争い
島津・伊東両氏は、この一戦を境として、島津氏は三州制圧の夢を果たし、一方伊東氏は、
居城都於郡を追われ衰退の一途をたどる両氏の明暗を分けた一戦であった
伊東三位入道は遠縁の大分・大友宗麟をたよる。
大分では伊東家の領土回復の島津追悼軍が組まれたが
西都市の隣の児湯郡木城町切原川の戦いで大友宗麟軍は大敗、敗走した。
後の歴史家の言う九州最大の天下分け目の戦い「耳川の戦い」である。
、
島津家は大分の大友宗麟の一部のみを残し九州の全域を支配した。
あれほど秀吉の出自から配下入りを嫌った名門の出の大友宗麟も大阪城に出向いた。
小田原・北条家を従えた後島津攻めの確約を得た。
天正10年正月、伊東三位入道義祐(70)の長男祐兵(24)のみが秀吉臣下となり島津征伐を先導する。
奇しくも島津軍と秀吉軍はかの地島津軍と大友軍がたたかった
児湯郡木城町切原川の戦いの同じ地で相対し島津軍は降伏した。
伊東家は宮崎日南を領地を賜う。
南浦文之はその伊東家の領地日向国飫肥南郷の外浦生まれである。
伊東家の祖は・工藤祐経。
日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。
氏を地名の伊東と改め日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いた
詳しくは以前アップしている。
http://36488.diarynote.jp/m/?page=29#blog_5
http://36488.diarynote.jp/m/?page=29#blog_4
甲子園で名を挙げ悲願の全国制覇をなすにはこの歴史を球児が担うことにある。
甲子園だけでなくこちらの方も応援をよろしくお願いいたします。
マウス・クリック!よろしく
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http://blog.with2.net/link.php?62076
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オバマの発した言葉は甲子園にさえ届いている。
ここにも異変が起きている。
Best4に北陸勢の二校岩手、新潟が名乗りを上げた。
それぞれに対決するのは22日決まる。
花巻東(岩手)と都城商(宮崎)-中京大中京(愛知)の勝者が顔を合わせ。
日本文理(新潟)と、帝京(東東京)-県岐阜商(岐阜)の勝者がたたかう。
あれ?唯一の残った・・九州代表じゃぁ~~ん!
それも関ヶ原西軍唯一の生き残りそのもの。
これってぇのも関ヶ原歴史そのもの。
宮崎佐土原は島津支藩で関ヶ原のたたかいの現地総大将。
爺の甲子園球児応援選別はどうにも極端でお恥ずかしい。
まず私立校は全国で選手募集するのでフェアーの趣旨に反しているのでチャンネルは消す。
それに輪をかけての宗教高校は絶対受け付けない。
布教の場ではないぞ!
PL選手が胸元をつかむ宗教儀式はチャンネルが消える。
確かにPLや智弁和歌山のスタンドいっぱいの人文字は風物詩で花を添えてるが
「北」の国家挙げてのモノに比してはイマイチ「北」如きの負けるモノぞ!
ただし正直シャッポを脱ぐがあの美しき人文字文化の校風は凄いものだ。
わが都城商(宮崎)は公立高校である。
埼玉三重和歌山のそれぞれの私立野球専門セミプロ集団を破ってきた。
伊勢神宮を追い払い、高野山真言宗新宗教辯天宗を蹴散らした。
何せ初代天皇神武を生み送り出した国作りの国である。
古事記日本書紀ファンなら知る人ぞ知る太陽神・天照アマテラスの国でもある。
正真正銘の国教のクニである。
創価如き新興宗教ナゾ入り込む余裕はない八百万の神の住むところ。
仏敵を追い払わん!ただし天罰としてショッチュウ
命が奪われてる創価がごとはしはしない。
六本木でも芸能事務所・創価・森愚息がらみの<殺人事件>。
宗教組織が支配する日本国政治の立ち向かう如く
甲子園に勝ち残るのである。
薩摩の国は大雑把=ボッケモン!集団である。
緻密な甲子園競技はベスト8がギリギリのところ。
次なる相手はまたもや野球のクニ愛知なのである。
それも同じ学園の梅村学園・三重高校の敵討ちで望んでこよう
野球はデーター・・・・これ・・ナンナンダ!
愛知県大会データーが恐ろしい。
コールド勝ちの連続である。
あの球界の宝ハマの左腕の工藤の母校愛工大名電でさえ餌食のコールド
決勝なぞシャットアウト
こんナノ高校球児のチームではない!
プロの横浜かロッテとかとたたかえばいい!
恐ろしさのため県大会を掲示しておこう
3回戦(7/21:瑞穂球場)
愛知×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛知 0 0 1 0 0 1
中京大中京 3 2 0 5 1x 11
4回戦(7/23:熱田球場)
昭和×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
昭和 0 0 0 0 0 0 0
中京大中京 3 0 2 4 0 1x 10
準々決勝(7/28:瑞穂球場)
愛工大名電×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛工大名電 0 0 0 0 0 0
中京大中京 5 1 4 5 x 15
準決勝(7/29:岡崎市民球場)
愛知啓成×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
愛知啓成 0 0 0 1 0 1 0 2
中京大中京 0 1 2 0 7 0 x 10
決勝(7/30:岡崎市民球場)
刈谷×中京大中京
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
刈谷 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
中京大中京 2 0 0 1 0 0 1 1 x 5
野球という闘いはピッチャーのでき次第。
1 堂林 翔太 3 投 右 右 181cm77kg 右右 MAX137キロ スライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カット・・・ウウ~~ン
しなやかな腕の振りで制球力抜群。
打っては柔らかく力強い打撃が魅力の中距離ヒッター。
コレを打ち下してもこの控え陣!
10 山田 貴大 3 控(投) 右 右
11 宗雲 克政 2 控(投) 右 右
12 久保田 剛史 3 控(投) 左 左
チーム分析にもこうある。
愛知県豊田市出身のエース1 堂林 翔太投手は 3 年生 右 右 181cm77kg 右右
MAX137キロスライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カットと球種も多彩。
経歴にこんな奴都城には一人もいません
小学2年から豊田リトルで野球を始め中学時代は豊田シニアに所属、投手兼遊撃手。
愛工大名電では1年夏予選5回戦津島北戦で公式戦初先発、7回5安打無失点。
2年春には選抜に出場したが登板は無し。
2年春の東海大会、1回戦県岐阜商戦ではじめての
5番に座ると2打席連続本塁打5打点の活躍。
秋県大会は故障で初戦のみの登板となったが東海大会では全4試合完投、35回を投げ6失点
の安定した投球で中京大中京7年ぶり9回目の優勝に貢献。
3年春選抜には4番エースとして出場。打撃では打率.584、4打点をマーク。
倉敷工戦で4安打、報徳学園戦でも3安打の固め打ち。無安打に終わった神村学園戦では
2四球を選び出塁率.643。
投手としては神村学園戦で9回5安打1失点完投勝利など安定感ある投球を披露した。
投打にセンスが光りかつ遠投100m、50m6秒2の身体能力の持ち主で監督が入学直後からプロ入りを念頭に置く程の逸材
投手としては最速137㌔、しなやかな腕の振りから常時130㌔前後の直球と縦横2種類の
スライダー、シュート、チェンジアップ、カット、カーブ、
多彩な変化球を低めに集め打たせて取る投球に持ち味。
高校入学後右肩痛、背筋痛と度重なる故障を受けてコントロールを生命線とする投球スタイルに転換。
打者としては懐が深くバットコントロールの良い柔らかい打撃が魅力の中距離ヒッター。
本塁打は通算9本と少ないが選抜ではセンターへもう少しで本塁打の当たりを見せるなど力強さも兼ね備える。
現在プロからは主に外野手として評価されている。ドラフト上位候補。
完投能力のある投手陣。どこからでもチャンスをつくれる打線は、破壊力も持ち合わせている。センターラインの守りは堅く、外野手も俊足強肩がそろい守備範囲が広い。総合的には打撃型チームであるが、守備力も安定している。それぞれの選手が課題を持ち、努力をしてきた成果を今大会でも発揮したい。
打率4割超と投打での活躍は大したものですね。
今夏の中京大中京は1番山中.529、3番河合.650と好調、チーム打率.474の強打線。
都城果たして勝てる秘策はあるのか。
なにも書いてないジャァン・・・
秘密漏らしたらたたかいにならんでしょうヨ。
「チェスト!」
頑張りますって!堂林 翔太打ち下し・・
スライダー・チェンジ・シュート・カーブ・カット・・・
ウウ~~ン
どれに絞ろう・・・
兎に角・・・3人ともグラウンドに引きずり出そう。
10 山田 貴大 3 控(投) 右 右
11 宗雲 克政 2 控(投) 右 右
12 久保田 剛史 3 控(投) 左 左
準備しときたまえ!
駅は二つあり、中心が西都城。
西都の出自の爺はどうしても読めない。
西都城の読みは目に入ってきた順で・・・さいとのしろ
それが縁だったのか・・・・
河野監督は西都の人・・やってくれるでしょう。
ぼっけもん!
南のクニの宮崎・都城はあの島津家の発祥の地
遠く明治期の薩摩気質はそんなモン
ちなみに都城の読みは・・みやこのじょう
地元人は・・・・・・・・ミヤコンジョ。
微妙なるイントネ・・
しゃべりでよそモンかどうかが解る。
外様の悲哀で独特の言葉を交しあい他国人との違いを計った。
明治維新は簡単になしえたモノでなく280年の準備期間があったわけである。宮崎は小藩五藩統治。
薩摩藩の影響下にあった。
秀吉の頃佐土原城は大阪城意外に唯一天守閣があった城。
近年の発掘調査で金箔つきの天守閣瓦が出土している。
佐土原藩藩祖・島津以久(もちひさ) は島津貴久の弟である島津忠将=すなわち島津四兄弟の従兄弟、の子である、形としては関ヶ原で奮戦死した島津四兄弟末弟の島津豊久の垂水所領を受け継いだが、家康の命で日向佐土原に3万石を特別に賜る。
関ヶ原西軍時にも本藩同様安堵され、六代惟久が家督にあたって義兄である先代久寿に3千石を分与したので、2万7千石となる。関ヶ原で家康の命をモウ一歩であったのにコレである。
島津久寿は幼少の島津惟久の後見(番代)として、15年に渡って藩政を見、参勤その他も藩主同様に勤めた。藩主としてカウントするかは出所資料によって異なる。
歴代藩主藩主 官位・通称 出自(実父・嫡出関係)
初代
島津以久(もちひさ)
従五位下 右馬頭 島津忠将の子
二代
島津忠興(ただおき)
従五位下 右馬頭 島津以久の三男
三代
島津久雄(ひさたか)
従五位下 右馬頭 島津忠興の長男
四代
島津忠高(ただたか)
従五位下 飛騨守 島津久雄の長男
(五代)
(島津久寿(ひさとし))
従五位下 式部少輔 島津忠高の叔父島津久富の長男
六代
島津惟久(これひさ)
従五位下 淡路守 島津忠高の長男
七代
島津忠雅(ただまさ)
従五位下 加賀守 島津惟久の三男
八代
島津久柄(ひさもと)
従五位下 淡路守 島津忠雅の三男
九代
島津忠持(ただもち)
従五位下 淡路守 島津久柄の三男
十代
島津忠徹(ただゆき)
従五位下 筑後守 島津忠持の長男
十一代
島津忠寛(ただひろ)
従五位下 淡路守 島津忠徹の二男
徳川幕府の意向を向こう回し経済力をつけて幕末を迎えた。。
関ヶ原ではそのまま退却せず家康本陣をを破り、葵の紋に一敗地をつけ退き家康を奮いあがらせた。
セミプロチーム中京大中京相手に不足なし
「ドヤスドゥ~!」は漫才のいくよ・くるよ
示現流は幕末京の町に轟いたモノである。
「チェストッ~!」
政治も政権交代と言う幕末のあの頃と同じ状況ジャン!
ちなみに示現流の名づけ親は宮崎の人・南浦文之
南浦文之(なんぽぶんし)=南浦玄昌は僧であり薩摩藩の学問の師
文之和尚は弘治元年(1555年)日向国飫肥南郷の外浦(とのうら-現宮崎県南郷町西武キャンプ地大リーガー松坂)
もここで調整する。)に生まれ、十三歳のとき串間の竜源寺に入り、一翁より禅(臨済宗)と儒学を学び、
明(中国)の黄友賢(こうゆうけん-江夏友賢、こうかゆうけん)に五経周易の宋学を
学んだ。のち、第十六代太守島津義久、第十七代義弘、第十八代家久の三代につかえ、
文教の振興に尽くす一方、藩の政策、外交に重要な役割を果した。その間、
加治木の安国寺(あんこくじ)国分の正興寺(しょうこうじ)の住職となり、
さらに鹿児島城下、もと内城の地に家久が大竜寺を建てたとき
(慶長十六年-1611年)当時の開山和尚となった。
文之和尚は、朱子学にも秀で、桂庵禅師らの四書倭点(和訓)を改良した
「文之点(ぶんしてん)」を創始し、
「南浦文集」「四書集註」「周易談義」など漢籍に訓点を施し、日本儒学の
発展に貢献した。
著書には、天文十二年(1543年)の種子島への鉄砲伝来の様子を一部に
記している「南浦文集」「日州平治記」などがある。
元和六年(1620年)九月三十日、六十六歳で加治木の安国寺でなくなった。
南浦文之(なんぽぶんし)の墓は昭和十一年(1936年)九月三日国指定の記念物(史跡)として指定された。
歴史作家大御所海音寺潮五郎、小泉純一郎の父純也の鮫島家は現・南さつま市旧川辺郡東加世田村
純一郎の祖父入れ墨幹事長又次郎の長女・芳江を妻として入り婿
長男 純一郎(政治家)
次男 正也
長女 道子(会社員・竹本公輔に嫁する[6])
次女 隆子(官僚・豊島格に嫁する)
三女 信子
http://36488.diarynote.jp/?page=10
南浦文之はポルトガル人の伝えた鉄砲伝来ことなどについて書いた「鉄砲記」を解説した。
宮崎図書館「新薩藩叢書(四)」(書庫2197/29-4)にある。
「鉄砲記」を館内の蔵書検索で調べるがヒットなし。総合目録で調べると鹿児島県立図書館の禁帯出資料のみ。全集や叢書にないかNDLOPACに内容細目で調べるがヒットなし。
次に南浦文之の関連資料にヒントがないかと南浦文之を日本大百科全書(小学館)の索引でみると鉄砲記についての項があり、「鉄砲記」は「南浦文集」巻之上に所蔵とあった。
NDLOPACで「南浦文集」を調べると館に所蔵している「新薩藩叢書(四)」に所収されている。館の「新薩藩叢書(四)」(書庫/2197/29-4)で鉄砲記のあることを確認。
「鉄砲記」は種子島に来航したポルトガル人により火縄銃が紹介され、島主・種子島時堯(ときたか)がそれを日本に普及させた経緯を顕彰するため種子島久時が文之に移植し書いた鉄砲伝来についての史料。「日本大百科全書」にある
南浦文之については「宮崎大百科事典」に紹介あり。日向国飫肥南郷の外之浦に生まれる。後、鹿児島瑞雲山大竜寺の開山となる。
『三国名勝図絵』の巻5の大竜寺には、文之についての記述がある。
また文之の史料については『日向文献史料』(若山甲蔵/著 臨川書店 昭和50年)(郷土資料2100/513)に、「南浦文集」「襟帯集」「日州平治記」について解説がある
監督河野は西都の出自
伊東家は西都この地都於郡(とのこおりに居城を構え島津と覇を競った
都城の北えびのの木崎原古戦場は「島津、伊東の関ヶ原合戦」の地。
NHK大河ドラマ天地人第一回~第三回頃放映の天下の覇を競った上杉謙信VS織田信長の頃の九州に於ける覇権争い
島津・伊東両氏は、この一戦を境として、島津氏は三州制圧の夢を果たし、一方伊東氏は、
居城都於郡を追われ衰退の一途をたどる両氏の明暗を分けた一戦であった
伊東三位入道は遠縁の大分・大友宗麟をたよる。
大分では伊東家の領土回復の島津追悼軍が組まれたが
西都市の隣の児湯郡木城町切原川の戦いで大友宗麟軍は大敗、敗走した。
後の歴史家の言う九州最大の天下分け目の戦い「耳川の戦い」である。
、
島津家は大分の大友宗麟の一部のみを残し九州の全域を支配した。
あれほど秀吉の出自から配下入りを嫌った名門の出の大友宗麟も大阪城に出向いた。
小田原・北条家を従えた後島津攻めの確約を得た。
天正10年正月、伊東三位入道義祐(70)の長男祐兵(24)のみが秀吉臣下となり島津征伐を先導する。
奇しくも島津軍と秀吉軍はかの地島津軍と大友軍がたたかった
児湯郡木城町切原川の戦いの同じ地で相対し島津軍は降伏した。
伊東家は宮崎日南を領地を賜う。
南浦文之はその伊東家の領地日向国飫肥南郷の外浦生まれである。
伊東家の祖は・工藤祐経。
日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。
氏を地名の伊東と改め日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いた
詳しくは以前アップしている。
http://36488.diarynote.jp/m/?page=29#blog_5
http://36488.diarynote.jp/m/?page=29#blog_4
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