小沢一郎立つッ!(3)
2010年8月28日 お仕事小沢一郎立候補決断の一番は鳩山由紀夫前総理の一言の確認からにある。
「民由合併の時からの同士としての協力が得られるなら出馬したいと、仰られた。
私の一存で小沢先生に民主党に入っていただいた。
その経緯からして、私としては応援すると、それが大義だろうと思っています」
これには経過背景があり解説がいるようである。
ブログにその解説記事がある。
鳩山由起夫前総理が詳しくその辺のところを語っている。
政権交代へ走り出した新・民主党 いま明かされる衝撃の合併秘話
(2003年10月「政界」10月号掲載) 鳩山由紀夫HP
聞き手 大下英治(作家)
--平成十五年七月二十三日、民主党の菅直人代表と自由党の小沢一郎党首が会談し、九月までの両党の合併で電撃合意しました。そのレールを敷いたのは、民主党前代表の鳩山さんです。そもそも、鳩山さんは、なぜ自由党との合流構想を進めたのですか。
鳩山:我々は、自民党から政権を奪い取るという目的で七年前の平成八年九月に民主党を立ち上げました。政党というものは、政権を取らなければ鼠の取れない猫と同じです。しかし、平成八年十月、平成十二年六月の総選挙では、政権を奪えなかった。しかも、平成十三年四月に発足した小泉政権は国民の支持率は高い。民主党が次の総選挙で政権が取れなければ、どうなるか。たとえ議席を伸ばしたとしても、政権に届かなければ、民主党にいても駄目だという気持ちが起こり、どんどん遠心力が働いてしまう。民主党が単独で政権を取ることがもっとも望ましいが、どうもその可能性はきわめて薄い。下手をすると党が瓦解するかもしれない。それでは、国民に対して無責任なことになります。そうならないための最大の戦略は何かを考えたとき、自分なりに決断したのが小沢自由党との合流だったわけです。
――自由党と合流すれば、政権を取ることができると。
鳩山:それだけですべてうまくいくとは思っていなかったし、いまでも十分かどうかということになると、かならずしもそうではないと思います。ただし、必要条件としては、これだけはクリアしないといけない。民主党と自由党の考えは、それほど離れていない。合流しようと思えばできる。これを阻んでいるのは、小沢さんに対する好き嫌いの感情です。しかし、感情論だけで国民に大きな失望感を与えるのであれば、政治家をやっている資格はありません。みなさん、いろいろな思いはあるでしょう。しかし、その思いを越えて行動すれば、かならず合流はうまくいくのではないかと思いました。合流さえうまく導くことができれば、小泉人気を引っ繰り返せるという確信もありました。
――そこで、昨年の十一月二十九日、自由党などとの新党結成構想を表明されたわけですね。しかし、党内で猛反発にあい、その四日後の十二月三日に代表辞任を表明された。いま振り返ってみて、ほかに方法があったと思いますか。それとも、どうやっても、あの時点では難しかったでしょうか。
鳩山:おそらく、どうやっても駄目だったと思います。私が合流構想を出したから「唐突すぎる」「うまくいかないから辞めろ」という話になっていきましたが、結論は、私を辞めさせたいということだけなんですよ。それに、私自身も、合流の話があろうとなかろうと、辞めるつもりでいました。
--鳩山さんは、九月の代表選で菅(直人)さん、横路(孝弘)さん、野田(佳彦)さんを破って三選をはたしましたが、中野寛成さんを幹事長に起用したことで党内で批判を浴び、求心力を失いましたね。
鳩山:幹事長人事は、その流れに拍車をかけたわけです。私が代表選を戦った三人の陣営からすれば、私が再選することは最悪のシナリオなんです。要するに何の変化もないということでしょう。私自身は「新しい民主党の姿を作っていこう」という意欲はありましたが、彼らからみれば、結局、何も変わらない。私が当選した瞬間、大変な不満が積もったわけです。
--爆発寸前のマグマがあったと。
鳩山:ええ。私が「幹事長は、中野さんにお願いする」といった瞬間にパッと火がつきましたが、そうでなくとも何らかのきっかけでマグマは火を噴いていたはずです。民主党の支持率が低迷するなか、私が今でも大事にしたいと思っている若手議員の前原(誠司)君、玄葉(光一郎)君、樽床(伸二)君、手塚(仁雄)君、武正(公一)君たちが、それぞれ私に会いに来て「このままいったら代表に退陣を求める署名運動をやることになるかもしれない」というわけです。
自民党は、利権が絡み、権力闘争に明け暮れています。従って、民主党は我欲で支配される政党であってはならないという思いで立ち上げました。それなのに、そのような権力闘争が起これば致命的です。リコール運動のようなことが起こり、強引に乗り切ったとしても不満は残る。私を支援してくれる人たちから「そんなブラフに負けてはいけない」と励まされましたが、痼はさらに大きく残ってしまう。この状況を打開するためには、自分が辞任するしかないと決断しました。
--それは、いつの時点ですか。
鳩山:十一月の時点です。前原君たちには「君たちのいうことはよくわかる。だけど、わたしが辞めた後、どうやって民主党をうまくまとめ、国民に期待感を持ってもらえるようにしていくの?」と訊いても、誰も明確に答えられない。ただ鳩山を辞めさせなければいけないということだけで、その先の戦略を描いていないわけです。私も、権力闘争ではない形で国民に期待してもらえる方法を自分なりに模索しました。そして導き出されたのが自由党との合流でした。二つの政党を一つにして新しい器を作る。そうしたうえで、私の後の新代表に「どうぞ」と渡せるようなシナリオができれば、国民のみなさんにも「足の引っ張りあいではなく、プラスの話だったのか。それならいい」と思ってもらえる。しかも、結果として自由党と合流できれば大きな期待感が起こる。これなら、一石二鳥どころか、三鳥も、四鳥にもなると思い、小沢さんの懐に飛び込んでいったわけです。
--小沢さんの反応は、どのようなものでしたか。
鳩山:小沢さんは「君がそこまで覚悟してくれるなら、私も覚悟しよう。私も、何も求めない。二人が何も求めなければうまくいくだろう」という話でした。ところが、周りの人たちは「この構想は、鳩山の延命工作だ」と見たわけです。しかし、私は代表に留まるつもりは百%なかった。それでは、小沢さんに対する背信になりますから。それなのに私心があると取られたのは、自分に徳がなかったということでしょう。
--このときは、両党が解党し、新党を結成するという発想だったのですか。
鳩山:私は、合流は対等でやるべきだと思っていました。民主党は、自由党よりも大きな政党です。それだけに、むしろ謙虚でなければいけない。「小さな政党のあなたたちを仲間に入れてあげるのだから、ありがたく思えよ」といったような態度はおくびにも出してはいけない。そして、たとえば「民主自由党」という新党をつくり、いったんみんなが新党に入る。しかし、「民主自由党では、自由民主党と紛らわしい」ということで、その翌日に「民主自由党」改め「民主党」にしてもいいわけです。そのことについては、小沢さんもまったくこだわっていませんでした。
--うまくいくと思いましたか。
鳩山:小沢さんたち自由党、民主党の仲間たちとどうやったらうまくいくか、いろいろと考えました。年内に合流するつもりでいましたから連日協議していたのですが、私がまだ権力に執着しているかのような幻の人事のペーパーが出回ったりして、なかなかうまくいきませんでした。
--それは、まったく関知していなかったのですか。
鳩山:少なくとも、私も小沢さんも、関知していませんでした。しかし、そのペーパーが火に油を注いでしまった。結局、民主党の役員会でも了承されず、頓挫した。
--合流構想は、これで終わったと思いましたか、それとも、種を残したわけだからまだ成功すると思いましたか。
鳩山:内心、非常に難しくなったと思いましたね。なにしろ、当時の執行部のほとんどが賛意を示してくれなかったし、新しい執行部にも慎重な人がいますから。統一会派あたりの話で落ち着かれてしまったら、えらいことになると思いました。しかし、これは我欲で提案した話ではないし、やり遂げなければ政権を取れない民主党のままで瓦解してしまうかもしれない。危機感を共有する仲間のみなさんが集まってくれて「とにかくこの問題は成就させようではないか」ということで行動を起こしてくれた。ただし、それが逆にブレーキをかけてしまったことも事実です。「反執行部が勝手な行動をして自由党との合流を進めている。けしからん」とますます執行部は固くなってしまいました。
--今年の五月二十六日、菅・小沢会談がおこなわれ、菅さんが統一会派を呼びかけたが、小沢さんが拒否し、合流問題は白紙にもどりました。これで、ますます難しくなると思いましたか。
鳩山:じつは、執行部が結論を出さないのであれば、自分たちだけで自由党と合流しようという話をしていました。
--ということは、離党を覚悟していたということですか。
鳩山:その通りです。今年の一月か二月に小沢さんと二人だけで会ったとき、「私は、もう結論を決めています。世間から『鳩山はフラフラしているのではないか』と思われるのは不本意ですし、自分が言い出しっぺで行動した以上、私と自由党さんとの間では、契約をさせていただいたと思っています。菅さんが合流に踏み切ればいいですが、それができなかった場合には、私はその責任のもとで小沢さんと行動を共にします。そこだけは信じてください」ということを申し上げていました。小沢さんとしても、民主党全体とうまくいかなくても、私たちとは協力できると思って辛抱強く待ってくれたのではないでしょうか。そうでなければ、おそらく民主党との合流を投げていたかもしれませんよ。
--それは、初耳ですね。
鳩山:これもまたあまり表には出ていない話ですが、執行部が決断しない半年の間に、ある意味で肚をくくり、決断していた私たち民主党議員二十数名と自由党議員十数名の三十数名は、二週間に一度くらい会っては「なんとか合流をなし遂げましょう」と信頼関係を醸成していました。
大義もなく、義も無い
菅直人総理には、
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「民由合併の時からの同士としての協力が得られるなら出馬したいと、仰られた。
私の一存で小沢先生に民主党に入っていただいた。
その経緯からして、私としては応援すると、それが大義だろうと思っています」
これには経過背景があり解説がいるようである。
ブログにその解説記事がある。
鳩山由起夫前総理が詳しくその辺のところを語っている。
政権交代へ走り出した新・民主党 いま明かされる衝撃の合併秘話
(2003年10月「政界」10月号掲載) 鳩山由紀夫HP
聞き手 大下英治(作家)
--平成十五年七月二十三日、民主党の菅直人代表と自由党の小沢一郎党首が会談し、九月までの両党の合併で電撃合意しました。そのレールを敷いたのは、民主党前代表の鳩山さんです。そもそも、鳩山さんは、なぜ自由党との合流構想を進めたのですか。
鳩山:我々は、自民党から政権を奪い取るという目的で七年前の平成八年九月に民主党を立ち上げました。政党というものは、政権を取らなければ鼠の取れない猫と同じです。しかし、平成八年十月、平成十二年六月の総選挙では、政権を奪えなかった。しかも、平成十三年四月に発足した小泉政権は国民の支持率は高い。民主党が次の総選挙で政権が取れなければ、どうなるか。たとえ議席を伸ばしたとしても、政権に届かなければ、民主党にいても駄目だという気持ちが起こり、どんどん遠心力が働いてしまう。民主党が単独で政権を取ることがもっとも望ましいが、どうもその可能性はきわめて薄い。下手をすると党が瓦解するかもしれない。それでは、国民に対して無責任なことになります。そうならないための最大の戦略は何かを考えたとき、自分なりに決断したのが小沢自由党との合流だったわけです。
――自由党と合流すれば、政権を取ることができると。
鳩山:それだけですべてうまくいくとは思っていなかったし、いまでも十分かどうかということになると、かならずしもそうではないと思います。ただし、必要条件としては、これだけはクリアしないといけない。民主党と自由党の考えは、それほど離れていない。合流しようと思えばできる。これを阻んでいるのは、小沢さんに対する好き嫌いの感情です。しかし、感情論だけで国民に大きな失望感を与えるのであれば、政治家をやっている資格はありません。みなさん、いろいろな思いはあるでしょう。しかし、その思いを越えて行動すれば、かならず合流はうまくいくのではないかと思いました。合流さえうまく導くことができれば、小泉人気を引っ繰り返せるという確信もありました。
――そこで、昨年の十一月二十九日、自由党などとの新党結成構想を表明されたわけですね。しかし、党内で猛反発にあい、その四日後の十二月三日に代表辞任を表明された。いま振り返ってみて、ほかに方法があったと思いますか。それとも、どうやっても、あの時点では難しかったでしょうか。
鳩山:おそらく、どうやっても駄目だったと思います。私が合流構想を出したから「唐突すぎる」「うまくいかないから辞めろ」という話になっていきましたが、結論は、私を辞めさせたいということだけなんですよ。それに、私自身も、合流の話があろうとなかろうと、辞めるつもりでいました。
--鳩山さんは、九月の代表選で菅(直人)さん、横路(孝弘)さん、野田(佳彦)さんを破って三選をはたしましたが、中野寛成さんを幹事長に起用したことで党内で批判を浴び、求心力を失いましたね。
鳩山:幹事長人事は、その流れに拍車をかけたわけです。私が代表選を戦った三人の陣営からすれば、私が再選することは最悪のシナリオなんです。要するに何の変化もないということでしょう。私自身は「新しい民主党の姿を作っていこう」という意欲はありましたが、彼らからみれば、結局、何も変わらない。私が当選した瞬間、大変な不満が積もったわけです。
--爆発寸前のマグマがあったと。
鳩山:ええ。私が「幹事長は、中野さんにお願いする」といった瞬間にパッと火がつきましたが、そうでなくとも何らかのきっかけでマグマは火を噴いていたはずです。民主党の支持率が低迷するなか、私が今でも大事にしたいと思っている若手議員の前原(誠司)君、玄葉(光一郎)君、樽床(伸二)君、手塚(仁雄)君、武正(公一)君たちが、それぞれ私に会いに来て「このままいったら代表に退陣を求める署名運動をやることになるかもしれない」というわけです。
自民党は、利権が絡み、権力闘争に明け暮れています。従って、民主党は我欲で支配される政党であってはならないという思いで立ち上げました。それなのに、そのような権力闘争が起これば致命的です。リコール運動のようなことが起こり、強引に乗り切ったとしても不満は残る。私を支援してくれる人たちから「そんなブラフに負けてはいけない」と励まされましたが、痼はさらに大きく残ってしまう。この状況を打開するためには、自分が辞任するしかないと決断しました。
--それは、いつの時点ですか。
鳩山:十一月の時点です。前原君たちには「君たちのいうことはよくわかる。だけど、わたしが辞めた後、どうやって民主党をうまくまとめ、国民に期待感を持ってもらえるようにしていくの?」と訊いても、誰も明確に答えられない。ただ鳩山を辞めさせなければいけないということだけで、その先の戦略を描いていないわけです。私も、権力闘争ではない形で国民に期待してもらえる方法を自分なりに模索しました。そして導き出されたのが自由党との合流でした。二つの政党を一つにして新しい器を作る。そうしたうえで、私の後の新代表に「どうぞ」と渡せるようなシナリオができれば、国民のみなさんにも「足の引っ張りあいではなく、プラスの話だったのか。それならいい」と思ってもらえる。しかも、結果として自由党と合流できれば大きな期待感が起こる。これなら、一石二鳥どころか、三鳥も、四鳥にもなると思い、小沢さんの懐に飛び込んでいったわけです。
--小沢さんの反応は、どのようなものでしたか。
鳩山:小沢さんは「君がそこまで覚悟してくれるなら、私も覚悟しよう。私も、何も求めない。二人が何も求めなければうまくいくだろう」という話でした。ところが、周りの人たちは「この構想は、鳩山の延命工作だ」と見たわけです。しかし、私は代表に留まるつもりは百%なかった。それでは、小沢さんに対する背信になりますから。それなのに私心があると取られたのは、自分に徳がなかったということでしょう。
--このときは、両党が解党し、新党を結成するという発想だったのですか。
鳩山:私は、合流は対等でやるべきだと思っていました。民主党は、自由党よりも大きな政党です。それだけに、むしろ謙虚でなければいけない。「小さな政党のあなたたちを仲間に入れてあげるのだから、ありがたく思えよ」といったような態度はおくびにも出してはいけない。そして、たとえば「民主自由党」という新党をつくり、いったんみんなが新党に入る。しかし、「民主自由党では、自由民主党と紛らわしい」ということで、その翌日に「民主自由党」改め「民主党」にしてもいいわけです。そのことについては、小沢さんもまったくこだわっていませんでした。
--うまくいくと思いましたか。
鳩山:小沢さんたち自由党、民主党の仲間たちとどうやったらうまくいくか、いろいろと考えました。年内に合流するつもりでいましたから連日協議していたのですが、私がまだ権力に執着しているかのような幻の人事のペーパーが出回ったりして、なかなかうまくいきませんでした。
--それは、まったく関知していなかったのですか。
鳩山:少なくとも、私も小沢さんも、関知していませんでした。しかし、そのペーパーが火に油を注いでしまった。結局、民主党の役員会でも了承されず、頓挫した。
--合流構想は、これで終わったと思いましたか、それとも、種を残したわけだからまだ成功すると思いましたか。
鳩山:内心、非常に難しくなったと思いましたね。なにしろ、当時の執行部のほとんどが賛意を示してくれなかったし、新しい執行部にも慎重な人がいますから。統一会派あたりの話で落ち着かれてしまったら、えらいことになると思いました。しかし、これは我欲で提案した話ではないし、やり遂げなければ政権を取れない民主党のままで瓦解してしまうかもしれない。危機感を共有する仲間のみなさんが集まってくれて「とにかくこの問題は成就させようではないか」ということで行動を起こしてくれた。ただし、それが逆にブレーキをかけてしまったことも事実です。「反執行部が勝手な行動をして自由党との合流を進めている。けしからん」とますます執行部は固くなってしまいました。
--今年の五月二十六日、菅・小沢会談がおこなわれ、菅さんが統一会派を呼びかけたが、小沢さんが拒否し、合流問題は白紙にもどりました。これで、ますます難しくなると思いましたか。
鳩山:じつは、執行部が結論を出さないのであれば、自分たちだけで自由党と合流しようという話をしていました。
--ということは、離党を覚悟していたということですか。
鳩山:その通りです。今年の一月か二月に小沢さんと二人だけで会ったとき、「私は、もう結論を決めています。世間から『鳩山はフラフラしているのではないか』と思われるのは不本意ですし、自分が言い出しっぺで行動した以上、私と自由党さんとの間では、契約をさせていただいたと思っています。菅さんが合流に踏み切ればいいですが、それができなかった場合には、私はその責任のもとで小沢さんと行動を共にします。そこだけは信じてください」ということを申し上げていました。小沢さんとしても、民主党全体とうまくいかなくても、私たちとは協力できると思って辛抱強く待ってくれたのではないでしょうか。そうでなければ、おそらく民主党との合流を投げていたかもしれませんよ。
--それは、初耳ですね。
鳩山:これもまたあまり表には出ていない話ですが、執行部が決断しない半年の間に、ある意味で肚をくくり、決断していた私たち民主党議員二十数名と自由党議員十数名の三十数名は、二週間に一度くらい会っては「なんとか合流をなし遂げましょう」と信頼関係を醸成していました。
大義もなく、義も無い
菅直人総理には、
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