今日の誕生日の花は・・・リンドウ
花ことばは・・・・・正義

りんだうや 机に倚れば 東山

21日宮崎市のフェニックスCC2日目から単独首位に立っていた池田勇太の堂々のブッチギリ!。
通算15アンダーで初優勝。
日本人王者は2002年の横尾要以来の8年ぶり。
街なかイルミネーションで飾られたアーケード街、若草通りの連夜のお肉の振る舞い。
今年のボジョレーヌーボーを楽しんだ。
「濃くがあり上手いッ!」
ちょっとちがうだろー
新酒ゆえにボジョレーの安酒。
CM戦略に組み込まれてろー
ボジョレーヌーボーのお話し~
その昔フランスが侵略され、その手が噂に名高いワインに及ぶコトを恐れ、
慌てて早飲みタイプのワインを造り、侵略者に差し出し至宝のワインを守った
その事から始まったとされるボジョレーヌーボーお楽しみのお祭り。
ボジョレー解禁って「味の品評会ではありません。」

ただワインより焼酎の国ゆえワイン談義はどうもー

と言うわけで少しまだ残っているー

21日午後9:00~午後9:50NHKスペシャル
「天空の一本道~秘境・チベット開山大運搬~」
記録モノのNHKは楽しみだ。

ヒマラヤ山脈の東端、絶壁が500kmも続く世界一の大峡谷。
中国の秘境・チベットのヤルツァンポ大峡谷に初めてテレビカメラが入った。
車も入れない少数民族の人々の村が20カ所ぐらいアル。
そのうち500人の暮らすジャナサ村。
夏、標高4650mの峠の雪が解けると、村人の男総出で
米や食料医薬品など生活必需品を町から、人力のみで運ぶ。
7年前から馬が通れるようになった。
標高4000メートルを越える断崖絶壁の道、馬行道3日間。
馬と共に自分も洗濯機を背中に命がけで生活物資を運ぶ男たち。
ジゲさんが運搬隊列の責任者。
難関は4650mのズイラ山を越える一本道10キロ。

よくぞカメラマン、スタッフは村人たちとの「開山大運搬」の取材が出来たモノだ。
道幅は岩肌をこする幅しかない。
一方は目の眩む高さ200メートルには恐怖ゆえか
 馬さえ動かなくなり立ち止まる。
 その断がい絶壁を越え、米や油、洗濯機までをも背負い、家族の待つ村を目指す。
一行程で1400元稼げ年収費用の三分の一をまかなう。
役場からの依頼で米ナゾを納品する。
それらは給食用として120名の児童に振る舞われる。
少子化は無縁である。
学校の建物総て、机も壁のコンクリートもみな人が運んだ。
人力で運んできたモノのみでの生活家具。
乳母車も粉ミルクも人数が多くなり食卓もすべて人力で運んできた。
7年前電気がきた。
テレビを運んできた。
毎年一つづつ積み上げる人生。

秘境の村は馬行道しかない。
馬が4頭いるそれだけで満足
塩と茶があれば生きていける
娘は遠く東5000キロのチンタオの学校に進学が決まった。
年間7000元いる。

1400メートルの高低差を半日で歩く。
4000メートル附近10キロ一本道は6割程度の酸素
岩肌をこする幅しかなく高さ200メートル絶壁
正午過ぎると風が出るゆえ山頂を越えたい。
30キロの洗濯機を背負い絶壁を足元だけ見てては壁に当たる。
当たれば奈落の底。
足を滑らせても。8年前叔父は落ちたー
馬が動かなくなり荷をカラにする決断。
いとこの馬で一頭4000元する。
5000元が年収。
馬から荷を下ろすと動き出した駄馬メ!
本体より遅れるコト2時間
それでも30分の休み

キリが出れば危険
午前11時気温0度
みぞれの雨が降り出し体温を奪う。

目は天国体は地獄
僅か2ヶ月のみ道は開く
後は雪渓素
山頂を越すと下り。
馬には300キロが前足にかかる。

難関を通過しても30度亜熱帯の密林が標高1400でつづく
毒蛇トカゲ、ヒョウ猛獣が襲う。
命がけのヒマラヤ越え
ココにも戦争の傷跡がある。
中国・インドの抗争
解放軍が入って軍需物を運んだ。
文明も豊かさも戦争も
 同じく一本道を通じて行ってくる。

日向の国の西は九州の尾根が鹿児島熊本大分を別ける
日本書紀古事記=記紀によると、天照大神の孫瓊瓊杵尊=ニニギノミコトが日向の高千穂峰に降臨の後、
居を構えたのが現在の西都市であったとされる。
古代より斉殿原(さいとのはる)ゆえ西都市

この尾根地帯にはそれぞれの生活があり生活道がある。
物資は馬が荷役を担った。
駄賃付けの地唄が収録されたモノのみ残る。

西都市の奥地は北の東臼杵郡:美郷町、椎葉村 に繋がっている。
一ツ瀬川が貫流し上流部では無数の小川が渓谷を刻み、それらの流れが集まって、
九州最大の貯水量を誇る一ツ瀬ダム=米良湖となっている。
律令期には現在市の中心部となっている妻地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれた。
文字とうり日向国の中心地として栄えた。
室町時代~戦国時代には日向国の地頭、伊東家が市南部に都於郡城を構え本拠地とした。
この国初の外国使節団・天正少年遣欧使節正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは伊東家の一族。
伊東家没落後、都於郡城には島津義久が入城。
 豊臣秀吉九州征伐、高城の戦いにおける前線基地で、戦後廃城。
江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北地区は幕府の天領。
三財・三納・都於郡地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。
この時期には現宮崎市の赤江・城ヶ崎が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、
西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失った

西都市三財寒川は廃村になった。
焼け尽くした山林大火も乗り越えたのに。
集団離村、23年前である。
背後の山頂で標高1200m。
美しい田舎の四季の移ろいを映画に治めた。
、若き地元の才能、西岡幹洋の重厚な音楽が観客を包み込んで
あたかも目の前に広がる世界のように故郷の景色を再現。
映像にはかつて仕方なく寒川村を捨てた老人たちが、
再び故郷寒川を訪れた時に見せた表情が脳裏に残る。
彼等のその真剣な眼差しの先にあるものは一体?
籾木監督が「寒川(さぶかわ)」http://blue.ap.teacup.com/applet/upm2/114_4/image
小林市出身の坂元敏志助監督

西都市寒川、尾八重、中尾、八重、銀鏡、上揚の各地区は球磨郡(当時の球磨郡)の
寒川谷村、猪窪谷村、岩井谷村、尾八重谷村、椎葉谷村、鳥巣谷村、東八重谷村、銀鏡谷村、登山谷村、杖山谷村、浜砂谷村、横平谷村であった。
その後、美々津県に移管されて児湯郡寒川村、尾八重村、中尾村、八重村、銀鏡村、上揚村となった後、
児湯郡東米良村の一部にり、後に西都市の一部となって現在に至っている。
1958年に三納村・都於郡村を統合し市制施行、
1962年に三財村・東米良村を合併し現在の市域
1960年代には一ツ瀬ダムが建設され、この時期に市の人口は5万人を超え
、杉安地区の一ツ瀬河畔は日向の嵐山と呼ばれ屋形船が行き交った。
ここにもこの国の最大の内戦明治10年西南戦争の足跡が残る。

原始共同体的経済の生活がついこないだまであった。
全国何処も駄賃付けの荷役の地唄が残っていよう。
この国はまだ縄文以来脈々と受け継がれてきた共生の心根がある。
国家経営にアタル政治家の資質の一つで国家護持の必要要件。
民主党には哀しきか優秀すぎる偏差値人間ばかりで人材がいない。
唯一小沢一郎をのぞいては。

経済は生き物でありココまで世界の隅々までグローバル化すると一つの方向に動き出すと急激な変化になるゆえ
見極めのシグナルはとりわけは需要である。

韓国G20サミットが終えたのは11月12日だったか
そこでの問題点は同じ週内の横浜サミットが控えてたゆえもあり詳細理解が飛んだ。
中国通貨「元」切り上げが主題との前ぶれもアリ
韓国G20サミットは失敗の烙印を押されてる。

果たしてそうだったのか。
通貨政策に急激な潮流の変化サインが出ている。

これまでこの国の通貨政策は円高で対応を迫られてきた。
これからは違う。
円安に対する備えが考慮されねばならぬ。

G20の周辺で起きていることを詳細に見るべきだ。
G20は、国際金融システムの構造を着々と多極型の方向に転換している。

G20傘下の財務相会議である「金融安定委員会」=FSBが、今回のサミットの前後に決断したこと。
 ・「債券格付け機関」
 ・米国の「影の銀行システム」
といった、国際金融危機の元凶となっている米英金融覇権の真髄に位置する機構=金融兵器を
骨抜きにする政策で合意していた。

株価為替の動きは政治の安定と不可分であった。
民主党のこの体たらくに株安・円安が古きにある株屋の常識のハズ。

投資するなら円は安く触れるが基本的流れである。

東京・中日新聞論説トップの長谷川幸洋の20日付現代ビジネスのブログがある。 http://p.tl/SDql
「1ドル=100円でもおかしくない」 
 いよいよ「「政権崩壊相場」が始まった

円高トレンドに一服感が出てきた。
18日午後現在で1ドル=83円台を前後している
相場は反転し、これから円安基調に動く可能性が高い。

 理由は二つ。

 ①先の20ヵ国・地域(G20)首脳会合が終わる前後からジリジリと円安に反転し、
今週半ばを過ぎても円高に戻っていない点。

 今回の円高が始まったのは、6月下旬の前回G20直後から。
市場参加者にとって、G20はあきらかに相場観を点検する大きなイベントである。
今回のG20では、米国の金融緩和にブラジルなど新興国から批判が集中した。

 その結果、市場では「米国はこれ以上の緩和に動きにくい」という見方が強まった。
米国の金融緩和は日米の金利差縮小から円高を促す。
緩和見送りなら、その流れが止まる。
つまり円安である。

 ②日本経済の将来に対する悲観的な見方が急速に強まっている。
金融市場関係者が語った。

「最近、海外のファンド勢などから『円安はいつから始まるだろうか?』という問い合わせが集中。」
『円安に振れるのは間違いない。あとはタイミングだけ』という見方。
 「さらに円高が続くとみる人はほとんどいません」

「これまで円を買ってきた海外のヘッジファンドは11月に決算期を迎える。
  ここで円を売って利益を確定する『巻き戻し』も起きている」

「根底にあるのは、日本経済のファンダメンタルズに対する悲観論。
主要な製造業はほとんど海外展開した。
製造拠点だけでなく研究開発拠点を海外に移す動きも続いている。
つまり日本企業自身が日本を見放して、脱出している」

「それでも世界の水準からみると、日本企業の出遅れ感はどうしようもない。
海外勢からみると当分、日本経済の先行きは暗い。だから『円は買えない』というロジック」

 霞が関のベテラン官僚も語る。

「経済界からみると、政府が企業を支援してくれない。
それどころか、企業いじめがひどい、という不満が鬱積している。
これ以上、日本にとどまっていても、将来に希望が見えない。海外展開できる大手製造業はまだまし。だけど、サービス業や中小企業はどうしたらいいのか、という強い不安感に覆われている」

海外ファンドも日本企業も「日本経済の将来は暗い」と一致しているのだ。
これでは「円を買おう」という気分にならないのは当然だろう。
、元財務官である渡辺博史国際協力銀行経営責任者の18日コメント。 
「通貨安競争はもう終わった。
 市場は各国のファンダメンタルズを評価するようになった。
 潮目が変わったー。
 私は米国や欧州の経済がきちんとしてくれば、1ドル=100円までいってもおかしくないと思います」

 経済を支える民間部門で日本脱出の動きが加速しているのに加えて、
 マクロ経済に目を向ければ、デフレは止まらず、財政も巨額赤字を抱えている。
なにより、菅直人政権がまったく頼りにならない。

、目玉の法人税引き下げ一つとっても、霞が関の内部対立が険しく議論が進まない。
引き下げを目指す経済産業省と阻止したい財務省のバトルー。
 少子高齢化が進む中、中長期の成長を目指すには女性の働き手を増やす方策が不可欠なのに、
文部科学省と厚生労働省が対立して幼稚園と保育園の一体化さえ進まない。
霞が関の縄張り争いが日本経済の足を引っ張っているー

 政権内の混乱は収まるどころか、ますますひどくなっている。
 ・中国漁船の船長釈放、
 ・「尖閣ビデオ」を流した海上保安官の逮捕見送り、
 ・柳田稔法相の国会軽視発言
、野党は法相の不信任案(衆院)と問責決議案(参院)提出を22日にするー。
こんなありさまでは、政権の求心力が低下し
、内閣支持率が急落するのも当然だ。

お上りさんの聖地は東北の人に限らず九州人もやはり上野のお山。
西郷さんの像ともう一つの像がある。

神戸の初代オランダ領事アルベルト・ボードワン(1829~90年)
その銅像は上野公園に設置され33年間。
それが22日神戸市の公園に建てられ、除幕式が開かれた。
なん?
アルベルトの兄は医師だったアントニウス・ボードワン(1820~85年)
上野公園の生みの親で明治政府に上野公園の建設を提言。
地元商店街が1973年、寄付を集めて銅像を建てた。
基にしたのは、オランダの彫刻家が兄弟の子孫から提供された写真。
オランダ人医師の歴史を調べていた岡山市の医師石田純郎さん(62)84年、弟との取り違えを指摘。
子孫の提供写真が弟のものだったことが原因。
頭髪の薄い弟を年上だと勘違いしたためではないか?ー。

兄と間違われたまま33年間にわたり上野公園に設置。
正しい兄の像が2006年につくられ、
弟もようやくゆかりの地神戸に“安住”することになった。

その上野ゆえ”アルベルト上野”というワンルームマンションがある。
まぁー迷惑なことではあろう。
田母神らの遣ることはすべからず表と裏がある。
JR上野駅浅草口を出てR4沿いに徒歩1分のワンルームのみで200室くらい。
ここは1室ずつ分譲された区分所有物件。
マンションと言うが実態はエステや風俗で夜中は違法風俗にも使われている
警察からこれらの風俗に対し、
「事務所機能だけ残してしばらくホテルを使え」
「営業に使っていた部屋を貸せ」との指示が出ていた。
案の定、立件された。二階堂ブログにアル。

東京・上野のワンルームマンションに入居する風俗店が一斉に摘発された事件
警視庁保安課と上野署などは15日までに、売春防止法違反(場所提供)容疑などで
、元航空自衛隊幹部で公益社団法人「危機管理協会」理事の榊原吉典容疑者(45)=千葉県柏市手賀の杜=ら6人を逮捕した。
同課によると、同容疑者は容疑を否認し、「3月に店を譲り受けた。集金はしたが、経営にはかかわっていない」と供述。
月約300万円を売り上げたという。
同課は同日までに、51室を使用する風俗店計7店を摘発。
中国籍の女(37)と同容疑者の中国籍の妻(37)が女性従業員のあっせんや、部屋の手配をしたとみられ、風営法違反容疑で逮捕状を取るなどし、行方を追っている。
榊原容疑者の逮捕容疑は10月2日、台東区上野のマンション一室で、中国籍の女性従業員(26)が茨城県つくば市の男性団体職員(32)を相手に売春すると知りながら、部屋を使用させた疑い。
この公益社団法人の榊原吉典は田母神がやめたときに一緒にやめた部下。
上野では、北朝鮮に3500万円送金していた北朝鮮経営の風俗店なんてぇのも摘発されている
別なのか、どっかで繋がっているのかは確かじゃない、
ただエリート自衛官が経営する売春宿なんてぇのも摘発されているわけでー。
エリートというよりは、豪腕と威圧と人情?で人事序列を駆け上がった男ー。
40歳そこそこで2佐になったのは、彼の本来の実力からいけば、かなり早い昇任。
また整備主任をあの年齢で勤め上げるのもかなり早い。
が小松基地の時代に自衛隊をやめてしまった。
その後、政治家の秘書を目指すとかの噂が今回このようなことに・・
簡単に埋もれるような男ではないと思ってはいたが、やはり・・・・
40そこそこで中佐なので、自衛隊でも超エリートー。
ちなみに問題の店の雇われ店長のブログに詳しいー。
まぁ、愛国烈士様の正体はこんなもんー

元自衛隊員ヘタすれば現役自衛隊員がシナ人や朝鮮人等のオンナに”食われ”、
いろいろなことをやって金を稼いでいるケースー。
オンナ、そしてカネ。
そんな三流工作員もどきに食われる自衛隊員ー

11月9日にたちあがれの平沼が亀井静香と赤坂の外松で会食。
ナベツネや中曽根はいなかったようだが、小林興起、河村建夫の姿も。
与謝野はナベツネのメッセンジャーボーイ。
菅に大連立と消費税大増税を決断しろと迫ってるのだろうか。

御手洗前経団連会長と丹呉前財務次官が読売に雇われ、与謝野が官邸で菅総理と会談した
これと無関係とは思えず無視できない。

みんなの党は竹中チームと同様に代表も幹事長もTPP参加に大賛成。
これと同じ方角を向いている菅・仙谷・松下政経塾ライン。
さすがに「ムサシ」で当選させてもらい、郵政を外資に売り払うことを公約に掲げている党だけのことはある

経団連アメリカ委員会委員長の人。
経済同友会:次期代表幹事に武田薬の長谷川社長内定、
来春就任予定 http://bit.ly/9BPzZt

NHK参院予算委。
みんなの党の中西JPモルガン。
TPPについての質疑。
郵政民営化改革について中国共産主義を持ち出して批判。

21日のTBS朝6時「日曜時事放談」野中、恒三が出演
変わらぬ小沢批判
 恒三「選挙になれば小沢グループは落ちるので、菅君に解散しないでくれというのが延命の道だ」
   、とまでのたまう。
マスコミもやはり小沢が怖くて怖くてどうしようもないー
同類相哀れむ
これは恒三も、野中も同じなんだろー
前回恒三は、シンドラーズのカーティス教授と出たときも、ゴマすりばかりしてた
恒三は野中を前にすると、かなり大人しく、反論もできない。
いつもはあれだけ、えらそうなのにー。
自民党では後輩のはずだが、やはり野中は力をもってるということー。
野中の自民党批判と、菅政権仙谷政権の擁護姿勢は徹底してるー。
時事放談で、支持率急落のコメント求められても、どんな調査をしているのかわからないー
自民党の支持率も上がらないとする。
土地改良事業団の予算復活は決まりー。
仙谷と野中は密会以来かなりつながってるー

「週刊新潮」によると、日テレの元政治部長が、読売主筆のナベツネおよび日テレ会長の氏家が、料亭での豪遊の費用を、官房機密費(と思われるカネ)で支払ったことを論文で暴露したー。 #kimitsuhi

小沢・岡田「2分間の密談」の意味
 政権はあきらかに危険水域に突入している。

、小沢一郎元幹事長と岡田克也幹事長が衆院本会議場でひそひそと2分間の密談を交わしている姿が一斉に写真で報じられた。
これは注目に価する。
 小沢や岡田のような大物政治家が大勢のカメラマンが望遠レンズを向けているのを承知のうえで、
<堂々と(!)密談する>のは「どうぞ写真にとってください」という2人のメッセージが政治的常識。
まさか仙石じゃぁあるまいに。
 何を話したかの問題ではない。
「写真にとらせた」という事実自体が重要な意味を持っている。
「小沢と岡田が歩調をそろえ始めた」という話である。

 小沢は側近議員らの動きが急である。
「TPP(環太平洋連携協定)を慎重に考える会」
「食料とエネルギーの自給率向上と成長産業としての環境政策を推進する議連」
 これらの設立に動いている。

 菅の求心力が衰え、漁船衝突など一連の事件処理法相を含めた舌禍事案処理をめぐって
 仙谷由人官房長官にも批判の矛先が向かう中、
 小沢一郎がどう動くか。
 
「小沢が動くとしたら、年内・・・」と最近影がうすいとおもっていた亀井静香。
「政党助成金は1月の<いっぴ>で計算」という法則を頭に。
男・亀井、静かにしているときが怖い

11月20日午前11時からのテレビ東京の番組、
21日正午からの番組「スクランブル」に亀井静香出演
「菅政権は、身内をそっちのけにして、自民党など野党に擦り寄っている。変な政権だ」
と皮肉っていた。
同じ仲間を阻害しておいて、野党に抱きつこうとする菅・仙谷の政治手法が理解できないという意味である。
 菅政権が、内政外交ともにうまく行かない最大の元凶が、党内分裂にあることは、だれの目にも明らかー。
挙党一致を図る努力をするどころか、
小沢支持派を分裂させる策謀ばかりに専念ー。
「小沢剥がし」という言葉さえ、永田町に飛び交っている。
小沢支持派の議員を小沢一郎元代表から引き離そうという策謀ー。
だが、人間の心を引き裂くのは、簡単ではない。
小沢元代表・小沢支持派は、「人情とカネと選挙運動」で結びつていることを忘れてはならない。
小沢一郎「議員たちに「来年通常国会冒頭解散・2月総選挙」の可能性を示唆したという。
 海部俊樹政権が1990年2月18日断行の総選挙の教訓もあろう。
民主党が衆院で「306議席」(定数480)と絶対多数を確保しているとはいえ、
管仙石一派が「脱小沢」を頑迷固陋に墨守している、
衆院では「菅・仙谷主流派176議席、小沢支持派130議席」
衆院議員にとって「常在戦場」は、基本的な心構えの1つ
政界は「一寸先は闇」といのも、常識である
小沢元代表が、党内で衆参合わせて「200人(衆院130、参院70)」の大勢力を抱えて、
いつまでも党内野党に甘んじているはずはない。
官仙石は正当な政権交代の民主党後継者ではない。
自民党65年との選挙に勝った小沢一郎に
民主党の危機を救ってもらうため・・否ツ!・・
この国を救うため・・・
    大政奉還せよッ!

西都の照葉樹の原生林の山間部の育ちゆえ詩人ブゥアレリーにあくがれる。
 
海、海、いつもふたたび始まる海
おお、ひとつの思いをこらしたあとの報酬か。
 神々の静けさをじっとながめてやることは!

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コメント

せきやん
2010年11月23日12:24

元木昌彦の「週刊誌スクープ大賞」(11月16日~11月22日発売号より)



第1位「『ナベツネ主筆』と『氏家日テレ会長』を大批判した日テレの元政治部長」(「週刊新潮」11月25日号)


新聞・テレビ批判は出版社系週刊誌の重要な役割
新潮が『メディア権力の研究』(「研究所年報」[駒大マス・コミュニケーション研究所]発行・第28号)という論文で、読売新聞の渡辺恒雄氏と日本テレビの氏家齊一郎氏を批判した元日テレの政治部長について書いている。

 この御仁、88年に起きたリクルート事件で、リクルートコスモス社長室長が、楢崎弥之助代議士に500万円を渡そうとした場面を隠し撮りして話題になった菱山郁朗氏、66歳。

 菱山氏は「リクルートの贈収賄ビデオ取材報道を嫌悪の感情を込めて見つめていた人物がいた」として、それが中曽根前首相(当時)と極めて親しい関係にある副社長で主筆の渡辺氏(同)だったと書いている。

 読売社長が日テレの社長と専務を呼びつけ、〈同席した渡辺がここでも『余計なことをしてくれたもんだな。やり過ぎだよ。あんことをやるとは。いったいどういう社員教育をしているんだ、君んとこは?』
とすごんだ。
そして『検察がしゃしゃり出てきたら中曽根の周辺まで追及の手が伸び、中曽根の立場が危うくなるではないか』とまで言った〉と記している。

 また氏家氏は、人事はトップの専権事項だといって憚らなかった。
社長候補だった専務を地方局に飛ばしたり、個人的関係を報道された副社長時代の元女性秘書を局長に抜擢したりした。

 やがて彼女は「人事にもモノを言うようになっていく。彼女と衝突した人物はいかに仕事が出来てもことごとく排除された」(菱山氏)

 菱山論文はこう締めくくられている。
〈体を張って日々取材活動を続けている大多数のジャーナリストにとって全く模範とはならないし、健全なジャーナリズムは育たない。
むしろ二人はジャーナリストとしては失格であり、一日も早く後進に道を譲って引退すべきだ〉

 私が親しい日テレの若い友人も、今年いっぱいで退社すると、先日聞いた。
彼は給与や待遇の不満からではないようだが、日テレと読売という大メディアが、曲がり角に来ているようだ。

 その激震の大本には、84歳になるこの二人の権力者への批判の高まりがあることは間違いない。(文=元木昌彦)

せきやん
2010年11月23日12:34

宮崎には景清廟があり、生目神社として神として崇めその霊験豊に眼病者に希望を持たせている。
隣国肥後の国は佐々のとのさま。
現代にDNAを受け継いでる三兄弟。
佐々弘雄九大元教授佐々淳行初代危機管理室長、消費者運動の梯元議員。佐々のとのさまの末裔。

佐々成政とクロユリ伝説

1.乱世の因果 
 天正12年(1584年)11月24日の未明のことであった。
 富山城主佐々成政は、北アルプス中の隘路といわれた厳冬の立山にいどみ、佐良(ザラ)峠へ向かった。
浜松城主の徳川家康を訪ねるためである。
 立山は、富士、白山と並び称される霊峰で、剣を突きたてたような接線は七十二蜂とも呼ばれた。
 今、その立山は、牙をむいたけもののように、粉雪を巻きあげ咆哮している。
成政のくわだては、狂気の沙汰というよりほかはなかった。
 ――おのれ、秀吉め、今に見ているがよいぞ。
 成政は限前に立ちふさがる岩稜にむかって憤りを叩きつけた。
しまいには進んでいるのか、退いているのか成政にもわからなかった。
 佐々成政は、燎原の火のように天下を席巻する秀吉と、いつかは対決せねばならぬ宿命にあった。
 かつて、織田信長の宿将として、輝かしい武勲をたてた成政は、そのとき42歳であった。
 成政の人生に於ける進んでいるのか、退いているのかわからぬ闘いは、主君信長の覇業なかばの不運な死から始まった。
越後の上杉勢と戦いを構えていた成政は、疾風の勢いで上洛した秀吉に主君の仇敵光秀を倒された。
その上、成政が頼みとしていた柴田勝家は焼け落ちる北ノ庄城とともに亡びた。
 成政は成り上がり者の秀吉が嫌いであった。
虫が好かないという言葉がある。
豪快な生一本の性格の成政は、どこか気の許せぬものを秀吉に感じていた。この4月、徳川家康が織田信長の遺子信雄を奉じて秀吉討伐の軍をおこしたとき、成政は躍りあがって喜んだ。秀吉と対決するためには、家康の力を借りるほかはない。
ところが11月になって、家康と秀吉の和睦の報が入った。
なんということだ。成政はおのれの耳を疑った。
成政と家康との間には秀吉打倒の密約が交わされていたはずではなかったか。
成政は家康に会って真意を糾さねばならぬと思った。
なんとかして家康と会う方法はないものだろうか。
 越中の国は敵方に囲まれている。
西の加賀、能登には前田利家がいる。
東の越後の上杉景勝はすでに秀吉と手を結んでいる。
道は全て塞がっていた。
ひそかに浜松城へ赴くには厳冬の佐良峠越えという無謀を行なうより他に途はなかった。
成政が家康と会うのは人目をはばかる事でもある。
そこで富山城では病臥していると見せかけ、毎日お膳をすえさせていた。

2.立山の佐良越え、幻の落武者
 
 立山の佐良越えとは、どこを指すのだろうか。
その道は立山温泉から佐良峠を越え、黒部川の平の地点で渡渉し、針ノ木峠を越えて籠川(かごかわ)を下ったといわれている。
しかし、今はそれも定かではない。
一の越(いちのっこし)から御山谷を下ったのだともいい、親不知(おやしらず)の上路(あげろ)を越え、越後の西を現在の大糸線沿いに信州へ出たという説もある。
また、別山(べつざん)から内蔵助(くらのすけ)谷へ下りたとも言われる。
この谷の名は、佐々内蔵助成政の名にちなんだともいう。
異説の多いのは、秘密の行動であったことによる。
 冬の立山は、一歩あやまれば死が口をあけて待っていた。
 雪の佐良越えにまつわるこんな話がある。
 人家のあかりが見えるのであやしみながら近寄ると、ふたりの老翁が柴火にあたっていた。
 成政はこれも天の加護と一夜の宿を頼み、老翁になぜこんな山中にいるのかと尋ねた。

せきやん
2010年11月23日12:37

すると、昔、源平の合戦で敗れた平氏の落武者であると答える。
一人は悪七兵衛景清といい、いま一人は五十嵐次郎兵衛盛嗣(もりつぐ)だと名乗った。
いずれも勇士として聞こえた者たちである。
 成政は呆れて、
 「それはもう、四百年も昔のことだ」
 というと、
 「もう、そんなに年月がたったのか」
 ふたりの老翁は驚き嘆いた。呆気にとられたのは成政である。
 「ほんとうに、景清、盛嗣ならば、天下にかく隠れなき豪勇のはず。ひとつ力のほどを見せて欲しい」
 と言葉を重ねた。
 「このように、すっかり老いて昔の力はないが…」
 老翁は答えると、吹雪の外に飛びだし、小山のような大岩を軽々と交互に持もち上げ、谷底へ投げこんだ。
 成政は、この不思議な2人の老翁から信州へ抜ける道を教わった。
それで無事に佐良越えをしたという。
 2人の老翁は教え終わるや、忽然と姿を消した。
今まであった庵もかき消え、雪の山ばかりが続いていたという。
 鹿島川が高瀬川と合流する信州大町へようやく辿りついたのは、出発してから幾日目のことであったろうか。
成政一行は、転落したり凍死したりして、わずか12人にすぎなかったという。
ついに成政は、前人未踏の冬の立山縦走に成功した。
成政を駆り立てたのは秀吉への敵意であった。
凍傷と心労でやつれた形相に、眼光だけが異様に輝いていた。
 成政は家康のもとに駆けつけ、再起をくどいた。
 「なにごとも時節でござる。時節いたらざるに動くこと、なべて身をやぶる困(もと)となりでござる」
 老獪(ろうかい)な家康に翻弄(ほんろう)され、成政は重い足を引きずり、越中へと帰るほかはなかった。

3.悲運のきっかけ、小百合
 
 この佐良峠越えにまつわって、もう一つの悲惨な伝説が残されている。
成政には早百合(さゆり)という寵愛の侍女がいた。
早百合は五福村の生まれで、容色にすぐれていた。
成政の愛を一身にあつめたため他の側女の妬みを買った。
 「一日も早く、男の子を生めよ」
 成政は早百合を抱きながら言った。
早百合は閉じたまつ毛をかすかに震わせ、瞼(まぶた)まで赤らめた。
 「おまえの愛が足りんから、子が生まれぬのだ」
 ときには、早百合をからかっていう。
早百合の閉じたままの瞼がふくれ上がり、きれ長の眦(まなじり)から涙があふれる。
 いとしい女だと成政は思う。男の愛情の中には、可愛いくてならないという感情がある。
成政はかたときも早百合を離そうとしなかった。
どこか無骨な成政は、一途に信じられるものをこの女には需(もと)めていた。
 それが、なんということだ。
生死をさまよう佐良越えの留守中、早百合は小姓岡島金一郎と密通したというのだ。
日頃の成政の早百合に対する心ぶりを嫉んだ他の女たちの讒言であった。
 「おのれ!」
 裏切られたと思った瞬間、憎しみの焔が燃えた。
 成政の怒り狂った眼に、すさまじい冬の立山の吹雪が咤嗜した。
交錯した稜線が波のように重なっていた。
 「斬れ!」
 一言、吐きすてるように言い放った。
成政にはことの真相を確かめる余裕はなかった。
決死の佐良峠越えは、家康の変節によって潰えた。
そして、早百合までも、自分を謀かったのだと思い込んだ。
成政は思い込みの激しい男であった。
主君信長の遺子信雄や家康への期待もこの思い込みから生まれた。
或いは秀吉に寄せる憎悪も、この思い込みが不運を招いたのかもしれない。
 「もし、立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡するであろう」
 といって、息絶えた。
 早百合の殺された一本榎は、今も神通川(じんつうがわ)に沿った磯部の堤にある。
桜の名所として市民から愛されている。
 女たちの讒言によって殺された早百合の怨霊は、この一本榎にとどまり、風雨の激しい夜など、女の生首をさげた鬼となってさまよったという。
 

せきやん
2010年11月23日12:39

「早百合、早百合...」
 とこの木の下を七回唱えて回ると、早百合の亡魂が現れるともいった。
明治の頃まで、実際に怪しい火の玉が磯部の堤にあらわれたとか、早百合のぶらり火とも呼ばれた。
 立山に、黒百合の花は咲いた。
昏い紫の濃い花である。

4.肥後国替えと秀吉の企み
 
 天正13年(1585年)、秀吉の大軍は佐々征伐に押し寄せた。
越中の野山に兵は満ちた。
むらがる軍勢に、早百合の生首は現れては消えた。
幻覚である。
 成政は、ついに秀吉に降代した。秀吉は何故か寛大な処置をとった。
領土を半減しただけで許したのである。
靖負(ねい)、射水(いみず)、礪波(となみ)三郡をとりあげ、新川一郡はそのままにした。
その年、作物はみのらず、大雪が降った。
  何事も変り果てたる世の中を知らでや雪の白く降るらむ
 成政が敗戦の苦しみを述懐して詩ったものであるという。
 それから2年が経った。天正15年(1587年)、成政は国替えを命ぜられ、九州肥後へ移った。
肥後の国主に任ぜられ、喜び勇んで赴いた。
 秀吉は、なぜ、腹心でもない成政を肥後の国王にしたのか。
 その頃、肥後には国人とも国侍とも呼ばれる者たちがひしめきあっていた。
土豪としてそれぞれ独立しており、秀吉の九州平定には協力した。
国人のおもな者だけで五二人いた。
 成政が国主に命ぜられて四日目、秀吉はいくつかの指令をだした。
 五十二人衆には旧来通り所領を与えること、
3年間は検地をしないこと、
一揆を起こさぬようすること等である。
 これでは、せっかく国主となっても、成政には何もする術がない。
自分の家臣に知行地を与えることさえ、3年間検地を禁止されては困難であった。成政は功をあせった。
 ついに検地を行なった。
国人衆の反抗の火の手はあがった。
一揆は起こり、農民まで参加した。肥後一円に烽火をあげた一揆は成政が入国した翌月から始まった。
そして、その年の12月、秀吉は福岡の黒田、小倉の毛利、薩摩の島津に出撃を命じ、この一揆を鏡圧した。
しかも秀吉は、この一揆に参加した国人の親族、同調老にいたるまでことごとく斬首し、一挙に旧勢力を一掃したのである。
 一揆は、秀吉にとって予知されたことにすぎなかった。
肥後の新国王に腹心ではない外様の成政を任用したのは、秀吉の巧妙な術策にあった。
国人衆も成政もそれに乗せられ、あやつられたのだった。

5.クロユリの怨念
 
 天正16年(1588年)4月、成政は摂津の尼ケ崎に呼び出され、秀吉の命を待った。
 成政が秀吉の機嫌をそこねたのは、北政所と淀との女の確執にあったという説がある。

せきやん
2010年11月23日12:41

成政は旧領越中の地侍に申しつけて、立山に咲く黒百合を早走りの飛脚でとりよせた。
青竹の筒に万年雪をつめて運ばせたのである。
それを秀吉の正妻北政所に献じたのは、秀吉との仲を取り成してもらうつもりからだった。
北政所は北国の珍しい花に喜んだ。
一輪の花を銀の花入れに活けて茶会を開き、淀を招いた。
 ところが、このことはすでに淀に洩れていた。
使者を加賀の白山に走らせ、黒百合を取り寄せた。
廊の竹筒に無造作に生け捨てにして、秀吉夫妻を迎えたのである。
 北政所は顔色を変えた。
 「なんと、このようにありふれた花を、成政は珍花というて届けてきたのか。私に恥をかかせるつもりだったのだろう」
 北政所の怒りが、ついに成政を失脚に追いこんだのだという。
 「これも先に成政が手に殺された早百合といへる女の怨念にて、今度黒百合の事より滅亡しけるやと、そぞろに怪しむ者も多かりけりとや」
と『絵本太閤記』は書き結んでいる。
 その年の閏(うるう)5月14日、秀吉は、
 「一揆の責任は、なべて成政が一身に負わねばならない。成政の政道よろしからず」
 として、切腹を命じた。
 その日、風はひとしきり烈しく吹いた。
成政の耳には、風の音に一揆のどよめきの声が重なって聞こえた。その声は、佐良峠越えの吹雪の音のようにも思えた。
山稜を登っては下るおのれの姿が重なった。
山は深く、雄勁(ゆうけい)な稜線は波動のように重たく続いていた。
 一瞬、雪炎のなかに人影が顕(た)ち現れた。
 成政は声をあげたが、言葉にはならなかった。
あらぬところにあった成政の視線が、一瞬よみがえって人影をとらえたように見えた。
ふと、成政は、厳冬の佐良越えを命を落さず決行できたのは、良かったのかどうかと思った。
 佐々成政が自害し、五十一歳の生涯を終えたのは、それから間もなくであった。
その検使として立ち会ったのは、秀吉腹心の加藤清正である。
 天正12年11月の未明に始まった立山の佐良越えから、僅か4年の後のことであった。

6.埋蔵金伝説
 
 秀吉の大軍に囲まれた佐々成政が、再挙をはかるため莫大な黄金を立山山中に隠していたという。
ついに再挙の械会は訪れず、今も埋蔵金は山中のどこかに眠っているという。
 佐良越えの伝説が葉脈となって幾筋も生まれたように、埋蔵金の伝説地も方々にある。
成政は黄金の入った49個の壷を家来に背負わせて針ノ木峠に向かわせた。
深い雪におおわれた峠は、吹雪が凍りついた岩肌に乱舞した。
家来たちはやむなく、峠の途中で石室を造り、佐々家伝来の鍬形のかぶとと共に黄金の壷を隠した。
阿部義行一人を監視に残して、方々に逃散した。
阿部義行は猟師となって佐々家再興を夢みながら、深山で朽ち果てたという。
 鍬崎山も埋蔵伝説の一地点である。
立山の美女平付近の右手にそびえている三角山である。
 いつの頃であったか、長野県の由松という男が、親方に連れられて鍬崎山に登った。
その親方は、成政の子孫で宝の隠し場所を書いた古絵図を持っていたという。
親方は壷を捜しあてたが、他言したら殺すとおどかした。やがて、親方が急死した。
由松は黄金の入った壷を捜しにいったが、以前の道筋がわからない。
 毎年毎年、鍬崎山に入りびたり、由松はついに狂死したという。
  朝日さす夕日かがやく鍬崎に、
  七つむすび七むすび、
  黄金いっぱい、光りかがやく

 鍬崎山にはこんな里謡(りよう)も伝えられている。
また、早月川の谷の伊折の対岸に宝島という所があって、覚石(おぼえいし)という巨岩がある。
成政が立山越えをしたとき、黄金を隠した目印にこの巨岩を置いていったのだそうだ。
 立山の裏に内蔵助平という盆地状の秘境がある。
こここそ埋蔵金の隠し場所だともいわれている。
 非運の英雄、佐々成政に寄せる人々の幻想が、このような埋蔵金伝説を生んだのであろうか。

「富山の伝説/日本の伝説24」
(著者/辺見じゅん、大島広志、石崎直義)(角川書店)

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