今日の誕生日の花は・・・ノカンゾウ
花ことばは・・・・苦しみからの解放
野萱草はユリ科
ギリシャ語・・ヘメロカリス・・一日の美
英語・・・・ディリリリ
中国語でカヤの草
カヤとは忘れ物
これらからの花言葉と徳田アンカーの説明を書き取ってたがよく和からない。
林翔(大正3年~2009年)長野市のひと。
5歳で上京。国学院大を経て昭和15年水原秋桜子を師とする
平成秀句選集、角川学芸出版刊
今日も干す昨日の色の唐辛子
一花だに散らざる今の時止まれ
胡桃割るこきんと故郷鍵あいて
やはらかに生き熱く生き雑煮餅
吸へるだけ吸ふ朝の息さくら満つ
打水や石への愛は日に一度
耳鳴りは宇宙の音か月冴ゆる
この若き心を映せ冬鏡
25年「馬酔木」同人
梅雨明けや深き水の香も日の匂
林翔
実に不思議な経験をした.
これは
神の啓示だ
あったこともない人なんだが
薩摩のDNAが叫んでいる
霊が彷徨っている
本を読んだ
「携帯がなくなる。パソコンは消える!」
スマートフォーンとはなにか。
一言で言いきるなら
それはパソコンである。
ネットワーク側にデーターやプログラムを
クラウドを提供する側に置く
パソコンに比べて
コンパクトでエレガントだ
何ヶ月か前に受けた授業で
講師の言葉が鮮明に蘇える
恐ろしい人である
日本一になった人。
今夜は寝袋ナイト。
鳥取県の河川敷で、星を見ながら寝まーす。
今日も1日ありがとう。おやすみなさいまし。
http://t.co/rWzjWyN
もう一つ
» SeiichiMizuno 水野誠一
NHKスペシャル。
シリーズ原発危機第二回。
チェルノブイリ後のベラルーシ政府の真剣な対応が
今の日本政府に感じられないとはっきり言い切った。
かなりの遠隔地にセシウム137を運んだ放射能雲が作り出したホットスポットの実態もわからぬままだし、
汚染の状況は深刻だ。NHKよく言った!
水野??誠一・・あの木内みどりを娶った西武の西武百貨店社長の・・水野・・なの??
学習院同窓生の鳩山由紀夫、橋本大二郎の同級生の・・
参議院議員であった水野なんだろうか・・・
自身のウェブサイト「MIZUNO’S SCAPE」では
Netscapeシリーズのロゴを模したマークをシンボルとしている水野・・
ヤクルトの転んだ転向した水野成夫の末裔さん・・
少し早きお彼岸がきているようである.
30年の仕事で何万という系図を作って
全国飛び回った.
あの職業病がムックリっ!
ここに系図がある
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm
これにそって、見ていくと
不可思議な事件の真髄が見てくる.
①樺山都議は自殺とされてる
ホントだろうか
前日まで
ブログを更新している。
最期のブログの内容は、葛飾区の空間放射線量測定結果である。
ブログ
http://blog.livedoor.jp/togikai/archives/1694470.html
2011年06月30日
葛飾区内の空間放射線量測定結果―6月30日―
葛飾区内の空間放射線量測定結果
6月30日 天気 晴れ
測定場所
水元中央公園(水元1-23-1) 0.25マイクロシーベルト/時
金町二丁目ときわ公園(金町2-16-4) 0.26マイクロシーベルト/時
金町公園(柴又3-24-1)0.21マイクロシーベルト/時
高砂北公園(高砂4-3-1)0.22マイクロシーベルト/時
※測定方法:地上1メートルの地点で、30秒毎に5回測定した値の平均
測定機器:シンチレーション式サーベイメーター(ALOKA社 TCS-171)
それにしても葛飾区の放射線量は随分と高い様だな。
年間にすると1ミリシーベルトを軽く超える数値である。
このブログを書いた人が・・・
・・・・
その翌日ビニール袋を頭にかぶり自殺するだろうかー
ええっ!
②産経新聞 7月1日(金)18時19分配信
東京都議会議員の樺山卓司氏(63)=葛飾区選出、自民=が1日未明、
同区内の自宅兼事務所で死亡していたことが、警視庁葛飾署
などへの取材で分かった。同署は、自殺の可能性が高いとみて調べている。
同署などによると、同日午前3時ごろ、樺山氏が自宅兼事務所の2階で頭にポリ袋をかぶって倒れているのを家族が発見し、
119番通報。病院に搬送されたが、死亡が確認された。
都議会事務局などによると、樺山氏は、日本大学在学中には民族派学生組織・全日本学生評議会を結成。
葛飾区議を3期務めて、平成5年に都議に初当選、5期目だった。
議会は与野党勢力拮抗
樺山氏の死去により、都議会の与野党は採決で同数となる。
この場合、議長裁決となるため、議長を出している民主党側が優位になり、自民・公明側が劣勢に立たされる。
今後、築地市場の移転問題などに影響する可能性がある。
都選挙管理委員会によると、定数4の葛飾区選挙区は1人欠員のままとなる。
③樺山ブログに、電車で携帯を使っていた若者に注意をしたという旨のエントリー
矢張り良い意味でも悪い意味でも空気の読めない真っ直ぐな人だったのだろう。
汚い組織において、真っ直ぐな人間はいつか消される運命にある。
「電車」―その不思議な空間―② 携帯編
つい先日のことである。
昼下りに小岩駅から電車に乗り込んだ。
車内は空いていて、立っている人は数える程。
乗り込んだ瞬間に異様な光景が目に飛び込んで来た。
いかにも、と思われる風体の女子高生が、かなりの音声で携帯で通話中。
近頃では珍しい光景である。
しかも定位置での通話ではなく、車両内をウロウロと行ったり来たりの、つまり車両中の人々に“平等”に迷惑が及ぶ様な違法行為を平然と続けている。
次の駅で降りるかも、と我慢をしていた私も、降りずに、
しかも更に大声で、時にはゲラゲラと笑いながら通話を続ける女子高生に遂にキレた。
キレたと言っても私もいい年をした大人である。
いきなり怒鳴ったりはせず、とりあえずジェスチャーで、車内での通話は出来ない旨のシグナルを、相手の目を見てしっかりと送った。
そして彼女も私のサインをチラッとではあるが確かに見た。
しかし無視、全くの無視である。
次の平井駅でも降りずに、逆に私の注意にことさら挑戦する様に、ひたすら車内を動き回り、声はいちだんと大きく、まさに「挑発」の開始である。
亀戸駅の手前で私は彼女に近づいた。
そしておもむろに携帯を取り上げた。
不思議なことに女子高生は何も言わずにそれに従い、30秒程注意を与えて携帯を返した。
返したとたん、驚くべき事態が勃発した。
また始めたのである。曰く「今さぁー、変なオヤジが、ケータイを止めろってウッセーンだょー。信じらんネェー!」
亀戸駅でドアが開いて女子高生は脱兎の如く飛び出した。
「くそじじぃー!」との声が遠くから聞こえた。
嗚呼!世も末である。
④かなり深くアチコチに絡んでいる
事件の陰には女とカネ
東京ゆえ手探りー
ただ構図は手法から手口で探れるわけで。
鳥インフルやこうてい疫病は現地宮崎ゆえ飛び回って
そのまんまの寿司屋の娘を探りきる。
国家賠償金多額受領の創価企業安寓楽川南牧場も。
まぁ第一号と疑われ結論づけの都農町黒木牧場
ここは観光牧場とされてるがとてもではない。
山間の一軒家で誰が行き着くという
迷子になろう
韓国に責任おっつけテ逃げ切った
そのマンマは上手いもんだ.
今ごろは信濃町詣でなんだろう
・文鮮明の統一教会=創価にも係わり合い
・石原慎太郎の東京銀行
・石原慎太郎築地市場
・反原発
http://plaza.rakuten.co.jp/godlove/diary/200606280000/
こりゃぁ狙われるわー
御霊の霊を安らかに
として
4日丁度0時作業をはじめ
奉げることとした。
ところで、樺山卓司都議議員ー
薩摩藩士の樺山資紀海軍大将の曾孫??。
????
こりゃぁ薩摩のDNAが騒ぐー
⑤http://livedoor.2.blogimg.jp/fowy/imgs/8/d/8d472007.jpg
台北との交流促進で多くの成果
(略)
今回の訪問は台北駐日経済文化代表処(駐日代表処)の招待で実現したもの
、都議会自民日台議連会長の樺山卓司氏を団長に、自民六名、民主十八名の二十四名の都議が参加。
「台北の松山空港の税関をでると、台北市幹部らが待ち受けて大歓迎され、びっくりしました。」
と樺山団長。
樺山氏は曽祖父の樺山資紀氏(海軍大将)が台北の初代総督を務めたこともあり、
これまでも友好親善に尽力してきたところで、台湾要人の知人も多い。
自民党という右派勢力に足を突っ込んでいたにも関わらず、「反原発」を唱えるという正に自殺行為
ブログにおける最期のエントリ、「葛飾区内の空間放射線量測定結果―6月30日―」も然りである。
⑥更に日本原水爆被害者団体協議会にも運動に突っ込んでいる。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-09/2008110915_02_0.html
2008年11月9日(日)「しんぶん赤旗」
東京の被爆者団体が50周年
「再び被爆者つくるな」今後も
(略)
東友会の五十年間の運動をつづったビデオを上映。
日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長、東京都の住友真佐美保健政策部長
、樺山卓司都議、
広島市の大森寛・東京事務所長、長崎市の神近宣博・東京事務所長があいさつしました。
⑥-2そして薩長勢力の一員として御多分に漏れず、統一教会にも関わっていた様である。
http://plaza.rakuten.co.jp/godlove/diary/20060628000
・・・
・・・三木俊治・元徳島市長
樺山卓司・東京都議会議員(自民)
今野隆吉・宮城県議会議員(自民)
今井榮喜・山形県議会議員(自民)
金一萬・韓国総領事
酒井麻雄・神奈川県日華親善協会会長
⑦参議院第二別館というところ
麹町区永田町一丁目十七番地
現在の永田町一丁目11・参議院第二別館付近になろうか。
ここには鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの手になる邸宅があった。
樺山資紀伯爵の邸宅である
このあたりの事情は『白洲正子自伝』に詳しく載っている
これによれば・・・
○「その家は1930年頃の大恐慌の際に、串田孫一さんの父上の萬蔵氏におゆずりした・・・」
○「戦争のはじまった頃、吉田茂氏の所有となり、ここで憲兵隊に踏み込まれたりして、苦難な時代をすごされたようである」
この邸宅が樺山邸→串田邸→吉田邸と移り変わったことがわかる。
ちなみに、正子の夫白洲次郎は、昨年NHKでテレビドラマ化された
戦後吉田茂総理の懐刀として活躍はよく知られているところ。
⑧-1海軍大将樺山資紀
wikiにこうアル。
樺山資紀は
薩英戦争・戊辰戦争に従軍した後、西南戦争では熊本鎮台参謀長として熊本城を死守
警視総監兼陸軍少将に昇進し、
さらに海軍に転じて明治19年に海軍次官となる。
第1次山縣内閣、第1次松方内閣で海軍大臣を歴任。
第2回帝国議会において、海相として
“日本の今日あるは薩長内閣のため”
という「蛮勇演説」を行い物議をかもした。
詳しくはこうである.
政府提出の軍艦建造案が
「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」
と否決されると激昂、
「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。
薩長藩閥政府の正当性と民党の主張する「経費節減」「民力休養」を批判する趣旨の発言=いわゆる「蛮勇演説」を行う。
民党の反発により議場は騒然となり、予算は不成立
日清戦争直前に海軍軍令部長に就任、
明治28年海軍大将に進級。
初代台湾総督に就任。
その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任した。
家庭では、長男の樺山愛輔(貴族院議員、日米協会会長、伯爵)の娘・正子(後の評論家の白洲正子)を溺愛する、好々爺。
⑨寺田屋騒動
寺田屋といえば伏見で現存し今も使用されてる旅籠
最も焼けてるので当時の建物の真贋論争も数年前に新聞を沸かせ決着済みだが
現地の刀傷跡などのロマンを壊すのでいづれ。
寺田屋事件は
歴史好きならづとも
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件をあげられよう.
実はもう一つアル。
爺目には薩摩のDNAでコチラが大事ー
薩摩人同士の襲撃の悲惨さ
文久2年(1862年)4月23日(1862年5月21日)に発生した薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件。
久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線
薩摩藩の過激倒幕派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、聖子ちゃんとこの久留米の水天宮の宮司真木和泉・福岡の田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定
、伏見の薩摩藩の定宿の船宿寺田屋に集った。
久光の命の大久保一蔵等の説得は失敗、つわものの鎮撫士がつかわさる。
大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。
さらに上床源助が志願して加わり計9名
有馬新七に藩邸に同行するように求めたが有馬はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあい
有馬ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、
2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷、のちに2名は切腹
討手側は1人の負傷(道島五郎兵衛)
2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいた
大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果
、残りの尊王派志士たちは投降。
尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。
引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。
その遺骸は日向の浜に漂着、墓標が立てられ勤皇の志士として手厚く地元民で今も祭られている.
日向における隠れた幕末維新史。
ただ船で移送中に斬った柴山矢吉は後に発狂してる。
鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。
一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職。
西郷隆盛が藩主久光とそりが会わなかった理由はこの事件にアル。
朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、
久光は公武合体政策の実現の文久の改革のため江戸へ登城。
この事件が発生する前の4月16日(5月14日)
、久光は近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出、
朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていた。
よって薩摩藩の内輪もめという説は疑わしいー
ところで伏見区の大黒寺に眠る犠牲者橋口 伝蔵(天保2年(1831年) - 文久2年4月23日(1862年5月21日))は
藩士橋口兼器の次男で名は兼備。
⑧ー2
惨殺された橋口 伝蔵
この弟が樺山資紀(天保8年11月2日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)栄典は海軍大将従一位大勲位功二級伯爵でアル。
加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)の三男に生まれ幼名覚之進。
のちに薩摩藩士、樺山四郎左衛門の養子となる。
三年がかりのNHKドラマの坂之上の雲の逸話が漏れてること。
日清戦争中、「西京丸」に乗艦したのは連合艦隊の伊東祐亨司令長官が慎重な性格であることを案じて督戦に行ったとされる
商船を改造した急ごしらえの艦船のため他の艦船より取り残され、
清の艦隊に狙い撃ちをされそうになった時、敵の旗艦へ突込み敵僚船が砲撃し難いようにし反転して逃げ切ったいわゆる「前退戦法」。
晩年に脳溢血で倒れ1週間意識が無くなった。
高齢でもあり、半ば諦めて皆が葬式の準備を始めたところ、
むっくりと布団から身を起こしたという。
この後遺症で右半身に少し麻痺が残ったが、脳溢血が軽度であったためリハビリもせず快復した。
妻 とも(山本十太郎の三女)
長男 樺山愛輔(貴族院議員、日米協会会長、旧伯爵)
孫 白洲正子(樺山愛輔の二女)
⑧ー3樺山愛輔は1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。
1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。
実業界に入り、函館どつくや日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。
1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵。
1925年に貴族院議員
1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。
太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事。
20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。
家族
妻常子は、伯爵川村純義の娘。
長女泰子は、男爵近藤廉平の二男廉治の妻。
次女正子は、白洲次郎の妻。
⑧ー4初代太平洋艦隊伊東祐亨司令長官
ちなみに最後の太平洋艦隊小沢治三郎司令長官は
日向高鍋の人。現小沢町長の祖父。
日向で始まり日向で終わった日本海軍。
薩摩藩士伊東祐典の四男清水馬場町に生まれる。
飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出で伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫。
開成所にて世界でも有数の海軍力を擁してたイギリスの学問を学んだ。
江川英龍のもとでは砲術、
勝海舟の神戸海軍操練所では航海術を学ぶ
塾頭坂本龍馬、陸奥宗光ら同窓生。
薩英戦争に従軍。
鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出、
戊辰戦争では旧幕府海軍との戦い。
明治27年(1894年)の日清戦争では7月18日に連合艦隊司令長官。
このときの逸話.
日本の連合艦隊VS清国北洋水師=中国北洋艦隊
黄海上で明治27年(1894年)9月17日12時50分より行われた黄海海戦
戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破
黄海の制海権を確保した
日本側の旗艦「松島」の4217t
VS
清国側の旗艦「定遠」は7220t
清国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色もあり、
明治28年(1895年)2月13日に威海衛で北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏。
丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げた。
伊東は没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、
丁汝昌の遺体を送らせ、世界をその礼節で驚嘆せしめた。
戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めた。
明治31年(1898年)に海軍大将。
日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥。
政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした。
明治40年(1907年)には伯爵。
従一位功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与される。
大正3年(1914年)、72歳で死去。
新設 連合艦隊司令長官 初代:1894 - 1895
第7代:海軍軍令部長1895 - 1905
先代:海軍軍令部長は樺山資紀
次代: 東郷平八郎
⑧ー5近藤 廉平は、日本の男爵。徳島藩士、日本郵船会社社長、貴族院男爵議員。
廉平・従子夫妻の長女・栄は大久保利通の三男大久保利武侯爵の妻、
三女・貴子は謙信から数えたら15代目当主旧米沢藩主上杉家14代目当主上杉憲章伯爵の後妻次男・廉治は樺山愛輔の長女・泰子と結婚、ゆえに白洲次郎・正子夫妻とも縁続き。
故に近藤家は豊川家を通じて三菱財閥の創業者一族・岩崎家と姻戚関係、
樺山家を通じて白洲家とも姻戚関係。
ところで不良華族事件という
1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件がアル。
歌人の伯爵吉井勇の妻、徳子(柳原義光の次女・柳原白蓮の姪)は、溜池などのダンスホールを舞台に
近藤廉平男爵の次男の近藤廉治と「自由恋愛」を享楽
廉治の妻近藤泰子(白洲正子の姉)はダンス教師と恋仲となり、有閑マダムにダンス教師の紹介、
男性交換など、反社会的な乱倫な行為が華族社会を震撼させた。
さらに花札賭博、麻雀賭博についても摘発。
このとき検挙、召喚されたのは里見弴(46)、
文藝春秋専務の佐々木茂索夫妻、久米正雄(43)、
川口松太郎(35)など15名。
その事件の結果、徳子は「華族の礼遇を停止」
、近藤夫妻は「華族の族称を除く」処分。
⑧ー6川村純義は海軍大将
安政2年(1855年)に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ、薩摩藩より選抜されて入所。
妻が西郷隆盛の母方の従妹
慶応4年(1868年)1月にはじまった戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争に奮戦。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に。
純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し、結局久治は憂死。
西南戦争では県令・大山綱良と会談、制止に努め不首尾に終わり帰京。
開戦すると山縣有朋とともに総司令官として海軍を率いた。
、参議・海軍卿に就任、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
明治天皇からの信任が篤く、皇孫=昭和天皇の養育係り。
⑧ー7西竹一=バロン西は華族男爵。
最終階級は陸軍大佐。
1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。
1930年(昭和5年)3月、欧米出張中イタリアで愛馬ウラヌスに出会う。
軍から予算が下りず、当時の価格で2,000円自費購入。
1915年(大正4年)4月、
外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中=現・日比谷高校に入学、
同期には小林秀雄、最後の秘書官長迫水久常らがいた。
帝国陸軍の騎兵将校として騎兵畑転じて、のちには機甲兵に転科し戦車第26連隊の連隊長
第二次世界大戦に従軍、
黄島守備隊として小笠原兵団・第109師団。
栗林中将は小笠原兵団長兼第109師団長
直轄の戦車第26連隊の指揮をとる
米軍の投降呼びかけ
「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」
に応じず硫黄島の戦いで戦死。
東海岸には西大佐戦死の碑がアル。
『硫黄島からの手紙』イーストウッド監督でも描かれた、
負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品で出来るだけの手当てをしたというエピソードも
証言として大野芳などの著作にアル。
戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。
西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)
1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、
現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
『硫黄島に死す』 城山三郎
『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 大野芳、文藝春秋、1984年
「硫黄島 栗林中将 衝撃の最期」 梯久美子、
父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物。
義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされ
シナ茶の専売権を与えられ巨万の富を手にした。
妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、
父は伯爵・川村鉄太郎
武子の長姉・艶子は第二次大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走した阪本瑞男に嫁いだ。
⑧ー8阪本瑞男は外交官。
妻は、伯爵・川村鉄太郎の長女・艶子。
川村の三女が「バロン西」こと西竹一の妻・武子
西竹一とは義理の兄弟。
東大高文外交科合格。
外務省同期に鹿島守之助、加瀬俊一など。
国際連盟帝国事務局歴任、
1929年、ロンドン軍縮会議随員、
1937年、在米国大使館一等書記官。
在イタリア大使館参事官を経て、
1942年8月、駐スイス公使就任。
11月、ベルンに着任、
中立国であるスイスからドイツ形勢悪しを本国に打電し
終戦工作に奔走。
しかし、駐ドイツ大使には大島浩がおり、
ドイツ優位の情報を本国に流したため、阪本の工作が実を結ぶことはなかった。
1944年7月に任地・スイスで死去。
⑧ー9白洲 正子(1910年(明治43年)1月7日 - 1998年(平成10年)12月26日)は随筆家。
父樺山愛輔と母・常子の次女
祖父は樺山資紀海軍大将、伯爵、
母方の祖父に川村純義海軍大将、伯爵。
姉に近藤泰子、
夫は白洲次郎。
長男は白洲春正、次男は白洲兼正、長女は牧山桂子。
多くの関連著作を出している白洲信哉(プロデューサーほか)は孫の一人
兼正と小林秀雄の娘明子の子である。
町田市能ヶ谷の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。
鶴川村へ転居。
1947年(昭和22年) - 華族令廃止。
1964年(昭和39年) - 随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。
1972年(昭和47年) - 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞。
1998年(平成9年) - 肺炎のため、入院先の都内の病院で死去。88歳没。
薩摩志士で伯爵樺山家に生まれた自らの性質や、
その出自を生涯を通じ強く意識
その事で夫次郎と口論となり張り手をしたこともあった。
幼少期より梅若流の能の舞台にあがり、能に造詣が深く、
青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し
、日本の美についての随筆を多く著す。
梅原龍三郎や、晩年は護立の孫で元総理の細川護熙、
河合隼雄や多田富雄などの理系学者との交友。
名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者渡辺保も参加。
墓所は夫次郎と共に兵庫県三田市の心月院
⑧ー10
仰々しく勲章を胸に、しかもいかめしい顔をした軍人は、旧名を『橋口覚之進』
作家・津本陽の「祇園石段下の決闘」ならびに「薩南示現流」は幕末京都の騒乱を背景にかれの異聞に触れています。
・・・橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、焼香の時が来ても棺の蓋を覆わず、指宿藤次郎の死顔を灯明のもとにさらしていた。
彼は参列した藩士のうちから前田某を呼び告げる。
「おはんが一番焼香じゃ。さきい拝め」
ただならぬ気配に、顔色青ざめた前田はおそるおそる進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。
その時、橋口は腰刀をぬき、
一刀のもとに(前田の)首を斬った。
首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。
「こいでよか。蓋をせい」・・・
薩摩郷中では「惰弱」に流れることはもっとも恥ずべき行為とされていました。
前田某は見廻組8人に切りかかられると指宿藤次郎を見殺しにして逃走したのです。
その掟に反した前田某を橋口は処分しました。
おどろおどろしい話ですがこの時代には暗黙の了解があったようです。
この橋口覚之進こそ、後に海軍大将、台湾総督を歴任する『樺山資紀』。
もう少し樺山資紀のこと。
「四、五十人の、いかにも薩摩隼人らしい精悍な容貌の男子が居ならぶ最前列に、洋服姿の肥大漢が泰然と正座している。
附記を見ると、樺山資紀である。
その顔面神経が鈍麻したかのような、東洋豪傑風の面がまえに、感じいった。
眼つきの暗鬱なきびしさは、他の男たちとは異質なものであった。
文久二年(1862)四月、寺田屋で本藩鎮撫使の手によって殺害された兄の橋口伝蔵も、このような粛殺の気配をただよわす風貌であったのだろうかと、私は思いをはせた」
津本陽「薩南示現流・寺田屋の散華
写真の膝に乗ったお嬢さんはその孫の『白洲正子』。
正子にも1/4は樺山の血が流れているわけですから、幾分かの激しい気性を継承しているのでしょう。
後に白洲次郎氏と結婚してからの話ですが、夕食の席で鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、日清戦争の話をしているとき、次郎氏は「薩長の奴らは東京で散々乱暴を働いた。
おまえさんのお祖父さんだって同じだろう」
と言い放った。
この話はある程度わかります。
さて正子さんはどうしたか?
カッとして言い返そうとした瞬間ことばより先に、その横っ面をひっぱたいていました。
それ以来夫婦喧嘩がなくなったといっていますが・・・
いまでも・・・・薩摩の女子は怖い?
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm
東京都議会議員の樺山卓司氏
霊よ
おやすらかに
薩摩のDNAには
静かに去る風習はあれど、自裁はないー
九州ブログ 宮崎参加!
よろしくお願いいたします。
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http://localkyushu.blogmura.com/miyazaki_town/
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花ことばは・・・・苦しみからの解放
野萱草はユリ科
ギリシャ語・・ヘメロカリス・・一日の美
英語・・・・ディリリリ
中国語でカヤの草
カヤとは忘れ物
これらからの花言葉と徳田アンカーの説明を書き取ってたがよく和からない。
林翔(大正3年~2009年)長野市のひと。
5歳で上京。国学院大を経て昭和15年水原秋桜子を師とする
平成秀句選集、角川学芸出版刊
今日も干す昨日の色の唐辛子
一花だに散らざる今の時止まれ
胡桃割るこきんと故郷鍵あいて
やはらかに生き熱く生き雑煮餅
吸へるだけ吸ふ朝の息さくら満つ
打水や石への愛は日に一度
耳鳴りは宇宙の音か月冴ゆる
この若き心を映せ冬鏡
25年「馬酔木」同人
梅雨明けや深き水の香も日の匂
林翔
実に不思議な経験をした.
これは
神の啓示だ
あったこともない人なんだが
薩摩のDNAが叫んでいる
霊が彷徨っている
本を読んだ
「携帯がなくなる。パソコンは消える!」
スマートフォーンとはなにか。
一言で言いきるなら
それはパソコンである。
ネットワーク側にデーターやプログラムを
クラウドを提供する側に置く
パソコンに比べて
コンパクトでエレガントだ
何ヶ月か前に受けた授業で
講師の言葉が鮮明に蘇える
恐ろしい人である
日本一になった人。
今夜は寝袋ナイト。
鳥取県の河川敷で、星を見ながら寝まーす。
今日も1日ありがとう。おやすみなさいまし。
http://t.co/rWzjWyN
もう一つ
» SeiichiMizuno 水野誠一
NHKスペシャル。
シリーズ原発危機第二回。
チェルノブイリ後のベラルーシ政府の真剣な対応が
今の日本政府に感じられないとはっきり言い切った。
かなりの遠隔地にセシウム137を運んだ放射能雲が作り出したホットスポットの実態もわからぬままだし、
汚染の状況は深刻だ。NHKよく言った!
水野??誠一・・あの木内みどりを娶った西武の西武百貨店社長の・・水野・・なの??
学習院同窓生の鳩山由紀夫、橋本大二郎の同級生の・・
参議院議員であった水野なんだろうか・・・
自身のウェブサイト「MIZUNO’S SCAPE」では
Netscapeシリーズのロゴを模したマークをシンボルとしている水野・・
ヤクルトの転んだ転向した水野成夫の末裔さん・・
少し早きお彼岸がきているようである.
30年の仕事で何万という系図を作って
全国飛び回った.
あの職業病がムックリっ!
ここに系図がある
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm
これにそって、見ていくと
不可思議な事件の真髄が見てくる.
①樺山都議は自殺とされてる
ホントだろうか
前日まで
ブログを更新している。
最期のブログの内容は、葛飾区の空間放射線量測定結果である。
ブログ
http://blog.livedoor.jp/togikai/archives/1694470.html
2011年06月30日
葛飾区内の空間放射線量測定結果―6月30日―
葛飾区内の空間放射線量測定結果
6月30日 天気 晴れ
測定場所
水元中央公園(水元1-23-1) 0.25マイクロシーベルト/時
金町二丁目ときわ公園(金町2-16-4) 0.26マイクロシーベルト/時
金町公園(柴又3-24-1)0.21マイクロシーベルト/時
高砂北公園(高砂4-3-1)0.22マイクロシーベルト/時
※測定方法:地上1メートルの地点で、30秒毎に5回測定した値の平均
測定機器:シンチレーション式サーベイメーター(ALOKA社 TCS-171)
それにしても葛飾区の放射線量は随分と高い様だな。
年間にすると1ミリシーベルトを軽く超える数値である。
このブログを書いた人が・・・
・・・・
その翌日ビニール袋を頭にかぶり自殺するだろうかー
ええっ!
②産経新聞 7月1日(金)18時19分配信
東京都議会議員の樺山卓司氏(63)=葛飾区選出、自民=が1日未明、
同区内の自宅兼事務所で死亡していたことが、警視庁葛飾署
などへの取材で分かった。同署は、自殺の可能性が高いとみて調べている。
同署などによると、同日午前3時ごろ、樺山氏が自宅兼事務所の2階で頭にポリ袋をかぶって倒れているのを家族が発見し、
119番通報。病院に搬送されたが、死亡が確認された。
都議会事務局などによると、樺山氏は、日本大学在学中には民族派学生組織・全日本学生評議会を結成。
葛飾区議を3期務めて、平成5年に都議に初当選、5期目だった。
議会は与野党勢力拮抗
樺山氏の死去により、都議会の与野党は採決で同数となる。
この場合、議長裁決となるため、議長を出している民主党側が優位になり、自民・公明側が劣勢に立たされる。
今後、築地市場の移転問題などに影響する可能性がある。
都選挙管理委員会によると、定数4の葛飾区選挙区は1人欠員のままとなる。
③樺山ブログに、電車で携帯を使っていた若者に注意をしたという旨のエントリー
矢張り良い意味でも悪い意味でも空気の読めない真っ直ぐな人だったのだろう。
汚い組織において、真っ直ぐな人間はいつか消される運命にある。
「電車」―その不思議な空間―② 携帯編
つい先日のことである。
昼下りに小岩駅から電車に乗り込んだ。
車内は空いていて、立っている人は数える程。
乗り込んだ瞬間に異様な光景が目に飛び込んで来た。
いかにも、と思われる風体の女子高生が、かなりの音声で携帯で通話中。
近頃では珍しい光景である。
しかも定位置での通話ではなく、車両内をウロウロと行ったり来たりの、つまり車両中の人々に“平等”に迷惑が及ぶ様な違法行為を平然と続けている。
次の駅で降りるかも、と我慢をしていた私も、降りずに、
しかも更に大声で、時にはゲラゲラと笑いながら通話を続ける女子高生に遂にキレた。
キレたと言っても私もいい年をした大人である。
いきなり怒鳴ったりはせず、とりあえずジェスチャーで、車内での通話は出来ない旨のシグナルを、相手の目を見てしっかりと送った。
そして彼女も私のサインをチラッとではあるが確かに見た。
しかし無視、全くの無視である。
次の平井駅でも降りずに、逆に私の注意にことさら挑戦する様に、ひたすら車内を動き回り、声はいちだんと大きく、まさに「挑発」の開始である。
亀戸駅の手前で私は彼女に近づいた。
そしておもむろに携帯を取り上げた。
不思議なことに女子高生は何も言わずにそれに従い、30秒程注意を与えて携帯を返した。
返したとたん、驚くべき事態が勃発した。
また始めたのである。曰く「今さぁー、変なオヤジが、ケータイを止めろってウッセーンだょー。信じらんネェー!」
亀戸駅でドアが開いて女子高生は脱兎の如く飛び出した。
「くそじじぃー!」との声が遠くから聞こえた。
嗚呼!世も末である。
④かなり深くアチコチに絡んでいる
事件の陰には女とカネ
東京ゆえ手探りー
ただ構図は手法から手口で探れるわけで。
鳥インフルやこうてい疫病は現地宮崎ゆえ飛び回って
そのまんまの寿司屋の娘を探りきる。
国家賠償金多額受領の創価企業安寓楽川南牧場も。
まぁ第一号と疑われ結論づけの都農町黒木牧場
ここは観光牧場とされてるがとてもではない。
山間の一軒家で誰が行き着くという
迷子になろう
韓国に責任おっつけテ逃げ切った
そのマンマは上手いもんだ.
今ごろは信濃町詣でなんだろう
・文鮮明の統一教会=創価にも係わり合い
・石原慎太郎の東京銀行
・石原慎太郎築地市場
・反原発
http://plaza.rakuten.co.jp/godlove/diary/200606280000/
こりゃぁ狙われるわー
御霊の霊を安らかに
として
4日丁度0時作業をはじめ
奉げることとした。
ところで、樺山卓司都議議員ー
薩摩藩士の樺山資紀海軍大将の曾孫??。
????
こりゃぁ薩摩のDNAが騒ぐー
⑤http://livedoor.2.blogimg.jp/fowy/imgs/8/d/8d472007.jpg
台北との交流促進で多くの成果
(略)
今回の訪問は台北駐日経済文化代表処(駐日代表処)の招待で実現したもの
、都議会自民日台議連会長の樺山卓司氏を団長に、自民六名、民主十八名の二十四名の都議が参加。
「台北の松山空港の税関をでると、台北市幹部らが待ち受けて大歓迎され、びっくりしました。」
と樺山団長。
樺山氏は曽祖父の樺山資紀氏(海軍大将)が台北の初代総督を務めたこともあり、
これまでも友好親善に尽力してきたところで、台湾要人の知人も多い。
自民党という右派勢力に足を突っ込んでいたにも関わらず、「反原発」を唱えるという正に自殺行為
ブログにおける最期のエントリ、「葛飾区内の空間放射線量測定結果―6月30日―」も然りである。
⑥更に日本原水爆被害者団体協議会にも運動に突っ込んでいる。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-09/2008110915_02_0.html
2008年11月9日(日)「しんぶん赤旗」
東京の被爆者団体が50周年
「再び被爆者つくるな」今後も
(略)
東友会の五十年間の運動をつづったビデオを上映。
日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長、東京都の住友真佐美保健政策部長
、樺山卓司都議、
広島市の大森寛・東京事務所長、長崎市の神近宣博・東京事務所長があいさつしました。
⑥-2そして薩長勢力の一員として御多分に漏れず、統一教会にも関わっていた様である。
http://plaza.rakuten.co.jp/godlove/diary/20060628000
・・・
・・・三木俊治・元徳島市長
樺山卓司・東京都議会議員(自民)
今野隆吉・宮城県議会議員(自民)
今井榮喜・山形県議会議員(自民)
金一萬・韓国総領事
酒井麻雄・神奈川県日華親善協会会長
⑦参議院第二別館というところ
麹町区永田町一丁目十七番地
現在の永田町一丁目11・参議院第二別館付近になろうか。
ここには鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの手になる邸宅があった。
樺山資紀伯爵の邸宅である
このあたりの事情は『白洲正子自伝』に詳しく載っている
これによれば・・・
○「その家は1930年頃の大恐慌の際に、串田孫一さんの父上の萬蔵氏におゆずりした・・・」
○「戦争のはじまった頃、吉田茂氏の所有となり、ここで憲兵隊に踏み込まれたりして、苦難な時代をすごされたようである」
この邸宅が樺山邸→串田邸→吉田邸と移り変わったことがわかる。
ちなみに、正子の夫白洲次郎は、昨年NHKでテレビドラマ化された
戦後吉田茂総理の懐刀として活躍はよく知られているところ。
⑧-1海軍大将樺山資紀
wikiにこうアル。
樺山資紀は
薩英戦争・戊辰戦争に従軍した後、西南戦争では熊本鎮台参謀長として熊本城を死守
警視総監兼陸軍少将に昇進し、
さらに海軍に転じて明治19年に海軍次官となる。
第1次山縣内閣、第1次松方内閣で海軍大臣を歴任。
第2回帝国議会において、海相として
“日本の今日あるは薩長内閣のため”
という「蛮勇演説」を行い物議をかもした。
詳しくはこうである.
政府提出の軍艦建造案が
「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」
と否決されると激昂、
「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。
薩長藩閥政府の正当性と民党の主張する「経費節減」「民力休養」を批判する趣旨の発言=いわゆる「蛮勇演説」を行う。
民党の反発により議場は騒然となり、予算は不成立
日清戦争直前に海軍軍令部長に就任、
明治28年海軍大将に進級。
初代台湾総督に就任。
その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任した。
家庭では、長男の樺山愛輔(貴族院議員、日米協会会長、伯爵)の娘・正子(後の評論家の白洲正子)を溺愛する、好々爺。
⑨寺田屋騒動
寺田屋といえば伏見で現存し今も使用されてる旅籠
最も焼けてるので当時の建物の真贋論争も数年前に新聞を沸かせ決着済みだが
現地の刀傷跡などのロマンを壊すのでいづれ。
寺田屋事件は
歴史好きならづとも
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件をあげられよう.
実はもう一つアル。
爺目には薩摩のDNAでコチラが大事ー
薩摩人同士の襲撃の悲惨さ
文久2年(1862年)4月23日(1862年5月21日)に発生した薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件。
久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線
薩摩藩の過激倒幕派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、聖子ちゃんとこの久留米の水天宮の宮司真木和泉・福岡の田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定
、伏見の薩摩藩の定宿の船宿寺田屋に集った。
久光の命の大久保一蔵等の説得は失敗、つわものの鎮撫士がつかわさる。
大山綱良・奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。
さらに上床源助が志願して加わり計9名
有馬新七に藩邸に同行するように求めたが有馬はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあい
有馬ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、
2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷、のちに2名は切腹
討手側は1人の負傷(道島五郎兵衛)
2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいた
大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果
、残りの尊王派志士たちは投降。
尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。
引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。
その遺骸は日向の浜に漂着、墓標が立てられ勤皇の志士として手厚く地元民で今も祭られている.
日向における隠れた幕末維新史。
ただ船で移送中に斬った柴山矢吉は後に発狂してる。
鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。
一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職。
西郷隆盛が藩主久光とそりが会わなかった理由はこの事件にアル。
朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、
久光は公武合体政策の実現の文久の改革のため江戸へ登城。
この事件が発生する前の4月16日(5月14日)
、久光は近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出、
朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていた。
よって薩摩藩の内輪もめという説は疑わしいー
ところで伏見区の大黒寺に眠る犠牲者橋口 伝蔵(天保2年(1831年) - 文久2年4月23日(1862年5月21日))は
藩士橋口兼器の次男で名は兼備。
⑧ー2
惨殺された橋口 伝蔵
この弟が樺山資紀(天保8年11月2日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)栄典は海軍大将従一位大勲位功二級伯爵でアル。
加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)の三男に生まれ幼名覚之進。
のちに薩摩藩士、樺山四郎左衛門の養子となる。
三年がかりのNHKドラマの坂之上の雲の逸話が漏れてること。
日清戦争中、「西京丸」に乗艦したのは連合艦隊の伊東祐亨司令長官が慎重な性格であることを案じて督戦に行ったとされる
商船を改造した急ごしらえの艦船のため他の艦船より取り残され、
清の艦隊に狙い撃ちをされそうになった時、敵の旗艦へ突込み敵僚船が砲撃し難いようにし反転して逃げ切ったいわゆる「前退戦法」。
晩年に脳溢血で倒れ1週間意識が無くなった。
高齢でもあり、半ば諦めて皆が葬式の準備を始めたところ、
むっくりと布団から身を起こしたという。
この後遺症で右半身に少し麻痺が残ったが、脳溢血が軽度であったためリハビリもせず快復した。
妻 とも(山本十太郎の三女)
長男 樺山愛輔(貴族院議員、日米協会会長、旧伯爵)
孫 白洲正子(樺山愛輔の二女)
⑧ー3樺山愛輔は1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。
1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。
実業界に入り、函館どつくや日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。
1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵。
1925年に貴族院議員
1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。
太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事。
20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。
家族
妻常子は、伯爵川村純義の娘。
長女泰子は、男爵近藤廉平の二男廉治の妻。
次女正子は、白洲次郎の妻。
⑧ー4初代太平洋艦隊伊東祐亨司令長官
ちなみに最後の太平洋艦隊小沢治三郎司令長官は
日向高鍋の人。現小沢町長の祖父。
日向で始まり日向で終わった日本海軍。
薩摩藩士伊東祐典の四男清水馬場町に生まれる。
飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出で伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫。
開成所にて世界でも有数の海軍力を擁してたイギリスの学問を学んだ。
江川英龍のもとでは砲術、
勝海舟の神戸海軍操練所では航海術を学ぶ
塾頭坂本龍馬、陸奥宗光ら同窓生。
薩英戦争に従軍。
鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出、
戊辰戦争では旧幕府海軍との戦い。
明治27年(1894年)の日清戦争では7月18日に連合艦隊司令長官。
このときの逸話.
日本の連合艦隊VS清国北洋水師=中国北洋艦隊
黄海上で明治27年(1894年)9月17日12時50分より行われた黄海海戦
戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破
黄海の制海権を確保した
日本側の旗艦「松島」の4217t
VS
清国側の旗艦「定遠」は7220t
清国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色もあり、
明治28年(1895年)2月13日に威海衛で北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏。
丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げた。
伊東は没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、
丁汝昌の遺体を送らせ、世界をその礼節で驚嘆せしめた。
戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めた。
明治31年(1898年)に海軍大将。
日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥。
政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした。
明治40年(1907年)には伯爵。
従一位功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与される。
大正3年(1914年)、72歳で死去。
新設 連合艦隊司令長官 初代:1894 - 1895
第7代:海軍軍令部長1895 - 1905
先代:海軍軍令部長は樺山資紀
次代: 東郷平八郎
⑧ー5近藤 廉平は、日本の男爵。徳島藩士、日本郵船会社社長、貴族院男爵議員。
廉平・従子夫妻の長女・栄は大久保利通の三男大久保利武侯爵の妻、
三女・貴子は謙信から数えたら15代目当主旧米沢藩主上杉家14代目当主上杉憲章伯爵の後妻次男・廉治は樺山愛輔の長女・泰子と結婚、ゆえに白洲次郎・正子夫妻とも縁続き。
故に近藤家は豊川家を通じて三菱財閥の創業者一族・岩崎家と姻戚関係、
樺山家を通じて白洲家とも姻戚関係。
ところで不良華族事件という
1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件がアル。
歌人の伯爵吉井勇の妻、徳子(柳原義光の次女・柳原白蓮の姪)は、溜池などのダンスホールを舞台に
近藤廉平男爵の次男の近藤廉治と「自由恋愛」を享楽
廉治の妻近藤泰子(白洲正子の姉)はダンス教師と恋仲となり、有閑マダムにダンス教師の紹介、
男性交換など、反社会的な乱倫な行為が華族社会を震撼させた。
さらに花札賭博、麻雀賭博についても摘発。
このとき検挙、召喚されたのは里見弴(46)、
文藝春秋専務の佐々木茂索夫妻、久米正雄(43)、
川口松太郎(35)など15名。
その事件の結果、徳子は「華族の礼遇を停止」
、近藤夫妻は「華族の族称を除く」処分。
⑧ー6川村純義は海軍大将
安政2年(1855年)に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ、薩摩藩より選抜されて入所。
妻が西郷隆盛の母方の従妹
慶応4年(1868年)1月にはじまった戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争に奮戦。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に。
純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し、結局久治は憂死。
西南戦争では県令・大山綱良と会談、制止に努め不首尾に終わり帰京。
開戦すると山縣有朋とともに総司令官として海軍を率いた。
、参議・海軍卿に就任、山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画した。
明治天皇からの信任が篤く、皇孫=昭和天皇の養育係り。
⑧ー7西竹一=バロン西は華族男爵。
最終階級は陸軍大佐。
1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。
1930年(昭和5年)3月、欧米出張中イタリアで愛馬ウラヌスに出会う。
軍から予算が下りず、当時の価格で2,000円自費購入。
1915年(大正4年)4月、
外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中=現・日比谷高校に入学、
同期には小林秀雄、最後の秘書官長迫水久常らがいた。
帝国陸軍の騎兵将校として騎兵畑転じて、のちには機甲兵に転科し戦車第26連隊の連隊長
第二次世界大戦に従軍、
黄島守備隊として小笠原兵団・第109師団。
栗林中将は小笠原兵団長兼第109師団長
直轄の戦車第26連隊の指揮をとる
米軍の投降呼びかけ
「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」
に応じず硫黄島の戦いで戦死。
東海岸には西大佐戦死の碑がアル。
『硫黄島からの手紙』イーストウッド監督でも描かれた、
負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品で出来るだけの手当てをしたというエピソードも
証言として大野芳などの著作にアル。
戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。
西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)
1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、
現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
『硫黄島に死す』 城山三郎
『オリンポスの使徒 「バロン西伝説はなぜ生れたか」』 大野芳、文藝春秋、1984年
「硫黄島 栗林中将 衝撃の最期」 梯久美子、
父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物。
義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされ
シナ茶の専売権を与えられ巨万の富を手にした。
妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、
父は伯爵・川村鉄太郎
武子の長姉・艶子は第二次大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走した阪本瑞男に嫁いだ。
⑧ー8阪本瑞男は外交官。
妻は、伯爵・川村鉄太郎の長女・艶子。
川村の三女が「バロン西」こと西竹一の妻・武子
西竹一とは義理の兄弟。
東大高文外交科合格。
外務省同期に鹿島守之助、加瀬俊一など。
国際連盟帝国事務局歴任、
1929年、ロンドン軍縮会議随員、
1937年、在米国大使館一等書記官。
在イタリア大使館参事官を経て、
1942年8月、駐スイス公使就任。
11月、ベルンに着任、
中立国であるスイスからドイツ形勢悪しを本国に打電し
終戦工作に奔走。
しかし、駐ドイツ大使には大島浩がおり、
ドイツ優位の情報を本国に流したため、阪本の工作が実を結ぶことはなかった。
1944年7月に任地・スイスで死去。
⑧ー9白洲 正子(1910年(明治43年)1月7日 - 1998年(平成10年)12月26日)は随筆家。
父樺山愛輔と母・常子の次女
祖父は樺山資紀海軍大将、伯爵、
母方の祖父に川村純義海軍大将、伯爵。
姉に近藤泰子、
夫は白洲次郎。
長男は白洲春正、次男は白洲兼正、長女は牧山桂子。
多くの関連著作を出している白洲信哉(プロデューサーほか)は孫の一人
兼正と小林秀雄の娘明子の子である。
町田市能ヶ谷の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。
鶴川村へ転居。
1947年(昭和22年) - 華族令廃止。
1964年(昭和39年) - 随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。
1972年(昭和47年) - 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞。
1998年(平成9年) - 肺炎のため、入院先の都内の病院で死去。88歳没。
薩摩志士で伯爵樺山家に生まれた自らの性質や、
その出自を生涯を通じ強く意識
その事で夫次郎と口論となり張り手をしたこともあった。
幼少期より梅若流の能の舞台にあがり、能に造詣が深く、
青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し
、日本の美についての随筆を多く著す。
梅原龍三郎や、晩年は護立の孫で元総理の細川護熙、
河合隼雄や多田富雄などの理系学者との交友。
名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者渡辺保も参加。
墓所は夫次郎と共に兵庫県三田市の心月院
⑧ー10
仰々しく勲章を胸に、しかもいかめしい顔をした軍人は、旧名を『橋口覚之進』
作家・津本陽の「祇園石段下の決闘」ならびに「薩南示現流」は幕末京都の騒乱を背景にかれの異聞に触れています。
・・・橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、焼香の時が来ても棺の蓋を覆わず、指宿藤次郎の死顔を灯明のもとにさらしていた。
彼は参列した藩士のうちから前田某を呼び告げる。
「おはんが一番焼香じゃ。さきい拝め」
ただならぬ気配に、顔色青ざめた前田はおそるおそる進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。
その時、橋口は腰刀をぬき、
一刀のもとに(前田の)首を斬った。
首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。
「こいでよか。蓋をせい」・・・
薩摩郷中では「惰弱」に流れることはもっとも恥ずべき行為とされていました。
前田某は見廻組8人に切りかかられると指宿藤次郎を見殺しにして逃走したのです。
その掟に反した前田某を橋口は処分しました。
おどろおどろしい話ですがこの時代には暗黙の了解があったようです。
この橋口覚之進こそ、後に海軍大将、台湾総督を歴任する『樺山資紀』。
もう少し樺山資紀のこと。
「四、五十人の、いかにも薩摩隼人らしい精悍な容貌の男子が居ならぶ最前列に、洋服姿の肥大漢が泰然と正座している。
附記を見ると、樺山資紀である。
その顔面神経が鈍麻したかのような、東洋豪傑風の面がまえに、感じいった。
眼つきの暗鬱なきびしさは、他の男たちとは異質なものであった。
文久二年(1862)四月、寺田屋で本藩鎮撫使の手によって殺害された兄の橋口伝蔵も、このような粛殺の気配をただよわす風貌であったのだろうかと、私は思いをはせた」
津本陽「薩南示現流・寺田屋の散華
写真の膝に乗ったお嬢さんはその孫の『白洲正子』。
正子にも1/4は樺山の血が流れているわけですから、幾分かの激しい気性を継承しているのでしょう。
後に白洲次郎氏と結婚してからの話ですが、夕食の席で鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、日清戦争の話をしているとき、次郎氏は「薩長の奴らは東京で散々乱暴を働いた。
おまえさんのお祖父さんだって同じだろう」
と言い放った。
この話はある程度わかります。
さて正子さんはどうしたか?
カッとして言い返そうとした瞬間ことばより先に、その横っ面をひっぱたいていました。
それ以来夫婦喧嘩がなくなったといっていますが・・・
いまでも・・・・薩摩の女子は怖い?
http://kingendaikeizu.net/sirasuzirou.htm
東京都議会議員の樺山卓司氏
霊よ
おやすらかに
薩摩のDNAには
静かに去る風習はあれど、自裁はないー
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