今日の誕生日の花は・・・・ツリフネソウ
花言葉は・・・・・・・・・安楽

釣船草、吊舟草、学名 Impatiens textorii は、ツリフネソウ科ツリフネソウ属
東アジアの日本、朝鮮半島、中国、ロシア東南部)に分布。
日本では北海道・本州・四国・九州の低山から山地にかけて、水辺などのやや湿った薄暗い場所に自生する。
赤紫の異様な形のぶら下がるように咲くを、帆掛け舟に見立て釣船草。
極楽浄土を安楽という
写真はコチラ↓http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%95%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%A6
宮崎でも同じように北から南まで自生しており
茎は高いもので80cmほどまで伸びる水気のある山道の脇、谷脇などでよく見かける。 
ツリフネソウの属名インパチェンス「Impatiens」は気短なとか、怒りっぽいという意味
この果実が触ると弾けて種子を跳ね飛ばすことに由来。
ただ西都山間で呼称してたトビシャコなる鳳仙花がこの仲間と聞けば納得する。

からすうり 天女が紡ぎ 咲かせしか

 と8月に
大橋敦子の紹介があったー
大橋敦子は(1949年(昭24年)~)福井の人
父桜坡子「雨月」創刊以来編集雑務に携わる。
昭和46年、父没後「雨月」を継承主宰。
呼びかけが実にいい
俳句は眼に触れた自然の中から“ハッ”と受けた感動を17文字にまとめればいいのです。
「秋風や眼中のものみな俳句 虚子」 精神的ゆとりが生まれ、一日一日が輝いてきます。
無記名による添削指導、名句鑑賞や俳話、実作指導などで学びます。
初めての方には特別に基本からご指導します。
著書に「母子草」「手鞠」、「大橋敦子集」「勾玉」「天仰ぐ」など。
「勾玉」により第5回現代俳句女流賞受賞。

虚吼句碑相対し小六月
父母を恋ふこころ蒲団をひつかぶり
歳月迅し臍の緒締めむ向寒に
老齢を心せねばや年暮るる   
我が齢命とは去年今年     
ふんばりて生をひきずり年迎ふ
去年今年生命変りて年変る
総領の意気軒昴や年の酒
蘇りし命大事や年の春
初春の御薄賜はり八十五    
八十五齢とは壽栄なり大旦
ふんばりて生をひきずり年迎ふ

昭和62年、大阪府文化功労賞受賞。
「ホトトギス」同人、俳人協会名誉会員、日本文藝家協会会員。

広島安芸宮島の奥にあるもみじ谷の川筋に花を見つけた
水に置きざりにされた擬人化して親しみをこめて詠う
NHKラジオ深夜便アンカー高橋アツユキ教える今日の一句。

水急ぐ 釣船草を 置きざりに
         大橋敦子

9月12日は中秋の名月ー

リンクの方のブログに凛となる大災害の現地のことを放射能の恐怖で教え頂いて
最後に結ばれてることが残った

高野長英も言っているではないか。

  絶えねばや 果ては石をも 穿つらん
  かよわき滴の  力なれども

※穿つ(うがつ)
※滴(みず)


名に中秋を持つ人が幕末から明治に生きた英傑が居られる
この方が水沢生家の記念館 
高野長英の碑文に名を残すー

岩手水沢市現・奥州市には三偉人が伝えた称えられる
高野長英、後藤新平、斎藤実。

岩手の生んだ総理たる人々が英雄列伝にないのが面白い。
19代原敬 大正7年9月29日~10年11月4日
37代米内光政 昭和15年1月16日~7月22日
70代鈴木善幸 昭和55年7月17日~57年11月27日

岩手奥州市水沢区中上野町 ・水沢公園・『高野長英記念館』敷地内
高野長英の碑が建立され得てる

水沢の生んだ幕末の蘭学者として名高い高野長英(1804(文化元)年~1850(嘉永3)年)の碑で
1901年(明治34)に建てられたもの。

碑文は日本一の塾日田の咸宜園の広瀬淡窓の門人である肥前の人の撰によるもの
 谷口中秋
その人であるー
 その結びに
「先師淡窓先生又言ス吾ガ門下ノ士数千人一飯ノ間モ国ヲ憂フルヲ忘レザル者ハ、
其レ唯長英ノミカト、亦以テ其ノ人ト為リヲ知ルベキナリ」
と漢文で刻まれている。
長英が天保の飢饉に直面して「救荒二物考」を著し、
また「夢物語」にみられる先覚者としての見識と熱情がよくうかがわれる碑文。

碑文の谷口中秋とは、谷 口 藍 田とも称された有田出身の儒学者。
佐久間象山らと交わり、内外の事情にあかるかった。
明治維新前後は副島種臣、大隈重信らと共に国事に奔走したが、 病を得て帰郷。
明治2年鹿島藩主鍋島直彬の招きで藩校弘文館の儒師兼藩の権大参事に任ぜられた。
廃藩後は鎔造館に教授し、また家塾を開いた。
沖縄・熊 本・大阪など各地で経書を講じ、
明治27年以降は東京で藍田書院を開いた。

・東京メトロ千代田線「乃木坂駅」徒歩約12分
・東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩約8分
国立新美術館 旧乃木邸、乃木神社を秋の散策後に
都営青山霊園 を訪ねる楽しさ.
谷口藍田の墓碑位置は1-イ5-6
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index072.html

 「僭越ではございますが、ご指名でございますので、万歳三唱の音頭を取らせていただきます。
   ご唱和をお願いいたします。
    皆様の末永いお幸せとご健勝と
      ご発展を祈念いたしまして、

        万歳!万歳!万歳!」

 家族や仲間とともに万歳三唱をとなえ新しい門出を祝う。

どうも爺目私論
これには 谷口中秋 の意向を感じてる

この万歳三唱を全国に普及させたといわれている人物が、西道仙(にしどうせん)。
この人は
長崎新聞界の草分け的さらには長崎医師会の創設者
『長崎水道論』を著し、水道の必要性を説く
眼鏡橋の名づけ親で長崎区会議長初代長崎県知事澤宣嘉の懐刀

1877年、道仙は九州初の日刊新聞「長崎自由新聞」を発刊
西郷隆盛贔屓の道仙、新聞の目玉は西南の役のニュース。
西郷が自刃し、西南の役が終わると、「長崎自由新聞」はその役割を終えたかのように廃刊
1889年、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗して、
「長崎新報」が創刊。
これが現在の「長崎新聞」の前身で、道仙は株主。

私学校「瓊林学館(けいりん)」を創設。
館長に漢学者の谷口中秋ー
イギリス人デントを英語教授。
漢学と英語の両方を学べる学校は評判、
生徒は300人を数えた。
そうアルー

話を戻す

この国における一番古くからある由緒ある最高の英知組織を尚歯会と呼ぶ。
尚歯の「尚」はとうとぶ、「歯」は、年歯、年齢、
老人をたいせつにし、うやまう、敬老にある。

尚歯会は、最高齢の主人を含む7人の高齢者が招かれ、集まり、詩賦、あるいは和歌を作る、音楽歌舞の遊宴である。
7人は「七叟」と、その他は「垣下」といって相伴した。
尚歯会と名乗って高齢の隠居者・知恵者やそれを慕う者の集まり。

もとは845年、中国・唐で白居易が催した故事が起源。
この国の最初の尚歯会は
貞観19年(877年)、南淵年名によってその山荘で行なわれた
下って
幕末の尚歯会はサロンであり頭脳集団。
天保の大飢饉などの相次ぐ飢饉対策を講ずるために結成された。
メンバーは高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨、藤田東湖など、
シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心。

尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、
政治・経済・国防など多岐にわたった。
一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みた。

しかしこれが災いして、幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵によって謀反の濡れ衣を着せられ、
解散させられる。
特に長英は投獄後に脱獄し、逃亡の果てに捕り方によって殺害され、
三英は逮捕をおそれて自殺、崋山は禁固、蟄居後に自ら切腹するという悲劇的な最期を遂げる。

この一連の出来事は蛮社の獄と呼ばれ、江戸時代における一大思想弾圧事件。
実態は鳥居による政敵とみなされた者への排除のための冤罪事件。
蛮社とは尚歯会の蔑称である。
尚歯会そのものは僅かの期間で消滅したが、その思想や遺志は江川や川路などの
幸運にも生き残ったメンバーによって伝えられ、
幕末の日本において勝海舟や佐久間象山など進歩派に大きな影響を及ぼすことになる。

1837年、天保8年、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。
この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。
長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した
ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回った。

1839年天保10年、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。
牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。
これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられる。
獄中記に『わすれがたみ』がある。

1844年弘化元年6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄
ココ以下は、秋の夜長
吉村昭の長英脱獄上下の新潮文庫一夜で読める.

高野 長英(1804年文化元年5月5日 - 1850年嘉永3年10月30日)は、
江戸時代後期の医者・蘭学者。
通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。
陸奥国仙台藩の水沢領主水沢伊達氏家臣・後藤実慶。
養父は叔父・高野玄斎。
養父玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、
長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つ
1820年文政3年、江戸に赴き
水沢出身の薬種問屋「神埼屋」に草鞋を脱いだ。
以来、高野長英の手紙などに認められている神埼屋に、多大な支援を受けている。
神埼屋は高野長英没後も密かに遺体を引き取り、自家墓地に埋葬したと伝わる。
神埼屋こと片岡家はその後茨城県土浦市に転じ、
高野長英の御霊も1940(昭和15)年同地淨眞寺に改葬された。
「高野長英生誕200年」にあたり、高野長英の供養を続けてこられた片岡家に深謝し、その御好意により、
高野家の菩提寺である大安寺に分霊を迎える。

江戸での長英は杉田伯元や吉田長淑に師事。
この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け亡くなった。
開国が実現した後(1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。
主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。

シーボルト事件
1820年文政3年、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学
シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭に。
1828年文政11年、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けた
長英はこのとき巧みに逃れている。
この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、
逡巡したもののついに拒絶。
家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。

尚歯会入会
1830年、天保元年江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。
まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに
蘭学書の翻訳に当たった。
わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、
近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。
1830年天保3年、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入る
長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果
長英の著述書等58点が「歴史資料」として平成8年6月27日、国の重要文化財に指定され、
高野長英記念館に保管展示ー

水沢出身の薬種問屋「神埼屋」に草鞋を脱いだ。
以来、高野長英の手紙などに認められている神埼屋に、多大な支援を受けている。
神埼屋は高野長英没後も密かに遺体を引き取り、自家墓地に埋葬したと伝えられている。

【『二物考』・『避疫要法』】
天保4年(1833)に大飢饉。
紀州藩の遠藤勝助は、もとは儒学者、飢饉の対策を求めて広く意見を交換する会を作り、
「尚歯会」と名付けて、江戸在住の名高い知識人を招いた。
遠藤勝助の『救荒便覧』高野長英の『二物考』『避疫要法』が書かれた。

『二物考』(天保7年・1836年発行)は、気候不順でもよく実る早はやそば、じゃがいもの二種を作って、
米麦に頼らずに代用食をとって切り抜ける道を勧めた
その植物の性質、栽培法、調理法についてはオランダの書物をひいて、細かく説明している。
序文は尚歯会の世話役である遠藤勝助が書き、内容は、長英が述べたところを長英の弟子・内田弥太郎が文章にした。
挿絵は渡辺崋山が描いた。

長英は、岩手の飢饉の知識から疫病の対策を早くから考え、
『瘟疫考』全2冊を、天保7年(1836年)に著した
医者でなくとも誰でもがすぐに応用できる手引き本とし、更に『避疫要法』全1冊を天保7年冬に書いた。
内容は、まず病人の気力の衰えぬうちに腹中の汚物を取り除くべきであり、
吐き薬を使うか、それがない時は生ぬるい塩湯を数盃飲んで鳥の羽さきを喉に入れて吐けという。
軽い病はこれだけで治るし、重い場合にも、初めにこうしておけば、死は避けられるとした。
他に、疫病の人を訪問するにはどうしたらよいか、
病人の部屋は窓を時々開けて空気を良くすべきだとか、
死んだ時にすぐ埋葬して、そのあとは掃除し窓から良い空気を入れる事などの指示がある。
誰でもできることばかりで、
特に専門医に頼む必要はない内容である。

鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804-50』 藤原書店 2007年発行

【蛮社の獄:目付・鳥居耀蔵】

鳥居耀蔵(1796~1874)は、大学頭・林述斎の四男として生れ、
旗本・鳥居一学の養子となったて家禄2500石を受けた。
生家の縁では徳川幕府の理論的な支えをなすべき任務を課されて育ち、
養家の縁では幕府譜代の臣として武力をもって忠義を尽くす任務を課されたものと自分を位置付けた。
二重の意味で思想が働きかけた。
幕府の命令に批判をもつと彼がみなしたものに対する、
手段を選ばぬ弾圧が、目付として、町奉行としての彼の方針となった。
林家の儒学を守ってこれに対抗する蘭学を排すること、
幕府の歴代の政策である鎖国を堅持し、
これを緩めるような動きの芽のうちに断固として摘み取ることが政治的決断の基準となった。
渡辺崋山、小関三英こせきさんえい、高野長英らの蘭学者を死に至らしめた「蛮社の獄」、
洋式砲術を伝える高島秋帆を投獄した「長崎事件」
鳥居が計画的に事実を捻じ曲げて作った二つの災難。

「長崎事件」は、やがて鳥居自身に跳ね返って来て、弘化2年(1845)、
鳥居甲斐守は町奉行を辞めさせられ、丸亀藩京極家に永預けとなる。

明治の新政府ができて彼の禁錮を解く命令を出すと、
自分は幕府の命令でここに来たのだから幕府の許しがなくてはここを去らないと言って断った。
新政府は仕方なく、旧幕府の役人の名で改めて命令を出した。
彼は東京に戻って旧知に会い、自分の言うとおりにしなかったから幕府は滅びたのだと言って反省の様子がなかった。
批判者を容赦なく捕えて殺してゆけば、権力を守り抜くことが出来るという政治信条を、彼は生涯を通して疑うことはなかった。
その後、徳川旧臣の住む静岡に移って、林家にゆかりの人の家で余生を送った。

十思公園
東京都中央区日本橋小伝馬町1の5先
伝馬町牢屋敷跡
地積 13.45坪(22尺四方)
右を東京都史蹟に指定する。
昭和29年11月3日 東京都教育委員會

伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続
この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えた。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡。
当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。
牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、
揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、
山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御場死刑場役は有名な山田浅右エ門、
それに同心78名、獄丁46名、
外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が
即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。
その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。
これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ
「わが最期の時の知らせである」
と幾度となく覚悟した事であろう。
江戸の牢屋敷は慶長年間(1596~1615)常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。
代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。
そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続

昭和29年11月
江戸史跡保存協賛會
平成2年3月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
中央区土木部公園緑地課
説明板より

【蛮社遭厄小記】

投獄された後に、自分がなぜこういう目にあったかを整理して、高野長英は『蛮社遭厄小記』(天保12年)を書いた。
この記録は、災難に巻き込まれた当事者の手記としての歪みを免れず、仲間から出た裏切り者としての花井虎一と彼を操る上司・鳥居耀蔵への憎しみを軸として繰り広げられている。

鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804-50』 藤原書店 2007年発行)

宇和島市指定史跡
高野長英の居住地
愛媛県宇和島市新町

宇和島藩主・伊達宗城は、その彼の英才を惜しんで密かに保護の手を差し伸べた。
長英は出羽の蘭学者・伊東瑞渓ずいけいという変名で、
嘉永元年(1848年)4月、宇和島に入り、家老・桜田佐渡の別邸に居住。
彼はここで藩士の中より選抜された数名の青年たちに蘭学の教授をし、また午後は藩のために蘭書の翻訳に努めた。
藩命により御荘の地に赴いて、久良ひさよし砲台の設計築造に従事したこともあった。

彼が「五岳堂」と名付けたここの学塾には、彼の筆による学則が作られた。

「学問の道は水の雫しずくが石を穿うがつようにせよ。
  西洋の書物たるや、文字は蟹かにの横ばいのようであり、
  音はモズのさえずりのようで、語脈の連なりは前後錯綜して規律がないようだが、
  よく研究してみると文法、語法は厳格であり、理路整然として月日の運行の如くであることが解る。
    朝に夕にこれを習い誦しょうしたならば、解明できないということはない。
   学徒はただ勉めに勉めよ。
    途中で解らないといって自暴自棄になってはならない。」
   と第一則に説き、以下、学科の分類や教授中・翻訳の時間、休日中・面会日などを定めている。

しかし彼の宇和島在住も永くは続かず、幕府に探知されたらしいと情報が入って、
嘉永2年1月頃、この地を立ち去った。
再び逃亡生活を続けた後、江戸に潜入。
幕府の捕手に囲まれて悲壮な最期を遂げたのは、翌嘉永3年10月末のことである。
学塾の跡には、長英の同郷の後輩、後藤新平の筆になる碑が建てられている。

宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

長英はオランダの兵学者スチルチイスの著書を訳して『砲家必読』11冊を著した
清書したのは谷・土居・大野の3人。

長英は宇和島から南に11里ほど離れた、土佐に近い深浦湾に砲台を造る計画をする。
10日ほど、測量に従事。
この砲台は嘉永3年4月頃に完成。
松田源五左衛門はのちに宇都宮九太夫と共に奉行宇和島湾に樺崎砲台を造った。
この時には村田蔵六(大村益次郎)が招かれて来ており、長英の『砲家必読』を活用して、砲台を築いた。

長英は司書としての仕事もした。
伊達宗城はオランダ語の数多い蔵書があったが自由に読みこなす人は、まだ宇和島の蘭学の社中からは出ていなかった。
天文学、数学、言語学、化学、歴史の諸分野にわたり、解説書を残した.

横新町の長英の借家には長英の他に
若党1人(昌次郎・三河吉田の生まれ)、
僕1人(新吉・身分出処不明)、
学僕1人(二宮逸二・二宮敬作の子)、
婢1人(実は妾婢兼帯)の5人が住んでいた。
この婢(召使いの女)“とよ”との間には、子どもが生まれていた。

嘉永2年(1849)3月14日、
江戸からの飛脚の知らせで
長英がここに隠れていることが幕府に聞こえ、
近々捕手が送られるという
長英は松根図書から200両の金を与えられ、
あくる日、宇和島を立ち去ったと藩の記録にある。

高野長英の隠屋
愛媛県西予市宇和町卯之町

宇和郷土文化保存会
宇和ライオンズクラブ
結成40周年記念
平成12年

信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り6年間潜行。
宇和島藩内には嘉永元年4月2日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。
その間に「砲家必読」(全11巻)などを訳している。
翌年1月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・二宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む。
4月には鹿児島に向ったが、安んずることができず、再び宇和島を経由し6月3日卯之町に到着。
10日間余滞在する。

鳥居門
愛媛県西予市宇和町卯之町
嘉永2年(1849)、二宮敬作の学友高野長英が卯之町に潜んだ際、
当家にも泊まり、県指定長英隠屋と共に知られている。

改革者はいつの時代も
受難に会う

9月26日
小沢一郎裁判に影響アル
秘書の裁判の日が迫っている

同じ党友なのに、対米従属政治家たちらのため座敷牢状態。
この国の国富は密かにアメリカに朝貢デ流出1000兆円とも
この対米従属植民地状態からの解消策は
20年続くデフレ状態の解消を説く
政治目標として国民生活第一で民衆の支持を訴える
永田町支配機構霞ヶ関を先駆する民族派政治家。
この人も水沢の人である

ブログランキング参加
      よろしく
       ↓ ↓ 

http://localkyushu.blogmura.com/miyazaki_town/





コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索