今日の誕生日の花は・・・オミナエシ
花言葉は・・・・・・・・はかない恋、親切
女郎花 はオミナエシ科オミナエシ属
別称チメグサ、敗醤(はいしょう)。
沖縄をのぞく日本全土および中国から東シベリアにかけて分布。
この時期日当たりの良い草地、ため池の土手などは好適な生育地で黄色い花を見ているはずである.
万葉の昔から愛されて、前栽、切花などに用いられてきた。
草を乾燥させて煎じたもの(敗醤)には、解熱・解毒作用漢方にも用いられる
花のみを集めたものを黄屈花。
万葉集:秋の七草
能の演目「女郎花」:「おみなめし」。
小野頼風とその妻の話。
頼風に捨てられたと誤解した妻が法生川に飛び込んで自殺。
妻を墓に埋めると、そこから一輪の女郎花が生える。
頼風がその女郎花に近づくと、まるで頼風を拒絶するかのように女郎花が風で逃げ、頼風が離れるとまた元に戻った。それを見た頼風は死んだ妻が自分を拒絶しているのだと思い、妻と同じ川に飛び込んで自殺する。
花言葉にはほかに=約束を守る。
有馬朗人(あきと1930年9月13日 - )東京生まれ幼少期に静岡浜松育ち
山口青邨に師事。
中村草田男・加藤楸邨らの亡き後の日本を代表する俳人として活躍。
『天為』を創刊・主宰、
1998年、自由党比例名簿1位参議選に出馬。
小渕恵三の大英断で
文部大臣・科学技術庁長官に就任。
第14代 東大総長1989-1993
中央教育審議会会長在籍時に独自の「ゆとり教育論」を展開。
1期・6年で政界からは引退。
自民党の「73歳定年制度」によるもの
空の限りなき果てまで穏やか
NHKラジオ深夜便赤石勇アンカー教える今日の一句
天涯に 風吹いてをり をみなえし
有馬朗人
秋は物思いにふけり、余りにも早き人生の経過に驚きを隠しえない。
微笑ましきは人知れずに打ち込んだ趣味的行為ー
50年前の幼子の切手収集家当初はシートで買えないゆえ一枚買い。
そのときは日頃の郵便局長さん胡麻すり人脈が生きるー
一番下の右から二番目を指定する。
余白のところに大蔵省印刷局製造の文字が見れるゆえ。
恵も言えぬ優越感の至福の時間ー
同じように本収集家は先ず最後のページを開き第一刷、
初刊本である事を確かめて購入するー
まぁ好事家とはヘンなものである
心配してたJR北海道ー
創価社長としてブログでも論評されている
中島尚俊社長失踪
この種ゆえ予測はシテたが最悪での結末ー
靴や車が発見された石狩市から30km程離れて
小樽沖で発見、
JR北海道中島社長であることが確認された。
テレビ報道の次の日のニュースと
なんだか。
よくできているー。
厳しき緘口令ー
少しは窓が開くか
石炭から石油以前の列島の昭和30年代の頃
九州で半分の石炭を供したが
夕張地域の炭鉱から産出される石炭もこの国を支え
石勝線が輸送を支えた
路線名は接続する地域の旧称石狩国・十勝国から名づけられた
南千歳駅 - 新得駅間130km/h営業距離で根室本線に連結。
JR北海道全営業距離は2500キロちなみに沖縄から北海道の巨離。
北海道の背骨たる日高山脈を貫くため、
この地域の山岳トンネルで最長のトンネルをいくつも抱える
5,825mの新登川
5,790mの新狩勝
5,700mの登川
4,225mの第二串内、
3,765mの鬼峠
などの長大トンネルが連続する。
遠園喜秋元機関士
トンネル内は通過までは生きたココチがしない日々であった
17日TBS報道特集テレビで述懐してた。
2011年(平23年)5月27日:特急「スーパーおおぞら」14号が清風山信号場内で脱線、
第1ニニウトンネル内で停止後に炎上する事故が発生。
約240人のうち39人が煙を吸うなどして病院に搬送された
30日事故区間の復旧工事が終了し運転再開。
<信号場>
新夕張駅以東の沿線は、占冠・トマム駅周辺をのぞいて人が住んでいる地域がほとんどなく、
駅の数より信号場の数の方が多い。
信号場の多くは、計画当初は駅にする予定だったが、
沿線の入植者の離農が進みその必要が無くなった経緯がある。
航空機需要、高速道路競争ゆえ高速化を目指し経費の配分は安全点検より効率化優先。
線路に負担の時速130キロ、改良のステンレス車両
保線の外注化なぞ重なり真面目な保線区員の線路の破断に追いつかず自殺も起きてる
統計にアル事故報告だけで年間369件数もある。
中島 尚俊(1947年2月11日-)は旭川のひと。
旭川北高、東大経済を経て1969年(昭44年)国鉄に入職。
1987年国鉄分割民営化で北海道旅客鉄道に転籍
2007年6月に代表取締役社長に就任。
2011年9月12日、遺書を残し同日朝から行方不明
ブログにおかしな記述がアル
2008年8月27日 ... 自殺防止用のホームドアを設置するにあたり、
JR北海道の社長・中島尚俊は創価学会 の熱心な信者である為
「創価学会の命令には断れない」と計画を受け入れると発表。
インフラ事業に、ヘンテコリンな宗教を持ち込むのは やめて ...
JR北海道役員
井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛、山崎正夫、佐々木隆之、
・・酷いもんだー
信濃町日参忙しきそのまんま元宮崎知事
そのまんま知事就任
すると直ぐ鳥インフル。
辞める前はこうてい疫病。
実にタイミングよい
不可解の連続。
謎の失踪…
戦後の国鉄総裁轢殺の下川なり、三鷹松川事件までへのストーリ-
GHQ手口に酷似。
黒い闇が蠢いているー
読書の秋に社会事件を重ねて読まれては如何か
ただ夜半のオシッコが怖くなりますー
図書館に行かれた折にチョット作業をして欲しい
実に不思議なことが起きている
①諸永裕司『葬られた夏――追跡 下山事件』(朝日新聞社、2002年12月30日第1刷)。
②諸永裕司『葬られた夏――追跡 下山事件』(朝日新聞社、2003年2月10日付第2刷)。
③森達也『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』 (新潮社、2004年2月20日発行)。
本好きの長年の経験にさえ、出会えないないことが生じる。
以下カコミ記事のこの但し書き、
“第2刷から”載っている。
つまり、第1刷には載っていないこと。
-------
本書は、森達也氏と週刊朝日編集部取材チームによる週刊朝日
連載(1999年8月20日・27日合併号から5回)時の取材などをもとに、諸永裕司が執筆したものである。
本書執筆にあたって、森達也氏の週刊朝日連載から、特別に明示することなく引用している部分があることを、森氏への謝意
とともに明らかにしておきたい。
なお、この週刊朝日連載をもとに、森氏も、下山事件に関する本を執筆中である。
朝日新聞社書籍編集部
-----
素直に読めば
「森達也氏と週刊朝日編集部取材チームによる週刊朝日連載」
云々とある。
「週刊朝日編集部取材チームと森達也氏による」ではない。
「森達也」の方が、「週刊朝日編集部取材チーム」より
も先にある。
であれば、
「週刊朝日」での連載の単行本化は、森達也が行
うべきではなかったのか?
しかし『葬られた夏』は、諸永裕司という人によって、
2002年12月30日に既に発刊されている。
諸永裕司とは誰か?
巻末のプロフィルにアル。
-----
1969年 スイス・ニュネーブ生まれ
1993年 東京学芸大学卒業
朝日新聞社入社
京都支局、つくば支局をへて
「週刊朝日」編集部に
1999年 連載「下山事件――50年後の真相」を
「週刊朝日」に共同で発表
現在 「AERA」編集部に在籍
-------
朝日新聞社の正社員。
ではなぜ、『葬られた夏』は、わざわざ、
但し書きを、第1刷からではなく、第2刷から入れなければならなかったのか?
しかも、「本人の名前」でなく、「書籍編集部」名で。
森氏の本で明らかになっている。
葬られた夏―追跡・下山事件 ・諸永 裕司
1949年7月5日。初代国鉄総裁の下山定則が出勤途中に消息を絶った。
十万人にのぼる大量解雇を告げた翌日のことだった十五時間後、下山は常磐線の線路上で見つかった。
轢死体だった。
自殺か、他殺か。
結論が出ないまま半世紀がすぎた。
そしてある日、新情報を耳にする。
旅のはじまりだった。
生き証人を訪ね歩き、最後にアメリカへ渡った。
「事件の真相を知る最後の男」に会うために―。
生き証人を訪ね歩いた4年間の取材を再構成した記録。
下山事件をふくむ昭和20年代前半に起きた「国鉄三大事件」に
ついては、米国の占領統治がらみの暗殺工作という観点から、過去の
出来事とは思えない“現実感”を感じている。
例えば……NHKが名付けた2001年9月11日の「同時多発テロ」の直後に
「自殺」した(という形で処理された)NHK解説委員・長谷川浩や、
イラクで「テロリストに襲撃された」(という形で処理された)
CPA占領当局に出張中の二人の外交官(奥克彦と井ノ上正盛)などの
事件につきまとう“闇”である。
ここに掲げてる著書で明かされた一連の舞台
紐解くキーワード。
昭和史発掘を既読のかたは数十年ぶりに思い返せよう
下山事件と、ライカビルにあった「亜細亜産業」
ライカビル、日本貿易会館、千葉銀行
戦後最大のミステリー・下山事件
「リアルライブ」
http://npn.co.jp/article/detail/19222696/
さらに当時の社会背景が謎に拍車をかける。
当時、
マッカーサー率いるGHQはソ連ならびに共産党の躍進を脅威と捕らえ反米勢力と決定づけていた。
参謀本部内の特務機関を使い、様々な工作を仕掛け、共産分子の検挙に力を入れていたのである。
下山総裁が消えた三越前の目と鼻の先には、その特殊工作機関の中でも「赤狩り」において最も信頼を置かれていたキャノン機関が本部を置くライカビルがあった。
ジャック.Y.キャノン率いるキャノン機関は警視庁から捜査権、武器の携帯も許されていた特殊組織。
ライカビルには戦中、戦後の日本の闇に深く関わったとされる亜細亜産業も事務所を構えていた。
吉田茂内閣への強力な援護射撃となった「下山事件」
小泉純一郎は二度厚生大臣についている。
そのとき仕えたそれぞれの元厚生省高級官僚への連続殺傷事件
イラク、インド、タイ、チャイナでの無差別殺傷事件に似ている。
社会組織揺さぶりが目的?
国民に恨まれている厚生労働省の元高級官僚を殺傷しても国民は「ザマア見ろ」
この事件を深追いしないだろう。
だが、国民の間には不気味な不安定感が漂い始める。
戦後直ぐに起こった三鷹事件や下山事件に似た事件の要素がある。
これ等の事件は国民の間に社会不安を煽る事になり、
その間隙をぬって占領軍の政治誘導が行われた。
ウィキペディア「下山事件」の項→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
戦後3回目の衆院総選挙で吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席、
日本共産党も4議席から35議席へと躍進
共産党系の産別会議や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、
吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫ぶような騒然とした世相。
増田甲子七官房長官が解剖の結果も出ないうちから他殺を示唆するコメントを発表
下山事件の一報を聞いた人の多くが共産党系労働組合絡みと直感するしくみ誘導。
労働運動は、下山、三鷹、松川事件に関与したと報道
世論の強い批判
活動の自粛。
日本占領を行う連合国軍及び政府の思惑通りにスムーズに進行。
下山事件には米進駐軍、政府が関わっていたのではないかと囁かれる。
作家松本清張は『日本の黒い霧』の中で、米軍CIC(防諜部隊)が下山暗殺に関わり、
下山の遺体は進駐軍専用列車で運搬されたのではないかという説を提唱。
松本の説自体は当時の鉄道運行表の検討からほぼ否定されたが、
松本が中心となって発足した「下山事件研究会」では引き続き進駐軍与説を中心に事件の研究が進められた。
「下山事件研究会」の中心人物の一人の朝日新聞記者・矢田喜美雄
1973年著作『謀殺下山事件』にまとめた。
矢田は取材の過程で米軍防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、
その人物とのやりとりを記述している。
1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」の記事が連載された。
この内容を元に
諸永裕司著『葬られた夏』、
森達也著『下山事件』、
柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』
相次いで出版。
事件は元陸軍軍属・矢板玄が設立した組織・矢板機関の関係者が関わった他殺事件と結論付けている。
詳しく紹介されてるブログ。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/shimoyama2.htm
○下山事件
矢板機関を設立した矢板玄は
岸信介を巣鴨プリズンから釈放することに尽力した人物
○岸信介とCIA
なぜ、鬼畜米英と叫んだ戦争指導者が、米国の手先になったのか。
その秘密を解くカギが最近発売された完全版『下山事件 最後の証言』柴田哲孝著、祥伝社文庫。
柴田哲孝の祖父柴田宏が勤めていた亜細亜産業の社長で戦前の特務機関である矢板機関の矢板玄(くろし)の証言に、
その秘密が書かれている。以下、矢板証言。
〈岸を釈放したウィロビー〉
佐藤栄作は、兄岸信介の件で来たのではないか。
岸信介を巣鴨プリズンから出したのは、矢板さんだと聞いているが
「そうだ。そんなことがあったな。
だけど、岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。
確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。
岸は役に立つ男だから、殺すなとね。
しかし、本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、後はカーンだよ。
アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」
東条内閣の閣僚、戦争指導者の一人、A級戦犯容疑者として逮捕された岸の釈放、
「GHQ連合国軍総司令部のウィロビー少将率いるG2(参謀部第二部)の『釈放せよ』との勧告があった」
「赤旗」の「まど」欄ことを紹介している。
ウィロビーは、直轄の情報機関として、
キャノン機関や戦後も暗躍した矢板機関を持っていた。
《元国土庁審議官である仲津真治による「下山事件 最後の証言」(柴田哲孝著)の読後感想記述》
下山事件は、自殺と他殺の両説があります
著者は、轢断死体が、
「自殺ならば、つまり生きたまま列車に轢かれたのであれば、当然 現れるはずの生活反応がほとんどなく、
また、死体に全くと言って いい程、血液が残存していなかったなどの諸所見から、これは、死後の轢断である」
とした東大法医学教室の鑑定を重く見ています。
他の諸々の証拠や信用できる証言から、
下山 総裁は、死体発見現場から遠くない所で殺害された後、
そこへ運ばれ、轢断されたと見るのが相当ー
この殺害には、祖父の宏が戦中から戦後にかけて在職していた
亜細亜産業と言う会社が大きく関わっていたのではないかと、
膨大な資料や証言から裏付けています。
この亜細亜産業と言う会社は、
日本橋室町の通称「ライカビル」の中にあり、
業務はパルプ産業や貿易業であり、主に陸軍のために
物資の調達や様々な工作を行っていたとも言われます。
戦後は、家具や文具、日用雑貨などを扱い、
GHQに納入していた。
その際、戦中から培われたノウハウや、そこに関係する人々の人脈が活きて、
諸々の活動が行われる機関になっていたのでしょうか。
その本社所在地は、下山総裁が失踪した日本橋の三越に近く、
また、その関係工場や作業場が、轢断現場から遠くないところに点在していることも、本書に記されています。
この会社の社長は矢板玄と言い、
著者の大叔母の寿恵子さんが、
「殺したのは宏兄さんではないと思う。」と言い、
事件を「計画したのは、(亜細亜産業)の社長矢板(玄)さんじゃないかと思うんだよね」
と語った人物。
著者は、この大物の矢板にも会っています。
1992年の2月、その自宅を
「柴田宏の孫です。御挨拶に」と言って訪ね、
「貴様、何者だ」
と聞かれ、日本刀を頭上から振り下ろされ、顔の前で止められると言う、凄まじい体験をしています。
それでも、動かず、睨み合っていたところ、
「いい刀ですね・・・」
と言う、自分でも信じられない言葉が口を衝いて出たと言い、
暫くして、矢板氏が大声で笑い出し、
「お前、面白い奴だな。・・・」
と言って、別室に移り、二人のやり取りが始まったとのことです。
著者は、この喜寿を過ぎた人物から、重要なことことを多く聞き、 引き出していますが、再会出来ずに終わりました。
矢板氏は、その後、間もなく、亡くなったと申します。
そして、この亜細亜産業の人脈が基盤となって、事が計画され、相当数の人間が、個々の役割を果たしつつも、全体像を知らされずに、実行されたと見られると言うのですが、
著者は結局、それが 具体的に誰々であり、どういう分担で行われたのかまでは、特定しておりません。
著者のような身内ゆえにアクセスが持て、情報を得やすい立場にあっても、事件はあまりにも複雑多様であり、事件後経過した半世紀前後の年月は長く、人々の記憶も薄れていると言うことなのでしょうか。
著者は、就任後間もない下山総裁が、第一次人員整理宣告の翌日に失踪、殺されたと見られる、
その理由として、諸種の証言から、清廉な人柄ゆえ、前職であった運輸次官のとき、既に鉄道に巣くう政財界有力者の汚職を握っていて、不正な取引を切り、取引に伴う単価を下げるなどをしたからと言う見方をしています。
また、総裁は、それを切り札に、コストダウンを可能にして人員整理を最小限に食い止めようとしていたと見ています。
他方、作家の松本清張の主張にもありますが、
事件がGHQの謀略であったとの推論について、著者は、
前年の昭和23年に鉄道汚職で当時の運輸次官が引責辞任していることなどから、
当時、実権を持っていたGHQが他の人選をせず、下山氏を大抜擢して運輸次官に就任させ、
さらに、国鉄の初代総裁に当てたのは、汚職の番人として送り込んだと見るべきで、
そう言う人を亡き者にする分けがないとし、GHQ説を退けています。
ただ、著者は、汚職による金づるが、
米側と繋がっていたことを臭わしています。
文脈からすれば、占領している連合国・・
その中心は米国・・の側にも、
本国における情報部門の設置など、組織改編等の様々な動きがあり、
全てがGHQに一体化されていたわけではなく、
また、GHQの内部にも、
民政局と参謀二部、
キャノン機関とその対抗勢力
などのように、複数の流れや主導権争い・対立があったことを記しています。
それにしても、総裁の潔癖な路線やポリシーによって利権が失われるから、
殺して、その地位から取り除くと言うのは、相当乱暴な話ですが、
戦前・戦中には、その種の発想や行動が決して特異なものではなかったし、
それらを計画し、実行する組織があり、人々がいたのでしょう。
そして、敗戦で大きく変わったとはいえ、戦後暫くは、その種の空気が色濃く残り、そういう組織や人々が存在していたと言えるのかもしれません。
著者は、この点で、下山事件と戦前の張作霖爆殺事件(昭和3年 )との類似性を指摘しています。
後者は、満州軍閥の頭領である張作霖が日本軍部の意図に反して、中央北京への進出を図ろうとしたので、関東軍の河本大佐が国民政府軍の犯行に見せかけて暗殺したものと言われます。
その事件では、満州鉄道が京奉線と立体交差するガード下を列車が通過する際、爆破が起きました。
下山事件の起きた現場と、鉄道のカーブや交差等の情況も良く似た景観を呈しているというわけです。
著者は、戦前のノウハウや経験が、戦後に活かされたと言う分けで、満州で出来た諸々の人脈が、
下山事件に関わっていると示唆しています。
ところで、著者は総帥の矢板氏にいろいろ尋ねる中で、亜細亜産業に戦時中、貴金属が集まってきたと言うことを聞き出しています。
当時、戦争遂行のため、広く国民から貴金属を供出させることが行われておりました。
それは私も両親から聞いたことがあります。
矢板氏によれば、国の機関も関わった金銀運営会と言う組織があり、
その事務所がライカビルにあって、集められた貴金属を潰して、金の延べ棒などにし、
亜細亜産業に集められていたと言うのです。
この大量の金の延べ棒を、著者の大叔母の寿恵子さんは、亜細亜産業で事務の仕事をしていたときに、見せられたと言います。
これらの金の延べ棒は、戦時中、外国での物資の調達等に充てられたとのことですが、戦後、相当残ったと申します。
日銀に入庫されたのもあるが、山分けされたり、例のM資金の一部になったと矢板氏は著者に語っています。
M資金とは、よくマーカット資金と言われるものですが、作り話が多く、しばしば詐欺事件が起きています。
でも、この証言で一部は裏付けがあることが分かります。
著作から・・・・
「葬られた夏」の舞台の肝心なライカビルにあった亜細亜産業
『僕はセピア色の写真にある亜細亜産業についてたずねた。……
「確か、ライカビルといつたかな。会社の事務所が人つていたのは」、
「それは、どこにあつたんですか」
、僕は勢い込んでたずねた。
「確か、室町だつたと思うよ、日本橋の」、
「日本橋というのは、総裁が消息を絶つた三越のある……」、
「そう、目と鼻の先つていう感じじやなかつたかな」。』
この亜細亜産業は米国の諜報機関の日本側窓口になっていた。
またすぐ傍にあった千葉銀行についても、
「キヤノンの工作資金をつくるため、ダイヤの摘発と売却を主な任務にしていた。
集めたダイヤは、ライカビルの真にあつた千葉銀行東京支店の金庫に保管していた。
しかし、奇妙なことに下山事件の直前にいなくなつた。
…「ダイヤは千葉銀行に保管していたんですよね、ライカビルの裏の」、
「詳しいことはわからないけど、千葉銀行がすぐ裏にあつたのは覚えているよ」
…「ライカビルは三階までは亜細亜産業が人つていたけど、その上にはね、銃を扱う男とか、それこそわけのわからん連中がたむろしてたんだ。Sもその一人だつた」
、等と書いています。
下山総裁が三越から地下鉄の駅を伝って連れ出されたのは、
このライカビルの隣の国際貿易会館からです。
トップを喪失した組織
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花言葉は・・・・・・・・はかない恋、親切
女郎花 はオミナエシ科オミナエシ属
別称チメグサ、敗醤(はいしょう)。
沖縄をのぞく日本全土および中国から東シベリアにかけて分布。
この時期日当たりの良い草地、ため池の土手などは好適な生育地で黄色い花を見ているはずである.
万葉の昔から愛されて、前栽、切花などに用いられてきた。
草を乾燥させて煎じたもの(敗醤)には、解熱・解毒作用漢方にも用いられる
花のみを集めたものを黄屈花。
万葉集:秋の七草
能の演目「女郎花」:「おみなめし」。
小野頼風とその妻の話。
頼風に捨てられたと誤解した妻が法生川に飛び込んで自殺。
妻を墓に埋めると、そこから一輪の女郎花が生える。
頼風がその女郎花に近づくと、まるで頼風を拒絶するかのように女郎花が風で逃げ、頼風が離れるとまた元に戻った。それを見た頼風は死んだ妻が自分を拒絶しているのだと思い、妻と同じ川に飛び込んで自殺する。
花言葉にはほかに=約束を守る。
有馬朗人(あきと1930年9月13日 - )東京生まれ幼少期に静岡浜松育ち
山口青邨に師事。
中村草田男・加藤楸邨らの亡き後の日本を代表する俳人として活躍。
『天為』を創刊・主宰、
1998年、自由党比例名簿1位参議選に出馬。
小渕恵三の大英断で
文部大臣・科学技術庁長官に就任。
第14代 東大総長1989-1993
中央教育審議会会長在籍時に独自の「ゆとり教育論」を展開。
1期・6年で政界からは引退。
自民党の「73歳定年制度」によるもの
空の限りなき果てまで穏やか
NHKラジオ深夜便赤石勇アンカー教える今日の一句
天涯に 風吹いてをり をみなえし
有馬朗人
秋は物思いにふけり、余りにも早き人生の経過に驚きを隠しえない。
微笑ましきは人知れずに打ち込んだ趣味的行為ー
50年前の幼子の切手収集家当初はシートで買えないゆえ一枚買い。
そのときは日頃の郵便局長さん胡麻すり人脈が生きるー
一番下の右から二番目を指定する。
余白のところに大蔵省印刷局製造の文字が見れるゆえ。
恵も言えぬ優越感の至福の時間ー
同じように本収集家は先ず最後のページを開き第一刷、
初刊本である事を確かめて購入するー
まぁ好事家とはヘンなものである
心配してたJR北海道ー
創価社長としてブログでも論評されている
中島尚俊社長失踪
この種ゆえ予測はシテたが最悪での結末ー
靴や車が発見された石狩市から30km程離れて
小樽沖で発見、
JR北海道中島社長であることが確認された。
テレビ報道の次の日のニュースと
なんだか。
よくできているー。
厳しき緘口令ー
少しは窓が開くか
石炭から石油以前の列島の昭和30年代の頃
九州で半分の石炭を供したが
夕張地域の炭鉱から産出される石炭もこの国を支え
石勝線が輸送を支えた
路線名は接続する地域の旧称石狩国・十勝国から名づけられた
南千歳駅 - 新得駅間130km/h営業距離で根室本線に連結。
JR北海道全営業距離は2500キロちなみに沖縄から北海道の巨離。
北海道の背骨たる日高山脈を貫くため、
この地域の山岳トンネルで最長のトンネルをいくつも抱える
5,825mの新登川
5,790mの新狩勝
5,700mの登川
4,225mの第二串内、
3,765mの鬼峠
などの長大トンネルが連続する。
遠園喜秋元機関士
トンネル内は通過までは生きたココチがしない日々であった
17日TBS報道特集テレビで述懐してた。
2011年(平23年)5月27日:特急「スーパーおおぞら」14号が清風山信号場内で脱線、
第1ニニウトンネル内で停止後に炎上する事故が発生。
約240人のうち39人が煙を吸うなどして病院に搬送された
30日事故区間の復旧工事が終了し運転再開。
<信号場>
新夕張駅以東の沿線は、占冠・トマム駅周辺をのぞいて人が住んでいる地域がほとんどなく、
駅の数より信号場の数の方が多い。
信号場の多くは、計画当初は駅にする予定だったが、
沿線の入植者の離農が進みその必要が無くなった経緯がある。
航空機需要、高速道路競争ゆえ高速化を目指し経費の配分は安全点検より効率化優先。
線路に負担の時速130キロ、改良のステンレス車両
保線の外注化なぞ重なり真面目な保線区員の線路の破断に追いつかず自殺も起きてる
統計にアル事故報告だけで年間369件数もある。
中島 尚俊(1947年2月11日-)は旭川のひと。
旭川北高、東大経済を経て1969年(昭44年)国鉄に入職。
1987年国鉄分割民営化で北海道旅客鉄道に転籍
2007年6月に代表取締役社長に就任。
2011年9月12日、遺書を残し同日朝から行方不明
ブログにおかしな記述がアル
2008年8月27日 ... 自殺防止用のホームドアを設置するにあたり、
JR北海道の社長・中島尚俊は創価学会 の熱心な信者である為
「創価学会の命令には断れない」と計画を受け入れると発表。
インフラ事業に、ヘンテコリンな宗教を持ち込むのは やめて ...
JR北海道役員
井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛、山崎正夫、佐々木隆之、
・・酷いもんだー
信濃町日参忙しきそのまんま元宮崎知事
そのまんま知事就任
すると直ぐ鳥インフル。
辞める前はこうてい疫病。
実にタイミングよい
不可解の連続。
謎の失踪…
戦後の国鉄総裁轢殺の下川なり、三鷹松川事件までへのストーリ-
GHQ手口に酷似。
黒い闇が蠢いているー
読書の秋に社会事件を重ねて読まれては如何か
ただ夜半のオシッコが怖くなりますー
図書館に行かれた折にチョット作業をして欲しい
実に不思議なことが起きている
①諸永裕司『葬られた夏――追跡 下山事件』(朝日新聞社、2002年12月30日第1刷)。
②諸永裕司『葬られた夏――追跡 下山事件』(朝日新聞社、2003年2月10日付第2刷)。
③森達也『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』 (新潮社、2004年2月20日発行)。
本好きの長年の経験にさえ、出会えないないことが生じる。
以下カコミ記事のこの但し書き、
“第2刷から”載っている。
つまり、第1刷には載っていないこと。
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本書は、森達也氏と週刊朝日編集部取材チームによる週刊朝日
連載(1999年8月20日・27日合併号から5回)時の取材などをもとに、諸永裕司が執筆したものである。
本書執筆にあたって、森達也氏の週刊朝日連載から、特別に明示することなく引用している部分があることを、森氏への謝意
とともに明らかにしておきたい。
なお、この週刊朝日連載をもとに、森氏も、下山事件に関する本を執筆中である。
朝日新聞社書籍編集部
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素直に読めば
「森達也氏と週刊朝日編集部取材チームによる週刊朝日連載」
云々とある。
「週刊朝日編集部取材チームと森達也氏による」ではない。
「森達也」の方が、「週刊朝日編集部取材チーム」より
も先にある。
であれば、
「週刊朝日」での連載の単行本化は、森達也が行
うべきではなかったのか?
しかし『葬られた夏』は、諸永裕司という人によって、
2002年12月30日に既に発刊されている。
諸永裕司とは誰か?
巻末のプロフィルにアル。
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1969年 スイス・ニュネーブ生まれ
1993年 東京学芸大学卒業
朝日新聞社入社
京都支局、つくば支局をへて
「週刊朝日」編集部に
1999年 連載「下山事件――50年後の真相」を
「週刊朝日」に共同で発表
現在 「AERA」編集部に在籍
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朝日新聞社の正社員。
ではなぜ、『葬られた夏』は、わざわざ、
但し書きを、第1刷からではなく、第2刷から入れなければならなかったのか?
しかも、「本人の名前」でなく、「書籍編集部」名で。
森氏の本で明らかになっている。
葬られた夏―追跡・下山事件 ・諸永 裕司
1949年7月5日。初代国鉄総裁の下山定則が出勤途中に消息を絶った。
十万人にのぼる大量解雇を告げた翌日のことだった十五時間後、下山は常磐線の線路上で見つかった。
轢死体だった。
自殺か、他殺か。
結論が出ないまま半世紀がすぎた。
そしてある日、新情報を耳にする。
旅のはじまりだった。
生き証人を訪ね歩き、最後にアメリカへ渡った。
「事件の真相を知る最後の男」に会うために―。
生き証人を訪ね歩いた4年間の取材を再構成した記録。
下山事件をふくむ昭和20年代前半に起きた「国鉄三大事件」に
ついては、米国の占領統治がらみの暗殺工作という観点から、過去の
出来事とは思えない“現実感”を感じている。
例えば……NHKが名付けた2001年9月11日の「同時多発テロ」の直後に
「自殺」した(という形で処理された)NHK解説委員・長谷川浩や、
イラクで「テロリストに襲撃された」(という形で処理された)
CPA占領当局に出張中の二人の外交官(奥克彦と井ノ上正盛)などの
事件につきまとう“闇”である。
ここに掲げてる著書で明かされた一連の舞台
紐解くキーワード。
昭和史発掘を既読のかたは数十年ぶりに思い返せよう
下山事件と、ライカビルにあった「亜細亜産業」
ライカビル、日本貿易会館、千葉銀行
戦後最大のミステリー・下山事件
「リアルライブ」
http://npn.co.jp/article/detail/19222696/
さらに当時の社会背景が謎に拍車をかける。
当時、
マッカーサー率いるGHQはソ連ならびに共産党の躍進を脅威と捕らえ反米勢力と決定づけていた。
参謀本部内の特務機関を使い、様々な工作を仕掛け、共産分子の検挙に力を入れていたのである。
下山総裁が消えた三越前の目と鼻の先には、その特殊工作機関の中でも「赤狩り」において最も信頼を置かれていたキャノン機関が本部を置くライカビルがあった。
ジャック.Y.キャノン率いるキャノン機関は警視庁から捜査権、武器の携帯も許されていた特殊組織。
ライカビルには戦中、戦後の日本の闇に深く関わったとされる亜細亜産業も事務所を構えていた。
吉田茂内閣への強力な援護射撃となった「下山事件」
小泉純一郎は二度厚生大臣についている。
そのとき仕えたそれぞれの元厚生省高級官僚への連続殺傷事件
イラク、インド、タイ、チャイナでの無差別殺傷事件に似ている。
社会組織揺さぶりが目的?
国民に恨まれている厚生労働省の元高級官僚を殺傷しても国民は「ザマア見ろ」
この事件を深追いしないだろう。
だが、国民の間には不気味な不安定感が漂い始める。
戦後直ぐに起こった三鷹事件や下山事件に似た事件の要素がある。
これ等の事件は国民の間に社会不安を煽る事になり、
その間隙をぬって占領軍の政治誘導が行われた。
ウィキペディア「下山事件」の項→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
戦後3回目の衆院総選挙で吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席、
日本共産党も4議席から35議席へと躍進
共産党系の産別会議や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、
吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫ぶような騒然とした世相。
増田甲子七官房長官が解剖の結果も出ないうちから他殺を示唆するコメントを発表
下山事件の一報を聞いた人の多くが共産党系労働組合絡みと直感するしくみ誘導。
労働運動は、下山、三鷹、松川事件に関与したと報道
世論の強い批判
活動の自粛。
日本占領を行う連合国軍及び政府の思惑通りにスムーズに進行。
下山事件には米進駐軍、政府が関わっていたのではないかと囁かれる。
作家松本清張は『日本の黒い霧』の中で、米軍CIC(防諜部隊)が下山暗殺に関わり、
下山の遺体は進駐軍専用列車で運搬されたのではないかという説を提唱。
松本の説自体は当時の鉄道運行表の検討からほぼ否定されたが、
松本が中心となって発足した「下山事件研究会」では引き続き進駐軍与説を中心に事件の研究が進められた。
「下山事件研究会」の中心人物の一人の朝日新聞記者・矢田喜美雄
1973年著作『謀殺下山事件』にまとめた。
矢田は取材の過程で米軍防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、
その人物とのやりとりを記述している。
1999年、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」の記事が連載された。
この内容を元に
諸永裕司著『葬られた夏』、
森達也著『下山事件』、
柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』
相次いで出版。
事件は元陸軍軍属・矢板玄が設立した組織・矢板機関の関係者が関わった他殺事件と結論付けている。
詳しく紹介されてるブログ。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/shimoyama2.htm
○下山事件
矢板機関を設立した矢板玄は
岸信介を巣鴨プリズンから釈放することに尽力した人物
○岸信介とCIA
なぜ、鬼畜米英と叫んだ戦争指導者が、米国の手先になったのか。
その秘密を解くカギが最近発売された完全版『下山事件 最後の証言』柴田哲孝著、祥伝社文庫。
柴田哲孝の祖父柴田宏が勤めていた亜細亜産業の社長で戦前の特務機関である矢板機関の矢板玄(くろし)の証言に、
その秘密が書かれている。以下、矢板証言。
〈岸を釈放したウィロビー〉
佐藤栄作は、兄岸信介の件で来たのではないか。
岸信介を巣鴨プリズンから出したのは、矢板さんだと聞いているが
「そうだ。そんなことがあったな。
だけど、岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。
確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。
岸は役に立つ男だから、殺すなとね。
しかし、本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、後はカーンだよ。
アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」
東条内閣の閣僚、戦争指導者の一人、A級戦犯容疑者として逮捕された岸の釈放、
「GHQ連合国軍総司令部のウィロビー少将率いるG2(参謀部第二部)の『釈放せよ』との勧告があった」
「赤旗」の「まど」欄ことを紹介している。
ウィロビーは、直轄の情報機関として、
キャノン機関や戦後も暗躍した矢板機関を持っていた。
《元国土庁審議官である仲津真治による「下山事件 最後の証言」(柴田哲孝著)の読後感想記述》
下山事件は、自殺と他殺の両説があります
著者は、轢断死体が、
「自殺ならば、つまり生きたまま列車に轢かれたのであれば、当然 現れるはずの生活反応がほとんどなく、
また、死体に全くと言って いい程、血液が残存していなかったなどの諸所見から、これは、死後の轢断である」
とした東大法医学教室の鑑定を重く見ています。
他の諸々の証拠や信用できる証言から、
下山 総裁は、死体発見現場から遠くない所で殺害された後、
そこへ運ばれ、轢断されたと見るのが相当ー
この殺害には、祖父の宏が戦中から戦後にかけて在職していた
亜細亜産業と言う会社が大きく関わっていたのではないかと、
膨大な資料や証言から裏付けています。
この亜細亜産業と言う会社は、
日本橋室町の通称「ライカビル」の中にあり、
業務はパルプ産業や貿易業であり、主に陸軍のために
物資の調達や様々な工作を行っていたとも言われます。
戦後は、家具や文具、日用雑貨などを扱い、
GHQに納入していた。
その際、戦中から培われたノウハウや、そこに関係する人々の人脈が活きて、
諸々の活動が行われる機関になっていたのでしょうか。
その本社所在地は、下山総裁が失踪した日本橋の三越に近く、
また、その関係工場や作業場が、轢断現場から遠くないところに点在していることも、本書に記されています。
この会社の社長は矢板玄と言い、
著者の大叔母の寿恵子さんが、
「殺したのは宏兄さんではないと思う。」と言い、
事件を「計画したのは、(亜細亜産業)の社長矢板(玄)さんじゃないかと思うんだよね」
と語った人物。
著者は、この大物の矢板にも会っています。
1992年の2月、その自宅を
「柴田宏の孫です。御挨拶に」と言って訪ね、
「貴様、何者だ」
と聞かれ、日本刀を頭上から振り下ろされ、顔の前で止められると言う、凄まじい体験をしています。
それでも、動かず、睨み合っていたところ、
「いい刀ですね・・・」
と言う、自分でも信じられない言葉が口を衝いて出たと言い、
暫くして、矢板氏が大声で笑い出し、
「お前、面白い奴だな。・・・」
と言って、別室に移り、二人のやり取りが始まったとのことです。
著者は、この喜寿を過ぎた人物から、重要なことことを多く聞き、 引き出していますが、再会出来ずに終わりました。
矢板氏は、その後、間もなく、亡くなったと申します。
そして、この亜細亜産業の人脈が基盤となって、事が計画され、相当数の人間が、個々の役割を果たしつつも、全体像を知らされずに、実行されたと見られると言うのですが、
著者は結局、それが 具体的に誰々であり、どういう分担で行われたのかまでは、特定しておりません。
著者のような身内ゆえにアクセスが持て、情報を得やすい立場にあっても、事件はあまりにも複雑多様であり、事件後経過した半世紀前後の年月は長く、人々の記憶も薄れていると言うことなのでしょうか。
著者は、就任後間もない下山総裁が、第一次人員整理宣告の翌日に失踪、殺されたと見られる、
その理由として、諸種の証言から、清廉な人柄ゆえ、前職であった運輸次官のとき、既に鉄道に巣くう政財界有力者の汚職を握っていて、不正な取引を切り、取引に伴う単価を下げるなどをしたからと言う見方をしています。
また、総裁は、それを切り札に、コストダウンを可能にして人員整理を最小限に食い止めようとしていたと見ています。
他方、作家の松本清張の主張にもありますが、
事件がGHQの謀略であったとの推論について、著者は、
前年の昭和23年に鉄道汚職で当時の運輸次官が引責辞任していることなどから、
当時、実権を持っていたGHQが他の人選をせず、下山氏を大抜擢して運輸次官に就任させ、
さらに、国鉄の初代総裁に当てたのは、汚職の番人として送り込んだと見るべきで、
そう言う人を亡き者にする分けがないとし、GHQ説を退けています。
ただ、著者は、汚職による金づるが、
米側と繋がっていたことを臭わしています。
文脈からすれば、占領している連合国・・
その中心は米国・・の側にも、
本国における情報部門の設置など、組織改編等の様々な動きがあり、
全てがGHQに一体化されていたわけではなく、
また、GHQの内部にも、
民政局と参謀二部、
キャノン機関とその対抗勢力
などのように、複数の流れや主導権争い・対立があったことを記しています。
それにしても、総裁の潔癖な路線やポリシーによって利権が失われるから、
殺して、その地位から取り除くと言うのは、相当乱暴な話ですが、
戦前・戦中には、その種の発想や行動が決して特異なものではなかったし、
それらを計画し、実行する組織があり、人々がいたのでしょう。
そして、敗戦で大きく変わったとはいえ、戦後暫くは、その種の空気が色濃く残り、そういう組織や人々が存在していたと言えるのかもしれません。
著者は、この点で、下山事件と戦前の張作霖爆殺事件(昭和3年 )との類似性を指摘しています。
後者は、満州軍閥の頭領である張作霖が日本軍部の意図に反して、中央北京への進出を図ろうとしたので、関東軍の河本大佐が国民政府軍の犯行に見せかけて暗殺したものと言われます。
その事件では、満州鉄道が京奉線と立体交差するガード下を列車が通過する際、爆破が起きました。
下山事件の起きた現場と、鉄道のカーブや交差等の情況も良く似た景観を呈しているというわけです。
著者は、戦前のノウハウや経験が、戦後に活かされたと言う分けで、満州で出来た諸々の人脈が、
下山事件に関わっていると示唆しています。
ところで、著者は総帥の矢板氏にいろいろ尋ねる中で、亜細亜産業に戦時中、貴金属が集まってきたと言うことを聞き出しています。
当時、戦争遂行のため、広く国民から貴金属を供出させることが行われておりました。
それは私も両親から聞いたことがあります。
矢板氏によれば、国の機関も関わった金銀運営会と言う組織があり、
その事務所がライカビルにあって、集められた貴金属を潰して、金の延べ棒などにし、
亜細亜産業に集められていたと言うのです。
この大量の金の延べ棒を、著者の大叔母の寿恵子さんは、亜細亜産業で事務の仕事をしていたときに、見せられたと言います。
これらの金の延べ棒は、戦時中、外国での物資の調達等に充てられたとのことですが、戦後、相当残ったと申します。
日銀に入庫されたのもあるが、山分けされたり、例のM資金の一部になったと矢板氏は著者に語っています。
M資金とは、よくマーカット資金と言われるものですが、作り話が多く、しばしば詐欺事件が起きています。
でも、この証言で一部は裏付けがあることが分かります。
著作から・・・・
「葬られた夏」の舞台の肝心なライカビルにあった亜細亜産業
『僕はセピア色の写真にある亜細亜産業についてたずねた。……
「確か、ライカビルといつたかな。会社の事務所が人つていたのは」、
「それは、どこにあつたんですか」
、僕は勢い込んでたずねた。
「確か、室町だつたと思うよ、日本橋の」、
「日本橋というのは、総裁が消息を絶つた三越のある……」、
「そう、目と鼻の先つていう感じじやなかつたかな」。』
この亜細亜産業は米国の諜報機関の日本側窓口になっていた。
またすぐ傍にあった千葉銀行についても、
「キヤノンの工作資金をつくるため、ダイヤの摘発と売却を主な任務にしていた。
集めたダイヤは、ライカビルの真にあつた千葉銀行東京支店の金庫に保管していた。
しかし、奇妙なことに下山事件の直前にいなくなつた。
…「ダイヤは千葉銀行に保管していたんですよね、ライカビルの裏の」、
「詳しいことはわからないけど、千葉銀行がすぐ裏にあつたのは覚えているよ」
…「ライカビルは三階までは亜細亜産業が人つていたけど、その上にはね、銃を扱う男とか、それこそわけのわからん連中がたむろしてたんだ。Sもその一人だつた」
、等と書いています。
下山総裁が三越から地下鉄の駅を伝って連れ出されたのは、
このライカビルの隣の国際貿易会館からです。
トップを喪失した組織
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コメント
「ジャーナリスト同盟」通信
本澤二郎の「日本の風景」(880)
<いま最も勇気ある政治家>
多くの日本人は北朝鮮を嫌っている。
中国に対しても良い感情を抱いていない。
それは悲しい見方でしかない。
なぜなら、かの国には外国の軍隊などいない。
外国の軍事基地さえも。
独立国なのである。
自立しているからだ。
日本は自立していない。
全ての政策をワシントンに委ねている。
対米従属派が東京を支配しているからだ。
既に戦後66年。
ようやく、おかしいと公然と従属派に対抗する動きが表面化してきた。
これこそが日本再生の切り札なのである。
<健全なナショナリズム>
ワシントン支配にNOといえる政治家が現れてきた。
彼らが対米従属派と対決するというのである。
健全なナショナリズムの高揚といっていい。
日米対等論を公約にした民主党である。
松下政経塾は従属派の典型だが、反松下の中には対米自立派が多い。
小沢派や鳩山グループは自立派に違いない。
自民党内のリベラル派にもいる。
社民党や国民新党、共産党なども自立派だろう。
だが、勝負を挑む勇気ある政治家はいない。
と思っていたら、本物の自立派が名乗りを上げた。自立派と従属派の決戦が火ぶたを切ると大号令を発している。
ワシントン・財閥が強要するTPPが第一ラウンドになろうか。
<CIAを恐れない亀井静香>
多くの永田町の政治家の怯えというと、それはCIAに狙い撃ちされることである。
CIAに纏わりつかれると、政界からの失脚が待っている。最悪の場合、命の保証がない。
ハリウッド映画の世界が、日本でも現実のものとなるかもしれないのだ。
田中角栄はロッキード事件で逮捕された。
マスコミと検察が、CIAの手先だという事実を認識していなかったからである。
彼は、直前まで「おれは違う。
軍用機などに関係していない。中曽根だ」と思い込んでいた。
当時の筆者もまるで事情をわかっていなかった。
最近は日米対等論を公約にした鳩山と小沢が、彼らの餌食にされてしまった。
この様子に誰しもが震えあがっている。
対抗しようという勇気のある政治家が皆無なのだ。共産党さえもCIAに楯つく勇気などない。
公明党などは論外だろう。
しかし、こんな日本でいいのか。
いいわけがない。
勇気ある政治家の登場を期待していたのだが、遂に現れた。
国民新党代表の亀井静香である。
彼が最新の雑誌インタビューで対米従属派との決戦を呼び掛けたのだ。
亀井は対米自立派の代表である。
「CIAに殺されるまで戦う」と宣言したのである。
これはすごい。
彼は本物の愛国者である。
万感の思いで支持・支援したい。
遂に本物の日本人・政治家が永田町に現れたことになる。
亀井内閣の誕生が日本独立を約束するだろう。
ワシントンには、寛容なリベラル派も存在する。しかし、対日政策は全て産軍複合体が牛耳っている。軍事優先・緊張政策による利権外交である。
その典型的な政策が沖縄に集中している。
金融など経済政策にも及ぶのだが、ひとたびワシントンから指令が発せられると、霞が関が動き、政権与党を懐柔してしまう構造になっている。
日本をアメリカの属国と受け止めている日本人研究者は多いはずだが、それどころか「属領」と分析している専門家もいる。
日本人であれば、誰でも「おかしい」と思いながら、しかし、それを口に出したりする、行動に起こすことはしない。
第一、久しく右翼団体も飼い猫のようにおとなしかった。
そもそも右翼が対米従属派なのだから。
右翼政治家ほどワシントンに忠誠を誓っている売国奴である。
ようやく賽は投げられた。
亀井が大号令を発した。
マスコミは彼のスキャンダル探しに躍起となるだろう。
警察・検察の公安も蠢くことになろう。
しかし、幸いにも彼は元警察官僚である。
相手の手の内を読める。
かつて後藤田正晴という彼の先輩がいた。
後藤田も事態を認識してはいたが、せいぜい中曽根の暴走外交を止めるのが精一杯だった。
これまでCIAと対決する勇気ある政治家など日本に存在しなかった。
亀井の決起に賛同する政治家が出てくるとみたい。日本は、もはやどうにもならない危機的事態に追い込まれているのだから。
窮鼠猫をかむ、のたとえである。
亀井決起に覚醒する政治家が、次々と出てくるだろう。
それは燎原之火のごとく、である。
胸に手を当てれば、売国奴政治家でいいわけがないのだから。
<従属派・売国奴の代表は岸信介・中曽根康弘・小泉純一郎>
このさい、明確にワシントンに身も心を捧げてきた売国奴政治家を列挙すると、まずはA級戦犯容疑者の岸信介が筆頭だろう。
60年安保改定を強行した人物である。
人は昭和の妖怪と呼んだ。
中曽根康弘は超円高によるバブル経済政策を強行して、とどのつまり経済大国を破綻させた。
平成の妖怪は筆者が名付け親である。
小泉純一郎はワシントンの指令のまま郵政改革を強行した。
さらに弱肉強食の経済に追い込んで、日本社会に格差を持ち込んでしまった。
日本属領内閣そのものだった。
偏狭なナショナリストである。
<日本人なら対米自立派になれ>
対米従属派の官僚政治は完璧に破綻した。
亡国の日本である。
経済大国も福祉の日本も破綻している。
福島原発も収束できない。
何もかもが壊れてしまった。
CIAのワシントンも、である。
もはやアメリカ依存では生きられない。
自立せよ、が唯一の選択である。
亀井に続け、と叫びたい。