2日早朝TBS時事放談:野中と藤井
初めて野中の主張に同意できた部分ー
メデイアが国家未来を狂わしてる
政党は5人の国会議員を含め諸手続きで
成立ー
橋下の維新の会はまだ政党でないー
それをメデイアは日々喧伝してるー
国家のしくみ
政党政治を崩壊してるのはメデイアである
橋下主張を検分しても職員の規制などばかりで
なんら国家の未来を提示してない
それを何故メデイアはこうも賞賛するのか
答えは簡単
それら総てが
アメポチ
だから
維新の会は竹中平蔵をはじめ、その師匠高橋洋一ら
小泉純一郎政治の人脈ー
宗主国の狙いの新自由主義憲法改正のネオコンメンバーが布陣されてる
先輩格の渡辺善美みんなの党さえ飲み込んだ
この国はいまだマッカーサー指令の
植民地国の
訓示を
護りとうそうとしてるからだー
9月2日
は
敗戦記念日
..
戦艦ミズーリー号
戦艦ミズーリは、この降伏調印が行われた場所として有名になっていますが、この戦艦が活躍した最大の見せ場!は
3・11復興で苦しんでるところと同じの
艦砲射撃による釜石攻撃
昭和20年7月の艦砲射撃で、室蘭、釜石、日立、浜松と順に攻撃した主力がこの戦艦による砲撃でした。
それに参加した艦船は、アメリカの戦艦アイオワ、ミズーリ、ニュージャージー、ウィスコンシン、サウスダコタ、インディアナ、マサチューセッツ、アラバマ、ノースカロライナ。
イギリスの戦艦キングジョージ5世、と、それらの船団だったとの事。
ともあれ、その時の ズシン ズシン との無気味な音は山形市にも聞こえていましたよ ----
その時は、一体何の音かと訝げに聞き続けていましたね。
それが、艦砲射撃によるものだ、と知ったのは数日後だった記憶があります
67年前の今日、日本は無条件降伏しました。
その降伏の意味を、もう一度確認することが、現在の日本の再生のためには避けて通れない時代になりつつあるように思います。
孫崎亨著「戦後史の正体」の第一章「終戦から占領へ」
25P~35Pよりー。
九月二日、日本は降伏文書に署名しました
みなさんは、この降伏文書を読んだことがありますか
さて、日本が終戦記念日を八月十五日とし、
九月二日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。
あります。
それは九月二日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。
あきらかに「降伏」した日なわけですから。
そう、日本は八月十五日を終戦の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。
しかし「降伏」ではなく「終戦」という 言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。
それが日本の戦後だったといえるでしょう。
略
日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」こと
これが降伏文書の中身でした
降伏文書には、「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」
「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」
ということが書かれています。
日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。
略
一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行なわれました。
ミズーリ号を調印の場「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、(略)米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行なう」(『トルーマン回顧録』)
といのうが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。
略
しかし結局、当時外務大臣だった重光葵と梅津参謀総長が全権代表になり、調印することになりました。
このとき隋員として参加した加藤俊一(開戦時の外相秘書官兼北米担当課長)は、出発の際、母親から「降伏の団に加わるように育てたつもりはない」といわれたそうです。
この調印式について、重光外務大臣は次のような句をのこしています。
神国 の 栄え行くなる一里塚 ならぬ堪忍する日の来りぬ
願 ( ねがわ )くは 御国 ( みくに )の末の栄 ( さか )え行 ( ゆ )き 我 ( わが )名 ( な )さげすむ人の多きを
重光にしてみれば、他の人たちと同じく、降伏という屈辱的な任務にはつきたくない。
「連合国最高司令官に要求されるいっさいの命令を出し、行動をとることを約束する」なんていう文章に署名したくはない。
屈辱そのものだからです。
それがひとつ目の句の「ならぬ堪忍」の意味です。
ふたつ目の句の意味は、「降伏文書に署名することで、自分を軽蔑する人が多く出るだろう。
しかし、将来日本が栄えるための捨て石が必要なら、あえて自分がその捨て石になろうではないか」というものです。
日本は一九四五年九月二日、降伏しました。
「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。
それが、一九四五年九月二日から一九五一年九月八日(日本時間九日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
事実、一九四五年九月二日、日本は降伏文書に署名した直後、降伏とはなにを意味するかというきびしい現実を思い知らされることになります。
「日本を米軍の軍事管理のもとにおき、公用語を英語とする」
「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」
「通貨を米軍の軍票とする」
というのが、最初の布告案でした。
略
報告を聞いた重光は、せっかくマーシャル少将が延期してくれるといっても、マッカーサーが「やっぱりすぐに布告を出せ」といったら元も子もないから、「これからふたりでもう一度横浜に行って、マッカーサーに直接交渉してみよう」と岡崎にいいます。
この時点でマッカーサーは、天皇、首相、両院議長以外には会わないという方針を立てていたのですが、重光は日本の官僚として初めて、マッカーサーと会見することに成功します。
「九月三日午前八時ごろ、横浜税関に到着して、マッカーサーを待ちぶせすることになった。
このときマッカーサー元帥は非常に機嫌がよくて、重光さんの話をじっと聞き入って、ややしばらく考えたうえ、
『日本側のいうことはよくわかった。この布告は自分の権限で全部とりやめることにする』
とはっきりいってくれた」(同前)
重光はこのとき、どのような言葉でマッカーサーを説得したか。
著書『昭和の動乱』(中央公論社)のなかに次のように書いています。(口語訳)「ポツダム宣言は、あきらかに日本政府の存在を前提としており、日本政府の代わりに米軍が軍政をしくというようなことを想定していません。(略)
もしポツダム宣言を誠実に実行しようとするなら、日本政府によって占領政策を行なうことが賢明だと考えます。
もしそうでなく、占領軍が軍政をしいて直接に行政を行なおうとするなら、それはポツダム宣言には書かれていないことを行なうことになり、混乱を引き起こす可能性があります」
重光はまず、今回計画された三布告は、日本と連合国が合意したポツダム宣言とは矛盾しているという原則論をのべています。
そのうえで、もしも条文にない措置をとるなら、それは混乱を引き起こす可能性があるとして、三布告を撤回することが結局は米国の利益になると説いています。素晴らしい交渉能力です。
ただ、重光もこの交渉に成算ありと思ってのぞんでいるわけではありません。
重光はこのときの気持ちを託してよんだ歌を『続 重光葵手記』に書いています。
折衝 の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ
もし、この三布告を撤回させることができなければ、
「死んでも帰らないぞ」
という決死の覚悟でのぞんでいたわけです。
略
このとき重光に「米国に追随すればよい」という気もちはまったくありません。自分が正しいと思うことだけを堂々と主張しています。
「死んでも帰らない」という思いを胸に抱いているのです。
彼は昭和の初め、中国との停戦交渉を行なっている時期に、上海での天長節(天皇誕生日)の式典でテロに会い、右足を切断しています。
そういう人ですから、この交渉には大変な気迫がこもっていたと思います。
略
重光外相は、降伏文書調印した9月2日のわずか2週間後、
9月17日に外務大臣を辞任させられています。
・・・以上・・・
8月15日の終戦の日は、戦争が終わった日であり、未来へ向けて戦争を終わらせるべき日、として私たちの非戦の意志を再確認するために大切な日であると思いますが、
その後の日本の歩みをみると、沖縄の米軍基地に象徴されるように米国の意向に常に従ってしまうようで、歯がゆい思いがします。
重光外相は、教養もしっかり身につけておられた方のようですが、9月2日、降伏文書調印の日に、
日本の植民地化を防ぎ、対米自立の姿勢を貫こうとしたこのような政治家がいたことを思い起こすことは大切なことではないかと思います。
ポツダム宣言
降伏文書
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政党は5人の国会議員を含め諸手続きで
成立ー
橋下の維新の会はまだ政党でないー
それをメデイアは日々喧伝してるー
国家のしくみ
政党政治を崩壊してるのはメデイアである
橋下主張を検分しても職員の規制などばかりで
なんら国家の未来を提示してない
それを何故メデイアはこうも賞賛するのか
答えは簡単
それら総てが
アメポチ
だから
維新の会は竹中平蔵をはじめ、その師匠高橋洋一ら
小泉純一郎政治の人脈ー
宗主国の狙いの新自由主義憲法改正のネオコンメンバーが布陣されてる
先輩格の渡辺善美みんなの党さえ飲み込んだ
この国はいまだマッカーサー指令の
植民地国の
訓示を
護りとうそうとしてるからだー
9月2日
は
敗戦記念日
..
戦艦ミズーリー号
戦艦ミズーリは、この降伏調印が行われた場所として有名になっていますが、この戦艦が活躍した最大の見せ場!は
3・11復興で苦しんでるところと同じの
艦砲射撃による釜石攻撃
昭和20年7月の艦砲射撃で、室蘭、釜石、日立、浜松と順に攻撃した主力がこの戦艦による砲撃でした。
それに参加した艦船は、アメリカの戦艦アイオワ、ミズーリ、ニュージャージー、ウィスコンシン、サウスダコタ、インディアナ、マサチューセッツ、アラバマ、ノースカロライナ。
イギリスの戦艦キングジョージ5世、と、それらの船団だったとの事。
ともあれ、その時の ズシン ズシン との無気味な音は山形市にも聞こえていましたよ ----
その時は、一体何の音かと訝げに聞き続けていましたね。
それが、艦砲射撃によるものだ、と知ったのは数日後だった記憶があります
67年前の今日、日本は無条件降伏しました。
その降伏の意味を、もう一度確認することが、現在の日本の再生のためには避けて通れない時代になりつつあるように思います。
孫崎亨著「戦後史の正体」の第一章「終戦から占領へ」
25P~35Pよりー。
九月二日、日本は降伏文書に署名しました
みなさんは、この降伏文書を読んだことがありますか
さて、日本が終戦記念日を八月十五日とし、
九月二日としていないことに、なにか意味があるのでしょうか。
あります。
それは九月二日を記念日にした場合、けっして「終戦」記念日とはならないからです。
あきらかに「降伏」した日なわけですから。
そう、日本は八月十五日を終戦の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。
しかし「降伏」ではなく「終戦」という 言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。
それが日本の戦後だったといえるでしょう。
略
日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」こと
これが降伏文書の中身でした
降伏文書には、「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」
「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束する」
ということが書かれています。
日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」ことを約束したのです。
略
一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印式が行なわれました。
ミズーリ号を調印の場「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、(略)米艦隊のなかでもっとも強力な軍艦の上で行なう」(『トルーマン回顧録』)
といのうが、戦艦ミズーリ号が選ばれた理由でした。
略
しかし結局、当時外務大臣だった重光葵と梅津参謀総長が全権代表になり、調印することになりました。
このとき隋員として参加した加藤俊一(開戦時の外相秘書官兼北米担当課長)は、出発の際、母親から「降伏の団に加わるように育てたつもりはない」といわれたそうです。
この調印式について、重光外務大臣は次のような句をのこしています。
神国 の 栄え行くなる一里塚 ならぬ堪忍する日の来りぬ
願 ( ねがわ )くは 御国 ( みくに )の末の栄 ( さか )え行 ( ゆ )き 我 ( わが )名 ( な )さげすむ人の多きを
重光にしてみれば、他の人たちと同じく、降伏という屈辱的な任務にはつきたくない。
「連合国最高司令官に要求されるいっさいの命令を出し、行動をとることを約束する」なんていう文章に署名したくはない。
屈辱そのものだからです。
それがひとつ目の句の「ならぬ堪忍」の意味です。
ふたつ目の句の意味は、「降伏文書に署名することで、自分を軽蔑する人が多く出るだろう。
しかし、将来日本が栄えるための捨て石が必要なら、あえて自分がその捨て石になろうではないか」というものです。
日本は一九四五年九月二日、降伏しました。
「米国のいうことにはなんでもしたがいます」というのが条件です。
それが、一九四五年九月二日から一九五一年九月八日(日本時間九日)のサンフランシスコ講和条約までの日本の姿なのです。
事実、一九四五年九月二日、日本は降伏文書に署名した直後、降伏とはなにを意味するかというきびしい現実を思い知らされることになります。
「日本を米軍の軍事管理のもとにおき、公用語を英語とする」
「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」
「通貨を米軍の軍票とする」
というのが、最初の布告案でした。
略
報告を聞いた重光は、せっかくマーシャル少将が延期してくれるといっても、マッカーサーが「やっぱりすぐに布告を出せ」といったら元も子もないから、「これからふたりでもう一度横浜に行って、マッカーサーに直接交渉してみよう」と岡崎にいいます。
この時点でマッカーサーは、天皇、首相、両院議長以外には会わないという方針を立てていたのですが、重光は日本の官僚として初めて、マッカーサーと会見することに成功します。
「九月三日午前八時ごろ、横浜税関に到着して、マッカーサーを待ちぶせすることになった。
このときマッカーサー元帥は非常に機嫌がよくて、重光さんの話をじっと聞き入って、ややしばらく考えたうえ、
『日本側のいうことはよくわかった。この布告は自分の権限で全部とりやめることにする』
とはっきりいってくれた」(同前)
重光はこのとき、どのような言葉でマッカーサーを説得したか。
著書『昭和の動乱』(中央公論社)のなかに次のように書いています。(口語訳)「ポツダム宣言は、あきらかに日本政府の存在を前提としており、日本政府の代わりに米軍が軍政をしくというようなことを想定していません。(略)
もしポツダム宣言を誠実に実行しようとするなら、日本政府によって占領政策を行なうことが賢明だと考えます。
もしそうでなく、占領軍が軍政をしいて直接に行政を行なおうとするなら、それはポツダム宣言には書かれていないことを行なうことになり、混乱を引き起こす可能性があります」
重光はまず、今回計画された三布告は、日本と連合国が合意したポツダム宣言とは矛盾しているという原則論をのべています。
そのうえで、もしも条文にない措置をとるなら、それは混乱を引き起こす可能性があるとして、三布告を撤回することが結局は米国の利益になると説いています。素晴らしい交渉能力です。
ただ、重光もこの交渉に成算ありと思ってのぞんでいるわけではありません。
重光はこのときの気持ちを託してよんだ歌を『続 重光葵手記』に書いています。
折衝 の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ
もし、この三布告を撤回させることができなければ、
「死んでも帰らないぞ」
という決死の覚悟でのぞんでいたわけです。
略
このとき重光に「米国に追随すればよい」という気もちはまったくありません。自分が正しいと思うことだけを堂々と主張しています。
「死んでも帰らない」という思いを胸に抱いているのです。
彼は昭和の初め、中国との停戦交渉を行なっている時期に、上海での天長節(天皇誕生日)の式典でテロに会い、右足を切断しています。
そういう人ですから、この交渉には大変な気迫がこもっていたと思います。
略
重光外相は、降伏文書調印した9月2日のわずか2週間後、
9月17日に外務大臣を辞任させられています。
・・・以上・・・
8月15日の終戦の日は、戦争が終わった日であり、未来へ向けて戦争を終わらせるべき日、として私たちの非戦の意志を再確認するために大切な日であると思いますが、
その後の日本の歩みをみると、沖縄の米軍基地に象徴されるように米国の意向に常に従ってしまうようで、歯がゆい思いがします。
重光外相は、教養もしっかり身につけておられた方のようですが、9月2日、降伏文書調印の日に、
日本の植民地化を防ぎ、対米自立の姿勢を貫こうとしたこのような政治家がいたことを思い起こすことは大切なことではないかと思います。
ポツダム宣言
降伏文書
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