神の国日向
2005年1月11日宮崎の説明をするに南北に長い地理的特徴にあり、降り注ぐ太陽をあげとけば まずは間違いない。
今年になってお日様を仰がぬ日はない。実にありがたい。
西に走って90KMで鹿児島と分ける霊峰霧島連山にいたる。
待ち合わせは、御池の駐車場11時である。
近くの家に太陽光発電を施工できるや否やの現地調査である。
同行の甲○さんは少しずつこの仕事の大意を汲み取ってもらっている。
皇国史観の戦前ならばとてもありがたき地が点在する。
現に霧島神社には明治天皇が2度もお見えになりご宿泊所も現地であった由。
サーヤでしのいだ天皇家であったようだが憲法にかかわる家柄でもあり今年はさらに大変であろう。
霧島一帯は初代天皇神武の幼少期たる言い伝えで皇子原 という。
関連する神社は6社で霧島神宮、狹野神社、夷守神社・霧島岑神社合祀、霧島東神社、東霧島神社。
いずれも国幣、官幣神社で16菊の家紋を用いている。
狹野神社にお参りした。おみくじは、よし!
神社より西約一キロメートル高千穂峰の麓で、神武天皇御降誕の聖地と伝えられている。
狹野神社までは鬱蒼とした杉ではないが樹齢400年の杉が1KMも続く参道を堪能した。
狭野杉 と呼ばれ神社参道及び境内の老杉は、島津氏が植栽したと伝えられ、現在八本を存し、大正十三年国の天然記念物に指定されている。
社伝によれば 孝昭天皇(人皇第五代)の御代 神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があつたのが神社の創祀という。
桓武天皇 延暦七年(七八八)霧島嶽噴火により社殿炎上、その後噴火の度に遷座
(現高崎町東霧島神社等)されたが慶長十五年(一六一〇)旧狭野に創建
神武天皇、御幼名 狭野尊に由来とある。
神日本磐余彦天皇神武天皇、御幼名 狭野尊・・・
社史でさえ満足には理解できていないので書き写して手帳を見ながら書いてる次第
神社とか大社とか官幣、国幣、県・村社と違いの差にたじろぐ場合がある。
狹野神社は官幣大社ですぞ!そんじゅそこいらの田舎神社とは格が違う
ここいらで違いを紐解いてみると・・・
近代社格制度。明治政府によって定められた神社の格に関する制度。
維新政府は成立以来神社の全国的掌握や神社調査を進めてきたが、その調査が一段落したので明治四年(一八七一)五月十四日には、
近代社格制度の基礎となった太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」を公布
、神社の格を大きく官社と諸社に分類し、官社として九十七社を列格した。
官社には官幣の大中小社、国幣の大中小社があり
、官幣社は神祇官が、国幣社は地方官が祭るものとされ、それぞれ神祇官の所管とされた。
「官幣」「国幣」の名称は『延喜式』の社格を踏襲したものである。
また諸社には府社、藩社、県社および郷社が置かれたが、藩社は同年七月十四日の廃藩置県によって藩が消滅したために、実際に藩社に列格された神社はなかった。
当初官社として列格されたのは九十七社で、(中略)この後、官幣・国幣の大中小社のいずれにも分類できない神社として別格官幣社の制度が導入された。
(中略)また郷社の下に村社設けられたが、これは四年七月四日の「郷社定則」で郷社の附属として設けられたもので、
同年五月の太政官布告ではいまだ存在していない社格であった。
このように近代の社格制度は四年五月の太政官布告でその基礎が成立したのであるが、この時点ではなお流動的であり、
その後神社調査の進展によって続々と官社や府県社、郷社に列格、あるいは昇格される神社が増加し、敗戦時には約二百二十余りの神社が官社に列格された。
この夜分にお客さんである。・・まったく・・・
続き
日本が、本当に変わりだしている。
初春を迎え、初詣の風景は変わってないがその心うちの大いなる変化。
日本は、もともと八百万の神々の国。これが、アマテラスの下に強引に、各地のすべての産土(うぶすな)神までひとつに纏められたのは、明治維新。
戦前までは大蔵省・宮内省が管理し、官幣神社には多くの
資金援助がなされた。
戦後は、新憲法のもと官幣だった各神社は神社本庁が管轄し法的には一宗教団体になる。
神社本庁は、明治神宮の中にあり、全国の参拝者の多い神社から奉賛金を受け、それをまず伊勢神宮の運営費に収め、さらに全国のいろいろな神社に配分する。
今、この神社本庁と明治神宮との間で、対立が生まれている。
国家神道で一つに強引に押さえ込まれたのは、日本国民とは、天から降りてきた来た天孫族として、ナショナリズムを高揚するためである。
アマは、海であり、多くのは渡来系の部族が、この島国で融合していったのが、真実の歴史。 それを一つの物語に、強引に纏めたのが、古事記日本書紀。
21世紀は狭き地球いっぱいに行動範囲が広がり、多くの海外の友人と繋がる時代。ネット世界は、はやそれが実現されている。
全国の各神社の正しい謂れ、そして各地に残る伝承・祭りが復活しよう。
この日本列島で、虐げられ支配され各部族が一つになっていったのか、全世界の民族との接点の歴史も見えてこよう。
ライフ・スタンスという言葉がある。サファリー・パークで体験する
野生動物などに対峙するときに、最低限これだけ離れていれば安全と言われる距離のことだ。
神社を訪れるときにもこれは存在するマナー。
禁足地とされる部分である。
神社・神域とは人の祈りをエネルギーとして力を蓄える反面、
その聖地には人が踏み込むと穢れる。
穢れにより悪いものへと姿を変える神々
人もお参りしない無惨な神社が時代の風景を見据えている。
寂れたからこないのかこないから寂れたのか。
新たに穢れには立ち向かおうとはしない。
この民族には新しき宗教が蔓延り、静かに政治的にも支配を完了しようとしている。
土着の産土神がどこまで黙って心象風景として傍観者足りうるか。
民族と宗教は切れない運命がある。
自然の環境の中でしかホスピタルは存在しない。
怒りは頂点にたとうとしてる。
解き放たれた神々の行方を知るものは少なくなっている。
穢れは大和人のもっとも恐れるものであったはずだ、
しとねは忘却できない。
西都原のご陵墓の発表が待たれる。
日野光幸市長の選挙も迫っている。
神々が見届ける結果は下馬評通りで終わりうるか。
今年になってお日様を仰がぬ日はない。実にありがたい。
西に走って90KMで鹿児島と分ける霊峰霧島連山にいたる。
待ち合わせは、御池の駐車場11時である。
近くの家に太陽光発電を施工できるや否やの現地調査である。
同行の甲○さんは少しずつこの仕事の大意を汲み取ってもらっている。
皇国史観の戦前ならばとてもありがたき地が点在する。
現に霧島神社には明治天皇が2度もお見えになりご宿泊所も現地であった由。
サーヤでしのいだ天皇家であったようだが憲法にかかわる家柄でもあり今年はさらに大変であろう。
霧島一帯は初代天皇神武の幼少期たる言い伝えで皇子原 という。
関連する神社は6社で霧島神宮、狹野神社、夷守神社・霧島岑神社合祀、霧島東神社、東霧島神社。
いずれも国幣、官幣神社で16菊の家紋を用いている。
狹野神社にお参りした。おみくじは、よし!
神社より西約一キロメートル高千穂峰の麓で、神武天皇御降誕の聖地と伝えられている。
狹野神社までは鬱蒼とした杉ではないが樹齢400年の杉が1KMも続く参道を堪能した。
狭野杉 と呼ばれ神社参道及び境内の老杉は、島津氏が植栽したと伝えられ、現在八本を存し、大正十三年国の天然記念物に指定されている。
社伝によれば 孝昭天皇(人皇第五代)の御代 神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があつたのが神社の創祀という。
桓武天皇 延暦七年(七八八)霧島嶽噴火により社殿炎上、その後噴火の度に遷座
(現高崎町東霧島神社等)されたが慶長十五年(一六一〇)旧狭野に創建
神武天皇、御幼名 狭野尊に由来とある。
神日本磐余彦天皇神武天皇、御幼名 狭野尊・・・
社史でさえ満足には理解できていないので書き写して手帳を見ながら書いてる次第
神社とか大社とか官幣、国幣、県・村社と違いの差にたじろぐ場合がある。
狹野神社は官幣大社ですぞ!そんじゅそこいらの田舎神社とは格が違う
ここいらで違いを紐解いてみると・・・
近代社格制度。明治政府によって定められた神社の格に関する制度。
維新政府は成立以来神社の全国的掌握や神社調査を進めてきたが、その調査が一段落したので明治四年(一八七一)五月十四日には、
近代社格制度の基礎となった太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」を公布
、神社の格を大きく官社と諸社に分類し、官社として九十七社を列格した。
官社には官幣の大中小社、国幣の大中小社があり
、官幣社は神祇官が、国幣社は地方官が祭るものとされ、それぞれ神祇官の所管とされた。
「官幣」「国幣」の名称は『延喜式』の社格を踏襲したものである。
また諸社には府社、藩社、県社および郷社が置かれたが、藩社は同年七月十四日の廃藩置県によって藩が消滅したために、実際に藩社に列格された神社はなかった。
当初官社として列格されたのは九十七社で、(中略)この後、官幣・国幣の大中小社のいずれにも分類できない神社として別格官幣社の制度が導入された。
(中略)また郷社の下に村社設けられたが、これは四年七月四日の「郷社定則」で郷社の附属として設けられたもので、
同年五月の太政官布告ではいまだ存在していない社格であった。
このように近代の社格制度は四年五月の太政官布告でその基礎が成立したのであるが、この時点ではなお流動的であり、
その後神社調査の進展によって続々と官社や府県社、郷社に列格、あるいは昇格される神社が増加し、敗戦時には約二百二十余りの神社が官社に列格された。
この夜分にお客さんである。・・まったく・・・
続き
日本が、本当に変わりだしている。
初春を迎え、初詣の風景は変わってないがその心うちの大いなる変化。
日本は、もともと八百万の神々の国。これが、アマテラスの下に強引に、各地のすべての産土(うぶすな)神までひとつに纏められたのは、明治維新。
戦前までは大蔵省・宮内省が管理し、官幣神社には多くの
資金援助がなされた。
戦後は、新憲法のもと官幣だった各神社は神社本庁が管轄し法的には一宗教団体になる。
神社本庁は、明治神宮の中にあり、全国の参拝者の多い神社から奉賛金を受け、それをまず伊勢神宮の運営費に収め、さらに全国のいろいろな神社に配分する。
今、この神社本庁と明治神宮との間で、対立が生まれている。
国家神道で一つに強引に押さえ込まれたのは、日本国民とは、天から降りてきた来た天孫族として、ナショナリズムを高揚するためである。
アマは、海であり、多くのは渡来系の部族が、この島国で融合していったのが、真実の歴史。 それを一つの物語に、強引に纏めたのが、古事記日本書紀。
21世紀は狭き地球いっぱいに行動範囲が広がり、多くの海外の友人と繋がる時代。ネット世界は、はやそれが実現されている。
全国の各神社の正しい謂れ、そして各地に残る伝承・祭りが復活しよう。
この日本列島で、虐げられ支配され各部族が一つになっていったのか、全世界の民族との接点の歴史も見えてこよう。
ライフ・スタンスという言葉がある。サファリー・パークで体験する
野生動物などに対峙するときに、最低限これだけ離れていれば安全と言われる距離のことだ。
神社を訪れるときにもこれは存在するマナー。
禁足地とされる部分である。
神社・神域とは人の祈りをエネルギーとして力を蓄える反面、
その聖地には人が踏み込むと穢れる。
穢れにより悪いものへと姿を変える神々
人もお参りしない無惨な神社が時代の風景を見据えている。
寂れたからこないのかこないから寂れたのか。
新たに穢れには立ち向かおうとはしない。
この民族には新しき宗教が蔓延り、静かに政治的にも支配を完了しようとしている。
土着の産土神がどこまで黙って心象風景として傍観者足りうるか。
民族と宗教は切れない運命がある。
自然の環境の中でしかホスピタルは存在しない。
怒りは頂点にたとうとしてる。
解き放たれた神々の行方を知るものは少なくなっている。
穢れは大和人のもっとも恐れるものであったはずだ、
しとねは忘却できない。
西都原のご陵墓の発表が待たれる。
日野光幸市長の選挙も迫っている。
神々が見届ける結果は下馬評通りで終わりうるか。