活気!

2007年5月27日
5/26日日経に「コミュニチィスクール」第1号の紹介が一面左にある
コミュニティースクールとは住民や保護者でつくる協議会が教育方針を決めることを言う。
少子化のこの時期人が集まりすぎ教室がパンク状態。

足立区五反野小。
今の子供に足りないこと。徹底的に協議し、方針とする。
毎朝15分の基礎反復ドリル、英語、パソコン教室
数値目標を立てての挨拶。
全家庭参加のボランテア。保護者による教員評価。
地域の力が学校を後押しする。

なあ〜んだ。かんたんなことである。
教育委員会よく認めてくれたものだ。

これは過疎化にあえぐ事のヒントにあると思えないか。
それは苦悩にあげいてる宮崎県の策とはまったく違う。

読売5/26の記事。
宮崎の田舎暮らしPR、県外からの移住を勧める。
県がビデオやガイド本を作成。
自然が豊か、人が優しく、親切
不便なとこは
車がないと不便、仕事がない。
県庁HP「宮崎ふるさと暮らしリサーチ」に一部がある。

「教育サービス機能が高いほど人の流れの波が多い」
日本政策投資銀行の全国200の増減調査から得た結論。

学ぶ環境に引かれて人が流入、
人が集まることは都市機能を充実させ、人を呼び込む環境になる。

品川区立一貫校五反田・日野学園、西大井・伊藤学園
可動床で水深が変わるハイテクプール。大型体育館、130億円かけた先端授業。

千代田区九段中等教育学校は難関大学合格を目指す内容。

三重県津市南が丘小。
箏、水墨画、陶芸、茶道・・・目白押し。専門家が先生。
学資ファンド年100万で運営。
寄付や月謝で毎年ためる。
その資金で講師を呼ぶ教育。

これからは地域ごと教育内容に差が出る。どこでも同じは神話。
教育サービスの質で住民から選ばれる地域、自治体となる。

何もしなくても入学する時代は終わった。
無為無策でいていいはずはない。
社会総がかりである。
そのまんま知事の意気込みに似ている。
わかるがなんか違うんだなぁ〜あ。

県庁旅行者は8000人を超え予約でいっぱい、韓国ツアー100人は売り出し日の完売。
知事公舎には1000人以上が押し寄せる。
大賞の匂いの文書資料館のカフェー化のアイデア。
フイーバーはとどまることを知らない。

発想は鋭いが一騒ぎの域で必死になっている感で重みにかける。
今はその時期なんだろうな。売りだし中。
全国に活気を見せ付ける。

ただ、過疎はとまらないし、いつまでも田舎の県。
それはいいが、生活できる環境の整備の施策である。
なんか薄っぺらな政治形態の気がする。

街には音楽が満ち溢れている。
警察音楽祭の余韻。
・・・
医学会がシーガイヤで開催されてるようで、そちらに出てみるか。
高木か覚兼の展示会もあるようだ。
路面のアスファルトの照り返し・・暑い!夏になっている。

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兄弟にして力をあわせライバルにもなりお家の繁栄に尽くすのは日向の地の神々・海幸山幸と古代より語りつくされている。
兄弟が相反する場合も多く見られる。
平家あらずんば人にあらずと権勢ををほしいままにした平家も源頼朝義経兄弟の奮闘振りにその栄華も潰えた。
曽我兄弟はその鎌倉幕府の高官・工藤祐経(すけつね)を討つ話で、高田馬場、赤穂浪士とともに日本三大仇討ち話。、
講談浪曲の話芸の好評の演題の出し物。

お家繁栄は時代が下れば国家に置き換えられる。
日露戦争を勝利させた陸海のトップ松山の人・秋山 好古・真之兄弟は落とせない。
秋山好古は世界最強のコサック騎兵と戦い勝利。

秋山真之は日本海海戦では遠来の世界最強のバルチック艦隊を撃破した。
「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ
、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」
真之の名文は正岡子規と東京・神田に下宿した仲で言い尽くせてるのではなかろうか。

男の本懐、義侠心は次のエピソードで十分であろう。
孫文に日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日
に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される(後任は鈴木貫太郎)。

記念館にたつ真之を詠んだ歌
?梅が香や おまえへとあしの 子規真之(しきしんし)?・・・酒井 黙禅・・

酒井 黙禅-(もくぜん−1883〜1972年)は、福岡県柳川の人、
松山赤十字病院長を勤め、俳句は子規の門下、俳誌「柿」を創刊した。
「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみを込めて表現したもの

明治大正昭和の言論界のトップは熊本の人徳富蘇峰・蘆花兄弟がいる。
「将来の日本」が好評で上京して国民の友を発刊、国民新聞を出す。
大正12年の大震災以降は経営から身を引き言論人に徹する。

兄弟は日向の内藤治世の城下町延岡を数次訪れてる。
宮崎は詩界の芥川賞たるH賞を杉谷、本多と連続年輩出した稀有の県。
詩人は多くいる。金丸桝一は賞には一歩届かなかったが地元紙の詩の選者を務めた。
せきやん史観では渡辺修三の先駆があったればこそと思っている。

徳富兄弟が逗留した延岡の渡辺家は詩人・渡辺修三の実家であった。
蘆花が延岡に来たときは修三5歳で村の入り口まで迎えに出向いている。

蘆花の兄と離れたる後の処女作「灰儘」は西南戦争の延岡の可愛愛岳の場面から始まる。
西郷軍に従軍した3人兄弟の末っ子が隊列からはずれ生き延びた。
戦後家に帰ると待ってた言葉は兄と親からの「死んでくれ」
「可愛ヶ岳で死ぬのだった!」
男は腹を切る。これでお家安泰と思いきや日夜息子の影にさいまれていた母が火を出し名家は灰儘に帰す
圧倒的な火事の描写は旧制度の火葬。そういえば延岡の連続火災犯人捕まってないナ。
ブログに書いてマッチポンプの芸能人の卵もいたのでクワバラクワバラ。
古い家族制度を否定兄をも否定し国民新聞を辞した。

柳田國男は新たなるジャンルたる民俗学を打ち立てた。
そのきっかけは3度にわたる日向訪問からである。
椎葉村の狩猟生活、焼畑農耕に驚き「後狩詞記」(ノチノカリキコトバノキ)をあらわす。
その後遠野物語をあらわす。
信仰生活の歴史、昔話、口承、独創性と新発見をする。

日本には神社仏閣がなぜにこうも存在するのか。
国の成り立ちからして死者にたいする畏れ霊魂を沈めることカラではないかとこの国を見た。
神官の出の折口信夫がそのごの研究を引き継いだ。大正6年31さい日向入り土俗と伝記に書いた。
「古代研究」もなしている。釈超空・・超は左はしんにゅう変換できません
多くの歌が残っている、

児湯の山棚田の奥に妹と夫と飯はむ家を我は見にけり

日ののちをいきれ残れり茶臼原の夏のうぐいすは草ごもり鳴く

私がこの地を通ったのは武者小路実篤が新しき村を発起して日向の奥に引っ込んだ時分である
うたの解説は続く

日輪神社は
惨殺された太子一族の怨霊を鎮めるためと梅原猛

聖徳太子の見直し
「悪行の聖者」篠崎紘一・著、新人物往来社刊
仇討ち殺人者としての592年馬子

031代 : 用明天皇は崇峻(すしゅん)天皇が毒殺
蘇我馬子と意見対立して殺されてしまいました
033代:推古天皇を樹立。

うしろめたさ、悩み苦悩
仏はすべての罪から救ってくれる。
仏教の擁護派になる。斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『
593(推古元)年  厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造る
※神仏への約束を守ったわけである

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