ネトウヨ2ちゃんねる崩れの戦争賛美者。
国家を破壊した小泉竹中信奉者。
猿骨骸骨ブログ主唱者。
あれで象牙の塔に潜んでるようだから
この国の最高教育機関もタカが知れている。
爺目みたいに中学教育さえ満足に終えてなきほうがよっぽど真とも。
何年になろうや。
日々監視してる爺虐めを楽しんでる輩・猿骨骸骨
自分の収めたものに自信あるなら犬の遠吠でなく
正々堂々
副島学問道場ででも
オープン化されてる植草元教授にでも
挑んでみればいい。
ソレは出来ない。
そこまでする学問の造詣はない。
HPでよみとれる。
丸写し。
笑える程度のそこ浅きもの。
なにが学問と呼べよう。
まぁ爺目程度が丁度良いらしい。
ただこちらはそう老い先ない。
化けて祟ってやろう。
猿骨骸骨の周りに起きる不可解は物の怪の祟りが憑いてる
間違いなかろう。
末代にまで祟りが起きよう
島津支藩のDNAは怖いでッセ。
こいつに仕打ちを喰らうゆえ
リンクの方々は去っていく。
類がその人たちにも及ぶ。
<申し訳ない気持ちでイッパイである。>
この爺目ブログに書き込みナゾシテ会話をすると
猿骨骸骨がその方のところに行き嫌がらせ。
せきやんブログ孤立化と執念深い異様さ。
ここまで生きてて初めてのこと。
今朝から緊張でおののいていたが無事終えた。
励ましのカキコに涙した。
どうにも人生の先輩とお見受けいたしている。
勇気ある
そして温かみあるおこ言葉に重ねて
書き込みに感謝いたします。
お礼を込めて人間山脈と著してみたい。
人間は共生であるべき。
弱気を虐めるではない。
戦争ほど国家破壊方向ほど弱いもの虐めが生じる悲劇にしてはいけない。
書き込みいただいた方に奉げます。
ストカー鼻歌気分ではチョト重い
♪マコ甘えてばかりでゴメンネ♪
「愛と死をみつめ」歌ってた歌手。
青山京子のスッーと伸びた肢体に長き髪
ニッコリでもなく秘めた笑顔にエロチック性なきの清純さ。
永久の愁いの松原千恵子にどこか似ている。
原節子の如し清純さを秘めた妖艶さやモナリザに見るもなはに。
爺目の異性感がそうなさせるのであろうか。
1964年のあの時期に日本コロムビアよりシングルレコード
同年第6回日本レコード大賞受賞曲の栄誉に輝いた。。
記憶はいい加減なもの。
「ミコとマコ、マコとミコ」
どっちがどっち?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6
実話であったものが著作となった。
たしか延長で播州平野まで読んだ記憶がある。
1964年監督:斎藤武市 で日活映画公開
高野誠 - 浜田光夫
小島道子 - 吉永小百合
ほかにも
小島正次 - 笠智衆
道子の母 - 原恵子
K先生 - 内藤武敏
患者
和歌山のおじさん - 山田禅二
中山仙十郎 - 宇野重吉
吉川ハナ - 北林谷栄
佐竹トシ - ミヤコ蝶々
中井スマ - 笠置シヅ子
レンタルビデオで楽しめる
TBSテレビでは
河野実(マコ) - 山本学
大島みち子(ミコ) - 大空真弓
調べ追うは爺目には現象がある。
長野の父の記憶なしの人が作家・水上勉の子息であることを知る。
その人の著作を触れるが如しである。
幼き頃より憧れであった眼帯と松葉杖のご褒美の勲章一つ戴けない時代のようである。
手術ベルトコンベアー。
爺目幼児の頃の田舎の仕来たりなら
村中の出揃っての「カンメリ」==神様お参り
入院なぞ仰々しいもの一切なし簡素化。
初めての手術台は・・・
その前のセオリー手術患者着に着替える
エアー殺菌室を経て
進まぬ前への歩行を
左手で爺目の左手を持ち右手で背中にあて
「シッーシシー」
看護婦さんの仕事振りは手際よい。
幼少期の爺目の心奥の心境の牛追い、馬使いの農作業を想起していた。
深耕の鋤、カルチベーターを動力源たる牛馬に頼る。
「シッーシシー」
怒るでもなくさらばとて
共同作業ながらも主導権を持ちすすめる。
幼き頃の農作業は体は小さく幼子であろうと
農作業手伝いでナチュナルに内実を鍛え心は大人なそのもの。
オマセであった。
あの田舎で小学生から新聞配達。
誰に言われるでもなく先駆するシステムがあったわけでもなく
自分でシステムを作り上げた。
切っ掛けはこうである。
朝に配られなくお店にとりに行って読んでた新聞。
この地域にはテレビない頃
スポーツラジオ番組蘭が、早く欲しかった。
新聞販売所は山の頂上に町がある。
山岳居城で治めた日本史の時期、日向の支配者は頼朝高官工藤祐経。
伊東の地より下り伊東氏は日向の覇者。
島津は伊東氏にひれ伏していた。
その歴史からこの地域の中心地ははるか山の上
これで遠き都於郡の町まで急峻な坂を早朝のぼり
下って配る。
そしてまた小学校高学年、中学校のあるところに
「ノッチラノッチラ」急峻なる坂のぼり。
同級生より早朝二度余計に坂のぼり。
切っ掛けはナンであったろうか。
ひとり新聞販売書の酒造元酒蔵でもあるオバチャンに掛け合った。
「下の地域の新聞を一戸づつ配らせて欲しい。」
会話は覚えていない。
「お店で止まってて自宅に来るのが遅い」
その場で決まったことではある。
爺目の取り分も自分で主張した。
そうたいしたやり取りなく破格の取り分。
実にオマセなてごわき幼児期過ぎたる少年。
随分アトに気づくのだが
直接本人には聞いていないが
この鎌田の家は滅んだ伊東家の跡を治めた
薩摩が使わした鎌田家なんだろう
薩摩佐土原歴史書に鎌田派遣由来を読んだ記憶がある。
江戸期の城下町と違い整然と一直線
その町並みの一番高いところ「町頭」地域が鎌田の家
江戸期以前中興時期の町並み
ご多分に漏れずの道路工事で
古き家々の町並みは消えた。
その道路の先までは爺目が手がけた買収地
行政区違いの佐土原船野。
人生不思議なえにしの縁である
実は密かなるナイショの極秘の企ても会った。
商業新聞に混じらせ隠し密やかにアカハタを配るため。
いまは公安怖くなく秘密がばらせる。
4軒あの当時であの田舎で読者を得ててタ。
誰言う出なく貧乏解消がしたいがため。
師匠なく羅針盤なき中での目指した彷徨ゆえ辛き険しい思い出。
6人の兄たちも両親、爺婆にも秘め目ごと
コレは心を鍛えた。
心の襞を、克己の、自立の精神を鍛えた。
体験が先駆するが文字面では
旺文社文庫で克己は学んだ。
爺目の学問はすべてこの時期で終焉した。
初めての病院は街行く車の見慣れた光景さえ一瞬異様に思えた。
移動手段生活手段に何故車が主流なのか。
爺目の幼き頃村中どこにも車はなかった。
一日何度かのバスの後ろの排ガスの香りを文明と信じて足り煙をおった。
自転車バイクが村に入ってきた。
ハンドルと座るところを構造上つないでるところの下にガソリンタンク。
持ち主の目を盗んで嗅いだ。
「ああこれがアメリカの匂いか」
原油がどこで出来るのか知らない。
あの頃はアメリカ油田でよかったんだろう。
産油国なり言葉さえアメリカのためにあったんだろう。
第二次大戦が今の事情の壮絶なる原油争奪戦とは思わない。
まだ産業エネルギーは石炭主流であったハズ。
累々と受け継がれ繋がる生み出される機知なる人間群を爺目は勝手に人間山脈とか思う。
歌い手、作家、出版企業のドン底の苦悩振りから一転スポットがあたる。
その売れっ子になっていくバクチ的要素の任期商売。
まーなんにでも通づる我慢堪忍の石の上にも三年。
あたるも外れるも八卦
殆どが外れるを覚悟してる。
人生とはそんなものかも知れない。
役人は富山。
教育県は長野
甲子園一回戦要因長野・松商学園を見ながら青春期よりそう思っていた。
人間山脈で言うと岩波茂雄はここでは触れずない。
長野出版人山脈
・山本茂実
・大和 岩雄
・小澤和一
昭和40年代後半のこと。
「宮崎の仲間5人と地方役人たるはなにか。」
あの遠き富山に行った。
何泊か同じ窯の飯を食った。
一宿一飯の恩は忘れえぬ
歴史とは不思議なものである。
宮崎の社民党党首福島瑞穂に富山の又市副党首が迫る。
「選挙敗北の責任をとり辞任しよう」
富山のあのときの人はいまでも清廉潔白
引責辞任で党内調整の針のむしろ。
前にも後ろにも匍匐前進も出来ない。
ただし
国家の行く末に憂慮して決起の熱情が失せてはいない。
列島改造なるこの国が熱情で浮かれていた
時代の変遷
田中角栄はトンネルでぶち抜けば新潟は大都市に近い。
壮大な発展の今言う乱暴なる時期がある。
政治家の壮大な夢のごとき政策キチガイ沙汰。
ソレが総て実現した。
列島の住民は熱病状態で沸きに沸いた。
国民が生き生きしていた。
今の中国がそうなんでであろう。
時代の変遷
古代史ファンは古代史研究家大和 岩雄を知っている。
季刊「東アジアの古代文化」を楽しんだ時期がある。
記憶に残る偉業
『西郷隆盛全集』
『吉田松陰全集』
お世話になる辞典は東京堂
ただしここのもいい。
『日本古代史事典』
『日本神話事典』
『朝鮮人物事典』
『万葉ことば事典』
『源氏物語事典
山本茂実(1917年2月20日-1998年3月27日)は長野の小説家。
松本市歴史の里に「山本茂実記念館」で偉業が偲べる。
「あゝ野麦峠」
は今でも時代の変遷、この国の歴史を見つめ残しての日本文学史にその名を刻んでいる。
雑誌で映画で時節評論で製糸工女哀史と常識的に取り上げられる著作。
松本市並柳の農家長男の生まれ
人生発奮。
松本青年学校から招集され近衛歩兵第3連隊
敗戦を経て31歳になってから上京
早稲田大学文学部哲学科の聴講生。
1948年(昭和23年) - 雑誌「葦」を創刊。
1952年(昭和27年) - 雑誌「潮」を創刊し編集長。
1968年(昭和43年) - 「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」を発表。250万部のベストセラー
青春出版社の新書版は青春期の必読書みたいであった。
社長さんは今誰なんだろうか
爺目の頃は小澤和一。
WIKIそのところだけでは由来が抜け落ちる。
大和 岩雄(1928年 - )は長野の人。
大和書房および青春出版社の創業者。
九死に一生を得てはこのヒトのためある言葉やも知れない。
1966年2月4日、札幌の雪祭りに出かけ、飛行機で帰る予定だったのが、
翌日東京から来る人に会いたくなって空港行きのバスを途中で降りた。
その全日空機は羽田沖で墜落(全日空羽田沖墜落事故)、
新聞に死亡記事も出て弔電がたくさん来た。
同年11月14日に母を亡くしたことを機に
38歳の若さで編集者を引退し、以後は経営に専念する。
wikiが教えてくれる。
1973年、関連会社 大和出版を設立。
1974年から古代史研究に熱中し、季刊誌「東アジアの古代文化」を発行。
以後、25冊の古代史研究書を自ら著し刊行する。
1988年、大和書房社長を退き会長となる。
大和 岩雄(1928年 - )は長野の人。
上伊那郡高遠町=伊那市にて江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれ
生家が没落高小後
名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であった
1942年、官費で学べる長野師範から大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えた。
1948年12月に退職、長野市に移住。
ここで
山本茂実
主宰の人生誌「葦」に参加。
第4号以降、同誌の編集長となる。
営業部員に小澤和一がいた。
「葦」の成功により1950年に上京。
「葦」の編集と併行して
、1951年、文理書院と協力して「人生手帖」を1000部で創刊。
やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。
1955年に「人生手帖」が7万部を記録。
この急成長ぶりに風当たりが強く、讀賣新聞社会部から"自衛隊に対する日共の秘密工作機関誌「人生手帖」
"と虚偽報道されたこともある。
これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、1956年に編集長を辞任。
同年5月、小澤和一と共に青春出版社を設立。
実用書路線で成功を収める。
1960年、社の経営権を小澤和一に譲渡。
創刊まもない「青春の手帖」誌と共に新たな出版社を設立。
1963年7月改名、大和書房。
1964年、不治の病で死を間近にした女子大生とその恋人との往復書簡集
「愛と死をみつめて」を出してミリオンセラーとなる。
1961年7月 大和岩雄が青春出版社より独立し
『青春の手帖社』を創業。
『青春の手帖』発行から社業を開始する。
1963年 4月、社名を現在名に改称。『愛と死をみつめて』を刊行、140万部の大ベストセラーになる。
1983年 山田太一『ふぞろいの林檎たち』がベストセラー。
1974年 季刊「東アジアの古代文化」を創刊。
1987年に創刊50号達成。
1999年8月に通刊100号を発行。
いずれの号も記念特大号を企画。
2009年1月刊行の137号をもって終刊。
第92回甲子園の面白さ。
あの春の覇者中京を驚異的な差で圧倒した早実。
ところが東東京代表の関東一がその早実を一蹴した。
ところがにはまたところがと続く
18日その準々決勝への最初のチーム。
第1試合は成田(千葉)-関東一(東東京)の関東対決。
初回に3点を挙げた成田が6-3で逃げ切り、1952年以来58年ぶりのベスト4進出
ウヌー
若人の祭典は清清しくて実にいい。
富山のDNA野田財務大臣グループ会合で不遜な輩がいる。
身の程わきめよ
たった二回当選者が壇上で叫ぶ。
「国会解散ッ!」
何様のつもりか
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100818-00000049-jij-pol
首相交代なら解散が筋=「反菅」の動きけん制―蓮舫氏8月18日 時事通信
おんなの金玉つかみは淑女のすることではない。
体勢を決めるは北京にいる
総理名代のひと。
日経18日二面に記事がある
見出し。
「改めて首相支持」
ただし
中の記事が違う。
中身の記事は
「民主党存亡の危機を打開できる人物を選ぶべき」
こう鳩山下総理は述べたとある。
この記事書いた記者誰?
編集した人誰?
鳩山グループの長野研修会が体勢を決めよう
伊達政宗の心境より
言葉遊びのヤーダをジャズメンはひっくり返して
どこかの国のダヤン国防省
見えない中で涙流して書いて
書き込みへのお礼としたい。
お蔭様で・・
予備は完結。
本手術を待ちたい。
「有難うございました。」
九州地区ブログランキング参加!
・・・マウスクリック・・・
宜しくお願いいたします
プチッ!
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国家を破壊した小泉竹中信奉者。
猿骨骸骨ブログ主唱者。
あれで象牙の塔に潜んでるようだから
この国の最高教育機関もタカが知れている。
爺目みたいに中学教育さえ満足に終えてなきほうがよっぽど真とも。
何年になろうや。
日々監視してる爺虐めを楽しんでる輩・猿骨骸骨
自分の収めたものに自信あるなら犬の遠吠でなく
正々堂々
副島学問道場ででも
オープン化されてる植草元教授にでも
挑んでみればいい。
ソレは出来ない。
そこまでする学問の造詣はない。
HPでよみとれる。
丸写し。
笑える程度のそこ浅きもの。
なにが学問と呼べよう。
まぁ爺目程度が丁度良いらしい。
ただこちらはそう老い先ない。
化けて祟ってやろう。
猿骨骸骨の周りに起きる不可解は物の怪の祟りが憑いてる
間違いなかろう。
末代にまで祟りが起きよう
島津支藩のDNAは怖いでッセ。
こいつに仕打ちを喰らうゆえ
リンクの方々は去っていく。
類がその人たちにも及ぶ。
<申し訳ない気持ちでイッパイである。>
この爺目ブログに書き込みナゾシテ会話をすると
猿骨骸骨がその方のところに行き嫌がらせ。
せきやんブログ孤立化と執念深い異様さ。
ここまで生きてて初めてのこと。
今朝から緊張でおののいていたが無事終えた。
励ましのカキコに涙した。
どうにも人生の先輩とお見受けいたしている。
勇気ある
そして温かみあるおこ言葉に重ねて
書き込みに感謝いたします。
お礼を込めて人間山脈と著してみたい。
人間は共生であるべき。
弱気を虐めるではない。
戦争ほど国家破壊方向ほど弱いもの虐めが生じる悲劇にしてはいけない。
書き込みいただいた方に奉げます。
ストカー鼻歌気分ではチョト重い
♪マコ甘えてばかりでゴメンネ♪
「愛と死をみつめ」歌ってた歌手。
青山京子のスッーと伸びた肢体に長き髪
ニッコリでもなく秘めた笑顔にエロチック性なきの清純さ。
永久の愁いの松原千恵子にどこか似ている。
原節子の如し清純さを秘めた妖艶さやモナリザに見るもなはに。
爺目の異性感がそうなさせるのであろうか。
1964年のあの時期に日本コロムビアよりシングルレコード
同年第6回日本レコード大賞受賞曲の栄誉に輝いた。。
記憶はいい加減なもの。
「ミコとマコ、マコとミコ」
どっちがどっち?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6
実話であったものが著作となった。
たしか延長で播州平野まで読んだ記憶がある。
1964年監督:斎藤武市 で日活映画公開
高野誠 - 浜田光夫
小島道子 - 吉永小百合
ほかにも
小島正次 - 笠智衆
道子の母 - 原恵子
K先生 - 内藤武敏
患者
和歌山のおじさん - 山田禅二
中山仙十郎 - 宇野重吉
吉川ハナ - 北林谷栄
佐竹トシ - ミヤコ蝶々
中井スマ - 笠置シヅ子
レンタルビデオで楽しめる
TBSテレビでは
河野実(マコ) - 山本学
大島みち子(ミコ) - 大空真弓
調べ追うは爺目には現象がある。
長野の父の記憶なしの人が作家・水上勉の子息であることを知る。
その人の著作を触れるが如しである。
幼き頃より憧れであった眼帯と松葉杖のご褒美の勲章一つ戴けない時代のようである。
手術ベルトコンベアー。
爺目幼児の頃の田舎の仕来たりなら
村中の出揃っての「カンメリ」==神様お参り
入院なぞ仰々しいもの一切なし簡素化。
初めての手術台は・・・
その前のセオリー手術患者着に着替える
エアー殺菌室を経て
進まぬ前への歩行を
左手で爺目の左手を持ち右手で背中にあて
「シッーシシー」
看護婦さんの仕事振りは手際よい。
幼少期の爺目の心奥の心境の牛追い、馬使いの農作業を想起していた。
深耕の鋤、カルチベーターを動力源たる牛馬に頼る。
「シッーシシー」
怒るでもなくさらばとて
共同作業ながらも主導権を持ちすすめる。
幼き頃の農作業は体は小さく幼子であろうと
農作業手伝いでナチュナルに内実を鍛え心は大人なそのもの。
オマセであった。
あの田舎で小学生から新聞配達。
誰に言われるでもなく先駆するシステムがあったわけでもなく
自分でシステムを作り上げた。
切っ掛けはこうである。
朝に配られなくお店にとりに行って読んでた新聞。
この地域にはテレビない頃
スポーツラジオ番組蘭が、早く欲しかった。
新聞販売所は山の頂上に町がある。
山岳居城で治めた日本史の時期、日向の支配者は頼朝高官工藤祐経。
伊東の地より下り伊東氏は日向の覇者。
島津は伊東氏にひれ伏していた。
その歴史からこの地域の中心地ははるか山の上
これで遠き都於郡の町まで急峻な坂を早朝のぼり
下って配る。
そしてまた小学校高学年、中学校のあるところに
「ノッチラノッチラ」急峻なる坂のぼり。
同級生より早朝二度余計に坂のぼり。
切っ掛けはナンであったろうか。
ひとり新聞販売書の酒造元酒蔵でもあるオバチャンに掛け合った。
「下の地域の新聞を一戸づつ配らせて欲しい。」
会話は覚えていない。
「お店で止まってて自宅に来るのが遅い」
その場で決まったことではある。
爺目の取り分も自分で主張した。
そうたいしたやり取りなく破格の取り分。
実にオマセなてごわき幼児期過ぎたる少年。
随分アトに気づくのだが
直接本人には聞いていないが
この鎌田の家は滅んだ伊東家の跡を治めた
薩摩が使わした鎌田家なんだろう
薩摩佐土原歴史書に鎌田派遣由来を読んだ記憶がある。
江戸期の城下町と違い整然と一直線
その町並みの一番高いところ「町頭」地域が鎌田の家
江戸期以前中興時期の町並み
ご多分に漏れずの道路工事で
古き家々の町並みは消えた。
その道路の先までは爺目が手がけた買収地
行政区違いの佐土原船野。
人生不思議なえにしの縁である
実は密かなるナイショの極秘の企ても会った。
商業新聞に混じらせ隠し密やかにアカハタを配るため。
いまは公安怖くなく秘密がばらせる。
4軒あの当時であの田舎で読者を得ててタ。
誰言う出なく貧乏解消がしたいがため。
師匠なく羅針盤なき中での目指した彷徨ゆえ辛き険しい思い出。
6人の兄たちも両親、爺婆にも秘め目ごと
コレは心を鍛えた。
心の襞を、克己の、自立の精神を鍛えた。
体験が先駆するが文字面では
旺文社文庫で克己は学んだ。
爺目の学問はすべてこの時期で終焉した。
初めての病院は街行く車の見慣れた光景さえ一瞬異様に思えた。
移動手段生活手段に何故車が主流なのか。
爺目の幼き頃村中どこにも車はなかった。
一日何度かのバスの後ろの排ガスの香りを文明と信じて足り煙をおった。
自転車バイクが村に入ってきた。
ハンドルと座るところを構造上つないでるところの下にガソリンタンク。
持ち主の目を盗んで嗅いだ。
「ああこれがアメリカの匂いか」
原油がどこで出来るのか知らない。
あの頃はアメリカ油田でよかったんだろう。
産油国なり言葉さえアメリカのためにあったんだろう。
第二次大戦が今の事情の壮絶なる原油争奪戦とは思わない。
まだ産業エネルギーは石炭主流であったハズ。
累々と受け継がれ繋がる生み出される機知なる人間群を爺目は勝手に人間山脈とか思う。
歌い手、作家、出版企業のドン底の苦悩振りから一転スポットがあたる。
その売れっ子になっていくバクチ的要素の任期商売。
まーなんにでも通づる我慢堪忍の石の上にも三年。
あたるも外れるも八卦
殆どが外れるを覚悟してる。
人生とはそんなものかも知れない。
役人は富山。
教育県は長野
甲子園一回戦要因長野・松商学園を見ながら青春期よりそう思っていた。
人間山脈で言うと岩波茂雄はここでは触れずない。
長野出版人山脈
・山本茂実
・大和 岩雄
・小澤和一
昭和40年代後半のこと。
「宮崎の仲間5人と地方役人たるはなにか。」
あの遠き富山に行った。
何泊か同じ窯の飯を食った。
一宿一飯の恩は忘れえぬ
歴史とは不思議なものである。
宮崎の社民党党首福島瑞穂に富山の又市副党首が迫る。
「選挙敗北の責任をとり辞任しよう」
富山のあのときの人はいまでも清廉潔白
引責辞任で党内調整の針のむしろ。
前にも後ろにも匍匐前進も出来ない。
ただし
国家の行く末に憂慮して決起の熱情が失せてはいない。
列島改造なるこの国が熱情で浮かれていた
時代の変遷
田中角栄はトンネルでぶち抜けば新潟は大都市に近い。
壮大な発展の今言う乱暴なる時期がある。
政治家の壮大な夢のごとき政策キチガイ沙汰。
ソレが総て実現した。
列島の住民は熱病状態で沸きに沸いた。
国民が生き生きしていた。
今の中国がそうなんでであろう。
時代の変遷
古代史ファンは古代史研究家大和 岩雄を知っている。
季刊「東アジアの古代文化」を楽しんだ時期がある。
記憶に残る偉業
『西郷隆盛全集』
『吉田松陰全集』
お世話になる辞典は東京堂
ただしここのもいい。
『日本古代史事典』
『日本神話事典』
『朝鮮人物事典』
『万葉ことば事典』
『源氏物語事典
山本茂実(1917年2月20日-1998年3月27日)は長野の小説家。
松本市歴史の里に「山本茂実記念館」で偉業が偲べる。
「あゝ野麦峠」
は今でも時代の変遷、この国の歴史を見つめ残しての日本文学史にその名を刻んでいる。
雑誌で映画で時節評論で製糸工女哀史と常識的に取り上げられる著作。
松本市並柳の農家長男の生まれ
人生発奮。
松本青年学校から招集され近衛歩兵第3連隊
敗戦を経て31歳になってから上京
早稲田大学文学部哲学科の聴講生。
1948年(昭和23年) - 雑誌「葦」を創刊。
1952年(昭和27年) - 雑誌「潮」を創刊し編集長。
1968年(昭和43年) - 「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」を発表。250万部のベストセラー
青春出版社の新書版は青春期の必読書みたいであった。
社長さんは今誰なんだろうか
爺目の頃は小澤和一。
WIKIそのところだけでは由来が抜け落ちる。
大和 岩雄(1928年 - )は長野の人。
大和書房および青春出版社の創業者。
九死に一生を得てはこのヒトのためある言葉やも知れない。
1966年2月4日、札幌の雪祭りに出かけ、飛行機で帰る予定だったのが、
翌日東京から来る人に会いたくなって空港行きのバスを途中で降りた。
その全日空機は羽田沖で墜落(全日空羽田沖墜落事故)、
新聞に死亡記事も出て弔電がたくさん来た。
同年11月14日に母を亡くしたことを機に
38歳の若さで編集者を引退し、以後は経営に専念する。
wikiが教えてくれる。
1973年、関連会社 大和出版を設立。
1974年から古代史研究に熱中し、季刊誌「東アジアの古代文化」を発行。
以後、25冊の古代史研究書を自ら著し刊行する。
1988年、大和書房社長を退き会長となる。
大和 岩雄(1928年 - )は長野の人。
上伊那郡高遠町=伊那市にて江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれ
生家が没落高小後
名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であった
1942年、官費で学べる長野師範から大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えた。
1948年12月に退職、長野市に移住。
ここで
山本茂実
主宰の人生誌「葦」に参加。
第4号以降、同誌の編集長となる。
営業部員に小澤和一がいた。
「葦」の成功により1950年に上京。
「葦」の編集と併行して
、1951年、文理書院と協力して「人生手帖」を1000部で創刊。
やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。
1955年に「人生手帖」が7万部を記録。
この急成長ぶりに風当たりが強く、讀賣新聞社会部から"自衛隊に対する日共の秘密工作機関誌「人生手帖」
"と虚偽報道されたこともある。
これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、1956年に編集長を辞任。
同年5月、小澤和一と共に青春出版社を設立。
実用書路線で成功を収める。
1960年、社の経営権を小澤和一に譲渡。
創刊まもない「青春の手帖」誌と共に新たな出版社を設立。
1963年7月改名、大和書房。
1964年、不治の病で死を間近にした女子大生とその恋人との往復書簡集
「愛と死をみつめて」を出してミリオンセラーとなる。
1961年7月 大和岩雄が青春出版社より独立し
『青春の手帖社』を創業。
『青春の手帖』発行から社業を開始する。
1963年 4月、社名を現在名に改称。『愛と死をみつめて』を刊行、140万部の大ベストセラーになる。
1983年 山田太一『ふぞろいの林檎たち』がベストセラー。
1974年 季刊「東アジアの古代文化」を創刊。
1987年に創刊50号達成。
1999年8月に通刊100号を発行。
いずれの号も記念特大号を企画。
2009年1月刊行の137号をもって終刊。
第92回甲子園の面白さ。
あの春の覇者中京を驚異的な差で圧倒した早実。
ところが東東京代表の関東一がその早実を一蹴した。
ところがにはまたところがと続く
18日その準々決勝への最初のチーム。
第1試合は成田(千葉)-関東一(東東京)の関東対決。
初回に3点を挙げた成田が6-3で逃げ切り、1952年以来58年ぶりのベスト4進出
ウヌー
若人の祭典は清清しくて実にいい。
富山のDNA野田財務大臣グループ会合で不遜な輩がいる。
身の程わきめよ
たった二回当選者が壇上で叫ぶ。
「国会解散ッ!」
何様のつもりか
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100818-00000049-jij-pol
首相交代なら解散が筋=「反菅」の動きけん制―蓮舫氏8月18日 時事通信
おんなの金玉つかみは淑女のすることではない。
体勢を決めるは北京にいる
総理名代のひと。
日経18日二面に記事がある
見出し。
「改めて首相支持」
ただし
中の記事が違う。
中身の記事は
「民主党存亡の危機を打開できる人物を選ぶべき」
こう鳩山下総理は述べたとある。
この記事書いた記者誰?
編集した人誰?
鳩山グループの長野研修会が体勢を決めよう
伊達政宗の心境より
言葉遊びのヤーダをジャズメンはひっくり返して
どこかの国のダヤン国防省
見えない中で涙流して書いて
書き込みへのお礼としたい。
お蔭様で・・
予備は完結。
本手術を待ちたい。
「有難うございました。」
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プチッ!
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