ポルトガル2

2007年6月20日
ポルトガルは良港リスボンが中心であるが人口は50万。
全人口1000万人に対して1割に満たない都市集中でこれは欧州内でも際立っている。

イベリア半島の1/15の面積だが、国内15県に均等に人口が配置されてる証左である。

70〜90パーセントの欧州の人口集中率。
英国で89、スペインで76。
53パーセントの都市集中率のポルトガルの土地利用は素晴らしいものだ。

この田舎県の宮崎市でさえ38万人が住み、110万県民からして総人口の1/3が宮崎市に集中している。

県都全体に住環境が整ってないからである。
伊東マンショの生まれた西都市は宮崎市内から車で40分。
ベッドタウン化でよい距離だ。

ところが夜の緊急病院には内科医がいない。
他の入郷地区の都市は高校さえない地域が多い。
この狭き島国にして土地利用のいびつさ。

ポルトガルに学んだのはカステラとかコンペイトウとかの子供心の遊び言葉のみでしかなかったのか。
先駆した難渋の少年4名の純粋なる文化移転は生かされていない。

都市は歴史がある。ぜひ見逃せないのは
エブィラは世界遺産都市であの4名の少年使節・伊東マンショノが弾いたオルガンがいまだ現役らしい。

一昨日の地元紙に「マンショ」の機関紙を8月ごろに発行すると記事が出ていた。
インタビューのその人、高崎隆男マンショを語る会会長はご年齢が82歳と確かしてあった。その情熱に敬服した。

竹下勇西都大友宗麟研究家が日南にこられて交流が始まり隆盛の状況になったようだ。
・・・・
マンショは長崎で43歳で亡くなりますが、2012年に没後400年を迎えます。
その四百年祭に向けて何かしたいと、マンショゆかりの宮崎市・円南寺に集まって、ことの運びになったようである。

マンショの墓とか没年は不明であったはずだが、記事が目を引いた。
教えを請いたい。

先日、訪欧少年4人の一人は福者に取り立てられたが、マンショだってキリスト教に殉教してるではないか。

日南から長崎まで来た母・町の上の改宗の願いも聞き入れず、それ以前は秀吉の大名取立ての勧誘さえキリストへの殉教で断っている。
時代がきびしくなってるのは了解の上での日向人気質を示したではないか。
後半生が証明できないが故のことではなかったのか。

伊東家は官位の三位まで上り詰めたが島津に日向・都於郡をおわれ、頼った大友宗麟の領地からも脱して浮浪のみで波乱万丈を終えた入道。
島津征伐で功を成した長男・祐兵によって日南・飫肥に秀吉から領地をもらいお家再興を果たす。
飫肥藩は、1595年に4万500石だった石高が、1604年には5万780石まで急伸のことに注目される。
開墾田等を積極的に進めたからであろう。

マンショの侍臣・刀匠の田中国広の尽力ではないのかと探られる。
金鍬、のこ、なた、よき等の農機具の知恵を尽くし増収が図られたとの見識。

寅さん映画で有名になった堀川運河も2年四カ月で延長900メートの完成は技術革新のたまもの。
マンショは農林漁業に大いに貢献した。

 創刊号は特集で、ただ一人遣欧使節派遣に反対した神父ペドロ・ラモンによる「マンショ流浪の孤児説」に反論を試みます
とある。

ブロガーせきやんもなにか投稿したいと考えている。」
掘り起こしていただいた外前田孝日南支局長に感謝したい。

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