映画
2007年10月8日映画で同じ個所を背景にみると移り変わりがよくわかる
3丁目の夕日は東京タワーが背景にあったが続編は日本橋の上に環状線がなく即青空があることでの取り組まれてる
ただ、ノスタルジックではお話にならずリアリティー性にかける。
02年「天上草原」は内モンゴルを描いた
スクリーン一杯の緑の草原。青く輝く湖。
馬や羊が大草原に溶け込み遊牧生活は詩情豊かに繰り広げられる。
息子娘を小学校に上がらぬ前低学年でのときに両親なしにモンゴル中国のたびにお願いした。
外山三博県議のボランティアでの引率である。
草原に遊びゲルに泊まり北京の王宮を見た感動話を今だ見聞きしたことがない。
知事選県議選に苦悩する外山応援に行くでもなく義理人情は身に付かなかったようだ。
あの経験は子供らの人生には生かされてないのか。
常に青年の外山三博の生き様はシルクロードの完走にある。
随分と何回となく挑戦しておられるようだ。
子らが発揮して同行する器量はないのか。
マルコポーロは、1270年にヴェニスを出発、中央アジアを縦断し、
1274年に中国の大都=今の北京に約4年がかりで到着する。
当時中国はモンゴル族の支配する元の時代、
マルコポーロはここで17年間、ジンギスハーンの孫にあたるフビライカーンに仕えることになる。
その間中国各地を旅行する。その見聞が東方見聞録の主要部分を占めている。
1290年マルコポーロは、海路により帰途につく。そして1296年に出発港ヴェニスに帰りつく。
ブログに思いを寄せる外山三博は熱い。
25年におよぶ大旅行であり、まさに男のロマンそのものだと自分のことを書いてるようだ。
映画「白い馬の季節」が背景の風景が続編の形で封切られるが打って変わった風景で驚く状況である。
主役夫婦は同じキャスト。
草原の生態破壊が進み遊牧生活が様変わりをした。
製作動機を語る寧才ニンツァイ監督。製作は妻の 娜仁花ナーレンホア
モンゴル族。1962年、内モンゴル自治区シリンホト市に生まれる。「ナーレンホア」とはモンゴル語で「ひまわり」の意。
映画は、乾ききって、砂埃が風に舞う一面の砂漠から始まる。
『黄色い大地』を思わせる、死んだような土地で、狂ったかのように舞い踊りながら、雨乞いの歌をうたう村の長。
「旱魃の草原に 万物救う
慈雨甘露を 与えたまえ
ヒスイの如き輝きを
大草原に与えたまえ」
砂漠化によって死にゆく草原。その中で遊牧民としての誇りを捨てまいと抵抗する男。
夫の思いを理解しながらも、押し寄せる現実の波に抗えず、町へ出ようとする妻と息子。
本作は、モンゴル族出身の監督が描く、気高き草原の民の誇りと愛惜の物語である。
監督デビューしたニンツァイは、彼自身が内モンゴル自治区ホルチン地方の牧畜民家庭の出身
。そのホルチン地方は、今急速に広がる砂漠化の被害にさらされている場所である。
砂漠化については、日本でも黄砂飛来の問題とからんでしばしば報道され、よく知られている。
その原因は、降水量の低下、干ばつ、強風などの自然現象、漢族の移住による急激な人口増加、
草原をつぶして作られる農地の拡大、羊の過放牧などの人為的な要素が絡み合っている。
中国政府は、ここ数年、生態環境保護のために、自然保護区の拡大、草原の回復、放牧の禁止、他地域への
移住などさまざまな対策を講じているが、それらがさらに内モンゴル牧畜民の伝統的な暮らしを奪う結果をもたらし
ているのである。
白馬を手放すということはすなわち、そのアイデンティティを放棄することと同じなのである。
そして、その誇りに縛られ、ウルゲンは未来への一歩を踏み出すことができない。
現実にあらがえず、ついに愛馬サーラルを手放したウルゲンが、過去の栄光に取りすがりながら絶望に打ちひしがれる
姿は、観る者の胸を打ち、哀切な涙を誘うものである。
「凶暴な力を持った時代の変化の中に立つ、ひとつの文明、ひとつの民族の姿を隠喩している」という。
ラストシーンで、ウルゲンは“白い馬”を野に放ち、民族服を捨て、牙を抜かれたかのように肩を落とし
、道の端を茶色く煙る町へと遠ざかっていく。
これは遠い国の単なる物語ではない。
グローバル化で田舎の商店が或いはストリートのシャッター街ができてるところは必ず「イオン」の大店舗ができてるはずである。
先日はブログで鳥取のイオンを読ませていただいた。
宮崎は九州一のイオンができて二年目。
橘通りから一足は消え、イオンはリトル東京・博多化で終日にぎわっている。
決め手は駐車場と映画館も含めて何でもあること。
24時間コンビニさえ淘汰して行こうとの勢いである。
都市とは一帯ナンなのか。何であったのか。
歴史ファンの前に邪馬台国はどこかと出せば昼飯も夕飯もいらない。
それも映画になると来れば封切り切符売り切れは間違いがない。
吉永小百合が「卑弥呼」を演ずる。
二役と大車輪の活躍である。
宮崎康平(62)は島原鉄道社長
和子は福岡での仕事を切り上げ康平の妻となった。
康平は仕事の疲れから視力をなくしたが
和子の助力を経て「幻の邪馬台国」をまとめ上げた。
まさに二人三脚でありベストセラーとなったのは夫婦愛の功績かもしれない。
その宮崎康平を竹中直人
宮崎和子を吉永小百合が演ずる。
美女と野獣といってる人誰だ!
盛んなるブームであった邪馬台国の研究の如何わしさと若気の至りの左傾運動の多忙さで興味一つ
しめせえなかった当時の多忙さ。
1967年吉川英治
メガホンは堤幸彦(51)卑弥呼は来年秋が封切りである。
いまは、ほうたいいくらを編集無しで撮りつづけ封切られてるのがたしか堤幸彦監督。
竹中直人は独特の演技論を持つ“怪優”
本人にとってはちょっと不本意じゃないのか。
俳優・竹中直人がgooの実施した「名脇役だと思う男性俳優ランキング」で1位に選出された。
映画「Shall we ダンス?」や「ウォーターボーイズ」での“怪演”が評価されたもので、
2位以下は阿部サダヲ、小日向文世、佐野史郎、生瀬勝久と続く。
たしかに小日向や佐野なら納得だが、竹中はすでにレッキとした主役級。
NHK大河で「秀吉」を演じたほか、映画「東京日和」や「三文役者」などでも主演を果たしている。
「ぎんざNOW!」(TBS)で世に出たことから、「お笑い出身」と思っている読者も多いだろうが、実は劇団出身。
名門「青年座」。
主役も張り、監督としても才能を認められている役者に対して「脇役1位」はどうなのか。
結論から言えば「大歓迎」のはずである。
過去のインタビューなどでたびたび「大河もロマンポルノもオレにとっちゃ同じ次元」
「主役なんて構える気はない。こないだも若手監督の作品にワンシーンだけ出演してきた」などと語っている。
挫折の連続だった生い立ちが、彼の「役者論」を形作っている。
もともとは漫画家志望だった。それが高校の頃、画家志望に変わり、東京芸大を受け続けた。
2浪の末、多摩美大に入学したが、すぐに才能のなさを痛感し、演劇に路線変更した。
「青年座」に加わったのも、その頃だ。
ところが、ここでも竹中は自分の“居場所”を見つけられなかった。
前述の「ぎんざNOW!」で
お笑いに挑戦したのもそのためだし、その延長線上でテレビのドラマからお呼びがかかった時も
「あと1年持つかな」と感じていた
。実際、その通りになり、「青年座」の学校巡演の仕事以外は、飲み屋のあんちゃんか
、霊園の墓掘りのバイトに明け暮れた。
そんなときに巡り合ったのが映画の仕事。
滝田洋二郎監督のピンク映画「痴漢電車・下着検札」で、ようやく居場所にたど
り着いた。
インタビューではこう言っている。
「テレビにはシステムがあって、役者がそれに合わせていく。映画は役者に合わせて撮ってくれる……」
独特の「役者論」も、こうした経験に裏打ちされている。
「仕事を引き受ける前に脚本は読まない」が持論。
「人間って明日のことも分からず生きている。仕事があるってうれしいじゃないですか」とも。
使ってもらえるなら、「主役」も「脇役」も関係ない。今回の脇役ランク首位は、そんな竹中の
“覚悟”を最大限に評価したものだ。
3丁目の夕日は東京タワーが背景にあったが続編は日本橋の上に環状線がなく即青空があることでの取り組まれてる
ただ、ノスタルジックではお話にならずリアリティー性にかける。
02年「天上草原」は内モンゴルを描いた
スクリーン一杯の緑の草原。青く輝く湖。
馬や羊が大草原に溶け込み遊牧生活は詩情豊かに繰り広げられる。
息子娘を小学校に上がらぬ前低学年でのときに両親なしにモンゴル中国のたびにお願いした。
外山三博県議のボランティアでの引率である。
草原に遊びゲルに泊まり北京の王宮を見た感動話を今だ見聞きしたことがない。
知事選県議選に苦悩する外山応援に行くでもなく義理人情は身に付かなかったようだ。
あの経験は子供らの人生には生かされてないのか。
常に青年の外山三博の生き様はシルクロードの完走にある。
随分と何回となく挑戦しておられるようだ。
子らが発揮して同行する器量はないのか。
マルコポーロは、1270年にヴェニスを出発、中央アジアを縦断し、
1274年に中国の大都=今の北京に約4年がかりで到着する。
当時中国はモンゴル族の支配する元の時代、
マルコポーロはここで17年間、ジンギスハーンの孫にあたるフビライカーンに仕えることになる。
その間中国各地を旅行する。その見聞が東方見聞録の主要部分を占めている。
1290年マルコポーロは、海路により帰途につく。そして1296年に出発港ヴェニスに帰りつく。
ブログに思いを寄せる外山三博は熱い。
25年におよぶ大旅行であり、まさに男のロマンそのものだと自分のことを書いてるようだ。
映画「白い馬の季節」が背景の風景が続編の形で封切られるが打って変わった風景で驚く状況である。
主役夫婦は同じキャスト。
草原の生態破壊が進み遊牧生活が様変わりをした。
製作動機を語る寧才ニンツァイ監督。製作は妻の 娜仁花ナーレンホア
モンゴル族。1962年、内モンゴル自治区シリンホト市に生まれる。「ナーレンホア」とはモンゴル語で「ひまわり」の意。
映画は、乾ききって、砂埃が風に舞う一面の砂漠から始まる。
『黄色い大地』を思わせる、死んだような土地で、狂ったかのように舞い踊りながら、雨乞いの歌をうたう村の長。
「旱魃の草原に 万物救う
慈雨甘露を 与えたまえ
ヒスイの如き輝きを
大草原に与えたまえ」
砂漠化によって死にゆく草原。その中で遊牧民としての誇りを捨てまいと抵抗する男。
夫の思いを理解しながらも、押し寄せる現実の波に抗えず、町へ出ようとする妻と息子。
本作は、モンゴル族出身の監督が描く、気高き草原の民の誇りと愛惜の物語である。
監督デビューしたニンツァイは、彼自身が内モンゴル自治区ホルチン地方の牧畜民家庭の出身
。そのホルチン地方は、今急速に広がる砂漠化の被害にさらされている場所である。
砂漠化については、日本でも黄砂飛来の問題とからんでしばしば報道され、よく知られている。
その原因は、降水量の低下、干ばつ、強風などの自然現象、漢族の移住による急激な人口増加、
草原をつぶして作られる農地の拡大、羊の過放牧などの人為的な要素が絡み合っている。
中国政府は、ここ数年、生態環境保護のために、自然保護区の拡大、草原の回復、放牧の禁止、他地域への
移住などさまざまな対策を講じているが、それらがさらに内モンゴル牧畜民の伝統的な暮らしを奪う結果をもたらし
ているのである。
白馬を手放すということはすなわち、そのアイデンティティを放棄することと同じなのである。
そして、その誇りに縛られ、ウルゲンは未来への一歩を踏み出すことができない。
現実にあらがえず、ついに愛馬サーラルを手放したウルゲンが、過去の栄光に取りすがりながら絶望に打ちひしがれる
姿は、観る者の胸を打ち、哀切な涙を誘うものである。
「凶暴な力を持った時代の変化の中に立つ、ひとつの文明、ひとつの民族の姿を隠喩している」という。
ラストシーンで、ウルゲンは“白い馬”を野に放ち、民族服を捨て、牙を抜かれたかのように肩を落とし
、道の端を茶色く煙る町へと遠ざかっていく。
これは遠い国の単なる物語ではない。
グローバル化で田舎の商店が或いはストリートのシャッター街ができてるところは必ず「イオン」の大店舗ができてるはずである。
先日はブログで鳥取のイオンを読ませていただいた。
宮崎は九州一のイオンができて二年目。
橘通りから一足は消え、イオンはリトル東京・博多化で終日にぎわっている。
決め手は駐車場と映画館も含めて何でもあること。
24時間コンビニさえ淘汰して行こうとの勢いである。
都市とは一帯ナンなのか。何であったのか。
歴史ファンの前に邪馬台国はどこかと出せば昼飯も夕飯もいらない。
それも映画になると来れば封切り切符売り切れは間違いがない。
吉永小百合が「卑弥呼」を演ずる。
二役と大車輪の活躍である。
宮崎康平(62)は島原鉄道社長
和子は福岡での仕事を切り上げ康平の妻となった。
康平は仕事の疲れから視力をなくしたが
和子の助力を経て「幻の邪馬台国」をまとめ上げた。
まさに二人三脚でありベストセラーとなったのは夫婦愛の功績かもしれない。
その宮崎康平を竹中直人
宮崎和子を吉永小百合が演ずる。
美女と野獣といってる人誰だ!
盛んなるブームであった邪馬台国の研究の如何わしさと若気の至りの左傾運動の多忙さで興味一つ
しめせえなかった当時の多忙さ。
1967年吉川英治
メガホンは堤幸彦(51)卑弥呼は来年秋が封切りである。
いまは、ほうたいいくらを編集無しで撮りつづけ封切られてるのがたしか堤幸彦監督。
竹中直人は独特の演技論を持つ“怪優”
本人にとってはちょっと不本意じゃないのか。
俳優・竹中直人がgooの実施した「名脇役だと思う男性俳優ランキング」で1位に選出された。
映画「Shall we ダンス?」や「ウォーターボーイズ」での“怪演”が評価されたもので、
2位以下は阿部サダヲ、小日向文世、佐野史郎、生瀬勝久と続く。
たしかに小日向や佐野なら納得だが、竹中はすでにレッキとした主役級。
NHK大河で「秀吉」を演じたほか、映画「東京日和」や「三文役者」などでも主演を果たしている。
「ぎんざNOW!」(TBS)で世に出たことから、「お笑い出身」と思っている読者も多いだろうが、実は劇団出身。
名門「青年座」。
主役も張り、監督としても才能を認められている役者に対して「脇役1位」はどうなのか。
結論から言えば「大歓迎」のはずである。
過去のインタビューなどでたびたび「大河もロマンポルノもオレにとっちゃ同じ次元」
「主役なんて構える気はない。こないだも若手監督の作品にワンシーンだけ出演してきた」などと語っている。
挫折の連続だった生い立ちが、彼の「役者論」を形作っている。
もともとは漫画家志望だった。それが高校の頃、画家志望に変わり、東京芸大を受け続けた。
2浪の末、多摩美大に入学したが、すぐに才能のなさを痛感し、演劇に路線変更した。
「青年座」に加わったのも、その頃だ。
ところが、ここでも竹中は自分の“居場所”を見つけられなかった。
前述の「ぎんざNOW!」で
お笑いに挑戦したのもそのためだし、その延長線上でテレビのドラマからお呼びがかかった時も
「あと1年持つかな」と感じていた
。実際、その通りになり、「青年座」の学校巡演の仕事以外は、飲み屋のあんちゃんか
、霊園の墓掘りのバイトに明け暮れた。
そんなときに巡り合ったのが映画の仕事。
滝田洋二郎監督のピンク映画「痴漢電車・下着検札」で、ようやく居場所にたど
り着いた。
インタビューではこう言っている。
「テレビにはシステムがあって、役者がそれに合わせていく。映画は役者に合わせて撮ってくれる……」
独特の「役者論」も、こうした経験に裏打ちされている。
「仕事を引き受ける前に脚本は読まない」が持論。
「人間って明日のことも分からず生きている。仕事があるってうれしいじゃないですか」とも。
使ってもらえるなら、「主役」も「脇役」も関係ない。今回の脇役ランク首位は、そんな竹中の
“覚悟”を最大限に評価したものだ。