軍事傾斜の経済

2007年1月6日
日本人の一番衝撃的写真はフェレイスの撮影した3枚中の1枚に異論はなかろう。
1945年9月27日昭和天皇とマッカーサーの並んだ写真である。
ダグラス・マッカーサー( 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官
1945年8月30日に神奈川県の厚木海軍飛行場に到着、以後1951年4月11日まで敗戦処理日本の復興に当たった。
1948年の米国大統領選に望もうとしていたが、予備選で敗北し、そのまま任務を継続した。

朝鮮戦争は1950年6月25日にスターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し勃発する。
9月に仁川上陸作戦を成功させてソウルを回復。
しかし、中華人民共和国との国境まで迫ったこともあり、実態は中華人民共和国の国軍である人民解放軍で結成された「義勇軍」
の介入を招く。
ココでのマッカサーの処置方針がいけなかった。
核攻撃の必要性を主張して民主党ハリー・S・トルーマン大統領と対立。
翌1951年4月11日、更迭を発令された
帰国後の議会での演説を残し表舞台から去る。
「老兵は死なず、ただ立ち去るのみ
(Old soldiers never die, they just fade away.)」

「われ以外はみな師」を矜持し、ブログを読ましていただき、また備忘録として書いている。
2ちゃんねるなる、ある意味反面教師の批評をいただけるブログから客観的に自分のブログをも見ている。
正直どうでもいいことではあるが随分と影響が起こる。
リンクいただいた名古屋の女性の方の誤解を受け、大事になった。実に申し訳ない。
ただ、実害も受け、ランキングのカウンターも壊れたまま。
何年もかけてようやくベスト・テンにナを連ねの楽しみが失われた。
、それが、奪われたままで正直、怒っている。
何年もかかっての信頼が一挙に失うものの身を考慮してほしいものである。
19万ものカウンターは6年もかかって毎日書いてきた読者の支持への誇りでもある。
老・壮・青があっての新しき文化であらねばならないのがブログ文化の信念

そこでも名をあげられてる方からご意見を頂いてるが、もうトラブルはコリゴリ。
ただ、恒久平和があっての世界に誇る経済活動があるのをご存知でないようである。
パワー・ミニタリーの幽霊に獲り憑かれる年代にありがちな勇ましきご意見と推察する。
カウンターも10万を越え多くの若人の支持を得てるようでまたもや、トラブルにならぬようにまず:
マナーの確認と議論を急がないことを御願いしたい。

力無き理想は、空しいです。
トリビアな事例では、国を成す人々の腹は膨れません。
民人のための官という発想は、為政者が仕掛けた幻想ではないでしょうか?
突出すれば、喰われるか潰される。
そんな代物を後生大事に抱え込んできたのが、一票ずつの意思で在るってのは、何とも皮肉なお話ですねぇ。

随分の時間をかけ、産軍複合の経済へ傾斜しがちのことに警鐘を鳴らしたい。
なにもマルクスの経済学・哲学に頼らなくとも拡大する経済の持つ性質からして軍事化経済になるのは歴史の指し示すところ。
化石燃料が生産手段に採用されてから世界は一変した。
いわゆる産業革命である。
高生産性の産業に均一化しつつある社会であるが、食は生きる基本。資本の論理外の部分さえ生じる。
勝手、農業は国の唯一の産業であった。尤も貧弱なる土地の人々は狩猟、牧畜を生活の糧にした。
いま後進国といわれてる国の国家産業の基幹産業である。
地球の歴史ほど積み込まれた石油エネルギーを使うほど有利な経済活動はない。
資本の蓄積はその民族に高度の生活環境を保障してくれる。
ゆえに、こぞって工業国を目指す。
拡大再生産が地球環境さえ破壊するほどの生産活動をしようともおかまいなしの工業国作り。

鎖国の為遅れて工業国家になり敗戦で総てを失うわが国。
すぐに立ち直って、高度成長政策を経て、農業国から工業国へ脱皮して誇るべき生活を享受している。
ただ、先進国で食料自給率が40パーセントを割ってる国は日本のみ。
国防費も削っての効率化経済のひずみである。
脆弱点に目をつけた食を安全保障に使おうとの戦略さえミエミエの米の戦略。
果たして米国はわが国にとって信用に値する国なのか。
他の国々は自給自足が足りてる当たり前の国が維持されている。

「力無き」と解かれる国力とは何であろうか。
ミニタリーを想起できることで、国家の軍事の行き着くところは大量破壊兵器の「核」に到達する。
究極の軍事兵器である。
地球を何度も破壊する以上の27000個の原爆が存在する現実がある。
ところが発明した人にして使用については必死に反対した話も伝わる。
発明者オッペンハイマー曰く
「私はは死神になった。」「世界の破壊者になった」
「核兵器」の開発後63年。いままでこの核被害を直接受けた国は世界にただ一つわが国のみである。

アメリカはその後、敵国のソビエトも滅ぼし世界の覇者になった。
そのアメリカの経済は火の車。。財政赤字と貿易赤字の二つの赤字に悩んでいる
基軸通貨たるドル価値の暴落に世界の経済は戦々恐々。
そこでドル経済維持のため、営々と溜め込んできた為、郵便制度と貯金350兆円さえ差し出したわが国。
この国内資金がなくなったため戦後最長の好景気といわれながらも不況が蔓延してるアンバランスな経済状況にある。

欧州はドル経済圏から独立したユーロ経済圏を確立しつつある。
07年ウィーン・ニュイヤーコンサートでさえ指揮者ズービン・メータがブルガリアなどのユーロ加盟を冒頭褒め称え歓迎していた。。
アジアはアメリカ支配の経済状況にあるためその経済成長はドル不安の影の怯えたままの経済維持政策を強いられている。
軍事産業が国家政策ゆえ安易に望まれるがこれが人々の生活を豊かにするであろうか。
究極の不況打開にそちらに傾斜すると資本の性格上止まることを知らない
国家組織が総て軍事産業なしには成立しない経済となる。
世界軍事予算の半分以上がアメリカ一国にある異常さを誰がとめることができよう。
ロッキードマーチン社が米国防総省から受注したJSF計画は。総契約金額は2000億ドル約24兆6000億円!
米国防総省は将来、日本を含む同盟国にもJSFの採用を呼び掛ける見通しで、これら輸出分を含めるとロッキードマーチン社の契約額は

4000億ドル約49兆2000億円規模にのぼる。

関口宏のテレビ番組の先週日曜日からのメモ
ストックホルム国際平和研発表
世界の軍事費128兆円

米 58兆
英  6
仏  6
中  5
日本 5

ブログからの1年遅れてる資料。
世界の軍事費 2004.1

・総額は1年間で約8000億ドル(約100兆円)
世界の軍事費のうち4割以上がアメリカ!

・日本は世界第2位の軍事大国!

世界各国の軍事費 「2002年ストックホルム国際平和研究所資料」

1  アメリカ  3557億    11  インド  129億
  2  日本   467億    12   ロシア 114億
  3 イギリス 360億    13  トルコ  101億
  4  フランス 336億    14 ブラジル  100億
  5  中国  311億     15 イスラエル  98億
  6  ドイツ  277億
  7 サウジアラビア 216億
  8 イタリア   211億      シリア  55億
  9 イラン    175億      北朝鮮  15億
 10 韓国     135億       単位 : ドル

世界の軍需企業ビッグ20   「2001年ストックホルム国際平和研究所資料」
順位 国 名 企業名 契約高($) 
順位 国 企業名 単位 ドル 順位  国  企業名 単位 ドル
1 米国  ロッキードマーチン 179億    
2 米国  ボーイング 156億       
3 英国  B A E システム 155億   
4 米国  レイセオン 115億        
5 米国  ノースロップグラマン 71億                    
6 米国  ゼネラルダイナミック 56億
7 仏国  トーマスC S F 41億
8 米国  リットン 39億
9 米国  U T C 35億
10仏国  A M 33億
11 ドイツ  ダイムラークライスラー 31億
12 イタリア  I R I 30億
13 米国  T R W 30億
14 日本  三菱重工 25億
15 英国  ロールスロイス 24億
16英国   G K N 19億
17 米国  ニューポートニュース 18億
18 仏国  D C N 17億
19 米国  ゼネラルエレクトリック 16億
20 米国  コンピューターサイエンスC 15億
日本にも死の商人はいた!

原爆:「研究日記」が現存 旧理研の学者、45年5月「失敗」
 戦時中に旧理化学研究所(東京都文京区、現在の理研)で原爆を研究していた物理学者の日記が見つかり、近く発刊の「仁科芳雄往復書簡集・第3巻」(みすず書房)に掲載される。原爆製造に必要なウラン235の濃縮に失敗し、開発を断念する様子を克明に記した貴重な記録。研究に関する記録は終戦直後「原爆を造っていたことがわかれば死刑になる」とのうわさからすべて焼却されたとされており、関係者からは「よく残っていた」と驚きの声が上がっている。

 筆者は、旧理研の仁科博士の研究室でサイクロトロン(イオン加速器)の建設や原爆研究に携わっていた山崎文男さん(1907〜81年)。旧理研での原爆研究は43年1月にスタートした。日記は終戦間際の45年1月から8カ月間、ほとんど毎日書かれていた。神奈川県鎌倉市に住む長男和男さん(67)が保管していたが、山崎さんと一緒に研究した元理研副理事長の中根良平さん(85)が、書簡集の編集に携わる中で原爆開発に関する記述があることに気づいた。

 日記は45年4月、ウランの濃縮を試みた「熱拡散塔」のあった49号館が空襲で焼失した日の模様をつづっている。これを機会に旧理研の原爆研究は難しくなった。

 <4月14日(土)11時頃(ごろ)空襲サイレン。(中略)理研にゆく。49号館を守る可(べ)く敢闘。23号館で休。夜があけて東側の壁が燃え出し、もう消火の元気なくただ見守る>

 焼失前にその塔で濃縮作業をした最後のウランは5月、サイクロトロンで分析された。

 <5月10日(木)午後U(ウラン)の測定を続ける。negative(失敗)である>

 サイクロトロンで高速の中性子を当て、出てくるベータ線の量に変化があれば濃縮は成功であることを示し、日本の原爆研究は大きく進むはずだった。しかし、ベータ線の量は誤差の範囲に収まっていた。

 中根さんは「山崎さんはnegativeという一言で表現したが、かなりショックだった。私も40時間かけて不純物を取り除いたし、これがダメならすべて終わりだったから」と語る。この測定を最後に、日本の原爆研究は事実上終止符が打たれた。

 中根さんは「私自身も終戦直前、実験日誌をすべて焼いてしまった。山崎さんの日記を読むと当時の苦労が思い出され、感慨深い」と話している。【中村牧生】
毎日新聞 2007年1月5日 大阪夕刊

高レベル廃棄物の処分場候補地、応募なく交付金5倍に
1月5日3時11分配信 読売新聞

 経済産業省資源エネルギー庁は、原発の使用済み核燃料から出る「高レベル放射性廃棄物」の最終処分場の候補地に応募する自治体への初期交付金を、2007年度から現行の年間約2億円を10億円に増額することを決めた。

 国と電力業界は02年以降、処分場建設地の公募を進めてきたが、いまだに応募した自治体がなく、交付金を一気に5倍に増額することで選定に弾みをつけたい考えだ。

 高レベル廃棄物は現在、青森県六ヶ所村にある日本原燃の施設などに一時保管されている。しかし、放射能が極めて強く、最終的に地下300メートル以深の地質的に安定した場所に埋設し、生活の場から隔離する必要がある。

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亥年は選挙の年。新年早々の虚突の知事選で宮崎は新年早々にぎやかだ。
新聞は朴訥に、灯火をかざし、知識を指し示してくれるので備忘録たるブログに残して今後の考え方に生かさせていただいている。
当世は著作権とか金餞さえ絡んで厄介だが、ブログは公開されてるとはいえ、所詮、私的備忘録・日記が持論。
毎日紙の記事で「なるほど」と理解できたことがある。
1年=12カ月が起源とされる12進法が多くの文明で用いられたのは、12という数が争いなく物を分けるのに便利だからだそうだ。
「12」には1、2、3、4、6、12と多くの約数があるから、物が12個あれば各人数で平等に分けられる。
だが10個だと2人か5人でなければ争いになる。
そうでなくとも割り切れる数が多い方が何かと便利なので、ダースやグロス、また1フィートが12インチといった単位も生き残ったsそうだ
十二支も12を1サイクルとする考え方の名残。
いきおいその約数が思わぬめぐり合わせを引き起こすこともある。
4年に1度の統一地方選挙と、3年に1度の参議院選挙が12年に1度、十二支の最後の年に重なる「亥(い)年選挙」もその一つである

与党過半数割れの場合は安倍の退陣必至、逆に民主党敗北ならその解党的危機といわれる7月の参院選だ。
4月の統一地方選はいわばこの天下分け目の政治決戦の前哨戦
、与野党相乗り型選挙に代わり激突型選挙が増えそうだともいう
この亥年選挙、自民党に分が悪いので有名。これを「亥年現象」と呼ぶ。
かって保革伯仲といわれたことの裏返しの真理だ。

今日から寒の入りの小寒。スミレに水仙が満開と石油漬けの最高の便利生活に危信号がついてる自然界。
国の進路を決める政治の世界は深刻そのもの。
先進国の中で唯一戦争に加担しなかった国家も命脈つきつつある。

[二度と戦争はしない。」
普遍の固き信念を子々孫々の為に改めて新年の冒頭に誓う。
軍事省が発足して軍靴の音はまだないが、キナ臭いことを一国の指導者が年頭よりより堂々とと述べる国になってしまった。i
ファシスト安倍はその仮面がはげた年頭改憲を国民に呼びかけた。
密かに語るべきところをなめたものである。
ただ、その国民は新年のお屠蘇の余韻で気付きもしない。
我が家の安寧秩序のみの祈願にくれている。
「憲法改正!参院選の争点に」 首相年頭会見である。
聞き違いではないかとわが耳を疑った。
「わたしの内閣で憲法改正を目指したいと、当然、参院選でも訴える」
まさに宣戦布告。
戦後体制からの脱却を目指す「安倍カラー」を鮮明に打ち出し政権の求心力を取り戻す足掻きだた

「今年は美しい国に向かってたじろがず一直線で進む覚悟だ」
「自民党総裁として、内閣の責任者として常に勝利を勝ち取る気概で臨む」と強調。
選挙で負ける要素の高い消費税には言及を避けるデマゴギーぶり。
「消費税率の見直しは「抜本改革について、今年の秋に議論しなければならない」と参院選での争点化は避けたいとの認識を示した。
小沢民主党代表は4日、伊勢神宮を参拝後、三重県伊勢市で記者会見、
争点について「年金制度を示すことで、具体的に何も示されていない政府与党との違いは鮮明になる」
憲法改正の争点化については、
「国民の生活に身近で、わかりやすいものが選挙では断然比重が重い」と述べ、反論
国会は 25日召集予定
、憲法改正に必要な手続き法である国民投票法案をめぐり
「与野党間で議論が深まることを期待したい」と成立に強い期待感の安倍総理の表明。
市井は不況の深化でニートや負け組みの蔓延する経済状況下での産軍複合化えハンドルを切ろうとし始めた。

 自民党は、日本の武器輸出を禁じる「武器輸出3原則」について、兵器の多国間共同開発への参加解禁に向け、米国以外の国との共同開発の制限を緩和する方向で検討に入った。
屁理屈は後で堂にでもくっつけられる。
防衛費の圧縮圧力が高まる一方で、装備品の単価が高騰傾向にあり、開発費を抑制する狙いという。

そうでなくとも「3原則」についてはすでに緩和が進んでいる。
党内では何らかの基準を設けて緩和を容認する意見が強いが、国際共同開発への参加はなし崩しの武器輸出につながりかねない、との批判も多少ある。
 「3原則」は、かつてはすべての武器輸出や共同開発を禁じるまで厳格化されたが、近年、同盟国の米国向けなどに限定し、徐々に緩和されてきた。
04年12月の官房長官談話で、ミサイル防衛(MD)に関する米国との共同開発・生産を例外とすることを表明。
(1)MD以外の分野での米国との共同開発・生産
(2)テロ・海賊対策のための輸出――についても「個別案件ごとに検討」することとしたが、米国以外の国が参加する共同開発・生産への参加は禁止されたままになっている。
 しかし、近年、装備品のハイテク化に伴い、戦闘機などの価格は高騰傾向にあり、国内企業が米国開発の兵器をライセンス生産する場合のライセンス料も上昇している。
このため、「開発費の抑制のため国際的な潮流として定着してきた」(自民党国防族)とみている複数国が参加する国際共同開発への参加が将来的には不可欠と判断。欧州諸国などを念頭に、自主的制限の根拠となっている3原則の緩和の検討に着手した。
 ただ、党内には「平和国家としての理念は維持すべきだ」との意見も多い。
「なし崩し解禁」との批判をかわすため、緩和する場合の
(1)共同開発の相手国
(2)参加を認める分野
(3)第三国への輸出管理――に関する基準作りが焦点となりそうだ。
 これまでの多国間による共同開発・生産の例としては、米英が中心となりオランダ、ノルウェー、シンガポールなども参加した統合戦闘攻撃機(JSF)、米独伊による中距離拡大防空システム(MEADS)などがある。
古本陽荘記者の記事を引用した。 
◇ことば…武器輸出3原則 (1)共産圏(2)国連決議の武器輸出禁止国(3)国際紛争当事国――に武器の輸出を認めないとした67年の佐藤栄作首相の国会答弁。76年に三木武夫首相が3原則に該当しない国への輸出についても「慎む」と表明し、武器輸出を全面禁止。83年に米国向けの武器技術供与を解禁、04年にミサイル防衛に関する米国との共同開発・生産を例外とした。

民生用の産業の育成で食っていけば良いハズで国の生きる道を指し示してる企業もある。
事例を国内外で新聞が伝える。

松下、 民生ロボ元年 リハビリ用の商品化にめど
1月4日8時32分配信 フジサンケイ ビジネスアイ

08年度に売り出す計画のリハビリ用「ロボットスーツ」

 ■機能で挑む対ソニー

 松下電器グループは、民生用のロボット事業に本格参入する。脳卒中など病気の後遺症で半身まひになった患者のリハビリ用「ロボットスーツ」を2008年度下期までに商品化、1台200万円前後で売り出す方針だ。10年度には500台の販売目標を掲げ、ロボットビジネスを軌道に乗せる。

 このロボットスーツは、患者が上半身に装着、正常な方の腕を動かすと上腕や前腕部の計4カ所についたセンサーが筋肉の緊張具合などを察知。空気圧縮機(コンプレッサー)で空気を送り込むと、まひした方の腕が同じように動かせる仕組み。まひした方の腕のスーツ部分にゴム製の人工筋肉を組み込んでおり、動作を繰り返すことで脳を刺激し、まひを治していく。バッテリーは家庭用電源から取るため、スーツの重さは2キロ程度と軽い。

 松下電器産業の社内ベンチャー、アクティブリンク(京都府精華町)が開発したもので、近く兵庫県立総合リハビリテーションセンター(神戸市)で半身まひ患者に対する実証実験に入り、08年度の商品化までに試験を繰り返す。生産・販売は松下電器本体やグループ内の会社が担当する方向で検討している。当面は、病院や介護施設などに売り込むが、「量産化されれば、価格は家電並みの20万円台が目安になる」(アクティブリンク)としている。

 松下電器の大坪文雄社長は、昨年開かれた家電見本市「シーテックジャパン2006」で基調講演した際、このロボットスーツを公開し、民生用のロボット事業を強化する方針を打ち出していた。松下グループのロボット事業は、2足歩行ロボットの開発に取り組むソニーなどライバル他社とは一線を画し、機能に適した形を追求することになる。
               ◇

 ■仕掛け人は37歳の社内起業家
 □高齢者用から軌道修正

 「ようやく光が見えはじめてきました」。

 リハビリ用「ロボットスーツ」の仕掛け人、アクティブリンク(京都府精華町)の藤本弘道社長(37)は、こういって胸をなで下ろす。
 ここまでの道のりは決して平坦(へいたん)でなかった。

 阪大大学院工学研究科を修了後、1997年に松下電器に入社。社内分社のモータ社に配属され、材料開発に取り組んだ。仕事にはやりがいを感じたが、「(部品ではなく)一般の消費者に使ってもらえる製品を生みだしたい」との思いが日に日に高まっていた。

 社内ベンチャー制度「パナソニック・スピンアップ・ファンド(PSUF)」の動きが具体化したのは、ちょうどそんなとき。社員が応募した事業アイデアを審査し、採用されれば1件につき5億円未満を出資するというのだ。

 高齢者介護などを補助する全身用の「パワーアシストスーツ」で応募。このアイデアに共鳴した同期入社の植田慶輔氏と、別のテーマでPSUFに応募していた城垣内剛氏が「おもしろそうやな」と加わった。植田氏はアクティブリンクのテクニカルディレクター、城垣内氏は代表取締役に就任した。

 だが、高齢者や重量物を楽々と運ぶためのパワーアシストスーツは、上半身のみのリハビリ用スーツよりどうしても高価になる。また、仮に実用化できても、うたい文句は「高齢化社会が進めば、必ず使われるようになる」などと中途半端になることに気づいた。

 このため、市場が確実に見込めるリハビリ用スーツの開発に“軌道修正”したことで、「可能性が見えてきた」と打ち明ける。

 PSUFの第1期(01〜04年)と第2期(04〜07年)のファンド総額は150億円。中村邦夫前社長(現会長)の肝いりで設立された。失敗しても、松下の社員身分は保障されており、これまで24社が誕生したが、3分の1は軌道に乗らず、「ベンチャーの社長から松下の社員に逆戻りした」(関係者)。一方で、屋外ディスプレー向けコンテンツ(情報の内容)制作配信事業を展開するピーディーシー(東京都中央区)や、重度障害者の携帯用会話補助装置を手がけるファンコム(大阪府守口市)など、着実に業績をあげている社内ベンチャーもある。アクティブリンクも「成功組」の仲間入りを果たせるのか、07年は勝負の年になる。(藤原章裕)
 藤本弘道
 ふじもと・ひろみち 東大寺学園高卒。阪大大学院工学研究科(原子力工学科)修了。1997年、松下電器産業入社。モーターやモーター用磁石の開発に携わる。2001年、PSUFに応募。03年6月アクティブリンク設立し、社長に就任。大阪府出身。
                  
台湾新幹線が始動、日本のシステム採用で
1月5日11時13分配信 読売新聞

台北県の板橋駅を出発する高雄行きの台湾新幹線一番列車=佐藤俊和撮影

 【台北=石井利尚】日本の新幹線システムを海外で初めて採用した台湾高速鉄道(台湾新幹線)が5日午前、営業運転を始めた。

 台湾南北の2大都市、台北と高雄間(345キロ・メートル)を結ぶ台湾新幹線の車両は、東海道・山陽新幹線の700系「のぞみ」をベースにした700T型。最高時速は300キロで、最短1時間半で両都市間を結ぶ。

 ただ、工事の遅れから、当面は台北市に隣接する板橋駅と高雄駅間の営業となり、1日の運行本数も当面19往復。全線開業は2月になる予定だ。

 この日の一番列車は午前7時(日本時間同8時)に、板橋など3駅を同時に出発した。

 台湾新幹線は李登輝政権時代の1999年、三井物産、三菱重工、東芝など日本企業連合が、欧州連合との競争を制して受注。総工費は約4800億台湾ドル(約1兆7300億円)で、外交関係がない日本と台湾の経済技術協力の象徴となる大型民間事業となった。

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城造り

2007年1月5日
何もNHK大河ドラマに肩入れ迎合するマスコミ礼讃のわけでもない
人は石垣人は城は言い尽くされたことで、まさに、人材がほしいのひと言に尽きる。
自転車で30KMも走りまわる。小雨さえ振り出した中をである。
シッカリとした城作りが年頭の決意。
2007年は熊本城築城400年に触発されたわけでもないがつくづくそう思う。
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、加藤清正によって築かれた。
築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成。
城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートル
天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構え。
なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣はつとに有名
この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。
しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。
現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。

西郷は終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに今も伝えられている。

天守閣炎上 は謎の多いことである。、
西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火
天守閣と本丸御殿)一帯が全焼。
原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台自ら火を付けたとする「自焼説」がある。

、時代遅れの天守閣を焼き、兵に城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けた、という説が現在では有力。

もとは茶臼山で肥後の要
菊池、大友、島津、龍造寺と変遷し、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定により、佐々成政を領主としたが、てんふうさせられた。

記録に残っている日本の城はなんと二万五千。
天守閣を備えた立派な城もあれば、柵で囲っただけの砦もある。
江戸時代の末期にはすでにその数は200を切り、その
内天守閣があった城は70程。

その中で、現在も残っているのはたったの12。
古くからの形をとどめているのはそれだけで、あとは復元、

加藤清正の父である清忠の家は美濃齋藤あのマムシに仕えてた。
清正は、永禄5年(1562)尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えた。
天正9年(1581)の鳥取城攻めその後各地の戦いに武功をあげた。とくに賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として武勇を馳せた。

細川家は足利氏の一門で近世細川家は三淵晴員の子藤孝が細川元常の養子になったことに始まる
藤孝は和歌や連歌など当時の第一の文化人。
細川家は足利氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に従い基盤を固めた。2代忠興の時には関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に
付き勝利し、戦後は家康から豊前豊後の39.9万石を拝領した。
7日までは松の内
江戸の正月は、庶民にとっては退屈なものだったようだ。もっとも武家はいろいろな儀式があって、なかなかに忙しい。 

大名は行列を作って江戸城に向かった。
本丸奥には、5層5階、57・6メートルの大天守が天を突き、1657年の正月にも、てっぺんの金のしゃちほこは初日を浴びてまばゆく輝いていた
まもなく江戸の大半を焦土と化した「明暦の大火」によって焼失し、今は石垣を残すのみだ。

大火の直後から、幕閣の間で強まった再建を望む声に対して、民政に関係のない無用の長物だと、反対を貫いたのが4代将軍家綱の輔弼(ほひつ)役を務めていた会津藩主、保科正之。
金を惜しんだのではない。
被災民の救済と江戸再建のためには、16万両という途方もない金額の出費を決めている。

 凶作に備えて米を備蓄する「社倉」を設け、身分男女を問わず90歳以上の者に米を給付するなど、その福祉政策は現在でも通用する

。正之の生涯にくわしい作家、中村彰彦によれば、人口の変動がほとんどなかった江戸時代にあって、会津藩だけは増え続けたという。
、パリのベルサイユ宮殿、ロンドンのビッグベンに匹敵する東京の観光の目玉にしようと、天守閣再建をめざす動きが民間から出
てきた。
結構なことだ。その一方で、正之が決断した「再建先送り」が、現在まで引き継がれていることの意味も忘れたくない。
天守閣のそびえる、江戸城でなく皇居で良いのではないか。

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日本の独裁者の属人的定義を誰にしたらとの勉学家のブログを読ませていただいた。
選挙の年ゆえ大切なことだ。
天皇とか東条とか列挙してもヒトラーやムソリーニとはイメージが違うのはなぜか。
それは国民的体質にあるのではないだろうか。
仏教徒で瑞穂の国の農耕民族たる島国人の大衆迎合の気質からである。
個の確立では共同作業たる水田に水を引き収穫を目指す産業が成立しなかった。
国家指導者は、上手くこの国民的体制を利用した。
よって法治国家として独裁体制を敷いた人が独裁者の定義づけとしたらどうであろう。
陸の長州、海の薩軍が維新後の藩閥政治で太平洋戦まで続いた。
この場合3人とするのもベストスリーと日本人流。
大正デモクラシーは普通選挙を求める政治的熱意の背景を持ちあらゆるところに花開いた。
文学、絵画、演劇場の舞台人・・日本の一番華やか強い時期といえるのではなかろうか。
その世相に終止符を打ったのが、長州人
、田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日) - 1929年(昭和4年)9月29日)
陸軍軍人から第26代内閣総理大臣(在任: 昭和2年(1927年)4月20日) - 昭和4年(1929年)7月2日)。陸軍大将 勲一等 男爵。
天皇の叱責で悶々のうちに亡くなった人。
戦前の総力戦体制づくりが始まったのは、
治安維持法、
制定(国体の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社活動および個人的行為を処罰する法律。1925年=大正14年=公布)からで、このことに尽きる。
1928年(昭和3年)緊急勅令で死刑・無期刑を追加したのが田中義一内閣。
同法は反政府的な思想や言論の自由の抑圧手段として利用され、権力批判は封じ込められた。
ココに大正デモクラシーは第一回普選法とともに葬り去られた。
その挙げ句の果てが日本の侵略戦争で日本人310万人、アジアで2000万人ともいわれる犠牲者を出し、かつての日本「帝国」は滅んだ。

戦後にも独裁者を定義できる。
 1960年に新安保条約の締結によって現在の日米安保体制を創設したのが岸信介政権
、その時以来、平和憲法第9条の「非武装理念」と新安保条約第3条の「自衛力の維持発展」との矛盾が拡大することになった。

その意味では憲法9条の理念を事実上空洞化させたのが岸政権で、それ以降、白を黒と言いくるめる保守政権が続いている。
政府が先頭に立って国民に嘘を言い続けてきたわけだから、これで世の中が乱れなかったら不思議。 
 
 そして今、安倍政権は岸の孫を自認して「戦後レジームからの脱却」を唱え、戦前への回帰を志向しつつある。
元旦の年頭の辞は
「改憲を安倍内閣で実現する」と・公約・した
再び日本を滅ぼすのかという危惧の念を抑えきれないのは当たり前の感覚。
宗教党さえ利用して成就しようとするから厄介だ。
偏狭なるナショナリズムは平和国家にいらない。
非武装ゆえの国しかできないことはこの人の視野にはない。
この3人の共通項はいずれも長州人である。
維新の開明思想の長州の先哲たちは 嘆き悲しんでいるであろう。
単一思考に求心力が早急に保てる民族ゆえ、この3人を独裁者と呼ぶのは奇異に映るであろうか。

長州の怨念は蛤御門の変に由来し、古くは山内・毛利のお正月に集まると密かに密議の確認の、幕府の打倒が何百年も確認されていた怨念の政治にある。

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ストップ寸前

2007年1月4日
一年を回顧してのテレビ番組が花盛り。
その報道は民族意識の覚醒にこれ以上のものはない
わけても、全日本フギアーはDNAの肢体に劣るハズのを乗り越えいまや日本が誇る競技となっている。
42.195KMのマラソンは陸上競技の花形で、世界規模の大会の最後のフィナーレをに花を添える
自転車で15KMの彼方まで移動して、42.195KMの距離のすごさを実感した。
マラソンほど過酷なものはない。

駅伝は日本発で持続可能性を競うレースとしてマラソンからの変形。
どれだけ有利な条件で次の走者にたすきをつなぐか。
箱根には若人が未来を目指してタスキが繋がれる。
風、気温、相手の実力、自分の体調など、リスクを勘案して走り方を決める。
あえてリスクをとって序盤から飛ばすのも有力な選択肢だ。失敗すれば無謀、成功すれば英断と呼ばれる。

それも、できぬものは自転車
だがそれでさえ、ふくらはぎ、太もも腰の痛みで閉口。
マラソンの半分の距離で自転車でさえこれだ。
中学自分に5km、高校生で10KMを走りぬく基礎体力作りを求められたハウだ。
体力旺盛な時期の鍛錬不足
あの頃は無心ゆえできたもの。
高橋尚子の東京での復活を目指し、2位に終わったことが敗北との烙印は批評する日本人に言いたい。
人間業でない42。195KMを時速20KMに近い速さで走りぬけることは神業。

車社会の恐ろしき便利さを痛感した。
車社会と簡単に言うが、社会の進歩とは何ぞ。

足軽から身起こしての大名
近代戦の歩兵。
イラク戦争で最終的には歩兵の果たした役割。
毛沢東の長征
移動手段は自分自身の足のハズ。

車社会というには車がなくてはその社会人のカテゴリーから外れる。
エコ派との強がりでは田舎では生きてはいけぬ。
ただ、いろいろと考えることができる。

車のエネルギーたる石油の値段構成はヒドイ状態。
殆どが、税金。
揮発油税が24,3円、特例法分が48,6円計72,9円の税金である。
リットル120円で47円が税抜き価格である。

現代社会とゃ一体なんぞ。

効率的的エネルギーの最たる化石燃料は国内では皆無。
産油国は神のいたずらの数少ない恩恵を受けている。
世界を支配する国々は原油供給維持に血眼になるはずである。

科学技術の発達はプラスチック類を初め衣類の基本の繊維さえ原油から生み出させた。
食の基本の農産物でさえ総ての課程が石油漬け。
石油抜きでは現代生活は営まられない。

何不自由ない生活は実は砂上の楼閣で幻影だけではないのか。
この快適なる24時間にわたって,職住ののかくほ享受できる現代生活のアキレス腱
団塊の世代はこの生活を誰が予測しえたであろう。

焼け野原の時代手塚治虫は現代社会を描いた。
あの時代からして、異常者のマンガの世界、夢遊病者の異端児。
所詮ユートピアの世界。
それが現実生活になっている。
セントラルヒーテングやストーブに燃料
街には24時間飲食店コンビニが展開している

哲学の道は京都学派の思索の基本形がある。
体力維持の為、朝夕歩く人たちも思索したら良い。。
石油が一滴も取れない国が石油をガブ飲みしてる日常生活。
こうも便利に玄関先から、目的地につく車社会の快適さ。

ただ、なんだろう。
この冬の異常なるあったかさ。
南極の氷が解けるとも言うアメリカの学者がいる。

自転車は道路の起伏や状態が体全身に伝える。
この快適なる生活で見落としてるものが思考を決定つけてるようだ。
堺屋太一の提唱する歩いて勤めにいける職場環境。
職、住・接近の街づくり
究極の世界である。
夢を追いかけるのに疲れた
ここまでして会いに行くが会えずではどう仕様もない。
もちろん携帯は何の役割も果たしていない。

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潮目、フシ目の見分けができれば人生どれだけ、豊かに暮らせるものか。
神の域たる自然界についてはとりわけそうである。
昔ほどの神々しさのないお正月。
神話の里宮崎の初詣は大忙し。
あちこちに由緒ある神社が鎮座される。
熊野のように霊験あらたかなる風景、風致は少なくひたすらに明るい。
日向灘を東に隣接する荒波の中の鵜戸神社だけか特異なのかもしれない。
古事記、日本書紀に登場する神々の類型はつぎのようになり、以降の累代のことは
戦前の義務教育では必修で誰でも知っていた。
お爺ちゃんおばあちゃんに聞いてみるが良い。
問題は初代天皇の神武以前のお話である。
江田神社に初詣。
ここから日本は始まった。
イザナミがミソギをした池はその背後地の日向灘側にある。
祝詞にある言葉の発祥の地
「日向の橘の小戸の阿波岐原」と由緒あるところ。
総てはこの地から始まったのである。
  イザナギ
  イザナミ 

                   大国様       スサノウノミコト(出雲の神)    オオクニヌシ
ツクヨミノミコト 
アマテラスオオミカミ                                         
               
 アメノオシホミミノミコト(アマテラスノ長男)                   

  ニギノミコト                       コノハナサクヤヒメ                  
(天孫降臨)(都万神社)
             

                             
  ホデリノミコト(海幸彦)                 ホスセリノミコト
__ヒコホホデリノミコト(山幸彦)
  タマヨリヒメ                        (青島神社) 

                              ウガヤフキアエズノミコト
 トヨタマヒメ            
   (鵜戸神社) 
                   
       ヒコイッセノミコト
____   イナヒノミコト
       ミケヌノミコト
       カムヤマトイワレヒコノミコト(初代神武天皇)

政治には今でも悩めるときに指南役がいるが、
神の啓示に従うのはどの国でも権威づけるのに使われた。

政治の場で平和国家からの脱却で日増しに軍事国家化がすすんでいる。
これに経済的仕打ちが伴ってるから危険である。
政治の課題は、行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し資本やカネでの社会構成を是正することである。
さらに、軍事国家を指向する国民を「
憲法9条を基本したこれまでの国家形態の維持を指導し、平和な社会の回復である。
立花隆のブログからはひしひしとそのことが伝わってくる。

アメリカではブッシュのイラク政策の誤りを批判する声が、あっちでもこっちでも渦を巻いている、
がなぜ日本では、小泉イラク派兵を批判する声が何故に上がらないか
ブッシュのイラク政策が誤りなら、イラクに派兵を行った小泉前首相の政策も、むろん誤りである。
この問題を問われたときの小泉前首相の答え方はきまっている。

それが誤った情報だったとわかるのはずっと後になってからのことで、当時の日本の政府の決断は、その当時正しいと信じられていた情報に従ってなされた。
イラクのフセイン大統領は過去において大量破壊兵器を使用した実績があり、そのときも怪しまれて仕方がない状況証拠がたっぷりあった
、その疑惑を解く努力を十分にしなかった。だからあのような結果になっても仕方がない、というものだ。
この問題についての安倍政権の見解も、これと同じである。
大量破壊兵器を保持して、「そいつはお前を殺そうとしている」とのガセネタに従って殺意なき相手を殺してしまったとしても、
相手がかねて札つきの悪者の場合、それは正当防衛になるみたいなこじつけの論理である。

こういう言う論理が許されるなら、日本の満州事変も正当だったし、泥沼の日中戦争拡大も正当だったし、太平洋戦争開戦も正当だったということになる。

政治はすべて結果責任である。
結果において誤りであったものは、どうもっともらしい理屈をつけようと誤りなのである。
そして政治家は、結果的に誤っていた決断の責任を必ず取らなければならない。
政治家が次になすべきことは、なぜそのような誤りが生じたのか、
その原因を時間をさかのぼって追究し、そのよってきたるところを明らかにすることである。
そしてそれが明らかになったら、その責任を追及し、そのような誤りが2度と起こらないように対策を取ることである。

ブッシュ大統領も小泉前首相も、そこが完全に抜け落ちている。
2人とも、責任政治家として落第である。

日本は戦争が終わってから、あの戦争の原因追及を全く等閑視してしまったが故に、いまだに歴史認識の問題がさっぱり片付かない。
それと同じことが、日本でもアメリカでも、イラク戦争に関して起きている。

これでは、大量破壊兵器の核兵器を具体的に開発した「北」に対する誤りが生じてくる。。
ミサイル発射から核実験へ、次々に冒険主義的瀬戸際政策を取る北朝鮮はいったいどこまでいくのか。
「北」が切ることができるカードはまだ複数枚あるという。
まず、さらなる核実験。
次に「朝鮮戦争休戦協定」の破棄。
それに「国連脱退」だという。

だが、誰も北朝鮮に味方しようとする者は出てこないだろう。
そのようなことをつづけていると、中国ないし、アメリカが、北朝鮮をこれ以上放っておくわけにはいかない、と、過激な手段に訴えてでも北朝鮮のおさえこみにかかるのではないか。

たとえば、謀略的に北朝鮮の体制転覆をはかるクーデター、
あるいは暴力的に北の核ミサイル能力を破壊してしまう
巡航ミサイルあるいは戦闘爆撃機によるピンポイント先制攻撃といったことである。

どちらもその可能性は相当にある。。

今の北朝鮮と重なるかつての日本の姿
戦争瀬戸際政策に狂奔することで、世界の孤児になりつつある北朝鮮を見ていると、満州事変以後の日本の姿が二重写しになって見えてくる。

満州事変(1931)に次いで上海事変(1932)を起こし、戦争瀬戸際政策をつづける日本はみるみる世界の孤児となっていった。国際連盟が

リットン調査団(1932)を派遣して、ある程度の妥協策を提示した
、日本はそれを拒否して満州国を建国(1932)してしまう。
国際連盟がそれを非難すると、日本は国際連盟を脱退して満州を帝国にしてしまう(1933)。

国際連盟を脱退したあとの日本は、同じ世界のきらわれ者、ナチスドイツと組む(1936。日独防共協定)。
あとは盧溝橋事件(1937)を経て、戦争への道をまっしぐらである。
あのころの日本は、世界から爪はじきに会っていた。

日本が当時、国際社会から、そのような、どうしようもない無法者国家と見られていたなどということは、一般国民はみな知らなかった。

日本人のほとんどがどんどん圧迫を強めてくる米英中などの周辺国家のほうだと思っていたのである。
いまの北の人々がそうであるように、あの頃の日本人たちも、自国が世界の他の国からどのように見られているかという客観的認識がまるでなかった

北朝鮮の人々は、全くちがう目で自国を見ている。
、金正日は、核実験の成功によって、「朝鮮半島史上、最も偉大な英雄になった」という。
なぜなら、それによって北朝鮮は、米国本土を攻撃できるような軍備をはじめて持つことができたからだ。

そして、「次の戦争は、米国戦争、あるいは朝米戦争として後世に語り継がれることになるだろう」という。
次の戦争の主戦場は米国になり、「摩天楼がそびえる都市が一瞬にして地獄絵に変わる」、という。

また、北朝鮮は、日本、韓国、オーストラリアが核武装することに反対しないどころか、むしろ望んでいるという。
アメリカの同盟国が自ら核武装することになると、アメリカの核の傘の外に出ることになる。
それによってアメリカの同盟国が、脱アメリカ勢力になる。
それは北朝鮮にとって望ましいことだというのだ。

また、北朝鮮が核を持ったことで、米露を中心とする核不拡散体制は終わりを告げたともいう。
それによって、これから世界の構図が大きく変わってくるだろうという。

これまでは、アメリカと友好関係にある国だけが核クラブを作っていた。
しかしこれからは、反米国家で核を持つ国がふえるだろう、という。多分、イランのような国を念頭に置いているのだろう。

日本の政治家の中に、麻生外務大臣、中川政調会長など、日本も核武装是か非かの議論をすべしなどという人が登場しはじめた。
政治家が主導するゆえ若き人々は特にその意見が多いようだ。

日本に核武装の可能性が本当に出てきたら、その潜在的な国力の大きさ故に、日本は一瞬にして、
アメリカの「ナンバーワン・エニミー」に変わってしまうだろう。
そしてその場合、本気で日本を叩きつぶそうとするかもしれない。

安倍晋三・岡崎久彦「この国を守る決意」のくだり
岡崎 1993-95年の経済交渉では、本当に大変な目に遭いました。日本が潰れるかどうかという交渉でした。

交渉をしているときには、アメリカには『日本と同盟国』などという姿勢は一かけらもなかったのです。
日本はもう潰れてもいいというような姿勢でした。

日本人はすぐ忘れますけど、あの時期を覚えていたら覇権国アメリカと協調しないことの恐さはわかるはずです。

北朝鮮がいくら大言壮語しても、日本を潰すなどということはできない。
しかし、アメリカはできる。                                 
、アメリカはそのような国々を暴力的に叩きつぶしてしまうはずである。
核戦争は地球を滅ぼす。                                                
安倍首相は1日付の年頭所感で憲法改正の必要性を強調した。
安倍政権が目指す最大の課題は、9条改悪による自衛軍保持である。
軍事は常に最強を求める。その先には、核に守られた国家が見据えられてくる。                          
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通信手段

2007年1月3日
13年ぶりに携帯業界に新会社が参入し、携帯電話が2社増えて5社体制になるとのニュースが流れた。
イーモバイル電話emobilとアイピーipmebiie電話が参入とのこと。
3社独占体制に風穴を開けてくれた・・
YAHOOを新規契約したばかりなのでシマッタ!と貧乏人根性。
世界一高い通信費に泣いているのが負け組みの市井の人々。
定額で安いまではよかったが、
ところがまたである。
利益追求の不公平通信制度にすぎない。
よーく聞いてみるとやはり!と田舎の悲哀を味わって一る
東京、大阪、名古屋を受益地区とするイーモバイルと東京のみのアイピー
これでは公共サービスといえるのか。
認可したお役所もふくめ、新自由主義経済にこの狭き国土も蔓延しつつある。
過疎と過密がさらに深化する状況に政治の光は当てられていない。
小泉政治の流れは強者のみが生き残るアメリカ流、
ますます生活のあらゆる部分に負け組みが地域性さえ巻き込んで加速している。
異端児、孫正義が安価の携帯料金のソフトバンクの旗を打ち立てた。
だが、秩序破壊の価格競争に挑んでる所には国家が制約に乗り出す。
ソフトバンクの携帯電話会社、ソフトバンクモバイルが苦戦している。
「通話料0円、メール代0円」「月額2880円」という宣伝で大注目を集めたのはいいが、
「0円になる条件が明示されていない」「まぎらわしい」と、国家が主導する中、同業他社やマスコミからの批判を受けた。
それを受けてCMも「9時までに電話するから」というせりふのある穏便なものに差し替えられた
(ゴールドプランの場合、200分/月を超えた21〜1時の通話は有料となる)。
「かなり慎重になっている」とも言えようが、結局のところはソフトバンクの混乱ばかりが印象づけられた。
 これまでだってソフトバンクは何度となく難局にぶつかり、そして乗り越えてきた会社ではある。
しかし、今回ばかりはそう簡単には壁を越えられそうにない。
ソフトバンクにきりかえたのは、もちまえの反骨精神もある。
 現在の携帯電話業界・市場は次のようになってるようだ。
 2006年11月、業界1位のNTTドコモの新規契約者が1万7000人ほど減った。
NTTドコモの加入者が減ったのは、実はこれが初めてのことである。
とはいえ、NTTドコモの加入者数は膨大の巨大ガリバーだ。
それからみれば1万7000人くらいは誤差の範囲だろうか。
 始まったばかりの番号ポータビリティ制度は、動向がはっきりと見えてきた。
一人勝ちしたのはKDDI(au)である。
NTTドコモとソフトバンクモバイルは加入者数を減らした。
その結果、NTTドコモ 55.2%、KDDI 28.5%、ソフトバンク 18.3%という構成になっている。
ソフトバンクは制度開始直前に「通話料0円、メール代0円」「月額2880円」というゴールドプランを大々的に発表してユーザーの取り込みと流出防止を試みたが寡占化した世界一高い料金の改定はなかなかすすみそうもない。

       10月       11月
KDDI  8万0600(+)  22万5300(+)
YAHOO 2万3900(-) 16万3000(-)
ドコモ 7万3000(-)  5万3900(-)

携帯シェアー率
YAHOOー 1539万 16,3
KDDI  2692万  28.5
ドコモ  5212万 55.2

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プレステ3

2007年1月2日
トヨタが世界一になった。
省エネ企業をも世界を支配しつつある。
殆どの日本の企業が自身=自信を取り戻している。

文芸春秋に2月号の企画で、ソニーの中鉢良治社長と立花隆の対談記事がある。
これは異常事態である。
何故か。立花隆のブログから伝えることができる。

「文藝春秋」前月号の新年号に「成果主義がソニーを破壊した」論文の波紋の後である。
ソニーの現状を根底から批判する著者は土井利忠ソニー上席常務(06年4月に退任)
もっとも著者名は天外伺朗のペンネームとなっている。
ソニー土井利忠といえばCDやロボットの「AIBO」の開発者として、つとに有名

ソニーという会社は、
「真面目ナル技術者ノ技術ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」
を「会社設立ノ目的」にかがげ、実際その通りの、技術者の天国のような会社を作り上げた。
創意工夫あふれる技術的な冒険を試みるというのがソニーの伝統
そういう空気の中から生み出されるユニークな新製品の数々が、ソニーを国際的な大企業に育てあげてきた
ここのところのソニーは技術者たちの心の中から冒険心が失われ、それとともにクリエイティビティが失われ、
その結果、ソニーらしい魅力があふれるユニークな新製品もさっぱり登場してこないということになってしまったという。

アメリカ流の成果主義中心の経営学が幅をきかせるようになったためだという
成果の点数と報酬を直結するような評価システムが導入されたため、技術者たちが萎縮してしまった。
思い切った冒険をすると失敗して点数を落とす可能性がある。
それよりは無難なことだけをしつづけて、点数を落とさないでいるほうがよい人生が送れてよいと考える
無難な点数主義者の会社になってしまったところに、
最近のソニーの失敗の根本原因があるというのが、土井論文のエッセンスである。

自慢の商品の一つであったはずのコンピュータ内蔵リチウム電池が火を吹いた
世界中で960万個もの電池が交換を迫られた。
その費用だけで510億円もの損失を出したという。

プレステ3は、11月11日販売されたが供給が追いつかず、売り切れ店が続出。
世界市場に600万台供給し、年内には400万台を投入する予定が200万台しか手当てできなかった
100万台をアメリカ市場、100万台を日本市場にふりわけ、ヨーロッパ市場は3月まで売り出しを延期することになった。
商機を逸しつつある。
年内に数百万台を売って、一挙に競争相手に差をつけるとしていた計画がポシャった。

プレステ3はハードのメモリによってモデルが2種類あり、20GBモデルは希望小売価格が4万9980円、
60GBモデルは約6万円、オークションでは、世界中ですぐに倍以上の値段がつき、ブラジルでは23万円、国内では39万円の値がついたこともあるという。

プレステ3は本来、もっとずっと高い価格であったが、
任天堂のWiiが2万5000円、マイクロソフトのXbox360が約3万円
を考慮して大幅に売り出し価格を引き下げたので、1台売れるごとにソニーには3万?4万円の赤字が出るといわれている。

ゲーム機本体とソフトさえあればゲームが100%楽しめめるもの出なく周辺機器がいる。
さらに、ゲームソフトがかなり高値(5000円〜7000円)で売られ、ゲームソフト会社は1本売るごとにロイヤルティをソニーに支払うから、ここで帳尻を合わせるわけである。
最近のソニーは、いったいどうなってしまったの?といいたくなるほど、おかしなことが次々に起きている。

ソニーは、プレステ3の開発のために相当の先行投資をしている。の大半が、プレステ3の心臓部を支えている最新の半導体チップ、「セル(cell)」の開発のために投じられた。
その額は5000億円にも及ぶといわれているが、生半可な投資ではない。
1千億円単位の金が回収できないということになると、たしかに、ソニー本体の経営危機につながりかねない問題である。

10年間つづいた出井体制後継の社長は久夛良木副社長(当時)だったハズだ。。
ソニー伝統の冒険心あふれる技術者魂をいちばん持ちあわせていたからだが、そうならなかった。

ソニーで初代プレステからゲーム機の開発を一手にやってきた、ソニー・コンピュータ・エンタテインメント(SCE)社長兼CEOだった久夛良木健が、SCE会長にまつり上げられtた。
、ソニー本体の役職(ついこの間まで副社長)からも一歩身を退く形になった
このことで、一部では、プレステ3が思ったほどうまくいってない状態の責任をとらされたのではないかという観測も流れている。

2003年度から5000億円もの投資がなされた(セル開発には米IBMと東芝が参加した)。それがどれくらいの演算能力を持つチップかというと、258ギガフロップスである。
地球シミュレータを構成する64ギガマシン4台分なのである。
それが小さな一枚のチップになってしまっているのだ。

プレステ3は、“セル”だけでできているのではない。
これに1.8テラフロップスの画像処理専用コンピュータ(GPU)を合わせ持ち、
総合計算能力は2テラフロップス達するのである。
最近日本の産官学の研究拠点にスーパーコンピュータが沢山導入されるようになったとはいえ、2テラのマシンは、そうどこにでもあるというものではない。

ところが、プレステの場合は、月に10万台、100万台というオーダーでそれが量産されつつあるのだ。
スーパーコンピュータがチップになってしまって、それが10万個、100万台個単位で量産される時代になったのだ。

プレステ3をゲーム機としてしか認識していない大多数の人々には、それがどんなに大変なことを意味しているか、いくら説明してもすぐにはわかってもらいないだろうが、社会はこれから、あらゆる領域にスパコンパワーが入りこんでくることで、大激変を起こしていく。

チップになったスパコンを使いこなせるかどうかで、これからの時代、個人も組織も大化けする人と沈む一方の人が出てくる。国家の国力全体がそういう人がどれだけ出てくるかによって左右される時代がやってくるのである。

産業研究に応用可能なチップ
これまでのゲーム機は、たとえば、自動車レースをゲームにする場合、自動車が衝突事故でグシャとつぶれる場合など、実際にはありものの映像をつなぎ合わせてそれらしく見せるだけだ、

プレステ3の場合は、事故の初期条件を与えたら、コンピュータの中で本当に事故を起こしたと同じ映像を物理学の法則に従って、計算によって作り出してしまうことができるのである
。これはゲーム機というより、計算物理シミュレータそのものなのである。

いま、世界の先端的科学技術の世界では、実物実験によって研究されるよりも、はるかに多くの部分が、スパコンのシミュレータによるシミュレーションによって研究が進められている。

ナノサイエンスの世界でも、メガサイエンスの世界でも、バイオの世界でも、ケミストリーの世界でも、みんなそうである。
プレステ3の世界は、それと全く同じことをする(ことができる)世界なのだ。

プレステ3は、ちょっと使い方を変えるだけで、いかなる学術研究も、いかなる産業応用研究も可能なスパコン級シミュレータなのである。
高性能コンピュータは、使い方ひとつで、どのような応用も可能になる。
核兵器の開発にも使える“セル”
“セル”の開発は、日米両国のコンピュータメーカーの共同研究の形で開発された
、アメリカ側がこのチップを利用して何をしようとしているか、ネット情報を検索してみると、こんな話が出ていた。

アメリカのロスアラモス研究所といえば、原水爆の開発研究で知られる国立の核技術研究所だが
、そこではきわめて多くの“セル”を連結して、ペタフロップス(1秒間に1000兆回)級の(世界最大級)のスーパーコンピュータを作り、それを核兵器のシミュレータにする計画が05年からはじまっており、08年には完成させる予定というのである。

プレステ3は、使い方によっては、核兵器の研究にも使えるということである。
北朝鮮系の人がプレステ3を買い集めて本国に送ろうとするかもしれないが、プレステ3はそのあまりの高性能故に北朝鮮等核兵器の研究に転用する恐れがある国に輸出することは最初から禁じられている。

それに、プレステ3さえあれば核兵器シミュレータができるというものではない。
プレステ3のハードよりも、それを利用して核開発をシミュレートするシミュレーションコード(ソフトウエア)が必要である。それなしには、プレステ3もただのゲームマシンにとどまる。
プレステ3がどれほどがとんでもない可能性を秘めたマシンであるかがわかってくるだろう。

ソニーは、プレステ3と“セル”の開発によって、スーパーコンピュータをチップにしてしまった。しかも、その大量生産技術を開発することで、それを安価な部品(チップ)に変えてしまった。しかもそういうチップをアッセンブルした民生用機器を開発してそれを商売にしてしまうというとんでもない新しい技術世界のトビラをいま開こうとしているのだ。

これがうまく展開していくと、ソニーは21世紀の電子産業界で、20世紀にインテルが果たしたような役割を果たすウルトラ級の巨大電子産業になってしまうかもしれない。

「私、スーパーコンピュータのほうはぜんぜんわかりませんので」と中鉢良治社長は文芸春秋での立花隆との会話に、ぜんぜん話に乗ってこない。
そういう可能性を知らないのか、知らないふりをしているのか。
巨大企業の社長たるもの、あまり最先端の夢のような話に乗って、行け行けドンドンで先頭に立って暴走したりしないほうがよいのだろうか。

ソニーの新本社が、いよいよ完成に近づいてきた。
 新本社は、かつて芝浦テクノロジーセンター(通称・芝浦テック)と呼ばれていたソニーの拠点跡地の「新芝浦開発プロジェクト」。

 もともとこの地は、’69年9月に、芝浦工場としてソニーがオーディオ機器の生産拠点を開設した場所。
いわば、ウォークマン発祥の地といってもいい場所だ。その後、’89年8月に芝浦テクノロジーセンターに名称変更。

 建築主は、ソニー生命保険、地下2階、地上20階建てで、高さは99.4m。敷地面積は、18,165平方m、延床面積は、163,745平方mとなる。
最新の省エネルギーシステムなどを導入しているのも特徴だという。
、2007年2月までには移転が完了する
ソニーの本社機能のほか、都心の数10カ所に分散しているソニーグループのオフィスを集約。

また、飲食店などが入居する予定で、新たな一大オフィスビルが誕生することになる。

 2006年5月に創立60周年を迎えたソニーが、記念すべき年に果たす本社移転。第1四半期連結決算も薄型TV「BRAVIA」の好調などに支えられて、好業績となった。

 新本社への移転を機に、ソニーは完全復活を果たすことができるだろうか。

品川駅東口から約600メートルの距離にある新芝浦開発プロジェクト。
コクヨの東京品川オフィスの北側になる 全面ガラスの外観はほぼ完成。
品川駅からはこちちから入るのが便利そうだ 地図のほぼ中央にある「港区」と書かれた場所が現地。現在の本社に比べると、品川駅には圧倒的に近い

メリルリンチや早稲田の大学院などが入る日本橋一丁目ビルディング。
名前はCOREDO日本橋。英語のコア(CORE)と江戸(EDO)を掛けた

5年前に閉店した東急百貨店の跡地にできた地元待望の商業施設だ。
実はこここそ、60年前のソニー発祥の地だった。

「お客様に直接売る場所を充実させる」(出井伸之 会長/ソニー)
系列のソニープラザが出店したのも、大人向けの新しい雑貨のお店。メインターゲットは30代半ばの女性。家具や衣料にも力を入れた。また、閉店時間が早いといわれる日本橋にあって、20以上ある飲食店は夜11時まで営業する。

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初グチ

2007年1月1日
新年明けましておめでとうございます。
年神は農耕神であり、先祖神でもある。
松飾りを目印にしてやってくる。
今年こそ、よき年にすべく
チャレンジ!チャレンジ!
再チャレンジは美しき国,同様響きがいい
負け組みのあふれる市井には美しきお話が満ち溢れている。

社会のルールを無視して犯罪行為がどうしてもおこるのが悲しき性の人間社会。
葬られるのはマスコミの報道で決め手になるのが現代社会。
ハレンチ罪は有名税たるタレントの場合はとりわけ再起がおぼつかない。。
元極楽とんぼの山本圭一(38)
報道では、17歳の少女に対する婦女暴行容疑(不起訴処分)で今年7月芸能界を追われた
これに救いの手を伸べると、その人自身が、人格を疑われるので避けるのもこれまた人間社会
だが、これに救世主が現れた。
山本を復帰させようと島田紳助の呼び掛けで運動が起きているのだ。
「“嘆願書”が作成され所属プロの垣根を飛び越えて若手芸人や大御所の芸人らが“嘆願書”に署名している」)
お笑い芸人の間で伝統的に受け継がれている精神が“捨てる神あれば拾う神あり”
肝心の当の本人はどこでどうしているのか。
ひそかにしていたことがマスコミで外に出てしまった。
キズの癒し、出直しの反省はココから再出発するしかない。
、山本は宮崎県内でボランティア活動をしながら生活している
市内の老人介護施設である。
その傍らで介護士の資格や船舶、大型特殊免許を取得し、自立しようと努力している
自らチャリティー野球大会を主催して自分の犯した罪を償おうと必死の状況。
 これに感激したのが紳助。
涙もろく情に厚い紳助は吉本興業の元マネジャーに対する暴行事件で芸人生命の危機にさらされた時に周りの仲間に救われた。あの時の自分を重ねたであろうか。
 気心の通じた仲間と山本の復帰について話し合った。
当初メンバーは松本人志、笑福亭鶴瓶、ココリコ、矢部浩之、それに、石橋貴明、浜口優らも参加するようになった
復帰は来年8月頃。すでにフジと日テレが非公式に打診中という情報もある」
12月23日 日刊ゲンダイよりの記事。

TBS「NEWS23」は筑紫哲也キャスター(71)を看板にしている。
2006年9月から、リニューアルで、山本 モナは膳場貴子とともにキャスターに抜擢される。
関西から鳴り物入りで東京進出した美人アナが、わずか5回の出演で降板する結果と
なった。
民主党の細野豪志衆院議員(35)との不倫が発覚、妻子ある身の細野議員
2006年9月29日発売の写真週刊誌フライデーに“路上キス”の不倫現場を写真付きで報道。
その後もお忍びで京都を旅行する写真が報じられた。
山本アナ「私の軽率な行動で、番組並びに関係者の皆さまに多大なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません。今後は自らを厳しく律し、信頼回復に向けて努力してまいりたいと思います」とコメント。
山本アナは翌週から「体調不良」を理由に番組を休養。
同局では「体調が回復しだい出演してもらう」としていた。
しかし、結局はそのまま降板。
不倫スキャンダルの山本モナ(30)にビートたけしが救いの手を差し伸べた

山本 モナ(やまもと もな、
1976年2月11日 - )は、オフィス北野所属のフリーアナウンサー
で、元朝日放送アナウンサー。
広島県尾道市出身。福山暁の星女子高校、学習院大学法学部法学科卒。
ノルウェー人の父と日本人の母を持つハーフ。身長168cm、血液型A型。

 日本ビクターは1927年に日本ビクター蓄音器として設立された老舗電機メーカー。
犬と蓄音器をあしらったマークが有名。
テレビ草創期の普及期のテレビはコロンビアとビクターが定番であった。
田舎の村に最初にテレビが入った分限者ドン宅もビクターであったのを覚えている。
テレビのうえのかわいいニッパー君の置物が目立ったからだ。
ビクターの販促商品で1号サイズ(32cm)から6号サイズ(12.5cm)まであったようだ。
のちのディズニーの映画はブチが入ってたがビクターとのつながりを思ったほどだ。
薄型テレビやデジタルビデオカメラなどの音響・映像(AV)機器が主力で、技術力の高さに定評がある。
54年に松下電器産業グループに入った。
ところが、松下は音響・映像(AV)機器の子会社、日本ビクターを売却検討が報じられた。 
 中堅音響機器メーカーのケンウッドと交渉を始めた
、ビクター経営陣が米投資ファンドのサーベラスをスポンサーとして松下から株式を買い取る、
経営陣による自社買収(MBO)の構想などが浮上しているもようだ。
 松下はビクター株の52.4%を保有。
 日本ビクターはデジタル家電の競争激化への対応が遅れて業績不振が続き、
06年3月期の連結純損失が306億円。
松下と重複する商品が多く、グループ内競合の弊害も指摘されている。
006年3月期の連結ベースの売上高は8068億円、純損益は306億円の赤字。
従業員数は約2万8500人
ビクターレコード店を「HMV」という名前を知っている人は多いはず。
HMVとは、「His Master’s Voice」の略。
訳すと「ご主人様の声」
これにはこのようなお話がある。
フォックス・テリアは日本のシバ犬に似て非常に賢い
ビクターのマークに描かれてるあの立ち姿振る舞いで愛くるしい。
ビクターマークの原画は、1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって画かれた。
フランシスの兄マーク・H・バラウドは「ニッパー」となずけかわいがった
彼が世を去ったため、彼の息子とともにニッパーをひきとりフランシスが育た。
たまたま家にあった蓄音器で、かつて吹き込まれていた兄の声を聞かせたところ、
ニッパーはラッパの前でけげんそうに耳を傾けて、なつかしい主人の声に聞き入っている
 そのニッパーの姿に心を打たれたフランシスは早速筆をとって一枚の絵を描き上げた。
その時の蓄音器は録音・再生ができるシリンダー式
その後円盤式に画き変えられ「His Master’s Voice」とタイトルをつけた
 亡き主人の声を懐かしそうに聞いているニッパーの可憐な姿は、円盤式蓄音器の発明者ベルリナーを感動させ、彼はこの名画をそのまま商標として1900年に登録た。
 それ以来この由緒あるマークはビクター商品に美しく記され、最高の技術と品質の象徴とされた。
にほんにもファンは多い。
岡山の倉敷・山陽堂屋根の上にニッパー君達が「101匹ワンちゃん」を目指して君臨している。
今年は犬でなく、イノシシ年でしょうヨ。
アレ?マツガッテら〜
ただ、戊辰の役というではないか。
智・仁・勇に変遷はない。
忠考さえわからぬ息子ゆえ新年早々の犬口。
今年はいい年にしましょう。
 
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年越しの器

2006年12月31日
お正月が近づくと11人兄弟のせきやんの父・長男岩雄の家は大騒動。
くわえて日清日露に従軍した長男の祖父の8人の兄弟の叔父叔母。
一族郎党の契の顔合わせの場であった。。]
2日間をかけて年始の親戚を迎え入れた。
松の内までを拡大解釈して旧正月までにはこれらの家々に返礼のお返しに行かねばならぬ
が、とても両親では回りきれぬので手分けして子らに任務が下る。
クルマ、バイク社会の存在しない頃ゆえ、自転車は最高の移動手段。
モミ一俵が積めるつわもの自転車ゆえ、幼子には背は高く重いったらありゃしない。
三角乗りで座るところのサドルは利用価値がない乗り方。
道路は総てといえるほど未舗装の砂利道。
道の中心部が高く平行になってないので困難を極めた。
ところどころにドデカイ石がニョキニョキ
何度か転ぶこともある。
転んだら大変。
幼子には重く起こすのが一苦労。
荷カゴには、ワレモノの一升瓶の焼酎さえ積荷してある。
方法の呈で自転車のかごからお供え物を出した。
届けるものは鏡餅と焼酎、金一封
親の名代で伺う訳で大層な御もてなしを受けた。
さて受け入れ準備の年末であるがお料理も大変なら食器の数が半端ではない。
納屋の保管の木箱の新聞に来るんだ什器類は晴れ舞台
お葬式とお盆のときぐらいのお出番
四角いお膳はハゼの匂いの上等の漆で仕上げてあり、黒光。
そろいの箸も漆器と同じ素材。
日ごろは赤い塗り物でテッペンに黒いしるしを使い洗うときはハシ同士をガラガラとならし洗浄した。ので勝手が違う
漆器の蓋には松ノ木に鶴が鮮やか。
この漆器であるが、どうにも昔は身近すぎて気に留めなかったが、世界に誇る日本美術・文化のようだ。
浮世絵が世界の絵画に大きく影響したように漆器の素晴らしさに多大なる形容詞で呼ばれている。
その漆のナは「ジャパン。」
英語辞典を見るといい。
ジャパンの名で世界に通用する漆。
17世紀後半、日本の漆器を初めて「ジャパン」と表記して絶賛した英国人の書物の一節を新聞が紹介している。
「ローマもその栄光を日本に譲り渡さねばならない。彼の国こそ現在のバチカン、過去のパンテオンがほしいままにした栄誉を、その美において超越している」
最大の形容詞で漆を褒め称えた。
国会議事堂内でいちばん立派な部屋は御便殿
便殿とは天皇、皇后を始め、皇太后、皇太子、皇太子妃がご休息されるために設けられた部屋のこと。
内壁は総漆塗り。
御便殿の漆工事を担当したのは、東京美術学校漆工科(東京芸術大学の前身
工事の最高責任者は、江戸時代建造物の研究家として著名だった工学博士の大熊喜邦
議事堂の変わった屋根の形の設計も担当した。 
 材木はすべて国産材、漆工事だけで予算は9万8000円。
明治20年(1887)に着工しもりそばが1枚1〜2銭の時代
1936年完成の議事堂の漆芸装飾監督だった松田権六(1896〜1986)
そのジャパンの名で世界に通用する漆を国会の議席に使うべきだと主張した
議員に漆(ジャパン)にふさわしい世界性ある識見を求めたからだと松田の回想
中尊寺金色堂などの保存修復に取り組み、また蒔絵の万年筆作りや漆による客船の内装も手がけた。
厳かな元旦を迎える準備。
男は竹芝の垣根用の柴をを山から刈り込んで新装した。
ウラジオは飾りもちの下に敷く訳だが、生えてるツボは山の中でも湿気のあるところ。
屋敷内の氏神様の小さき祠、馬頭観音様、水神様それぞれにシキビでお正月を知らせた。
村の真ん中にあるご先祖さまのお墓にも同じ装い。
だだっ広い庭を掃わき、なんとなくワクワクしていた。
庭は稲刈り後の農作業でモミの天日干し場でもあったので広い。
端っこには家畜をつなぎとめるところもあり、花壇と垣根の間には、素堀りの溝もある。
相撲の土俵があり、村の子供が集まり、草相撲。
土俵入りをしたり、砂遊び、パッチン、ラムネ盗りと賑やか。
小学校に上がる前に親指を失ったゆえ16畳間の外をグルリと囲む板縁側から相撲を眺めるときの悔しさ
将来の不安さえ抱え込む、ませた幼子で呆然と相撲に興じる村の子供らを見ていた。
寒き冬ゆえ焚き火が端っこでゴウゴウと燃え盛っている。
隣の炭焼きの煙と混ざっての煙が風向きで時折土俵を襲う。
相撲は中断。霧隠才蔵、猿飛佐助といつの間にか相撲はチャンバラ
遊びの天才の子供たちは親から観れば他愛無い。真剣に次の遊びに流れていく。
普段は農作業の手伝いで自由時間がないが、この日は家畜の世話だけ。
湯殿のお風呂沸かしは井戸から釣瓶で水汲みが大変。
バケツで井戸から汲み上げ五右衛門風呂の湯桶を満たすには幼子には重労働で濡れながらの作業。
この日は力に勝る兄たちがやってくれた。
迎える新年の喜びで一杯。
誰もが機嫌がいいのがわかる。
早風呂もお楽しみ。
大晦日の夜に入る風呂は「年の湯」
下着類が新品となる喜びもあった。
丁稚奉公の辛さを落語家が「薮入り」で噺が
団塊の世代の農家の子等は同様に厳しかった。

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世界経済は好むと好まざるとにかかわらず、いやおうなしにドルをッ中心に動いている。
米国はその威信のため、世界各国に米兵隊を派遣し支配している。
ドルの垂れ流しは自らの経済価値に不安定が生じる。
新自由主義、グローバル経済とドル維持の経済体制を打ち出す。
米国本位に成長力のある国々にドル維持体制のサポートを求める。
日本には明治以来の郵便制度、戦後、営々溜め込んだ国民の財産・郵便貯金の350兆円を米国国債を買わせる資金に小泉郵政改革の名の下、差し出させた。
これでは国内に金が回らない。
どうりで輸出産業外は不景気なわけだ。

東アジアの米国追随者の国家指導者は戦々恐々。
次のターゲットに中国に狙いを定めた。
いまや、世界経済の推進力までの成長を走る国である。
世界人口の五分の一を抱えているので計り知れない成長力を秘めている。
世界の成長力がかかってる期待さえある。
中米戦略経済対話が開催された。
、メディアの報道では、為替操作国・中国が為替管理を緩和することだけに世界の関心があるかのように、米国メディアの視点を通して報じられてきた。
しかし、人民元改革に進展がないと報じられた一方で
ドルの下落に対して中米両国が共同で対抗措置を講ずる確認がなされた。
、貿易構造自体が不可欠の相互依存関係にある両国の共同歩調が特徴であるとしている。
さらにドルの下落が為替相場を通して市場に波及することで、米国通貨の脆弱さを露呈することが
、東アジアの国々の重大関心事になっている。

戦後60年劇的変化のあった日本。
軍事省が発足し、教育基本法が改悪された。
  教育基本法の改悪は何を狙っているのか。
憲法前文の思想と教育基本法を切り離すことにある
そして公立学校を利用して、米国の世界戦略にそった戦争に自衛隊が加参加して戦争に加担できる人間を育てることをめざしている。
それは、「格差社会」とも連動している
ココまで平和志向の民族となると簡単には兵役に応じない。

ところが、格差社会の負け組みは年の越せない経済状態にある。
暴力的な支払い取立てが満ち溢れ精神的な安定にない恐怖の日常。
3万人を越える自殺者は。恐怖に怯える中小経営者が多く含まれている。
世相は好戦国転換への支持が多くなってきている。
不況打開を戦時経済復興に賭けようとする。
戦後最大の好景気が伝えられる中での不況から抜け出せぬ地方の喘ぎである。
この常態化は支配者には都合が良い。。
格差社会の負け組みは、生きるための兵役予備軍となろう

職を失った人や、それゆえ家族を失くした人たちの行き着く先。
大阪の釜ヶ崎や東京の山谷に流れ込むように増えているという。
街頭に放り出された人たちは、野宿者として、公園の小さなテントに住みつくしかない。
だが、この社会で最後の居場所となったテントからも強制排除されようとしている
これに抗議する「釜ヶ崎パトロールの会」の支援の呼び運動が世界に広がりを知った爺である。
ドイツ人グループが応え、ベルリンの日本大使館前に集まり抗議の声をあげた。
なぜドイツ人が抗議の声をあげるのか
彼らは、福祉社会が急激に崩壊しつつあるのは日本だけではないからだという。
新自由主義に抗議する運動は、今や国際的な関心事で、国境を越えた連帯抜きには語れないのだと指摘する。
大阪の釜ヶ崎で野宿者と生活を共にした経験をもつエイドリアン・メンゲイのインタビューの答えである。)
都城の社長さんからココでの生活ぶりの体験を伺った。
負け組みの最後の生きる場所のようである。
ただ、暴力的に追われる恐怖がない幸せはある。
自殺の道を選ばず、命のみ生きながらえるほ方である。

治安悪化の中ではそうもいかない。
イラク国内で、殺人、誘拐、脅迫など容赦のない暴力による心理的ストレスに耐えきれなくなり、自殺する人々が増えている。
自殺者が両親などに宛てた遺書の中で上げている最も多い自殺の理由が「これ以上の暴力にもう耐えられない」という内容だという。
毎日のように命を奪うという脅迫を受け続けていたことが原因だった。  
、自殺の方法の7割は殺そ剤、殺虫剤などを使った服毒自殺。他の方法は銃によるもの、首つりなど。 
 
 バグダッド市内の病院などの統計によると、今年1月以降、毎月約20人が自殺、約30人が自殺未遂を図っている。 
  保健省によると、イラクに吹き荒れる暴力によって、心理的負荷を受け自殺者は大人ばかりだが、やがて子どもの自殺が起きる可能性がある」と懸念している。 
 
 アメリカの裏庭、中南米は最も露骨な社会現象が生じている。
メキシコでは、麻薬組織のシナロアカルテルとガルフカルテルの二大勢力が抗争を続けている。
ケシやマリファナの栽培も行なっており、麻薬は最大の消費国米国に送られている。
二大勢力はこの権益をめぐって抗争している。 
 麻薬に関連した事件での死者は、ことし2000人という記録的な数字になっている。
相手側の組織の者を拘束した後、拷問を加えたり、首をはねたり、あるいは飛行機から突き落とすといった手荒いやり方が目立っている。 
 両勢力は、インターネット上のブログ上で自派の宣伝合戦を行なっている。
歌手バレンティン・エリサルデさん(27)は、シナロアカルテルに肩入れする曲を歌っていたが、このためインターネットのチャットルームでは、殺害を予告する書き込みがあった。 
 
11月25日、米テキサス州マカレン市に近いメキシコ北部のレイノサでコンサートを開いた。
終了後、バレンティンは駐車場で、マシンガンで70発の銃弾を浴びせられた。  
 
12月13日には、麻薬組織の抗争が激化しているミチョアカン州で、歌手のハビエル・モラレス(28)が6発の銃弾を撃ち込まれた。モラレスは麻薬カルテルを題材にした曲を歌っていた。こちらも犯人はわかっていない。
 
 同州では麻薬に関連した死者が、ことし100人達するなど、治安が悪化している。
このため12月1日に就任したカルデロン新大統領も、軍を派遣し、麻薬組織の摘発に乗り出している。 
 
 メキシコ北部で活躍する歌手たちは、米国への密入国や麻薬に絡んだ事柄を曲にして歌っている。
ギャング風のラップ曲や麻薬に関連した曲は、特に若者の間で人気があるという。 
 
 しかし、歌詞の内容が、あまりに組織や、密入国業者の動きを詳細に明かすような場合には、かなり危険な結果を生

むとも指摘されている。
音楽関係者によると、歌手が麻薬カルテルの標的になったりするのは初めてだという。この20日間
「誰も怒らせないラブ・ソングを歌うのが賢明なのかもしれない」と自嘲気味に話すメキシコ人

幾多に賭けた年越し資金のメドが総てすすんでいない。
生きるに値しない環境の暴力的集金者の群れ。
示談金100万円を振り込んだ口座の所持者に会おうと努力している。
ウソと権亡術が渦巻く負け組みの凄まじき底辺経済状態の世界。
ラップのボーカルを探し、年越しに賭けようとするも、この10日間うまく連絡が取れない。
どうにも年が越せる状態になく、年末年始状態ではない。

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平和のルーツ

2006年12月29日
就職戦線の面接において、愛読書を挙げるときに無難な司馬遼太郎
なぜそうかといえば、明治期の英傑と全国の郷土を見つめなおしたことにあろう。
埋もれた歴史を掘り起こしたゆえ、司馬史観といわれるゆえんである。
現代と昔では、歴史上の人物に対する評価が天と地の差で、180度変わりうる。
さらに、時代の流れの中で、やがて忘れ去られていく人物もある。
司馬史観にも欠落は補填されなければならない。
軍靴の音がまだ鳴り響いてはこないが戦後60年にして軍事省が発足した記念をしるしてみたい。
いつの時代もそうであったようだ。
日露戦争後の明治46年に雑誌に掲載された、読者による「海陸軍人」の人気投票。

1位・乃木希典
2位・東郷平八郎
3位・郡司成忠
4位・財部彪
5位・福島安正
6位・長谷川好道
7位・中村覚
8位・島村速雄
9位・瓜生外吉
10位・山本権兵衛
『冒険世界』明治43年6月号

日本の礎は日清・日露で資本蓄積が図られた。
日露戦争直後の投票ということで戦争で殊勲を挙げた人物がランクイン、
日本海海戦の敵前ターンで有名な連合艦隊司令長官・東郷平八郎
意外なのは、乃木希典の1位。
乃木の愚将のイメージが戦前までは西郷隆盛と伝記の数を競うほど国民に人気があった人がうかがい知れる。
それに比べて、
北千島の開拓者・郡司成忠
シベリア単騎横断の福島安正など現代史は葬り去っている。
財部彪・・ウン?(たからべ たけし、慶応3年5月10日(1867年6月12日) - 昭和24年(1949年)1月13日)
宮崎の人。都城市出身。海軍大将。海軍大臣。
知名度が高くないが高校の時の歴史史料集には名前と漫画絵が載ってた
日露の終戦処理はポーツマスに宮崎の人小村寿太郎外務大臣が全権委任で処理した。
海軍軍縮を成功させた立役者の一人

財部は昭和4年。1930年、ロンドンで開催された海軍軍縮会議に全権大使
、軍縮条約を成立させた。
大正後〜昭和初期に5期海相を務めた
この条約成立後に起こった「統帥権干犯事件」で予備役に編入、現役を去る。
そしてこれ以降歴史の表舞台からは姿を消した

「坂の上の雲」で"広瀬武夫と財部彪とは海兵同期、そして柔道仲間
海軍兵学校では15期、クラス主席として卒業。

以前財部は14期として入学するも1年休学し15期に編入したために広瀬武夫や岡田啓介、竹下勇とは同期。
明治30年、首相・山本権兵衛の娘・稲子を妻とする。
同じ宮崎の人で同郷の陸軍元帥、上原勇作が仲人。
郷党意識の強い上原は同郷人にはとても気さくで、地元では敬愛されている。。
財部はその反対で同郷だからという理由で後進を推することがなく、当然受けも悪い。
1919年、海軍大将。加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、
浜口内閣)において海相を勤める。1930年、ロンドン海軍軍縮会議において若槻礼次郎とともに全権
同条約を成立させた。

、海軍軍令部は大不満であり、濱口内閣の処置を統帥権の干犯であると、犬養毅・鳩山一郎らが率いる政友会と協同し内閣を攻撃した(統帥権干犯問題)。このことが原因で、、実質的に引退する
ロンドン海軍軍縮条約のその後元老、重臣、世論の支持を背景に議会を乗り切った浜口内閣は枢密院での審議を押し切り、10月2日に条約の批准に至った。その翌日、財部は海相を辞任。
、この調印を「統帥権干犯」であるとする非難の声は根強く、昭和5年11月、浜口雄幸首相は急進的な国家主義者に狙撃され重傷を負う。結局、昭和6(1931)年4月には浜口内閣は倒れた。

このように政治的混乱を招きながら締結されたロンドン海軍軍縮条約であったが、日本は昭和11(1936)年には条約から脱退
、軍縮時代に終止符が打たれ軍拡の道を走り、亡国の太平洋戦争に突入する。
日露の終戦処理のポーツマスの宮崎の人小村寿太郎も国民から批判を受けた。
ロンドン海軍軍縮を成立させた財部彪も同じ不遇を受ける。
社民党党首。福島瑞穂も宮崎の人で改憲まできてる中、孤軍奮闘してるが世相は軍事国家を支持してるようだ。
風前の灯の平和憲法。

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スクリーンの影

2006年12月28日
物事toには変遷があり、好・不調を繰り返す。
ご意見番「渇ッ!」の3000本安打の張本勲は映画会社がオーナーの東映に所属していた。
映画会社東映はステータスとして球団を経営していた。
テレビ産業に淘汰され球団も手放した。
斜陽産業といわれた邦画界が復調してるようだ
それも、邦画がバブル期?とも論評する人がいるほどだ。
昨年は「NANA」「電車男」など興行収入三十億円を超すヒット作が続出、
全国の映画館は今春にも三千スクリーンを突破する勢い。
ただ、手放しでは喜べない状況も見て取れる。
シネマコンプレックス(シネコン)の増加で一部のヒット作に観客が集中する半面、
製作本数の急増から公開の目途が立たない作品も増えてきた。
日本映画は復活したのか、それとも一時的な“バブル”なのか−。
 映新聞記事から転載。
映画全体の興行収入が千九百八十億円と前年割れしたにもかかわらず、
日本映画は3.4%増で八年ぶりにシェア40%台を回復。一昨年末公開の「ハウルの動く城」を除くと百億円規模のメガヒットはなかったが、
ヒットの目安とされる十億円以上の作品は昨年より約三割増え、安定した邦画人気を裏付けた。
日本映画製作者連盟(映連)の松岡功会長は胸を張る。
 映画黄金期の一九六〇年には七千五百館近い映画館があったが、九三年には千七百三十四スクリーンにまで減少。

だがこの年、日本初のシネコンが誕生すると各地で建設が相次ぎ「今年三月には七〇年以来となる三千スクリーンに達するの
が決定的」(松岡会長)という。
 好調を後押ししているのが、一つの建物に五つ以上のスクリーンを持つシネコンの増加だ
。多くはショッピングセンターなどと連動した複合型施設で、きれいな劇場や最新型設備で若い観客を集めている。
宮崎でも繁華街の橘通りの映画館は空きビルとなり、イオンショッピングモールのシネコンに移転。
 ▽復活の理由

 日本映画の人気が復活しているのはなぜか。
「シネコンの普及と、視聴率競争にさらされたテレビ局が映画製作に乗り出した時期が重なった。
日本映画は若者の求めるデートムービーになったのです」は、キネマ旬報映画総合研究所の掛尾良夫所長。

 その結果、テレビ局との提携に積極的だった東宝にヒット作が集中。
昨年の興行成績上位十本のうち「交渉人 真下正義」など九本が同社配給作品
「日本映画が頑張ったといっても、ひとえに東宝さんにおんぶに抱っこ」(岡田裕介東映社長)という状態だ。

 複数のスクリーンで上映作品を自由に組めるシネコンの形態は興行収入の格差拡大を助長。
「勝ち組はどんどんスクリーンが増え、負け組は一日一回上映。大手以外の出口(スクリーン)獲得は厳しくなっている」
 にもかかわらず「日本映画の時代だ」とばかりに、製作本数は急増中。
昨年は前年比15%増の三百五十六本が公開され、
今年も洋画配給会社や広告代理店などの新顔が製作に乗り出している。
 ▽いびつな形態
 「こんなに作ってどこでやるの、というくらい映画が多い。
作るほどに損する会社も出てくるのでは」と危惧するのは角川映画の黒井和男社長。
「公開されていない映画が今も八十本ぐらいある半面、一握りの映画がものすごく観客を動員している。日本映画がいびつな形態なのは事実だ」

 ヒット作の興行成績の数字が踊り、ブームに乗って「取りあえず製作」した映画が増えていく現状を“邦画バブル”と呼ぶ

映画関係者
「数だけ増えても駄目で、一本あたりの興行収入を上げることが重要」と掛尾所長は指摘する。
「このままではインディペンデント(独立系)は苦しくなるばかり。
映画を作りっぱなしではなく、上映や資金回収まで全体を見渡せるプロデューサーが必要でしょう」
 シネコンが数少ない作品で占められている状態では、豊かな映
、今の日本映画に問われている。

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辛きハ年の瀬。

2006年12月27日
2日国分での約束どおり、
、92000坪の土地売買の』前納金受領のため、福岡へ25日に行かれる
年越しの借り入れされての手数料の一部をいただけると勇んで12月26日、田野ジョイフルに緊急のため送っていただく。
実にありがたきこと。
ところが、借り入れ条件が違い、全くの収入がないままとの報告を受け、ガクゼン。
18,19日と一日宿泊を伸ばしてまでも、纏めたお話がこれだから、資金はわからぬ。
大宅さんからきつい状況をされてるのに
集金できないでは,年越しができない。
26日は悪天候の中、15Kmをひたすら歩き、
当てにしてた資金の帰りをひたすら、待つが、これも帰宅なし。
支払済みは確認されてるのに、やりきれない。
この一月に何度、逃げていったやも知れぬ。
追っかけるお金は逃げるらしいが、総てがこれでは、どうしようもない。
27日のあったたかかったこと。
自転車で飛んで回るが、汗気味。だが総て。徒労。
整理されてる事務所を大掃除の気持ちで、やり直す。
江戸からのやりとりで、とりなしができてると良いが、これも金欠病で期待が持てない。
20度を越えてるめずらしきこの時期。
北陸では台風模様と大荒れ。一体どうなってるやら。
地球環境の異常さがこうも露骨に出てくると怖い。
先日ののネット情報を思い出す。
北極の氷が大変な勢いで解けつつあるのだという。
従来の4倍のスピードで減少し
このままなら2040年夏にはほぼ消滅するとの予測だ。
地球物理の専門家がスパコンで試算した結果だと新聞も報じている。
ホッキョクグマやアザラシはどうなってしまうのか。
 氷が減少すると北極海に暖かな海流を運ぶ。
研究者は「広がった海域は太陽光を吸収して水温が上昇し、氷がさらに解ける循環が始まる」と不気味なことをいう。
常夏の島々が沈んで国が消失し、日本列島だって海岸線が後退して縮んでしまう。
これは地球の一大事だ。
 どうもここんとこおかしいと、みんなが感じてきだしている。
豪雨、豪雪、竜巻が人々を襲う。
二酸化炭素をまき散らす人類への報復のようだ。
 「氷が消える」と試算したのは米国の学者たちだ。
ニューメキシコの砂漠では、地下の岩塩層で放射性物質を封じ込めた際の1億年後の漏れまで心配しているのも米国だ。
その国が、地球温暖化の元凶、温室効果ガスの削減には、ほほかぶり。
年末の資金事情にそれらにたいしても、舌鋒も鈍ってくる。
多くの人々にご迷惑をかけることになる。
自力再建策は無理。
総てが見えてきだした。
ガンバロウといううちはまだはな
辛きは、年の瀬、じ〜っと先を見る

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ハリウッド映画で今でもC級映画にはサムライに芸者ガールが描かれるイイカゲンさがある。
中国韓国日本がゴチャマゼでチャイナ服に二本差しの武士が和服の女に絡んだりするシーンさえある失笑ものもある。
なにもそれは排外的問題だけでなく白人中心のハリウッドに渦巻いてた問題であった。
1970年代、ハリウッドのあり方に反旗を翻し、黒人の地位向上運動のさきがけとなった
伝説的映画人がいる。
メルビン・バン・ピーブルズ
黒人映画の金字塔「スウィート・スウィートバック」といえばファンはうなずけよう。
これには裏話がある。
2003年米「バッドアス!」が公開された。
「スウィート・スウィートバック」の製作秘話を描いた実録ドラマ。
同作の監督の息子であるマリオ・バン・ピーブルズが監督と主演を務めた。
ストーリー:
黒人に向けた映画「スウィート・スウィートバック」の製作に挑むメルビン。
出資者の逮捕や女優の降板など、続発する苦難を乗り越えて完成する
だが、全米2館という小規模での初日を迎えることになる。
・・・・・
メルビン・バン・ピーブルズは常に、戦え!とはっぱをかけ、ハリウッド改革に取り組んだ。
今の自分に言われてるようで人事ではない。
ハリウッドは異文化に無頓着だったし、こちらの日本人は慣らされ、こんなものとあきらめていた。
ハリウッド邦人第一号スターは10年代の早川雪洲
ただ役は残忍な東洋人ばかり。
ナンシー梅木は日本人唯一のオスカー女優、ただ、57年の出演作「サヨナラ」の日本情緒は噴飯もの。
三船敏郎のサムライとガンマンも可笑しすぎた。
「ラスト・サムライ」の撮影現場で、真田広之や渡辺謙は、誤解を正そうと戦った。
興行も成功、評価も高く、ハリウッドの見る目が変わった。
好評のクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」の呼び水になった
 もはやおいそれと日本を描けまい。

そこにビッグ・ニュースが飛び込んできた。
アカデミー賞の助演女優賞の候補になるには事前の関門がある。
それを日本人女優がクリアーしたのである。、
「米放送映画批評家協会」の助演女優賞と「全米映画批評会議」の新人賞の2つに日本人が輝いた。
   菊地凛子
世界も驚いたろうが、
日本の映画ファンが一番ビックリしたのではないか。
ハッキリ言って“無名女優”が米国で伝統ある映画賞にえらばれたのだ。
世界が「リンコ WHO?」となるのは当然、日本人だって大半は「菊地って誰?」だろう。

映画『バベル』で菊地が演じたのは聾亜者の女子高生という難しい役どころだった

菊地凛子

全米で絶賛された日本人女優は、あのCMの女の子 
 知名度は低いが、実は画面ではおなじみだ

富士通ノートパソコンのCMで、キムタクのガールフレンド役を演じている
ロッテのガムのCMで、バレンタイン監督の指名を受けて代打で登場する
トヨタレンタリースのCMでは草なぎ剛と共演、
エステー化学のムシューダのCM「夫婦の休日」編
広告業界ではCFモデルとして一流のポジションを得ているようだ。
 1981年生まれの25歳。
15歳で、新藤兼人監督の「生きたい」で芸能界デビューは半端じゃア〜ない。。
その後も「三文役者」「赤い芝生」「空の穴」などの映画に出演。
、01年にはNHKの朝ドラ「ちゅらさん」に、主演・国仲涼子の後輩看護師・村山麻衣子として全国放送にも乗った。
ただし、そのときの女優名は 菊地百合子
現在の“菊地凛子”は04年に改名してからのもの。
それまでは“菊地百合子”として活動していた。
知名度がイマイチなのは、“改名”と関係があるやもしれない
新藤監督の他、石井克人、三木俊一郎、高田雅博監督らに多用されている。
今回の役くでも彼女は出演が決まらぬうちから手話を習い始め、撮影時にはほとんどマスターしていた という。
 次回作は三木聡監督の「図鑑に載ってない虫」。
すでに米映画界からのオファーも殺到しているという。
サユリストか国際女優・栗原小巻かと騒いだ世代は夢がかなわなかった。
フギァーの世界に肢体に劣る民族の日本人が金メダルをとったようなもの。
ハリウッドの閉鎖的な歴史が許さなかった面もあろう。
いよいよ、本格的“ハリウッド女優”の誕生か。
お楽しみはこれからだ
、和田誠がギャグニィーの映画だったか、その引用でこの著書を随分前に出した。
映画ファンを唸らせる著書名。

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ノロウィールス

2006年12月25日
「米国オハイオ州ノーウォークの小学校・・・」
マスコミ感染の日本人はいじめ、教育問題と連鎖的に脳機能が働こう。
実は、1968年に集団発生したノロウイルスの名前の由来の土地である。
1972年にその形態が明らかなり、「ノーウォークウイルス(Norwalk virus)」と呼ばれるようになった。
病理学の真理の追求の開明は時間がかかる。
現に、今日・現在でさ、ノロウイルスに対する有効なワクチンは開発されていない。
命名でさえ、国際ウイルス学会はつい4年前に正式にきめたばかり。
受験生のいる家庭では神経質になるのも当たり前だ。
降ってわいたようなノロウイルス騒動に、感染者も周囲も対応に戸惑っている、
原因といわれるカキ,二枚貝の産地は風評被害で二次被害者。

このウイルスは、人間の腸でしか増殖しない。
便の中に排出されると、下水の塩素消毒でも生き残って海に出ることがある。
一日何百リットルも海水を含む生活のカキを生食した場合感染の可能性があることは事実だ。
ただ今回の大流行では、調理に当たる人が保持していたウイルスが、料理や仕出し弁当を介して感染するなど、人から人へのケースが目立つ。
カキが原因となった例は、今のところほとんどない
フグは食いたし、命はおししと言うところか。

ただ、その間にも、似た形態のウイルスによる胃腸炎や食中毒が世界各地で報告され、
それぞれの地名を冠した名称で呼ばれるようなった

ブログから転載。する。
。これらはウイルス粒子の形から英語で、
Small Round-Structured Virus (SRSV; 小型球形ウイルス) とも呼ばれた。

また、ウイルス粒子の表面に32個のカップ状の窪みが見られることから、
ラテン語で「杯」を意味するcalixにちなみ、カリシウイルス科(Caliciviridae)に分類された。

1977年、札幌で幼児に集団発生した胃腸炎から、ノーウォークウイルスとよく似た小型球形ウイルスが病原体として発見され、
サッポロウイルス(Sapporo virus)と名付けられた。
しかし、サッポロウイルスには電子顕微鏡下で「ダビデの星(Star of David)」と形容される特徴的な構造が見られ、
その他の特徴からもカリシウイルス科の中でもノーウォークウイルスとの違いが大きいものと考えられた。

そこで、それまで見つかっていたものを「ノーウォーク様ウイルス(“Norwalk-like virus”, NLV)」、
ダビデの星型の構造を持つものを「サッポロ様ウイルス(“Sapporo-like virus”)」という仮称を用いて分類するようになった。

2002年、第12回国際ウイルス学会(パリ)において、それまで「ノーウォーク様ウイルス」と呼ばれていたものを
「ノロウイルス属(Norovirus)」、
「サッポロ様ウイルス」と呼ばれたものを「サポウイルス属(Sapovirus)」と定めた]。

2005年現在、カリシウイルス科には4属のウイルスが含まれるが、
そのうちヒトの疾患に関係するものは、このノロウイルス属とサポウイルス属の2属である。他のカリシウイルス科にはラゴウイルス属

(Lagovirus)とベシウイルス属(Vesivirus)が認定されている。

症状
突発的に起こることが多く突然腹の底からこみ上げてくるような感触がきて吐き気を催す。。
それが何度も激しく、トイレの便器のそばを離れられないといったことも起きる。
気持ち悪くて横になれず治まった後は、激しい悪寒が続き、さらに発熱を伴う。
これらの症状は通常、1、2日で治癒し、後遺症が残ることもない。
免疫力の低下した老人は、死亡した例もある。

また感染しても発症しないまま終わる場合(不顕性感染)や、風邪と同様の症状が現れるのみの場合もある。
「嘔吐、下痢、腹痛を伴う風邪」という表現があるが、それはノロウイルスなどによる感染症である可能性も低くなく(エンテロウイルス等の他の原因もある)、単なる風邪ではない場合がある。

感染
食中毒:ウイルスを蓄積した二枚貝(カキ・アサリ・シジミなど)の生食・半生食(半生のカキフライ・アサリの酒蒸し・シジミの醤油漬けなど)およびウイルスで汚染された食品を喫食して経口感染するもの
伝染性胃腸炎:1によって感染した患者)の糞便や嘔吐物に排出されたウイルスから経口感染するもの の二つに分けられる。

下痢がひどい場合には水分の損失を防ぐために輸液などを対症療法的に用いられる。
また止瀉薬(下痢止め)の使用については、ウイルスを体内にとどめることになるので用いるべきでないと言ういけんもある。

家庭においては、スポーツドリンクを電子レンジなどで人肌に暖めてから飲むことが推奨される。
0.9%の食塩水(100 mlに食塩0.9gを溶かしたもので、いわゆる生理食塩水である)を調製し、人肌に暖めて飲むことが推奨される。
電解質を含まない湯冷まし、お茶などは水分の吸収が遅い。

感染予防
飲食物を扱う人が十分に注意を払い効果的な感染予防につながる。

十分に手洗い、そして調理器具を衛生的に保つ。
ノロウイルスはエンベロープを持たないウイルスであるため、逆性石けん(塩化ベンザルコニウム)、消毒用エタノールには抵抗性が強いが、手洗いによって物理的に洗い流すことが感染予防につながる。

また、ノロウイルスは85℃以上1分間以上の加熱によって感染性を失う
、特にカキなどの食品は中心部まで充分加熱することが食中毒予防に重要である。
洗浄と消毒の順番については、第一に洗浄(と充分なすすぎ)、第二に消毒である。この順番を逆にすると効果が弱くなってしまう。

塩素系漂白剤については、至適濃度に関するデータは無い。
「濃い原液を使えばより効果があるだろう」という考えもあるし反対意見もある。原液の濃度にもよるが、濃度の高い液はアルカリ性であるため、アルカリに強い菌種では消毒力は薄めたものよりもかなり低くなってしまうケースもある。しかし、ノロウイルスについ

ては細胞内培養法が確立していないため、最も不活化されるpHに関するエビデンスがなく、この結果、消毒薬の至適濃度に関するエビデンスもない。現状では説明書通りの使用がよいと考えられる。

カキの「生食用」の表示も「ノロウイルスがいない」という保証があるわけではない。
消費期限内であるか否かにかかわらず感染源となる場合もありうる。
カキ等の二枚貝については充分加熱した後に食べるよう保険所などは呼びかけている。

乾燥した糞便や嘔吐物から飛散したウイルスを吸い込んだり、または接触することにより感染するため、感染者の糞便や嘔吐物を処理する場合は、手袋・マスクを使用し直接手で触れないよう注意し、作業後は手をよく洗うよう心掛ける。

汚染された場所を消毒する際、逆性石けんや消毒用エタノールに対する抵抗力がノロウイルス強い、

これらによる消毒はほとんど効果がない。
次亜塩素酸ナトリウムに対する抵抗力は比較的弱いのではないかと想像されている。感染者のいる場合、

トイレ・ドアノブ・蛇口・手すりなどは汚染しやすい箇所であるため、汚れを落とした後に消毒する。
ノロウイルスは、症状が消失した後も48時間はウイルスが排出される。消毒対象が布などの耐熱性のあるものの場合、スチームアイロンの活用も有効である。

厚生労働省が調査を始めた過去25年間で、今冬ほど猛威をふるっていることはないという
例年、12月から1月に発生のピークとなるが、最近の大流行の原因は何なのだろうか。年中行事のようにはしたくないものだ

デープインパクトのラストらんには感動した。
馬に負けてたまるもんか。
年末ギリギリのラストランを走りぬくしかない。

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メリー・クリスマス

2006年12月24日
天声人語に太宰の短編「メリイクリスマス」の紹介が載った。
新宿の文壇バー「風紋」の主人がモデルであることを教えていただいた。
上京の折は、歌舞伎町一丁目をやり過ごし、
新宿ゴールデン街のバーを訪れるが二丁目が逸話の場所だったとは知らなかった。
作家水上勉には行方知れずの子があった。
「信濃デッサン館」「無言舘」のオーナー窪島誠一郎である。
父の存在を知り、飲食店には見切りをつけ、それを元手に画商に転身し父との体面に備えた。
舞台は現在の明治大学和泉校舎の前を走る甲州街道
横断歩道の手前に今は「キッドアイラックホ−ル」というギャラリーと演劇等の貸しホールが建っている。
以前は、「塔」という喫茶店。
オーナーは180センチと豊な長身の弱冠20歳そこそこの窪島誠一郎
博識で洒脱な語り口に実父を探す苦悩の兆しは見受けられない。
昼は学生、夜は杉並の文化人の溜まり場、深夜はトラックの運転手さん達に軽食を供した。
異色の経営スタイルが大受けして大繁盛。
あるとき、父が有名作家にナッていることを突き止める
窪島は「明大前物語」の小説にそのことを書いた。
父子の30数年ぶりの対面のことも表されている。
「涙の30年ぶり、親子対面」という大きな見出しの朝日新聞に記憶がある。
子と作家の水上勉さんが手を取り合っている写真
、これこそ青天の霹靂の言葉しかない。
かって、その「塔」に通ってたのが「風紋」の主人・林聖子
新聞より引用する
終戦の翌年の60年前に、作家の太宰治からクリスマスプレゼントをもらった母と娘がいた。
それは、ふたりをモデルにして太宰が書いた短編小説「メリイクリスマス」の載った雑誌「中央公論」。

 小説は、主人公の笠井が東京郊外の本屋で久しぶりに娘と出会うところで始まる。
娘の母親は笠井にとって「思ひ出のひと」のひとりで、成長した娘の姿はまぶしく映った。
娘は、はじめは母は健在だと言うが、笠井を案内して家の前まで来た時に突然泣き出し、空襲で亡くなったと告げる。

 ふたりは、母をしのんでしばらく店で飲む。
居合わせた酔客が、通りを行く米兵に向かって出し抜けに叫ぶ場面で小説は終わる。
「ハロー、メリイ、クリスマアス」。
後味に敗戦の苦さも感じられる。

 小説で娘の「シヅエ子ちゃん」として出てくるのが、当時18歳だった林聖子さんだ。
実際には、母の富子さんは終戦から3年後に亡くなった。
やがて、聖子さんは新宿に酒場「風紋」を開く。
今月、45周年を迎えた。風に吹かれて姿を変えてゆく風紋のように、時代は移り変わった。
「あっという間でしたね」と聖子さん。
 60年前、太宰は着物の懐から雑誌を取り出して言った。

「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」。

その時の、ひどくまじめな顔は、今も鮮やかに胸に残っているという。

失った時代・生活に、二人の子らを一目みたいと懇願するが、持ち前の頑固さでかなわぬ夢である。
「メリー・クリスマス」
つぶやいてみる。

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備忘録程度で書いてきた6年間ほとんど欠かさず記録がある.
ここんとこアップロードに環境も含め支障をきたしている。
気長に平常心に戻るのをひたすら祈っている。
あせらずひたすら、うまずたゆまず、うちに秘め根気強く嵐が過ぎるのを耐える。
偏狭なる山間の農耕民族のDNAを引き継ぐ末裔ゆえこれしかない生き様
「プチッ!」ブログ順位アップの御願いは
相互の方・足音の方のみに限った
お客さんゆえである。
だが、、マナー違反のようであった。
これでは評論され、いかほどでも裁かれよう。
あえて言い訳はしないし、できない。
ブログ文化の何たるか、がわかってないからだ。
ミズカラ・マイタ・タネ
ただ、大したことではないつもりだ。
「プチッ」のお願いが大事になっている。
人格を貶したつもりもない。
かくもネット社会は難しきものなのか。
袋たたきの社会は恐怖そのもの。
イジメ社会につながる。
自重するしかないのやも知れない。
熊本鹿児島と駆け回ったか、結果、徒労のみ
武士道の一所懸命もまかり通らぬ。
この何日間は筑紫の国。
で大願成就にかけている。
こもドミノ倒し、さすが気がめいっている
起死回生の本業継続は暗沌としている。
不動産売買にかけている。

江戸のちからの資本注入期待と経営トップ交代が実現せず、ブログさえ止めた状態。
ひたすら燃えるような情熱の意志は岩をも砕く。
9万坪の土地処分は福岡でも伝わり、事業計画を受け入れていただいた。
金曜日に現地鹿児島に来ていただける。
熊本では新規着工の建築物に太陽光発電のお話もできた。
今一歩で、継続資金があれば、
未来は開ける
前途多難・
この日、亀田は、幾多のバッシングのなか、宿敵ランダエタを破った。
勝たねば意味がない。
いかなる環境であろうともそうだ。
台風銀座と自然主集に神が宿る
自然の猛威はそこに住むものの
あきらめ人生の要諦を植えつけた。
環境変化もあいまって、台風さえ来なくなった。
生きる目標も変えては良いのではなかろうか。
本業は太陽光発電の普及。
だが、事業資金の枯渇で動けない。
どうすればいいのかで不動産業に徹した。
これも上手くいかないが、どうしたらいいのか。
お噺がある。
「芝浜」は季節柄からもこの時期が良い。
natu」に「たがや」や「お菊の皿」を聞くような物。
それも、名人・円生でなく三木助がいい。
私事の生き様さえ似せて聞くとイメージが膨らみ師の生き様をダブらせるから深まる。
三木助・師の18番(おはこ)のハズだ。生き様が似ていたからだ。
ストーリーは本業に身を入れ、精を出すように諭す。人生訓・夫婦愛。
永久の生きる規範。
太陽光発電でなく1000に3つのしか成就しない不動産手数料にかけたが実っていない。
茨の苦難を招いてしまった・
道遠く暗いがもう一歩でそれも実ろう。
たった一人立ち向かうが、如何せん、日にちとの戦いで残りがない。
青島幸男(74)岸田今日子が逝った。
作詞家のなかにし礼は作家でもあり、近著での小説で師・青島幸男に触れている。
弟子入りした昭和30年代の終わりの頃の新聞記事。。
その当時に師匠は売れっ子の放送作家
「みんなと仲良く、うろうろしてなよ。才能がありゃそのうち芽がでるよ」。
努力でも勉強でもなく、まず才能であるところが青島流
「青島ダ〜」のギャグの誕生秘話。
弟子たちと夜の街を歩いているとき、路上に道路工事の標識が並んでいた。
青島はやおら、土木業界用語のセフチィーコンの黒と黄の縞模様をした円錐形の標識を持ち上げ、メガホンに見立てて叫び出したという。
「みなさん、わたしが青島です。青島だぁー」
ひらめくままの奔放な才気
「スーダラ節」の歌詞や「シャボン玉ホリデー」の寸劇
焼け野原から立ち上がった日本人に笑いという軽快なリズムを社会に花開かせた。
テレビ草創期の立役者。
立川流・放送作家の高田文夫は遠い昔、小学校の卒業文集に書いたという。
「大きくなったら、青島幸男になりたい」。
作家、映画監督、参院議員、都知事と、多才にして多彩を極めた生涯
実に似た経歴だが、全く対極の人がいる。
国会議員で東京都知事で高名な作家――石原慎太郎都知事
純文学の芥川賞作家である強面、直木賞作家の青島。
ふたりの経歴には国会議員、作家、都知事以外にも共通点が多い。
ともに1932年生まれ、
68年の参院選全国区で当選し、政界入りタレント議員と呼ばれた。
ともに絵筆を握る。青島は二科展入選を果たしたこともある。
ともにメガホンをとる。青島監督の映画「鐘」はカンヌ映画祭の入選作品。。
違い。
東京の下町生まれの青島
早稲田の大学院時代は、療養生活、
石原慎太郎は湘南の海が身近にある生活
「太陽の季節」に描かれた太陽族そのもの。のなかにいた
。政界での生き方も違った。
青島は第二院クラブに所属し、常に自民党政権の批判者。
石原は自民党政権で閣僚を二度務めた。
都知事としての青島一期で退任。それ以降も参院選に二度出馬し落選。
石原は都知事としてすでに二度当選、三選出馬を表明
その後、画家の息子のことから、石原軍団の政治に火の手がつた。
青島の直木賞作品「人間万事塞翁が馬」。
もちろん石原慎太郎が読んでないはずはない。

大先輩のご来宅で資金繰りに勇気を振るう。
会うことさえできなかった。が元気が出てきた。
結果は合えずじまい。なんにもすすまない。
ただありがたかった。一人では辛き人生。
この数日の金欠病を訴えた。

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英国人

2006年12月22日
血液型や犬派・猫派は人の区別に使われる。
男の場合は、酒飲み下戸の区別である。
酒飲みの人で、最も慕われてる人にトーマス・パーをあげることに異論はなかろう。
焼け野原から、出発した日本は物がなく輸入に頼った。
外国商品を舶来品とステータスでの尊称を与えて呼んだ。
タバコは洋モク、、海外土産品の定番は洋酒、
自慢のタネの貴重品であった。
ジョニー・ウオーカーの白黒はポピュラー
玄人の酒飲みはオールドパーをこのんだ、。
米英の生産国は問わなかった。
このボトルラベルに君臨してる人が英国人・オールドパーである
描いた画家はピーター・ルーベンス
誰なの??
こんなときの相場は創業者とか、発明者が名声を求めてるゆえの決まりだが、
英国流派チョト違う。以外や意外なのである。
大英帝国はチャールズ一世の支配した時代。1635年の頃
為政者の悩みはエジプト・秦の始皇帝以来不老長寿のこと。
チャールズ王に152歳と長寿の農夫の存在の情報を小耳にした。
「ぜひつれてまいれ」
ハレの謁見の名誉に、200KMを要してた道のりを経て、ロンドンに着いた農夫。
長寿の秘訣を聞かれ、
「信仰心と菜食」
長寿の秘訣は王からすればたわいないことであったろう。
尊敬の念をこめ当代一流の画家・ピーター・ルーペンスが肖像画を描かせた。
原画は博物館となっているミズリー号に展示されている。
勤勉、忍耐強くは農夫の魂
何も稲作民族に限られたものではなく、世界共通のもののようだ。
ところで何不自由なくロンドンでの生活は逆になじめず、
急性消化不良を起こし急逝。
解剖した医師ウイリアム・ハーブェの所見
内臓は若者のようで急死の原因は、急激な環境の変化と消化不良
急激なる生活環境の変化はいけないようだ。
幸、不幸はどこにひそんでいるやもしれない。
忘年会シーズンたけなわ。
トーマス・パーを前に一年を静かに振り返ってみることにしよう。
この琥珀色は何を伝えてくれよう。
生きるに値するや否や、資金なんで失意の状態である。
バッカスの神は導を知らし進めてはくれぬ。
所詮サル酒、サル知恵、己で切り開くしかない。

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く名優散る

2006年12月21日
声優の異色派は多いがアニメのムーミン、ともなれば絶品である。
妖艶さや霊妙さに穏やかさに純真さを備えた独特の声
宮崎の人たる今井美樹ばりのタラコ口。大きな目には独特の輝き。
形容することが愚かな程の幅広さ。、
ゆったりと転がすようにして演じ分けた。
それが演じるのでなくキャラ、地の部分があったというのだ。
彼女の語り、演技は人々を現実から別世界へと誘う
それが新聞記事で理解できた
幼い頃から、とにかくよく眠る人だったそうだ。
「学校の授業も、半分以上眠っていただろう」
睡眠過多症の他に高所恐怖症、方向音痴などを自認していた
俳人でもあったが、号を「眠女(みんじょ)」にした(岸田今日子『あの季(とき)この季(とき)』知恵の森文庫)。
黒猫の 影は動かず 紅葉散る
中学2年の時の歌は岸田家での発表会の作
父は劇作家の岸田国士
東京市四谷区(現・新宿区)に陸軍軍人・岸田庄蔵の長男として薫陶を受けた。
岸田家は旧和歌山藩士の家系。徳川御三家・紀の国の人
そのDNAをあますとこなく披露してくれた。岸田今日子
1950年に『キティ颱風』で初舞台。
1960年、三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢されて以降花道を歩いた。
1954年、同じ文学座の俳優仲谷昇と結婚。
流産を乗り越えて、1968年に待望の長女を出産する。その後、仲谷とは1978年に離婚した。
映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、
1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞。
1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。
1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演。
近寄りがたい大女優の妖艶さとユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技。
さすがの、宮沢りえもこの素質には脱帽であろう。

壊れてたのが直ってるみたいです。
    試していただけないでしょうか。
       御願いいたします。
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