有馬さまのお陰

2005年11月12日
酔っ払いジャ〜あるまいし、わざわざファツクスまで寄越しておいて、なんたる壮大なる期待とムダ。
純なるものは生きてはいけない社会のようである。
さも融資をするかのごときで、日にちを賭け審査ごと装い要約パスしたのに金融詐欺機関であったとはどうにも恐れ入る。
許可番号や電話がまったく違う詐欺集団。
都消費者担当官とお話し、ネット検索で判明、確定した。
それはいいとして、後ろ向きの仕事では事態はすすまない。
大忙しで宮崎に帰るも後、こちからの太助舟はまったく無しの足引っ張りのみ。
これじゃ〜ドロ舟で沈むわイナ〜。
全て後ろ向きの後処理の仕事。
パイを広げる作業に誰もなんら参画してなく、それを待ってるのが大きく増えてるんジャ〜
行き着くところは、決まっている。
ムチを体に入れ又来た道を取って返す。宮崎より都城へ。
仲立ちさんとかのお宅に伺う
オーナーの名は有馬、島原の領主と同じではないか。
この島原の地は、鎌倉幕府から肥前国高来郡有馬庄地頭に任じられた藤原氏を祖とする有馬氏が領していた。
室町期になると隣接する松浦氏、波多氏、草野氏、志佐氏・田比良(田平)氏らと戦い、その領地を拡大していく。
その後、竜造寺氏の勃興とともに一時衰退するも、島津氏の九州制覇の動きに同調して竜造寺勢を自領から追い落とすことに成功した有馬晴信が領地を旧に戻す。
一方、鹿児島に上陸したイエズス会の宣教師ザビエルらの布教活動で、九州は急速に宗徒を増やし戦国大名の中にも浸透し、多くのキリシタン大名が誕生した。
有馬晴信も天正8年に受洗しキリシタン大名となっている。
豊後の大友宗麟、同じ肥前国藤津郡、彼杵郡を領していた大村純忠らとともに天正遣欧少年使節団をローマに送ったことは歴史に名高い。
島津側について竜造寺隆信を自刃に追い込み旧領を回復した晴信は、秀吉が島津征伐の軍を九州に向けると秀吉に服しその領地は安堵され、関ヶ原の戦いでは東軍に与し生き延びた。しかし、その晴信も「岡本大八事件」で長崎奉行暗殺の計画が暴露され徳川幕府により領地を没収され甲斐に配流された。島原の地は改めて晴信の子直純に与えられる。「大八事件」で天領および有馬領にキリシタン禁止令が出されると、直純は徹底的に領内のキリシタン弾圧にあたった。その後(1614年)加増され日向延岡5万3千石に移封される
有馬晴純(1483〜1566)は有馬家全盛の時の当主。
2男純忠を大村氏、3男直員を千々石氏、4男盛を松浦氏、5男諸経を志岐氏と、近隣の有力者に入嗣させた。
島津と手を組み竜造寺を征服し絶頂を極めた。
好事魔多し。波乱万丈の人生はこれから。
1609年、ポルトガル船を長崎で焼き討ちにし、その恩賞を得る際、本多正純の家臣岡本大八の詐欺にあい、この件の調査中に長崎奉行暗殺計画が露見し、領地没収、
甲斐都留に配流され、その後自刃した
1582年には大友宗麟や大村純忠とともに、天正遣欧使節を派遣
かのキリスタン大名・有馬晴純の一生なのである。
 有馬直純(1586〜1641)は晴信長男。2代目藩主。
徳川家康に近従していたため、特別に父の旧領地を下賜され、
1614年、1.3万石加増され、わが日向延岡5.3万石に移封。
その後この系統は、1688年、4代藩主清純のとき、領内不行届により、いったん領地を没収されるが、同年越後糸魚川5万石を与えられ
、1695年、越前丸岡5万石に移封明治期を迎える。
波乱万丈はよく似ている。
兵糧攻めの極めつけは、携帯止め攻勢。
これで動きが取れない。
幾多の複合難関を突破しての難行である。
酔っ払いの元の西都生まれゆえ、やも得ぬのか。
日本清酒の発祥の地は 宮崎県・西都市の酒元地区との説がいわれている。。
神武以前4代の記紀からのお話ゆえ故事来歴の最高たるもの。。
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に子供が3人なされたが、母乳が足りなかったので、母乳を補うために甘酒を作って飲ませた。それが残って発酵し、日本清酒になったと言う。
日本書紀に記されており、西都の都萬神社にも、境内の石碑などにそのような記録が書かれている。
日本清酒発祥の地としては、島根県平田市、奈良県大和郡山市が著明。
コノハナサクヤヒメの伝承からルーツを日向のここに求めるのも致し方ないこと。
酒元という地名も残滓としてある。
聖教新聞12日目、強固なる組織には実に肖りたい。
人数は増えるが私の仕事が増えるのみで資金的手立ては何にもない。
これでは酩酊運転で、免許取り消しは確実。
マナー違反が判明しているがその処置如何では波乱万丈のチリモミリョウの世界になろう。
藁をもつかむ状況では目先で解決してしまう。
有馬さまは30日まで日延べで収めていただきあり難い・
どうにか現状整理が済んだのみで問題の資金の件はなんら解消していない。あすは地獄の状態。
パワーをいただける便りを頂いた。
早速江戸からの早飛脚での歌舞伎舞台のお知らせ。
日向の霊験あらたかなる目の神様「生目神社のご祭神・景清」
「俊寛」と確かに似通ってる部分もありがちで楽しき舞台であったんであろうな〜。
景清は[誇り高く、里人からは慕われていたようですね。]
とありますが、日向にいる盲目の父を訪ね来る場面のその舞台が宮崎にあるわけです。
景清廟とともに何らかの文化遺産として計られないものか。
[日向嶋景清]ねぇ〜〜意味深である。

ブログ・ランキング引き上げて元気くださ〜〜い。
ワン・クリック!よろしく!

http://blog.with2.net/link.php?62076

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索