危急存亡のとき

2005年11月29日
午前3時にご帰還、これを書いている。ここんとこまったくの睡眠時間がない。それにしては実にハードな日々。加えて神経消耗戦でクタクタ。揉め事を持ち込まないでほしい。
朝120KM先の北郷町まで走り、工程管理の協議。実に即お金にならないことばかりで大変である。
帰りの15時ころ入郷の地の西郷村レイクランドで遅き昼食。宿泊所の下見を兼ねてである。
西都を経て国富町に夕方現場検査で電気が来てないことの解消をして20時過ぎに鹿児島に向け出発。深夜に夕食。
昨夜も早朝まじかの4時に寝て今朝6時起床。なかまの会社のパネル運びに参加した。
もともと我がアパデン宮崎がやってた工事の元請さん。
この会社に仕事をとられたのである。
それなのにお人よしは人材派遣で人助。まるでバカみたい。
おまけに朝、富士通に派遣してるはずの人が事務所におられる。
是では無断欠勤。職場放棄である。
またもや元請けをしくじろうというのか。
注意すれど食ってかかってくる。
是では始末におえない。
何が正義で誰がトラブルを持ち込んでくるのやら。
身を粉に働いても一丸となってなければ進歩はない。
一人自己犠牲ではもうどうにもならぬ。
とにかく多忙である。
2日の日之影の職人手配を負え、明日の延岡の職人手配を終えた。
夕方の電気手配といい、多忙が重なりすぎている。
仕事の配分の適正化に勤めねばならぬ。
太陽光発電業界はあるいみ戦場よりきつい状況である。
全員が一丸とならねば生きてはいけない。
そこで負けた軍隊ほど良く学ばねばならぬ。
つぎに挽回を図るための準備である。
太平洋戦争時のあるいは2,26事件のときの日本軍隊は
二つに派閥があり負けて行ったのである。皇道派と統制派である。ブログから書くとこうである。
終戦時は統制派(阿南・東条ら、小磯国昭は和平派)が継戦派でそれと仲の良い海軍軍人・外務省が同じく継戦派 
海軍の岡田と米内らと旧皇道派(荒木貞夫・真崎甚三郎)と文官が和平派であった。
この頃の近衛内閣は信頼を失っており陸軍の赤化と共産革命をおそれて昭和天皇に奏上するが無視される。
もはや組織崩壊の様相を呈し末期症状という感じである。
陸軍は海軍よりも情報網そのものは良かった。基本的に海外で和平工作をしたのは殆ど陸軍軍人。
ヤルタ会談の内容は陸軍のスパイより入手済みだったが暗号解読をおそれ工作員が直接日本に運ぶことにした。
この時中立のソ連にシベリア鉄道をNKVD(のちのKGB)から提供され工作員が列車に乗ったところを殺害され暗号文を奪われる。
書き換えられた暗号はそのまま日本にわたり陸軍はソ連参戦のヤルタの密約を知らずに強気発言を繰り返す事になる。
そして何も知らない海軍は不安を覚え陸軍より早く組織的に戦後の準備を始めた。
マリアナ・レイテで壊滅し米軍に勝てない事はわかっても海軍は建造中を含めれば紙面の上では1個艦隊を編成できた。
艦隊が全滅していなかったのに降伏論は唱えづらい状態。
それに対し太平洋という決戦のしづらい戦場で全力の発揮できない陸軍が本土決戦で挽回を狙うという戦略のズレは戦後の身の振り方に対する行動を代える結果繋がるものはあった。
今朝の様は何であろう。
このような状況では人心が離れてるのを証明したようなもの。
ならばいかようにして稼ぐというのか。
もうコリゴリである。
首を切ろうとしてるとの発言にいたっては言語道断。
180度違う誤解にはいい加減にしろ!
もう我慢ができない。
この状態で維持運営ができるはずがない。
どうしたら生きていけるというのか。
レベルの低き議論には付き合ってる暇もない。
どう仕事をこなしていくのか。
日にちがない。危急存亡のときの手綱さばきが問われている。
問われているのは危機管理能力である。

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