平和のルーツ

2006年12月29日
就職戦線の面接において、愛読書を挙げるときに無難な司馬遼太郎
なぜそうかといえば、明治期の英傑と全国の郷土を見つめなおしたことにあろう。
埋もれた歴史を掘り起こしたゆえ、司馬史観といわれるゆえんである。
現代と昔では、歴史上の人物に対する評価が天と地の差で、180度変わりうる。
さらに、時代の流れの中で、やがて忘れ去られていく人物もある。
司馬史観にも欠落は補填されなければならない。
軍靴の音がまだ鳴り響いてはこないが戦後60年にして軍事省が発足した記念をしるしてみたい。
いつの時代もそうであったようだ。
日露戦争後の明治46年に雑誌に掲載された、読者による「海陸軍人」の人気投票。

1位・乃木希典
2位・東郷平八郎
3位・郡司成忠
4位・財部彪
5位・福島安正
6位・長谷川好道
7位・中村覚
8位・島村速雄
9位・瓜生外吉
10位・山本権兵衛
『冒険世界』明治43年6月号

日本の礎は日清・日露で資本蓄積が図られた。
日露戦争直後の投票ということで戦争で殊勲を挙げた人物がランクイン、
日本海海戦の敵前ターンで有名な連合艦隊司令長官・東郷平八郎
意外なのは、乃木希典の1位。
乃木の愚将のイメージが戦前までは西郷隆盛と伝記の数を競うほど国民に人気があった人がうかがい知れる。
それに比べて、
北千島の開拓者・郡司成忠
シベリア単騎横断の福島安正など現代史は葬り去っている。
財部彪・・ウン?(たからべ たけし、慶応3年5月10日(1867年6月12日) - 昭和24年(1949年)1月13日)
宮崎の人。都城市出身。海軍大将。海軍大臣。
知名度が高くないが高校の時の歴史史料集には名前と漫画絵が載ってた
日露の終戦処理はポーツマスに宮崎の人小村寿太郎外務大臣が全権委任で処理した。
海軍軍縮を成功させた立役者の一人

財部は昭和4年。1930年、ロンドンで開催された海軍軍縮会議に全権大使
、軍縮条約を成立させた。
大正後〜昭和初期に5期海相を務めた
この条約成立後に起こった「統帥権干犯事件」で予備役に編入、現役を去る。
そしてこれ以降歴史の表舞台からは姿を消した

「坂の上の雲」で"広瀬武夫と財部彪とは海兵同期、そして柔道仲間
海軍兵学校では15期、クラス主席として卒業。

以前財部は14期として入学するも1年休学し15期に編入したために広瀬武夫や岡田啓介、竹下勇とは同期。
明治30年、首相・山本権兵衛の娘・稲子を妻とする。
同じ宮崎の人で同郷の陸軍元帥、上原勇作が仲人。
郷党意識の強い上原は同郷人にはとても気さくで、地元では敬愛されている。。
財部はその反対で同郷だからという理由で後進を推することがなく、当然受けも悪い。
1919年、海軍大将。加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、
浜口内閣)において海相を勤める。1930年、ロンドン海軍軍縮会議において若槻礼次郎とともに全権
同条約を成立させた。

、海軍軍令部は大不満であり、濱口内閣の処置を統帥権の干犯であると、犬養毅・鳩山一郎らが率いる政友会と協同し内閣を攻撃した(統帥権干犯問題)。このことが原因で、、実質的に引退する
ロンドン海軍軍縮条約のその後元老、重臣、世論の支持を背景に議会を乗り切った浜口内閣は枢密院での審議を押し切り、10月2日に条約の批准に至った。その翌日、財部は海相を辞任。
、この調印を「統帥権干犯」であるとする非難の声は根強く、昭和5年11月、浜口雄幸首相は急進的な国家主義者に狙撃され重傷を負う。結局、昭和6(1931)年4月には浜口内閣は倒れた。

このように政治的混乱を招きながら締結されたロンドン海軍軍縮条約であったが、日本は昭和11(1936)年には条約から脱退
、軍縮時代に終止符が打たれ軍拡の道を走り、亡国の太平洋戦争に突入する。
日露の終戦処理のポーツマスの宮崎の人小村寿太郎も国民から批判を受けた。
ロンドン海軍軍縮を成立させた財部彪も同じ不遇を受ける。
社民党党首。福島瑞穂も宮崎の人で改憲まできてる中、孤軍奮闘してるが世相は軍事国家を支持してるようだ。
風前の灯の平和憲法。

壊れてたのが直ってるみたいです。
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