追悼 松形祐堯
2007年8月25日この何日か歯痛から来る微熱で辛い日々が続いている。
あの争闘で即一本、グラついてたので二本目が自然抜歯。
そして三本目である。
思い出してしまう。なんか後ろが怖い。トラウマ。
「コラッ!斎十!」後頭部いきなりは殺人予備罪ぞ!
常人にあるまじき行為。強制隔離。
セロトニンかノルアドレナリンの出過ぎじゃぁないの。
老いては静かにすごさねば。
40年もの矜持してきた防御であろうと非暴力の「禁」を破り!
生きる気概もしない。
ボルタリンかオレンジ色の粉薬、抗生物質一服落ちてないものか。
痛いの〜イタイノ!〜〜〜〜飛んでいけ!
確実に老いは「死」に向かっていっている。
「天正遣欧少年使節」の調査はいろいろと発展する。
日向における伊東家支配の242年間の都於郡時代
伊東家繁栄の基礎になった二人の武将がいる。
5代祐堯(1445年頃)と10代三位入道祐義である。
祐堯は都於郡大安寺に眠り、祐義は飫肥報恩寺に墓がある。
三位入道祐義は義益に家督を譲ったが
病死するので再度当主に帰らなければならなかった。
これはいけない。都於郡時代伊東家を滅ぼした。
小泉純一郎が再度総理になるようなもの。
就任の暁には再度米国に日本の財産を売り渡そう。
赤字でなく優等生官立企業たる郵便350兆円を米国に献じた人である。
マスコミが持ち上げただけで実際改革等何もやっていない。
赤字国債は100兆以上も増えている。
田舎切り捨て、弱者冷遇、都会や地位のある人のみ優先サル政治であった。。
三位入道祐義の代で一度滅んだ伊東家は息子祐兵が苦難の末飫肥に伊東家を再興する。
日南・飫肥に再興して幕末まで続く、改易の御取り潰しは数知れないが、
御家再興は、外に例を見ない貴重な封建時代のことである。
国家危急存亡のとき、日露戦争の終結交渉のとき、
米国ポーツマスにおける日本側全権小村寿太郎を生み出し国家に恩返しをした。。
松形祐堯元知事が(89歳)逝去した。
6期24年も知事を勤めるものは今後日本には出ては来まい。
初出馬は参議院のイスを狙い自民党公認でJA宮崎の無所属・坂元親男と戦い負けた。
そのまんま知事旋風が続いているが、そういえば、このときの選挙がきっかけでもある。
この保守の県で自民党が選挙で初めて敗北するレコードで大騒ぎであった。
ただ、すぐ、現職知事の逮捕の激震が走り79年8月の出直し選挙で初当選し、
03年8月まで6期24年間務めた。神様がついている。
松形「祐堯」=スケタカと読む。
名前がこの伊東家の基礎を気付いた「祐堯」と同じである。
「たゆたえども沈まず」は平成18年地元紙の連載を元に書かれた。
実に140回(平成18年3・4〜7・20)にわたり松形祐尭
の自分史。平成18年19月20日発行。宮日出版部の手になる。
多くの人が手がけるご時世の個人史を本には嫌がった。ただ、
「個人史が増えているのは頼もしいことである。」
と語っている。
平成15年苗字の新聞の本では1万14のなかに松は80ぐらいあるが
松形はなく珍しい苗字。
三郎左衛門重時が祖。
関東の八平一族で川越重頼の第四子。
道家の養子になり「松方」「松形」と称した
重時が桝形城主であったから桝形ともいう。
桝形城は川崎市多摩生田、専修大学生田校舎あたりのようだ。
初代藩主島津忠久に従い西下する。
一族は日置郡、日向、飯野に住んだ。
飯野城主は島津義弘。
飫肥から移ってきていた藩主・義久の弟
伊東家が島津に滅ぼされていくきっかけを作ったのは
飯野川の戦い。=木崎原の合戦の島津の大将。
熱い盛りの6月の行軍ゆえ休んでの水浴中の伊東軍を襲った急襲が功を奏した。
伊東家はこの戦いの敗北で48の城が次々に落ち、日向を去ることになる。
記録では伊東方死者5百余人、島津方300人。
「これまで」と弓を捨て馬から下り、衆寡敵せず恭順した武士がいた。
しんがりを勤めていた柚木崎丹後守正家である。
ところが殺気立ってるゆえ義弘は馬上から槍で討ち果たした。
これを悔やみ城下に遺児を住まわせ家臣・松形の養子にした。
その後伊東家より松形家は養子をとった。
その飯野城主義弘から小姓に取り立てられる。
飯野城主義弘はつわもので幾多の戦歴がある。
大軍の九州の覇者・大友宗麟を破った切原川の戦い。
朝鮮出兵の異国人との戦い
名高い西軍で敗北のとき、関ヶ原の家康めがけ「島津敵中突破」は語り草。
秀吉軍総大将秀長24万と寄異にも同じ場所の切原川の日本一を賭けたたたかい。
松形家は伊東と島津の両方の血をひいているが代々伊東家の「祐」を名にもってきた。
島津家の家臣なのに宿敵伊東家を名乗ってるわけだ。
「祐」は神の下す助け
「堯」は高い、豊か
「祐堯」は幼少の頃「堯」だけのたかしと呼ばれた。
ただ「祐」は「祐堯」の代で終わった。
松形祐堯の子・長男には万年暦から「恭知」キミトミと命名した。
代々続いた「祐」に特別な思いはないという。
曽祖父祐高は明治十年西南戦争では戸長をしてたゆえもあり薩軍に荷担しなく、官軍。
ところが因縁である。
飯野池島地区の井関補修請負の帰り木崎原での反省会、飲ん方。
あの伊東家の滅ぶきっかけの古戦場跡の場所である。
そこにかねてから付け狙ッてた薩軍がきた。
にげれば逃げおおせたようであるが捕獲された。
吉松町の川内川に引きずりだされ惨殺。
「しばらくまってくだされ!」
「おじけづいたか」
「髪が乱れていては切りにくかろう」
曽祖父祐高54歳である。
立て看板が出た。
「このものは官に通じた敵であるからここをとおるとき、この手製ノコで一つひいてとおるべし」
松形家墓地合祀のときも建立時のまま墓は残した。
総理大臣の松方正義も墓参に来ている。
「義信院釈西玄居士」
座右の銘「誠実」「至誠」は曽祖父の生き様。
伊東家の滅ぶ戦のあった飯野村原田大正7年2月26日に生まれた。
9人兄弟、父は宮大農をでて、教壇に立った。
母方は井尻家という大地主。
あの宮崎一の金満家・高城町後藤家と比べられる豪商。
その外孫第一号ゆえ井尻家で可愛がられた。
先祖を尊び人をいたわり神の恵みに感謝を教えられた。
知事選に出るときは日銀森永貞一郎に相談した。
郷土の偉人先輩である。
季誌に歌ってfくれた人がいる。
天に通づ 松の林は まっすぐに続き
枯るるなし
人のこころざしが香りたつまで
悠久の森。25世紀の森
平成元年4月8日綾町県有林に誕生した。
カヤの木千本を植樹。
直径1,2、高さ25Mが伐期、600億円になる。。
カプセルは500年後に開封。
県旗、県勢データー、教科書1月8日の新聞。
県民各位に次ぐ知事のメッセージ。
木簡に書いた。
「ナント・・カイタノ・・」
内容を明かすことは出来ない
昭和29年名古屋営林署に赴任。
伊東正義局長。
昭和31年〜34年に青森県庁
はじめての県庁出向で騒がれた。
知事は津島文冶。修治の兄である??
「分家除籍」「鎌倉で未遂」のときは身元引受人。
太宰は24年入水自殺で期日はたってたし、知事と太宰論を議論をすることも無かったらしい。
屏風山払い下げを実現した。
「砂を治め農地を拓く」
揮毫した記念碑が立っている。
5月にリンゴの花が咲く。
南国育ちが北に向かう。
世相は皮肉にも三橋美智也のブーム。東北を題材がヒット
「リンゴ村から」「愛ちゃんはお嫁に」「早く帰ってこ」
リンゴは明治8年(1875年)士族授産で栽培者は士族で促進され作られた。
青森現存する最古のリンゴ園「紅紋」「祝」
リンゴの父外崎嘉七。
徳島には39年41年。スダチに似たカボスを推奨した。
44年46年熊本営林局長。
宮崎市長の陳情案件阿波木ヶ原公園を実現させた。
宮崎の実業家・後藤良則橘百貨店社長とは裁判1歩手間にまでなった。
綾の後藤所有地3000haと双石山の国有林の等価交換
双石山を守る会が結成された。せきやんも闘った。
加江田1440ha自然休養林として残った。後藤には大口市で了解願った。
清武、綾の国有林払い下げもやめてもらった。
シーガイヤでは末節を汚した。
100億円の基金を作り援助したが結果倒産して米禿げタカファンド。
リップ・ウッドに200億円で投売り。
3200億円もかかってるのにである。
公的資金投入もされてるのにである。
も少し積み足し県有にすればよかったのかもしれない。
せきやんも県庁移転などを提案したものであった。
ほんと「祐堯」という字は書きずろうございまして
悩ませましたものでした。
覚えてます・・・せきやん・・・
安らかにお眠りください。
あの争闘で即一本、グラついてたので二本目が自然抜歯。
そして三本目である。
思い出してしまう。なんか後ろが怖い。トラウマ。
「コラッ!斎十!」後頭部いきなりは殺人予備罪ぞ!
常人にあるまじき行為。強制隔離。
セロトニンかノルアドレナリンの出過ぎじゃぁないの。
老いては静かにすごさねば。
40年もの矜持してきた防御であろうと非暴力の「禁」を破り!
生きる気概もしない。
ボルタリンかオレンジ色の粉薬、抗生物質一服落ちてないものか。
痛いの〜イタイノ!〜〜〜〜飛んでいけ!
確実に老いは「死」に向かっていっている。
「天正遣欧少年使節」の調査はいろいろと発展する。
日向における伊東家支配の242年間の都於郡時代
伊東家繁栄の基礎になった二人の武将がいる。
5代祐堯(1445年頃)と10代三位入道祐義である。
祐堯は都於郡大安寺に眠り、祐義は飫肥報恩寺に墓がある。
三位入道祐義は義益に家督を譲ったが
病死するので再度当主に帰らなければならなかった。
これはいけない。都於郡時代伊東家を滅ぼした。
小泉純一郎が再度総理になるようなもの。
就任の暁には再度米国に日本の財産を売り渡そう。
赤字でなく優等生官立企業たる郵便350兆円を米国に献じた人である。
マスコミが持ち上げただけで実際改革等何もやっていない。
赤字国債は100兆以上も増えている。
田舎切り捨て、弱者冷遇、都会や地位のある人のみ優先サル政治であった。。
三位入道祐義の代で一度滅んだ伊東家は息子祐兵が苦難の末飫肥に伊東家を再興する。
日南・飫肥に再興して幕末まで続く、改易の御取り潰しは数知れないが、
御家再興は、外に例を見ない貴重な封建時代のことである。
国家危急存亡のとき、日露戦争の終結交渉のとき、
米国ポーツマスにおける日本側全権小村寿太郎を生み出し国家に恩返しをした。。
松形祐堯元知事が(89歳)逝去した。
6期24年も知事を勤めるものは今後日本には出ては来まい。
初出馬は参議院のイスを狙い自民党公認でJA宮崎の無所属・坂元親男と戦い負けた。
そのまんま知事旋風が続いているが、そういえば、このときの選挙がきっかけでもある。
この保守の県で自民党が選挙で初めて敗北するレコードで大騒ぎであった。
ただ、すぐ、現職知事の逮捕の激震が走り79年8月の出直し選挙で初当選し、
03年8月まで6期24年間務めた。神様がついている。
松形「祐堯」=スケタカと読む。
名前がこの伊東家の基礎を気付いた「祐堯」と同じである。
「たゆたえども沈まず」は平成18年地元紙の連載を元に書かれた。
実に140回(平成18年3・4〜7・20)にわたり松形祐尭
の自分史。平成18年19月20日発行。宮日出版部の手になる。
多くの人が手がけるご時世の個人史を本には嫌がった。ただ、
「個人史が増えているのは頼もしいことである。」
と語っている。
平成15年苗字の新聞の本では1万14のなかに松は80ぐらいあるが
松形はなく珍しい苗字。
三郎左衛門重時が祖。
関東の八平一族で川越重頼の第四子。
道家の養子になり「松方」「松形」と称した
重時が桝形城主であったから桝形ともいう。
桝形城は川崎市多摩生田、専修大学生田校舎あたりのようだ。
初代藩主島津忠久に従い西下する。
一族は日置郡、日向、飯野に住んだ。
飯野城主は島津義弘。
飫肥から移ってきていた藩主・義久の弟
伊東家が島津に滅ぼされていくきっかけを作ったのは
飯野川の戦い。=木崎原の合戦の島津の大将。
熱い盛りの6月の行軍ゆえ休んでの水浴中の伊東軍を襲った急襲が功を奏した。
伊東家はこの戦いの敗北で48の城が次々に落ち、日向を去ることになる。
記録では伊東方死者5百余人、島津方300人。
「これまで」と弓を捨て馬から下り、衆寡敵せず恭順した武士がいた。
しんがりを勤めていた柚木崎丹後守正家である。
ところが殺気立ってるゆえ義弘は馬上から槍で討ち果たした。
これを悔やみ城下に遺児を住まわせ家臣・松形の養子にした。
その後伊東家より松形家は養子をとった。
その飯野城主義弘から小姓に取り立てられる。
飯野城主義弘はつわもので幾多の戦歴がある。
大軍の九州の覇者・大友宗麟を破った切原川の戦い。
朝鮮出兵の異国人との戦い
名高い西軍で敗北のとき、関ヶ原の家康めがけ「島津敵中突破」は語り草。
秀吉軍総大将秀長24万と寄異にも同じ場所の切原川の日本一を賭けたたたかい。
松形家は伊東と島津の両方の血をひいているが代々伊東家の「祐」を名にもってきた。
島津家の家臣なのに宿敵伊東家を名乗ってるわけだ。
「祐」は神の下す助け
「堯」は高い、豊か
「祐堯」は幼少の頃「堯」だけのたかしと呼ばれた。
ただ「祐」は「祐堯」の代で終わった。
松形祐堯の子・長男には万年暦から「恭知」キミトミと命名した。
代々続いた「祐」に特別な思いはないという。
曽祖父祐高は明治十年西南戦争では戸長をしてたゆえもあり薩軍に荷担しなく、官軍。
ところが因縁である。
飯野池島地区の井関補修請負の帰り木崎原での反省会、飲ん方。
あの伊東家の滅ぶきっかけの古戦場跡の場所である。
そこにかねてから付け狙ッてた薩軍がきた。
にげれば逃げおおせたようであるが捕獲された。
吉松町の川内川に引きずりだされ惨殺。
「しばらくまってくだされ!」
「おじけづいたか」
「髪が乱れていては切りにくかろう」
曽祖父祐高54歳である。
立て看板が出た。
「このものは官に通じた敵であるからここをとおるとき、この手製ノコで一つひいてとおるべし」
松形家墓地合祀のときも建立時のまま墓は残した。
総理大臣の松方正義も墓参に来ている。
「義信院釈西玄居士」
座右の銘「誠実」「至誠」は曽祖父の生き様。
伊東家の滅ぶ戦のあった飯野村原田大正7年2月26日に生まれた。
9人兄弟、父は宮大農をでて、教壇に立った。
母方は井尻家という大地主。
あの宮崎一の金満家・高城町後藤家と比べられる豪商。
その外孫第一号ゆえ井尻家で可愛がられた。
先祖を尊び人をいたわり神の恵みに感謝を教えられた。
知事選に出るときは日銀森永貞一郎に相談した。
郷土の偉人先輩である。
季誌に歌ってfくれた人がいる。
天に通づ 松の林は まっすぐに続き
枯るるなし
人のこころざしが香りたつまで
悠久の森。25世紀の森
平成元年4月8日綾町県有林に誕生した。
カヤの木千本を植樹。
直径1,2、高さ25Mが伐期、600億円になる。。
カプセルは500年後に開封。
県旗、県勢データー、教科書1月8日の新聞。
県民各位に次ぐ知事のメッセージ。
木簡に書いた。
「ナント・・カイタノ・・」
内容を明かすことは出来ない
昭和29年名古屋営林署に赴任。
伊東正義局長。
昭和31年〜34年に青森県庁
はじめての県庁出向で騒がれた。
知事は津島文冶。修治の兄である??
「分家除籍」「鎌倉で未遂」のときは身元引受人。
太宰は24年入水自殺で期日はたってたし、知事と太宰論を議論をすることも無かったらしい。
屏風山払い下げを実現した。
「砂を治め農地を拓く」
揮毫した記念碑が立っている。
5月にリンゴの花が咲く。
南国育ちが北に向かう。
世相は皮肉にも三橋美智也のブーム。東北を題材がヒット
「リンゴ村から」「愛ちゃんはお嫁に」「早く帰ってこ」
リンゴは明治8年(1875年)士族授産で栽培者は士族で促進され作られた。
青森現存する最古のリンゴ園「紅紋」「祝」
リンゴの父外崎嘉七。
徳島には39年41年。スダチに似たカボスを推奨した。
44年46年熊本営林局長。
宮崎市長の陳情案件阿波木ヶ原公園を実現させた。
宮崎の実業家・後藤良則橘百貨店社長とは裁判1歩手間にまでなった。
綾の後藤所有地3000haと双石山の国有林の等価交換
双石山を守る会が結成された。せきやんも闘った。
加江田1440ha自然休養林として残った。後藤には大口市で了解願った。
清武、綾の国有林払い下げもやめてもらった。
シーガイヤでは末節を汚した。
100億円の基金を作り援助したが結果倒産して米禿げタカファンド。
リップ・ウッドに200億円で投売り。
3200億円もかかってるのにである。
公的資金投入もされてるのにである。
も少し積み足し県有にすればよかったのかもしれない。
せきやんも県庁移転などを提案したものであった。
ほんと「祐堯」という字は書きずろうございまして
悩ませましたものでした。
覚えてます・・・せきやん・・・
安らかにお眠りください。