昨日日向は朝のうちのみ久しぶりのパラッ!と一雨がきた。
気分良くブログも昨日は新潟・長岡藩を出雲崎に下ってしまった。
庄内藩鶴岡を目指せばよかった。

遊郭の灯が遍く天領の地の引き付けられたんであろう。
ホニ芸者衆の色香は男の志しに迷いを生じさせる。
空気が読めない(KY)じゃん!

このご時世でも有り、修行である。
ゆえに新潟のことでさえ漏らしていたことがある。
接して漏らさず、修行が足りぬ。自戒十戒仏の道。

NHK48回歴史ドラマに「天地人」新潟の人・火坂雅志が脚本を書き放映が決まった。
「義人・涌井藤四郎」を掘り起こし作品化し「明和義人」として昨日書き、ご紹介をした作家・火坂雅志そのひとである。

上杉景勝の右腕・直江兼統を描いた。
もっとも景勝その後何代後だったか
日向・高鍋の人・秋月家から鷹山公を養子に向かい入れ復活を図るわけだ。名家上杉家。

ただどうだろう。結果視聴率の取れない放映を嫌がる地方史ではないのと問いたい。
そこんとこ途中打ち切りは無いよね。NHKだもんね。
ただ、大丈夫なの。タブー破りの地方史と視聴率。

なら九州の波乱万丈の人生を歩いた日向の三位入道伊東義祐のほうがスケール人物とも大きいでッせ。
この戦乱の時期に三位まで上り詰め京都の文化を取り入れた町並みを作り南九州に三ヶ国に覇権を唱えた。
島津に敗北後急速な落ち目。最下位の奈落の果てに転落。

九州四国播磨周防裸一貫になり、乞食で野垂れ死にの天涯孤独の死。
救いは御家再興をあの当時珍しくなしえた事だ。
秀吉の朝鮮戦争で奮闘した功績で子・祐兵が日南飫肥で国を持った。

臣下からは伊東義祐の外孫・伊東マンショは天正欧訪少年使節の主席を勤める英傑を生んだ。
航海術の無かった頃に世界の覇者ポルトガル・スペインの支配者フェリッペ二世に日本の王の親書を奉じ歓待を受けた。
ユダヤ、キリスト、イスラムの三大宗教のうちキリストが勢力をのぼす治世の頃、ローマー教皇に謁見できた。
無事帰国できたのも奇跡的8年もかけてである。素晴らしき勇気。

ネットカフェ難民、格差、一歩間違えば転落の罠の数々。
なんか今の世相を写し取ってません日向の地方史。

地球の支配国にしてアジアの日本の存在さえ信じられてない頃のできごとである。
時代も火坂雅志作品と同じ頃ではないか。

そのまんまブームもあるジャァないすか。
デレクターさん問題になった歴史履修・・後ろめたさありません?

ジャァ~土俵を合わせるため百歩譲って・・
誰が書くの?芥川直木賞唯一出てない県の方。えっ〜どうなの。
甲子園の優勝旗も九州で唯一来てない県。かんけいなかッ〜〜ついでに言うな。!
なら〜新幹線も高速道路も何にも無い県!・・ショボ・・・事実を言うな!・・ショボ・

宮崎県庁には夏休み期間毎日5000人も押し寄せ観光地ですよ。県庁が。
そのの〜お〜まんまさ〜〜ん〜ん。知事ッ〜〜ッツツ。
蝉時雨よりすごい!
知事チジッ〜〜ッツツ、チジッ〜〜ッツツ、チジッ〜〜ッツツ

ホント可笑しな世の中。
マスコミ効果はどうかしてる。この国しっかりせんか!

でもやっぱ〜〜NHK・・・やって欲しいですわ。
日向の地方史のドラマ!
一時期視聴率いいかも。

悪くなると・・・逆転の発想。人々が助けてくれる。
「宮崎かわいそう〜」
「高速道路作ってあげましょう〜〜」
「新幹線作ってあげましょう〜〜〜」

何故この県には政治の手が欠けてたの。
新潟をみなさ〜い。火坂雅志センセイも応援。

上杉景勝の右腕・直江兼統は・・・
「愛」の字を描いた兜ヲ被り戦場を駆け巡った。
おおっ!かっこいい。地方史脚光浴びるか。

信長の殺戮振りに比べ秀吉は違った。
毛利、長宗我部、島津と和平を受け入れた。
秀吉死後も5大老の力に頼った。
外様の大名に頼ったわけだ。

徳川毛利小早川上杉前田の連立政権である。
よっぽど安倍政権より権力維持が淡泊でで実利的。

田中角栄の新潟人の歴史観は今にいかせ、桝添よりもっとサプライズ人事の
火坂雅志を民間人大臣としたほうがよかったのかも。
東京石原知事の副知事に猪瀬が座るようなものよりインパクト実利性があったのかも。

さて庄内。
天下取りを逃がした加藤紘一センセイの地元でもある。
谷垣に譲ってどうしようとしているのかよくわからない。

鶴岡致道博物館には江戸時代の名竿が保存されている。
物干しほど長い竿らしい。

武蔵野女子大大川内昭爾教授曰く
「酒井家のお姫様を預かっている・・・」
この博物館の学芸員たる酒井賀世学芸員のことなんであろう。

件の釣竿を拝見できないかお願いすれば出てくる。
「・・・・ぶるんぶるん振って見せた。」
そんなことは微塵も無いが、気高くも荒いオテンバ姫様の気配があった。

現在は作れないのか。
どこで作ってるのか訪ねるとコソット秘密を内訳いただける。、
・・トキワ釣具店・・常磐敬一釣り竿師。

東北人の人のよさ。秘伝は明かされる。
黒タイに負けないしなりと腰は至難の業。
竹を乾燥させて竹の節(フシ)を取り為木を使って伸ばす。
どう作っても年間20本。

「暗殺剣虎ノ眼」常に鍛錬訓練の庄内藩士。
藤沢修平を生み出す風土。
遊び風流での釣りではなかった。

特に夜釣りを奨励したのは夜目を養うなう為で、闇夜の戦いに備えた訳だ。
平時に乱有り。究極の非常事態対応。深夜の携帯の小池防衛大臣ドコではない。

闇夜ニ剣を振ルウコト白昼ノ如シ
丸に十の字の薩摩軍の西郷隆盛さんの西南戦争にさえ遠くからはせ参じてくれたお国でもある。
御先祖さまには有難うございました。

その隣の藩の飫肥藩。
伊東家は262年都於郡から48の城を配置して朝廷から藩主伊東義祐は従三位に叙せられ栄華を極めたが、奈落のそこに没落した。、
一転息子・伊東祐兵の再興した日向・日南飫肥城下にもお寄りください。

「ものの始まりがいちなら・・国の始まりは・・」寅さん啖呵はどんな筆の達人をもってしても
三代目小さんの落語と同じで速記口実での忠実なる復元はムリであろう。
メリハリ流れを使い慣れたるトンボノ鉛筆が薬無しで、してくれるはずも無い。

ほとんど同じパターンでよくも正月は大入り満員。
年末年始の日本の風景さえ醸し出していた。
現代俳句では季語にさえなってるのではと思うほどだ。

映画論議を語るときに48作が毅然と分けられてない誤解の記憶を生じるはずだ。
世界の映画史にこのモンスター映画はこれっきりのはず。

第45作寅さんシリーズ「男はつらいよ寅次郎の青春」は宮崎日南・堀川に架かる乙姫橋を舞台に平成4年ロケ敢行。
寅さんが風吹ジュン扮する蝶子と初めて出逢った乙姫橋のたもとの理髪店に居候する。
「堀川橋」は長さ21.0m、幅5.65mの石橋である。

飫肥の石工 石井文吉の手により明治36年8月、石組みが完成
完成までに約4年の歳月を費やし、板橋から永久橋へと姿を変え堀川運河に古風ゆかしく姿を残している。
吾平津神社(通称、乙姫神社)の参道としての役割も兼ねたアーチ状の石橋。
よって地元では親しみを込めて「乙姫橋」と呼んでいる。
、「チャップン ちゃっぷん」と変わらぬ運河の音から俗論の髪結いの亭主におさまった寅さんがヒョッコリ出てきそう。

山田洋次監督の談話に
、寅さんシリーズの後半は、撮れる風景を探すのが難しくなっていたということがある。
1969年~足掛け26年我が国の風景の変化を目の当たりにしてきた監督ならではの感慨だろう。
スクリーンには橋を中心に堀川運河が頻繁に出てくる。
木材を引く船や橋の上で繰り広げられる祭りの風景など、橋を起点に物語が進む。

この映画がきっかけでこのあたり一体はずいぶんと整備された。
いまこそトラさん映画を再度撮って欲しいほどだ。

先週、延長46m幅3,6mの屋根付きの橋が完成した。
釘一本も使わない木橋である。
120年生の飫肥杉30本を使用して中央部には腰掛けもある。
撮影のポイントより50mぐらい上流地点である。
この一帯は曲がりくねってるので一望できる。

さらに工事は進められている。
古い石積みを解体して積み直す「修復」と、無くなってしまった石積みを昔の場所に再現する
「復元」を組み合わせて、運河は風景の核として蘇生しつつある。

東京大学教授の篠原修が現地を訪れ、運河の歴史的な価値を強く訴えたことが、
港湾局、文化庁を動かし、全体の事業にはずみをつけた。

コンクリート護岸を外しその裏にある石を積み直すという手間の掛かる作業が続いている。
小野寺康の設計による運河沿いのウォークデッキが出来て、人が川面を意識するようになった。

堀川橋は油津港付近を通る国道からも見える、近い位置である。
堀川橋の袂に二階建ての観光案内所堀川がある。

ここ堀川運河、飫肥、日南海岸映画のロケ地が展示されてるトラさんワールド。 
国登録文化財の「油津赤レンガ館」は1922年、れんが約22万個を使って建てられた。
江戸時代末期の建築。
持ち主の大富豪河野一族・河宋産業の寄付ではない。
渡辺真一郎さんら4名の篤志2500万での建物の買取の郷土愛が実ったもの。 

堀川運河が着工されたのは 天和3年 1683/12/5 油津港から約100mが最大の難工事で、山続きの岩盤を石工
のノミで掘り進む工事は一寸刻み人柱もたった。完成したのは28ヶ月目の 貞享3年 1686/3/25 
飫肥五代藩主伊東祐実(洞林公)は「一念岩をも通す。秦の始皇帝は万里の長城を築いた。何年を経てでも完成させよ。
」と命じ藩の運命をかけ取り組み完成。
日南市の油津港と広渡川河口を1400mを結んだ。
「堀川」は、飫肥杉の木材を運搬水路として開設、港も木材積み出し港として活況を見せ、藩の財政を潤したという。

堀川運河人柱供養碑は堀川橋から運河沿いの上町堀川通りを下り、国道にかかる港大橋を過ぎたところにある
海難慰霊塔 の建つ公園風の緑地広場になっている。
、古くから人柱様と呼ばれ、地蔵尊などもまつり、漁業者など地元の人々から守り続けられて来た伝説の地で
あるという。松の木の下に人柱が埋められていると伝えられている

日南の主なまつり行事(予定)-
油津堀川まつり(3月末)、
竹香園桜まつり(3月下旬-4月上旬)
油津港まつり(7月20日の週の土日)
飫肥城下まつり(10月第三土日)

それにつけても歯が痛む。後頭部にきてこもっている。

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