中庸

2007年9月26日
昨夜の中秋の名月を1億二千万の人々は何人が眺めたろう。
一茶風に呼ぶならば 月と仏とおらが空。

彼岸明けの今日は特異日。
伊勢湾、伊豆、洞爺湖船転覆、昭和10年の岩手沖巡洋艦2隻の沈没・・多くの台風が日本を襲い1000人以上の生命を一瞬のうちに奪った。天気予報の遅れてた世相の時期ゆえもあった。

山村たるせきやん生誕の地は鷹が渡りをはじめる頃、サシバ、ハチクマなどが上昇気流に乗って南の国めざし渡鳥する頃でよく猛禽類の生態が見れた。何羽も何羽も飛んでいく。
少し前の時期の現象を蚊柱の名で呼ぶならこれは鷹柱である。

マスコミは名度となく特番を組、同じニュースを繰り返す。
可もなく不可もなく一番安定ある憲政史上初の親子二代を選んだことをである。

そして、福田総理の組閣した内閣も派閥領主をあてがい再任、横滑り新大臣は一人のみと予測どおり。
劇場型政治・パフォーマンス政治からの大転換。は評価できよう。
政治はワイドショーではない。落ち着いてやらねば。芸能活動ではないのだ。
バルトークの音楽の如きで丁度いい。

ただ、政治に庶民がよせ、見た面白さはさめてこよう。
一番困ってるのは民主党・小沢一郎党首であろう。
小沢自民党幹事長のとき初当選したのが福田康夫総理であった。
その政治キャリアはお話にならない。

小泉安部とまったく違い能吏、卒がない。
就任のインタビューも「背水の陣内閣と自らなずけ、執政は政権を去らねばならないひとつも失敗がない政治。信頼回復。
国会の最中である。民意を問う総選挙の問いはご勘弁願いたい。解散の時期を探る政治であろうと続ける。

秋は映画の季節。重厚なる黒澤映画を見る思いだ。
日本の映画監督は小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、世界的に広く名前が知られている
日本映画の 巨匠の一人であり「世界のクロサワ」

、またその妥協を許さない徹底ぶりとワンマンな振舞に対して尊敬と皮肉をこめて「クロサワ天
皇」と呼ばれた。
米国映画芸術科学アカデミー会員。文化勲章受章者。東京都名誉都民。
享年89(88歳没)戒名は「映明院殿紘國慈愛大居士」。叙・従三位。
同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、
父親は秋田県大仙市(旧中仙町)の人。元軍人、体育教師。 1928年、京華中学校卒業。

99年には米週刊誌タイム・アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた
他の日本人の受賞者は昭和天皇・盛田昭夫・三宅一生・豊田英二・井上大佑。
井上大佑はだれかですって。?あのカラオケを発明した人。たしか。

黒澤は1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで、主演には三船敏郎を頻繁に起用した。
黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監
督との幸福な関係に支えられその後わかれている。
秀吉と利休の関係みたいである。

日本、日本人を評価するときは外国からみる尺度がこの民族にはいる。
ブログを参考に書きつづける。

ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想と述べている。べ

スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』の砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、
『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、
『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模した、

フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は『悪い奴ほどよく眠る』
の手法を模したといわれる。
ジョン・スタージェス監督、『荒野の七人』は『七人の侍』

ウォルター・ヒル監督『ラストマン・スタンディング』は『用心棒』。

セルジオ・レオーネ監督のイタリア映画『荒野の用心棒』のように盗作問題に発展したケースもある。

アンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させ雨や風、水といった自然描写の巧みさ。

フェデリコ・フェリーニが深く共感した『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさ。。

この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせ、当時の技術的タブーを破って
太陽に向かってカメラを向けさせ、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達を
カメラの周りを円を描くように走らせ、視覚効果を得るために様々な工夫を凝らしている。

ホンダ・ソニー・黒澤は輸出産業との代名詞で捕らえられてる。
世界の映画界からはとんでもない認識で日本と世界映画界とのギャップは大きい。

ただ、GHQの黒澤映画の捉え方からもその作品の偉大さを垣間見ることができよう。
GHQが日本から引き上げるまで上映禁止が取れなかったのである。

「虎の尾を踏む男たち」昭和二十年八月、終戦直前に製作され、未封切のまま数年が過ぎ去るに至り、
再審査の上、上映許可となったものだ。

テーマが勧進帳だとしてGHQは上映を認めようとせず、黒澤映画を愚弄する
7年後の1952年(昭和52年)に封切る

虎の尾を踏む男 
 大河内伝次郎 (弁慶)
 藤田進     (富樫)
 榎本健一    (強力)
 森雅之     (亀井)
 志村喬    (片岡
映画の大意、ストリーは謡曲「安宅」より取材、

字幕スパーの戸田奈津子の弁にある
一秒に3〜4文字の制約の中、地獄の黙示録タイタニックの翻訳は黒話がある。
黒澤映画の逆の場合はどうなるんであろう。

絵コンテは評判である。その本を所持していた。
乱と影武者の展覧会さえあったほどでその秘密は生い立ちにある。
洋画家の岡本唐貴に絵を教わる。
だれその人?あの白土三平の実父なんである。ええっ!まさに驚きである。
画家を志して日本プロレタリア美術家同盟に参加、
1936年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に
入社。山本嘉次郎の助監督を務める。

この項を書くにあたって連休すべてを要した。
これまでにない開眼は黒澤の映画は音楽にあったことだ。

映像×音楽が映画を生み出す。

たとえばテーマ侍
楽器を変えて演奏する。
原曲が提示され似て非なるものを作るように要求される音楽担当。。

羅生門・真砂(京マチ子)記憶の語りに陶酔していくラベルのボレロを早坂は挿入した.
欧州では剽窃の声さえあがった

勇ましく悲しい侍。ワーグナーを用いた。
酔いどれ天使ヤクザの三船敏郎ポトポト歩く
音楽は逆に元気よいカッコーワルツでの対位法。

黒澤の最大の被害者は武満徹。
「乱」の作品。
ロンドン交響楽団にオーケストラは依頼するように決めていた黒沢。
ところが札幌オケを譲らぬ武満徹。
「田舎オーケストラでは3日かけても1曲も出来ない」と黒澤。
いちおう黒澤がありる形で現地に行った。

札幌に立会いに来ても挨拶もしない黒澤。
おまけに細かい指示を出し武武満の音楽は弄くり回されてる
それを気にせず石のようにしてた武満

武満徹の音楽に慣れていて違和感無く音にいった札幌フイルオーケストラ。
指揮は岩城宏之

何回演奏しても何分の一秒も狂わず同じニアンスを表現せるコンビネーション
一番長くもっとも重要なる曲を初日の午前中だけで取り終えた。
音楽の間違いない選択には黒澤をなっとくさせた。

オケに深深と頭を下げお辞儀する黒澤。
「千歳まで来たかいがありました」

乱の炎上シーンのマーラー大地の歌
告別に執着していたのだ。

影武者モデル曲の多さに閉口。失意に佐藤勝が音楽担当を降りる。
俺と佐藤勝は早坂文雄の弟子
池辺はモデルデで悩まない。

「夢」・・・・  コーカサスの風景「村」にて
「八月の狂詩曲」 ヴィバルディ「スターパト・マーテル」
「まぁ〜だだよ」 ヴィバルディ「調和の霊感・9番2小節」がラストに流れる。

音楽は池部晋一郎が担当した。
数分の音楽映像あわせに1ヶ月以上日にちを要した。
これでは「一生やってる」のではとおもわせるほどであった。
たとえばこうである。
「夢」桃畑の雅楽の部分・・・鼓の音を少し遅く笛を前に
、  日照り雨狐の嫁入り・・葬列シンバルがいる
   山道の葬列・・・・・・太鼓を抜く
音楽に撮影を合わせる。
池部晋一郎は多くを語っている。

倉沢映画30作品を新たに並べ音楽担当を調べてみた。
右端が音楽担当である。

1943年 姿三四郎        鈴木静一
1944年 一番美しく       鈴木静一
1945年 虎の尾を踏む男たち   服部正
1945年 続・姿三四郎      服部正
1946年 我が青春に悔なし    服部正
1947年 素晴らしき日曜日    服部正
1948年       早坂文雄
1949年 静かなる決闘  早坂文雄伊福部昭
1949年 野良犬         早坂文雄
1950年 醜聞(スキャンダル)  早坂文雄  
1950年 羅生門         早坂文雄
1951年 白痴          早坂文雄
1952年 生きる         早坂文雄
1954年 七人の侍        早坂文雄
1955年 生きものの記録はやだか 佐藤勝
1957年 蜘蛛巣城        佐藤勝
1957年 どん底         佐藤勝
1958年 隠し砦の三悪人     佐藤勝
1960年 悪い奴ほどよく眠る   佐藤勝
1961年 用心棒         佐藤勝
1962年 椿三十郎        佐藤勝
1963年 天国と地獄       佐藤勝
1965年 赤ひげ         佐藤勝
1970年 どですかでん      武満徹
1975年 デルス・ウザーラ  イサタ・シュワルツ
1980年 影武者         池部晋一郎
1985年 乱           武満徹
1990年 夢           池部晋一郎
1991年 八月の狂詩曲(ラプソディー)
1993年 まあだだよ       池部晋一郎

作品の受賞歴 
羅生門 (1951年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞・イタリア批評家賞1951年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、
1953年アメリカ監督組合賞ノミネート、1952年米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞))
生きる (1954年ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞)
七人の侍(1954年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)
隠し砦の三悪人(1958年ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞)
赤ひげ (1965年ヴェネチア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)、モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞、
     フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞)
どですかでん(モスクワ映画祭映画労働組合賞)[要出典]
デルス・ウザーラ(1975年モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞、1976年米アカデミー賞外国語映画賞、1977年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、1977年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、パリ国際映画祭賞[要出典])
影武者(1980年カンヌ国際映画祭パルム・ドール、1981年英国アカデミー賞監督賞、1981年セゼール賞外国語映画賞、
   1981年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、1981年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
  、1981年ベルギー映画批評家協会監督賞)
乱(1985年米アカデミー賞監督賞ノミネート、1985年全米批評家協会賞作品賞、1985年ニューヨーク批評家協会賞
  外国映画賞、1985年ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞、1985年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞、
  1985年ボストン批評家協会賞作品賞、1986年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)、
  1987年英国アカデミー賞外国語映画賞、1987年ロンドン映画批評家賞監督賞)1979年モスクワ映画祭名誉賞

1980年カンヌ国際映画祭35周年記念特別表彰[要出典]
1982年ヴェネチア国際映画祭栄誉金獅子賞(Career Golden Lion)
1986年アメリカ監督組合賞特別賞
1990年米アカデミー賞名誉賞
1990年日本国福岡市 福岡アジア文化賞創設特別賞
1992年アメリカ監督組合賞生涯功労賞

ミャンマーの政情が動いている。
軍事政権でアウンサン・スゥチー野党党首をこうも長く軟禁しつづけてるほうが異常ゆえ産みの苦しみ。

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